戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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今日の横浜北部は曇っておりまして、かなり涼しくなってます。

さて、久々にコメントを。

つい先日の話ですが、夏休みがもう終わろうという8月29日の早朝に、北朝鮮が津軽海峡上空を越えて弾道ミサイルを発射しました。

これによって全国瞬時警報システム(Jアラート)というシステムが作動し、主に東北を中心に携帯電話などから警告が鳴り響いたり、鉄道各社が運行を見合わせるなど、一時的に日本各地で混乱が発生しました。

もちろんこのニュースを聞いて

「またミサイル発射実験か」

と感じたかたもいらっしゃるとは思いますが、今回が前回までと違ったのは、北朝鮮が予告なしに実験を行い、しかもJアラートが実際に鳴らされたという点です。

とりわけこのJアラートの作動は、それを聞いたほとんどの国民に対して「警戒すべきだ」という心理的なインパクトを与えたように思えます。

幸か不幸か、私の住んでいる地域ではJアラートは発動しなかったのですが、今回ネットの意見で極めて印象的だったのが、この発動に対して、日本政府、もしくは安倍政権に対して極めて批判的な声が多かったことです。

その典型が、ホリエモンこと堀江貴文氏がツィッターに「こんなんで起こすなクソ」と書いて炎上したケースでしょう。

たしかに早朝の朝6時前後に突然前触れなしに警報を鳴らされたら誰かに文句の一つも言いたくなるのはわかります。私も少しだけ、彼に同情したい。

ところが私が問題だと思ったのは、その怒りの矛先を、ミサイルを発射した当事者である北朝鮮、もしくはその指導者である金正恩に向けず、なぜか日本政府と安倍政権に向けた人がけっこういたという点です。

世界中のどの国にも、政府に対して不満を持つ層が一定数いることは当然なのですが、それにしても、なぜ今回は、ミサイルを発射した北朝鮮ではなく、批判すべきは日本なのか

このような疑問について、私も長年その理由を色々と考えてきたわけですが、従来の保守系のメディアなどでは、今回のような批判的な態度をとる人々に対して、

「日本のことを本気で邪悪な存在だと見なしている」

という、いわゆる「反日派」というものや、

「彼らの故郷は北朝鮮だ」、「北朝鮮にシンパシーを感じている」

という意見が長年にわたって展開されてきたわけです。

ところが私は個人的に違うなぁと感じておりまして、なぜ違うのかいくつか理由を考えていたわけですが、今回なんとなくまとまったので、ここで簡単に披露してみたいと思います。

❊❊❊

まず、今回の北朝鮮に絶対に悪口を言わず、その代わりに日本政府に対して批判的な人々は、大きくまとめると、以下のような五つの「学派」(school of thought)に分かれるのでは、というのが私の分析(といってもそんな大げさなものではないですが)です。

一つ目は「無視学派」です。

いきなり「無視」と言われても意味不明かもしれませんが、簡単にいえば、彼らは今回のように北朝鮮にミサイルを発射されても、そもそもそのような実体(エンティティー)は彼らの中に存在しないので、北朝鮮を批判する、というところまで意識が行かないのです。

つまり、北朝鮮を存在を無視している、もしくは見えないわけです

これはエドワード・ルトワックが私の訳した『自滅する中国』や『中国4.0』の中で展開しているような、いわゆる「大国の自閉症」(the great power autism)とそっくりな現象。

彼らの世界観の中には日本だけしか存在せず、外からミサイルが飛んできても、それは日本政府が全て悪い、という形で脳内変換されてしまうのです。

二つ目は「日本大国派」です。

日本政府に批判的な界隈の人からよく聞く言説として、「日本が挑発的な行動をとるから悪い」というものがありまして、今回の案件では慶応大学の金子勝氏の「北朝鮮も怖いが、”戦時放送”を流す安倍政権も怖い」というのがその典型。

彼らにとって、あくまでも北朝鮮の暴走を誘発しているのは日本側の態度であり、日本こそが戦争を挑発しているのだ、というロジックになるのです。

ところがこれは、実際は実に傲慢な態度だといえます。というのは、彼らの中では、日本のたった一つの小さなアクションでも北朝鮮のような国の強烈なリアクションを引き起こすということであり、これはまさに自国の強さと影響力を無自覚に前提としているからです。

そういえば数年前にISが「72時間以内に日本政府が2億ドルを支払わなければ、人質の邦人2人を殺害する」と動画で予告した事件がありました。

その時に「人質の命を救う手段があるとしたら、イスラム国に対する対決姿勢を表明した安倍首相自身が、人質の命と引き換えに辞任することだ」と述べた人がいましたが、これも日本(もしくは安倍首相)の実力を過大なものとしてとらえているといえます。

彼らは日本や安倍首相が強大な存在であり、その動き次第で他国(この場合はテロ組織)が対応を変えるという前提を(知ってか知らずか)持っているわけです。

もちろん日本はいまだにGDPで世界第三位の国ですから「大国」と言えるのかもしれませんが、今回の対北朝鮮のような安全保障の分野ではほとんどレバレッジをもっておりません。

この学派の考え方は、1950年代にジョン・ハーツという学者が提唱して有名になった「安全保障のジレンマ」(security dilemma)と親和性が高く、日本が武装化するから北朝鮮も武装化する、という矛盾を意識する傾向が強いわけです。

ところが彼らの中では、日本が(武装化によって)挑発しなければ、北朝鮮も挑発してこない」という、きわめて楽観的な考えが存在しております。

三つ目は「陰謀派」です。

これは単純に、北朝鮮と安倍首相は「グル」であり、支持率が落ちると、安倍首相は金正恩に一本電話をかけて「ミサイル一発撃ってくれ」と頼むというものです。

論じるまでもないくだらない考え方ですが、国際スパイスリラーやフィクションとしては一定の需要がある、というのは私も理解できます。

なぜなら「上で支配者同士がつながっている」と考え方が生まれるのは、多数のプレイヤーがからむ複雑で混沌とした世界を、単純にすっきりとした「物語」として考えたい、という欲が人間に備わっている、と私は考えるからです。

このような因果律の逆点した不思議な考え方は、ものごとを単純化して考えたいという希望的観測から出たものである、と考えれば納得できます。

四つ目は「弱い者いじめ派」です。

彼らの考えの中では、北朝鮮は国際的にいじめられている「極めてか弱い存在」です。

そうなると、彼らが核実験をしたり、ミサイルを上空に飛ばしてきても、それは「追いつめられたかわいそうな国がやることだから、許されるべきだ」ということになります。

これには「日本が戦前に朝鮮半島に対してひどいことをした」という贖罪意識もからんでいるのでしょうし、「弱気を助け、強きをくじく」的な判官贔屓(ほうがんびいき)のような感情もあるでしょう。

いずれにせよ、この考えはあくまでも目線は北朝鮮にあり、日本がどう感じようと関係がない、ということになります。

最後の五つ目は「荒魂派」です。

これは北朝鮮を「自然の神様」のようにとらえて、その「荒ぶる魂」にはなるべく手を出さないほうがいい、と考えるものです。

つまり彼らの中では北朝鮮は自然災害をもたらす「疫病神」や「たたり神」のような存在であり、その対処方法としては「さわらぬ」か、もしくは台風や地震のように「過ぎ去るのを祈って待つだけ」となります。

これはおそらく日本の神道的というか、土着信仰的な考えがベースになっているのかもしれませんが、メディアの議論を見ているとこのような文化的・宗教的な視点というのも無視できないと感じます。

そうなると、日本古来の対処法として、「金(キム)神社」や「北朝鮮神社」のようなものを造って祈祷したり、祇園祭のように毎年お祭りをする、ということになるのかもしれません。

ところが現状で提案されているのは、「触らない」という方向か、もしくは「安倍首相のような腐敗政治をやる人間は徳がないので辞任すべき」という、まさに徳治主義的なもの

そういえば石原慎太郎氏が東北大震災の直後に「津波は天罰」という趣旨の発言をしたこともありますが、これも「荒魂派」的な「徳のないリーダーは辞任すべき」という典型的な徳治主義の考えでしたね。

❊❊❊

以上、五つ学派をそれぞれ説明してみました。

お気づきかもしれませんが、これらはすべて「相互排他的」ではなく、いくつかの学派の考えはオーバーラップしております。

たとえば「弱い者いじめ派」と「無視」の両方の考えを、混合的にもっている人もいるわけです。

もちろん私はこの五つは単なる個人的な「試論」であると思ってますが、「北朝鮮がミサイル発射したら日本を批判せよ」という不健全な考え方のロジックを探るものとして、それなりに意味があるものだと考えております。

なぜなら、この五つの学派がわかると、その視点は北朝鮮だけに行っているのか、もしくは日本国内だけに向かっているのかというバランス問題であるともわかってくるからです。

このような考え方を知ることで、逆にわれわれは「国際的な戦略関係というものが、実は相互関係によって成り立っている」ということを、ルトワックや孫子などを参照せずに学べるとも言えるでしょう。

他にも「私はこう思う」という方がいらっしゃいましたら、ぜひ。

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(ウィーン)



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# by masa_the_man | 2017-09-01 16:57 | 日記 | Comments(28)
今日の横浜北部は暑さが落ち着きまして、晴れておりますが涼しく過ごせております。

さて、久々の更新です。以前番組でも触れたトピックです。

===

歴史家は「評論家」になるべきではない
by モシック・テムキン

ドナルド・トランプはたしかにアメリカ人のほとんどの人にとって大災害であり、世界にとっても危険な存在かもしれない。ところが彼は歴史家たちにとっては、大きな恩恵を与えてくれる存在だ。

なぜなら彼の政権がグロテスクに映れば映るほど、歴史家たちはその理由を説明するために、ケーブルニュースの番組でたった30秒の非難や、新聞の記事の中の引用しやすい言葉のために呼ばれるようになったからだ。

私も歴史家の一人だが、われわれの注目されるべき職業がこうして注目を浴びるのは喜ばしいと考えている。

ところが同時に私は、歴史が、矢継ぎ早かつ表層的な形で、しかもそのほとんどが歴史的な「アナロジー」を引き出す形で表現されていることに懸念もしている。

その結果として、読者や視聴者はトランプ氏に関して誤解を生むことが多く、現在の困難な状況に関してほとんど役に立たないような「歴史の教訓」を得ることになってしまう。

このようなことが起こる原因の一つは、まさに「歴史家がやってはいけないこと」にある。

われわれは学生たちに対して、「アナロジー」に注意するように教えている。アナロジーというのは政治家や政策担当者たち(彼らは目のまえの問題に合うようにアナロジーを選ぶ)の間で人気があるものだが、過去と現在の両方を歪めてしまうことが多いのだ。

ひとつの例を挙げてみよう。トランプ氏は選挙期間中に、恐慌時代のルイジアナ州知事として有名だったヒューイ・ロングと比較されることが多かった

確かに二人の間には似ているところがある。トランプ氏と同様に、ロング知事も「大衆」の旗印の下で活動しており、エリートを攻撃し、批判者たちには「煽動政治家」や「ファシスト」と呼ばれていた。

ところが二人の間の違いはさらに重要だ。ロング知事は叩き上げの既得権益に挑戦した本物のポピュリストであり、知事として道路・橋・病院の建設や、貧者の救済に責任を持って取り組んでいた。

彼自身は決して「人種カード」は使っておらず、この時代の南部の大衆的な政治家にとっては衝撃的なほど珍しかった。

ここで重要なのは、トランプ氏がロングと似ているかどうかという点ではない(実際彼はロングとは違う)。むしろ重要なのは、このアナロジーが無意味である、ということだ。

実際のところ、このようなアナロジーは有害でさえあり、危険なものともなりうるのだ。

たしかに歴史はわれわれに様々なことを教えてくれるものだ。ところがその教訓の一つは、「歴史の教訓には限界がある」ということだ。歴史が繰り返すことはめったにないのである。

たとえばトランプ氏のウソやごまかしがリチャード・ニクソン元大統領に似ているからといって、それがウォーター・ゲート事件の再現とはならないのである。

しかもウォーター・ゲート事件は、ある種のハッピーエンドで終わっている。ニクソンはこのスキャンダルで失脚しているからだ。

ニクソンの話がわれわれに教えているのは、アメリカの政治システムが機能しており、大統領でさえも法律には逆らえず、民主制度の役割を果たしているということだ。

トランプ氏もニクソンと同じような不名誉に直面するかもしれないが、そうならない可能性もある。当時と現在の社会的状況がほとんど違うからだ。

1974年にはフォックス・ニュースや、似たような民間のプロパガンダメディアも存在しなかったし、議会の共和党の人々は献金してくれた富裕層のために減税を進めるよりも、民主制度と合衆国憲法を重視していた。

もし過去の大統領や政治家たちとのアナロジーや比較に根本的な欠陥があるとすれば、歴史家たちは何をすれば良いのであろう?トランプ時代の彼らの役割は、一体どのようなものであるべきなのか。

まず一つ考えられるのは、今回のようなメディアからの注目を利用して、軽薄なアナロジーを突き崩すことだ。

その一例として考えられる格好のターゲットは、トランプ大統領をヒトラーやムッソリーニのような、様々な過去の外国の独裁者たちと比較するという流行のアナロジーだ。

もちろんここでも自国優位主義(ジンゴイズム)や民主制度に対する軽蔑など、似たような部分は確かに存在する。

ところが同時に危険性も存在している。ヒトラーと比較すると、トランプ氏は実際のところそれほど怖い存在ではないし、トランプ氏と違ってヨーロッパのファシストたちは、はるかにイデオロギー的であり、トランプ氏の堕落した面や、自らを「偉大なディール・メイカー」として見ている点を見下したはずである。

さらに、ほとんどのアメリカ人にとって、ヒトラーとムッソリーニの話は喜ばしいものだ。なぜならわれわれは彼らを打ち負かしたからである。

結局のところ、歴史家ができる最も重要なことは、アナロジーを「批評家」たちに任せて、その代わりに現在のわかりづらく見える状況にどのように到達したのかという点について、批判的かつ面倒な説明を提供することなのだ。

そして実際に多くの歴史家はこのようなことを行っているのだが、あいにくメディアのスポットライトの下で行っているわけではない。

これは何も極端な意見ではなくて、実際に政治関係の優れた歴史家たちが常にやってきたことだ。

1955年のことだが、歴史家のヴァン・ウッドワード(C. Vann Woodward)が『ジム・クロウ法の奇妙な経歴』(The Strange Career of Jim Crow)という本を出版した。これは南北戦争後の人種差別政策の源泉について簡潔にまとめた優れた歴史書である。

著者のウッドワードは、過去からのアナロジーを求める代わりに、ジム・クロウ法は多くの南部の人間が考えていたような太古の昔からの伝統ではなく、19世紀後半という比較的最近の人種差別主義の高まりによって始まったものであるということを解き明かしたのだ。

社会・政治面における時代的な変化を追うこと――これこそまさに歴史家の基本的な仕事なのだが――によって、この本は社会的な進歩は可能であることを示したのである。

ウッドワードは切り取られやすい言葉や評論家が好むようなアナロジーを使ったわけではない。ところが彼の研究は、戦後の人種政治に大きなインパクトを与えたのである。キング牧師はこの著作を「公民権運動における歴史的な聖書だ」と評しているほどだ。

トランプ氏の場合でも、そのような明快な歴史の説明ができれば、彼の「プラネット・アース」(BBC制作の環境保護ドキュメンタリー番組)に対する憎悪にもかかわらず、トランプ氏が別世界から来たわけではないことがわかるはずだ。

彼の台頭は、たしかに世界的な独裁主義への流れや民主制度への嫌悪感と明らかに同調するものでありながら、同時に彼はまさに、近年のアメリカの歴史による産物なのだ。

彼はそれほど過去の政治家と似ていないだろうが、彼らと同じようにトランプ氏も、われわれが理解でき、しかも対応できるような、歴史的なプロセスから恩恵を受けてきた。

それはつまり、われわれの有名人への信仰や、性別・人種・経済の面での格差、対外戦争による精神的打撃、投票者たちの不満、そしてアメリカ国民の多様性や政治的な好みを反映しない政治体制などである。

ここで疑問が出てくる。公共善のために何もしてこなかったリッチな男が、そもそもなぜ政治家になってしまったのだろうか?中国からバラク・オバマ大統領の生誕地に至るまでのあらゆる不明確な知識は、なぜ何百万人もの人々にとって重要なのだろうか?

彼の豊富な資産は、どのようにして政治における権力と影響力へのアクセスを与えたのだろうか?移民によって構成されている国で、なぜ外国人嫌いがこれほどまでに力を得てしまったのだろうか?

歴史家たちはこのような疑問を解明するような研究を行ってきたわけであり、それらに答えるに最もふさわしい人々だ。

歴史家の説明というのは、過去の大統領との比較による簡単な説明よりも視聴率をとれないだろうが、トランプ氏については良い説明ができるだろうし、アメリカ人は自分たちでより良い歴史をつくることができるということを明確にしてくれるはずだ。

===

いい論評記事ですね。

以前から日本でも似たような現象をみかけますが、とりわけアメリカの場合は「大統領歴史家」(Presidential Historians)と呼ばれる人々がいて、メディアで発言する傾向が目立ちます。

なぜメディアがこのように歴史家を連れてきて話をさせるのかについては、まさにこの記事の著者の説明するような「アナロジー」の部分なのでしょうが、私がそもそも問題だと思っているのは、「歴史を知っている」と感じている人が陥りやすい「全知全能的錯覚」とでもいうべき点です。

というのも、私は過去にある「歴史家」と自称する人物の勉強会に参加した時に、この人物が「私はあの時代をよく知っている、だから日本の現政権も同じようなもんだ」という無茶苦茶な分析を聞いたことがあるからです。

もちろんこの人物はある特定の時代の一時期についての専門家であるために、たしかにその時期の出来事や時代背景についてよくご存知だなぁという印象をもったわけですが、問題はその時代を、しかもものごとが起こった後からの視点という、いわばその当時の人にとっては決して得ることのできなかった「神の視点」からものごとを見れるという優位をもっている点です。

このような特殊な視点を持った人が、果たして現在進行中の歴史的な現象についても同じようにコメントする資格があるのかというと、かなり疑問なわけですね。

すでに起こったこと、つまり「タラレバ」を批評する人のことを、よくアメリカンフットボールのたとえを使って日曜夜の試合結果を踏まえて翌朝にタラレバ言うことから「月曜朝のクオーターバック」(monday morning quarterback)といいます。

そしてこれは、結果を知っている歴史家たちが陥りやすい間違いでもありますし、そのような彼らを使いたがるメディア側にも問題が。

よってここでの教訓は「歴史家は現在進行中の現象を知っているわけではない」ということになるのでしょう。

ただし問題は、現在進行中、もしくは未来の問題に向かって行くためには、人類に残されている知的資産は「歴史」しかない、というジレンマです。ああ悩ましい。


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(湯の島)



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# by masa_the_man | 2017-08-28 12:43 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は午後ににわか雨が降りました。蒸し暑い日が続いております。

久々の更新です。ここ数ヶ月間、ちょっと野暮用が重なっておりましたが、そろそろブログの方も本格的に復帰したいと考えております。

さて、すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、おかげさまでルトワックの講演会が予約完売しました。

申し込み予約開始からたった11日間で400席が埋まりまして、あらためてルトワック人気を感じた次第ですが(おかげで彼に出版の申し込みが殺到しているらしいですが)、実は現在、私の周辺では、ルトワックの秋の来日に合わせて一つのプロジェクトが立ち上がっております。

それは、ルトワックのデビュー作であり、ある映画の元にもなった『クーデター入門』(1968年刊)の改訂版(2016年)の翻訳出版です。

この衝撃のデビュー作の改訂版、今回は私が「監訳者」となっております。すでに下訳はできあがっているのですが、現段階ではようやく私がそれに手を入れ始めた段階です。

来日に合わせられるかどうかは微妙ですが、まずみなさんにはそのさわりの部分だけでもご紹介しようと思い、初版のまえがきの部分だけ公開します。

すでに日本では昭和40年代にこの本の初版が翻訳されているのですが、絶版してから久しく、アマゾンなどでは品薄状態で非常に高値で取引されている「幻の本」となっております。

今回はその改訂版にあたる2016年版を私が監訳しているわけですが、旧版にある不正確・不明確な訳をかなり改善した形で出版するつもりです。

とにかくデビュー作が「クーデターのハウツー本」というのもかなりぶっ飛んでおりますが(笑)、ルトワックの既存の枠にはまらない、戦略思考の自由さを味わえるという意味で、みなさんの参考になるかもしれません。

===

初版まえがき

これはハンドブックである。したがって、クーデターの理論的な分析ではなく、実際に国家権力を握るために活用できるような、クーデターのテクニックを紹介することを目的としている。

やる気と材料があれば素人にでもできるという意味で、料理の本に似ている。本書はそのための知識を提供するものである。

ただしいくつか注意して欲しいことがある。まず、クーデターを成功させるためには、それなりの条件がなければならないという点だ。ブイヤベースをつくるには、しかるべき魚がなくては始まらないのと同じである。

次に、クーデターで失敗したら、そこから受ける咎めは料理の失敗よりもはるかに大きい、ということである。これは、料理に失敗しても代わりに缶詰を食べることで許される、といったレベルの話ではないのだ。

だが、成功すれば手に入るものも大きい。

また、こんなものを書いて読者を誤った道に導き、危険な目に合わせることにはならないか、さらにはクーデターの有効な手引きであるために、これが動乱や暴動につながりかねないのでは、といった反対の声があるかもしれない。

それに対する私の答えはこうである。

クーデターはすでにいたるところで起きている。この本を読んで、より多くの人々がクーデターのやり方を学んだら、それはただ単に「クーデターの民主化」への一歩であり、すべてのリベラルな心の持ち主が賞賛すべきこととなるだろう。

最後に、本書で示されたテクニックは政治的に中立な立場に立って論じられたものであり、国家の権力を奪うという目的のためだけに書いたものであって、その後の政策をどのようにすべきかという点については、まったく関与するものではない

===

短いですが、非常にインパクトのある文章ですね(笑

ということで10月までに完成するかわかりませんが、ぜひご期待ください。

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(アップルシュトゥルーデル)

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# by masa_the_man | 2017-07-18 23:25 | 日記 | Comments(3)
今日の横浜北部は、梅雨が近づいているようですが、なんとか晴れております。

さて、最近アメリカと仲違いするような発言をしたメルケル首相率いるドイツに対して、批判的な議論がアメリカの保守派から出てきました。歴史家としても有名なヴィクター・デイヴィス=ハンソンがナショナル・レビュー誌に掲載した意見記事です。

===

いつものドイツ問題
By ヴィクター・デイヴィス=ハンソン

近頃のドイツ人はアメリカ人に対してあまり友好的には見えない。最近発表されたハーヴァード大学のケネディ行政学院のグローバルメディアについての調査によれば、ドイツの98%のテレビニュース番組でトランプ大統領が否定的に描かれており、世界で最も反トランプなメディアを持っている国になっている。

ところがこのような軽蔑は、反EUの姿勢を堂々と示していたトランプが、大統領になる前から始まっていた

2015年にピュー研究所がヨーロッパ諸国を対象として行った調査では、ドイツ人はアメリカに対して最も否定的な意識を持つ国であるという結果が出ていた。オバマ前大統領に対して好意的な見方をしていたドイツ人は、たった50%前後だけであった。

実はオバマ前大統領は先週ベルリンを訪れており、世界に対して多様性と寛容性を説いていたほどだったのだが、それでも不人気だったジョージ・W・ブッシュ時代からのドイツ人の対米観を、ほとんど変えることができなかった

ドイツ人はNATOの同盟国であるアメリカが、国防面で自分たちを助けてくれているという事実や、巨額(650億ドル)な対米貿易黒字について、正しく理解しようとしていない。

ドイツ人は米軍が45年間にわたってドイツ全土がソ連に吸収されてしまうのを阻止していたことを、忘れてしまったようだ。ベルリン危機の際に行われた空輸は、彼らにとってまるで前近代の歴史である

では自信をつけたドイツは、なぜアメリカを段々と嫌うようになっているのだろうか?その原因は、複雑である。

1989年以来、ドイツは東西統一後にほぼ平和的な国であるというイメージづくりに努力してきた。 彼らは他国に対していかに平和的に振る舞い、地球温暖化の防止や、世界の難民に対して国境を開くことなど、全世界の共通目標に向かって努力すべだと説いてきたのだ。

ドイツのユートピア的なメッセージの中に込められているのは、「ポスト・モダンのドイツ人は何をしてはいけないかを知っている」ということだ。これは、彼らの20世紀におけるひどい過去、つまり帝国的なドイツの侵略や、ヒトラーの第三帝国によって恒久化された、ホロコーストのような蛮行を踏まえた上でのことだ。

ところが罪の意識を持つことは、謙虚になることとは同じではない(とりわけドイツ人には謙虚になることは得意ではなかった)。

(両大戦で参戦することによってドイツを敗北に導いた)アメリカを戦争に引きずり込んだ、人種的、言語的、そして文化的に統一された「過去のドイツ」は、実は決して消え去ったわけではなかった。むしろ彼らの相手を見下すような態度は、単にアップデートされただけである。

国際金融の分野では、ドイツは重商主義的なシステムによって、実質的にEUを動かしている。ドイツは輸出市場を席巻するためにユーロを安値になるよう操作しているのだが、これは価値の高かったドイツ・マルクがある時代だったら極めて困難だったはずだ。

貧乏なヨーロッパ南部の国々が、簡単に得られる借金のおかげであまりにも多くのドイツ製品を購入して破産しても、ドイツは「ドイツ的な倹約と勤勉の必要性」を説くだけだ。これはたしかに重要なのだが、それでもうぬぼれの強い説教でしかない。

同じようなドイツの傲慢さは、欧州における最近の移民受け入れについても見て取ることができる。ベルリン政府は移民受け入れの大切さを世界に向かって発信することが多く、これによって倫理的な面での自らの優位を説くわけだが、同時に実は安い労働力をいかに輸入すべきかを追求しているのだ。

この結果の一つが、メルケル首相による戦争で破壊された中東諸国からの審査なしで受け入れた、数百万の移民たちの受け入れであり、しかも彼らはこれをジハード主義のテロリズムの懸念が高まっている時期に行っているのだ。

ところがドイツは疲弊して同化しずらい新参者たちを自国に大量に入れてしまっただけでなく、ヨーロッパの他の国々にも、彼らが望む・望まないにかかわらず、同じようにすべきであると指令したのだ。

国際関係や貿易の分野でも、ドイツの優越感は、古いタイプの不正行為につながっている。たとえばアメリカへの輸出を増やす目的で、フォルクスワーゲンは規制を逃れるため排気テストの結果をごまかそうとしていたし、ドイツ銀行は、プーチンの仲間の資金洗浄の助けをしていたことが発覚した。

また、2006年のサッカー・ワールドカップを誘致するために、ドイツ側がFIFAの関係者に賄賂を贈っていたという報道も出た。

ドイツ人は自国の寛容な社会保障制度を、猛烈な資本主義のアメリカのものと比較しながら自慢することが多い。

ところがNATOの参加国に求められている国防費を自国民にまわすことによって回避していることについては口をつぐみながら、超資本主義的なアメリカのエリートに対して高級車を売って大儲けしているのだ。

ドイツ人の傲慢さは、依存体質のヨーロッパに対しては許されるとしても、それが用心深いアメリカに対して常に通用するとは限らない

もちろんわれわれはドイツに対して、そのすばらしい才能とエネルギーを、戦争ではなく平和に向けて使っていることには感謝すべきである。

ドイツはその巨大な経済力のおかげで、EU内における立ち場は強い。それでもアメリカは、1918年、1945年、そして1989年のどの時点においても、ドイツよりもはるかに大きな国であり、経済的にも豊かで、強力な国である。

アメリカは、気候変動や移民政策、貿易政策、そして時に必要とされる戦力の使用について、ドイツの偉そうな言葉を必ずしも聞く必要はない。アメリカは、自国と同盟国の利益にとって最適であると考えることをやるだけだ。

ドイツ人は、アメリカ人のこのような独立的な姿勢を「カーボーイ的で反抗的なもの」であると感じており、アメリカ人に対してそのような「見当違いの優位主義」が危険であることを教えることができる、と信じている

アメリカ人はこのようなうんざりする説教を無視することが多い。そしてアメリカ人の多くは、それが過去であれ現在であれ、「ドイツが自国のことだけを考えていてくれれば、世界ははるかに平和である」と考えているのだ。

===

アメリカ側の「反独」的な感情をロジカルに説明したという風にシンプルに見るのもありでしょうが、私がここで指摘したいのは、アメリカの知識人の中にアメリカの全体的な地位低下についての危機感が生まれつつあり、これがこのような記事に反映されているという点でしょうか。

つまりアリソンのいう「ツキュディデスの罠」が発動して、既存の覇権国が新興の大国(ミアシャイマー用語では潜在的覇権国)に直面して、国際システムの動揺に直面し、これによってアメリカ国内にも不満が生じた、と見ることも可能です。

そうなると台頭する中国の問題は、アメリカと欧州の関係にも影を落している、ということですね。

それにしても最後の一文にも示されている「ドイツは世界のこと考え始めると世界を不幸に導く」という考え方は、なんとも強烈な皮肉です。
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(海ホタルからの夕暮れ)


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戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
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奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
# by masa_the_man | 2017-06-06 09:36 | 日記 | Comments(3)
今日の横浜北部は朝からなんとか晴れております。やや暑いです。

さて、久々に記事の要約を。これは先週とりあげたNYタイムズの記事についてのジョージ・フリードマンの意見記事です。

===

CIAという門番を守るためには
May 22, 2017
By ジョージ・フリードマン

先週末のことだが、NYタイムズ紙が、中国国内におけるアメリカの諜報ネットワークの存在が明るみになり、しかもそれが2010年から12年にかけて体系的に侵食されたことを報じた記事を発表した。

この記事では、10人の現役・OBたちによる中国国内への諜報網の浸透と、その失敗の理由の推測などが引用されている。

その中の何人かは、CIAのネットワークの中に中国のスパイ(mole)がいたと主張しており、他には現地の人員とCIAの間の情報が漏れていたと言う者もいる。

ただしこの記事は、その内容もさることながら、それが発表されたタイミングも興味深い。CIA要員たちは、すでにトランプ大統領に不利になるような情報をリークしていると批判されているし、インテリジェンス面での大失敗を暴露しただけでなく、それを実際に起こった時期からちょうど五年後に(どうやら一斉に)暴露した、ということなのだ。

この理由についての一つの説明としては、CIAの内部に自らの組織の失敗を暴露することによって信頼性を落とそうとしている勢力がいる、というものだ。

(ちなみに私はこの情報については確たる証拠を持っていないが、ワシントンでは最近ものごとを立証するための「証拠」というものが選択的になっているので、あまり気にしていない)

ところがこれは実質的に、「ロシアの秘密のたくらみ」を知っている主張する人々の信頼性まで失わせることにもなりかねない。

つまり「君たちCIAはその情報を知っているというが、そもそも諜報の能力が低いからねぇ」と批判されることにもなりかねないのである。

▼厳しい質問

ヒューマン・インテリジェンスというのは騙し合いのゲームだ。政府が得ようとする機密情報というのは不正直な行為によるものであり、諜報機関はその情報源を守るためにウソをつかなければならない。

つまりこの業界では、秘密と不誠実が必須要件となるのである。

たとえば第二次世界大戦を考えてみよう。アメリカとイギリスがこの戦争に勝てたのは、ドイツと日本の暗号を解読できたという部分が大きい。彼らは敵が何を計画していたのかを知っていて、それに対抗することができたのだ。

そしてこのような機密情報は、世間の目から秘密にしておかなければならなかった。このような情報の秘密は戦後になってから公開されたが、もしドイツと日本がこのことに早くから気づいていたら、彼らは暗号を変えていたかもしれないし、戦争の結果も違っていたかもしれないのだ。

長期的にみれば、CIAはある意味で、アメリカ国民を騙すことなく北京政府を欺くことはできない

そうなると、ここで大きな問題が出てくる。「われわれはCIAの言うことをすべて信じるべきだろうか?」というものだ。

民主制国家にとって、これは厳しい質問である。なぜならここでの信頼は、諜報機関が行う「悪いこと」は国家にとって善いものであるはずだ、という「暗黙の合意」の上に成り立っているものだからだ。

ところがもしアメリカ国民がこれを信じていないということになると、つまり「諜報機関は国益ではなく、単なる自己利益のためだけに活動している」と信じられるようになってしまえば、この「暗黙の合意」は崩壊する

「諜報機関は国家の自己決定権に対する障害物であり、少数の人々の目的のための手段でしかない」とみなされるようになってしまうのだ。

また、信頼は能力の高さにも立脚しているものであるため、その諜報機関の能力について疑問を投げかけるのは常に理にかなっていることになる。

ところが同じように秘密や騙しを扱っているCIAに対して疑問を投げかけると、CIAは「われわれのが知り得た情報をあなたがすべて知ったとしたら、われわれを完全に尊敬してくれるはずですよ」という風に答える傾向がある。

ところがそもそも国民は、CIAがどこまで成功したか失敗したのかという秘密を知り得る手段を持っていないのだ。

ウソをつかなければならない諜報機関を「信頼せよ」というのは、民主制社会では主張しにくいところがある。

アメリカが第二次世界大戦以前に諜報機関を持たなかった理由の一部はまさにここにあるのだが、現在のように諜報機関が政治の表舞台に引きずりだされると、その主張がさらにむずかしくなる。

CIAが真実を述べているのかどうかがわかりづいらいのと同様に、国民はその政治への関係から、任務(たとえば国外での諜報活動)を遂行できなくなったのかどうかを確かめたくなるものだ。

したがって、ここでの質問は「CIAはアメリカ内部の政治勢力によって取り込まれてしまったのか、そしてもしそうだとしたら、その能力を維持できるのだろうか?」ということになる。

▼高い代償

トランプ大統領が外国と共謀しているという事実について、CIAは何か知っている可能性はある。もしそのような情報が存在するのであれば、これは致命的に重要だ。

ところがこの情報というのは、インテリジェンス委員会を通じて連邦議会に渡されるべきものである。なぜならこのような問題について憲法に定めれた責任をもっているのは、連邦議会だけだからだ。

この情報を公開してしまえば、CIAはその情報源と手段をばらしてしまうことにもなりかねないし、さらに重要なのは、 CIAがもたない憲法への従属(各員はそれに対する忠誠を宣誓しているが)を引き受けることになるという点だ。

政治議論に参加することになると、それはCIAを分断することにもなりかねない。なぜならCIAの中にも、政治的に様々な考えを持つ人間がいるからだ。

したがって、今回のNYタイムズ紙の記事にもあるように、10人ものCIAの要員が中国での失敗を明らかにしたということについて、われわれはなぜ彼らがこのような行動を選択したのかを問わなければならないのだ。

それは単なる偶然の一致なのだろうか?それとも情報漏洩をすることによって大統領にダメージを与えようとするCIAの一部勢力の行動なのだろうか?

もちろんこれらは単なる推測でしかないが、だからこそこの推測に意味がある。つまりCIAが国内政治に関与してくることになると、その他の機関と同じような推測や疑惑にさらされることになるからだ。

だからこそ、民主制国家の諜報機関にとって倫理面での清廉潔白さというのは重要になってくる。「秘密や二枚舌を効果的にする必要がある」という考えは明らかに不愉快な考えであるし、諜報機関がその力を使って国内政治への介入を行っている可能性は常に存在する。

インテリジェンスは、憲法を遵守するためにウソやだましを使って信頼を得る、という道徳的な立場を維持しなければならないのであり、国内の一部勢力の意志を押し付けるために存在してはならないのだ。

ところがいざ疑いが広まってしまうと、インテリジェンス機関は道徳面での信頼性を失うことになってしまうのであり、これは外国で諜報活動を行う点において最も重要な意味をもってくる。

諜報機関が信頼を失ってしまうと、たとえばNYタイムズ紙の中国における記事などは「公正さ」を期する行動ではなく、組織的な工作のように見られてしまうのだ。

対外的な諜報を差し控えるという選択肢はない。米国のような世界的な国家は、世界中で何が起こっているのかを知らなければならないからだ。しかも民主的な世界的国家はインテリジェンス機関が騙しを使うことが民主制度についてリスクとなることを知りながらも、それを容認しなければならないのだ。

つまりここには不完全なバランスがあるのだが、インテリジェンス機関が国内の政治の議論に関与してくると、そのバランスは完全に崩れてしまう。

この機関は、対外インテリジェンス能力をある一部の勢力にとって都合よく選択的に使うことによって、憲法違反を侵すことになる。そうなるとこの組織の存在意義そのものが問われることになる。

今回の記事は、米国が(国内の政治に関与してきた)CIAを持つことで支払っている高い代償をあらためて思い起こさせるものだ。

「組織的に許されていない」という理由でここで声をあげないCIAの人間は、単に不信感のタネを世間に撒いて自滅させているだけでなく、結果的にアメリカを弱体化させてしまうのだ。

CIAが国民を守ってくれないとすれば、一体だれが国民を守ってくれるというのだろうか?

====

フリードマンはCIAの今回の行動を非常に問題視していると同時に、民主制国家が秘密主義の諜報機関を持つことの矛盾と、そのバランスのとり方のむずかしさを強調しておりますね。

それにしても記者に情報をリークしたこの10人というのは一体どういう意図で情報をリークしたのか・・・気になるところであります。




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# by masa_the_man | 2017-05-31 10:41 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から曇っておりましたが、雨はなんとか降りませんでした。

さて、久々のブログ更新ですが、すでにご存知の通りの新刊のご紹介です。

戦争にチャンスを与えよ
エドワード ルトワック著
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すでに予約の段階でどこかのカテゴリーで一位でしたが、発売日から好調でして、この手の本としては珍しく100位以内にランクインされております。

まずは目次ですが、以下のようになっております。

日本の読者へ――日本の新たな独立状態と平和

1 自己解題「戦争にチャンスを与えよ」
2 論文「戦争にチャンスを与えよ」
3 尖閣に武装人員を常駐させろ――中国論
4 対中包囲網のつくり方――東アジア論
5 平和が戦争につながる――北朝鮮論
6 パラドキシカル・ロジックとは何か――戦略論
7 「同盟」がすべてを制す――戦国武将論
8 戦争から見たヨーロッパ――「戦士の文化」の喪失と人口減少
9 もしも私が米国大統領顧問だったら――ビザンティン帝国の戦略論
10 日本が国連常任理事国になる方法

訳者解説(←私が書いてます)

タイトルですが、これはもともと1999年にルトワック自身がフォーリン・アフェアーズ誌に発表した論文のタイトルから元になっておりまして、決して「戦争をしろ」というものではありません。

すでに簡単な書評をお書きになっていらっしゃる方も気づいておりますが、この真意は「介入すると戦争が長引く」という、いわば「戦争不介入論」でありまして、その矛先はNGOや国連などの戦争の当事者ではない「第三者」に向けられております。

ところがあまりにも日本語版のタイトルが刺激的なせいか、すでに出版社の方には発売前から「お前らはなんつータイトルの本出すつもりだ!けしからん!」とのお怒りの電話があったとか(苦笑

朝鮮半島情勢がきな臭くなっている点で、本書の第5章の「北朝鮮論」は結果的に実にタイムリーなものとなっておりますが、あとがきにも書きましたとおり、すでにインタビューは昨年10月半ばに行われておりまして、その時に語っていた内容を編集したものです。

全体的にはすでに発表した論文(2章)のほか、インタビューを中心に構成しておりますが、講演録なども参考にしておりまして、ルトワックの戦略家としての「世界観」(worldview)をじっくり披露してもらうことを念頭において構成してもらいました。

インタビューの文字起こし自体は昨年の12月の時点で終えておりましたので、私はその内容をすでに忘れている部分もあったのですが、編集段階であらためて読み直して気づいたことがあります。

それはルトワックが深刻なトピックを語っている最中に、ちょくちょく「ネタ」を投入してくる、ということです。

すでにお読みになられた方はお気づきでしょうが、金正恩のヘアスタイルに言及している箇所や、ホルブルックに対する肘鉄の話、それにCNNのアンカーに対する意見など、本気なのか冗談なのかもわからないようなコメントを定期的に使ってくるのです。

個人的に最も気に入っている章は、なんといってもルトワックの戦略論の神髄を説明した第6章から第7章にかけてでして、この戦略のメカニズムの説明が最もしっくりきたと思っております。

もちろん生々しい戦略論の議論であるために、かなりの議論を巻き起こしそうな内容ですが、あとがきにも書いたとおり、この本の主眼は、読者に知的挑戦を突きつけて考えさせるという点にあると思います。

第2章をのぞけば、全般的には語り言葉でできているので読みやすいはずです。ぜひ戦略家の世界観を味わっていただければと思います。

紙面の都合で、残念ながら省略したエピソードがいくつかあるのですが、それについては後ほど別の場所で披露していけたらと考えております。

ということで、知的興奮を受けること間違いなしです。ぜひ書店でお見かけしましたらお手にとってみてください。




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# by masa_the_man | 2017-04-21 22:38 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は昼過ぎから小雨が降っております。春だというのにまだ寒いですね。

さて、少し前に紹介した記事の要約がやっと完成しましたのでアップします。もちろん筆者たちの狙いはトランプ政権についてなのですが、大きくは「人間の知識とはどういうものか」を論じた壮大なテーマにつながっております。

====

なぜわれわれわは明らかなウソを信じてしまうのか
By フィリップ・ファーンバック&スティーヴン・スロマン

あまりにも多くの人々が明らかなウソを信じているようだが、これは一体なぜだろうか?この疑問は、トランプ政権が票の改ざんや気候変動、そして犯罪率のデータについてウソの情報を広めている現在、きわめて緊急を要する問題となってきている。

ところが「集団的な幻想」というのはいまに始まったことではないし、政治思想的にも右派に限った話ではない。たとえば多くのリベラルたちも、科学的な総意とは反対に、遺伝子組み換え作物が人体に有害であると述べているし、ワクチンが自閉症を引き起こすと信じている。

このような状況は、それが簡単に解決できるように見えるからこそ、悩ましい。もちろん真実は少し調べればわかるはずなのかもしれないが、このような想定だと、「騙される大衆」は「アホで愚かな人々だ」というレッテル貼りくらいしかできないことになる

もちろんこのような説明は、これを聞いている自分たちの気休めにはなるかもしれないが、実際は間違っており、あまりにも単純だ。なぜならそれらは、「知識」というものが「われわれの頭の中だけにある」という狭い了見が反映されたものだからだ。

真実はこのようなものだ。個人レベルで見ると、われわれは事実をフィクションと区別できないし、今後もそれは無理であろう。われわれは無知から離れられないのであり、無知こそが人間の自然な思考回路による産物なのである。

ところが人間と他の動物の差が出てくるのは、個人の脳の持つ力ではない。人間が成功できた秘密は、複雑な目標を追求するにあたって、知的な任務を分担・分業できたところにあったからである。

狩り、貿易、農業、製造など、世界を変えてきた数々のイノベーションは、われわれの知的作業の分業という能力のおかげで可能となったのだ。

たとえばチンパンジーは数字や空間認識を必要とする作業などにおいて人間の子供の能力を超えることがあるが、ひとつの目標を達成するために他の個人と共同作業で何かを行うようなことは、ほとんどできない。

つまりわれわれ個人が独自にもっている知識の量は少ないのだが、一緒に協力することによって驚くべき成果を挙げることができるのである。

知識というのは、われわれの頭の中だけにあるものではなく、共有されたものなのだ。

単純な例から考えてみていただきたい。われわれは地球が太陽の周りを回っていることを知っているが、自分で天文学的にそれをすべて観察して確かめて、同じような結論に至る過程を再確認することができるだろうか?

喫煙がガンになることを知っていたとしても、その煙が細胞にどのような影響を与え、ガンがどのように形成されて、どの種類の煙がほかのものよりも危険であるということを再確認できるだろうか?

おそらくこれらを個人で行うことは無理であろう。われわれがあらゆる分野において「知っている」と思っているほとんどのことは、すでに忘れ去られた教科書や専門家の頭の中のように、すでにどこか別の場所で蓄積されたものだからだ。

知識がこのように広まっている、という事実から生じる結果が、「人はある知識のコミュニティーに参加することによって知らないことを知ったような気になれる」ということだ。

われわれは最近ある実験を行った。それはグループを二つわけて、それぞれに「岩が光る」のような完全にウソの「画期的な科学の発見」を教えて、その後にいくつか質問するというものだ。

最初のグループには、「岩が光る」という新発見について、科学者たちもその理由をうまく説明できていない」と告げてから、その「光りかた」についてどこまで理解しているかを尋ねたのだが、彼らの答えは「まったくわからない」というものであった。これは岩について知らないことだらけの彼らにとってはごく当然の回答である。

ところがもう一方の集団には同じ新発見の事実を伝えてから「科学者が岩の光りかたを説明できた」と伝えると、その回答は「理解できた」というものになり、これはまるで科学者の知識(といってもわれわれはまったく説明していないのだが)が彼らに直接伝わったような状態になったのである。

「わかった」という感覚は伝染しやすい。他の人が理解した、もしくは「理解した」という主張は、われわれ自身を気持ちよくさせてくれるものだ。そしてこのような「気持ちよさ」は、人々が「適切な情報にアクセスできた」と信じているときに発生する。

われわれの実験の話から暗示されているのは、科学者たちが秘密の研究を行い、その説明を秘密のままにしておくと、人々はなぜ岩が光るのか理解できないと感じるということだ。

ここで重要なのは、人々が非合理的であるということではなく、この非合理性がきわめて合理的なところから来たという点だ。

人間は「自分が知っていること」と「他人が知っていること」の区別がつかないのだが、この理由はその「知識」というものが、自分の頭の中にあるのか、それとも他の場所にあるのかの明確な線引きをすることが不可能であることが多いからだ。

このような傾向は、とりわけ意見の対立するような政治問題の場合には顕著になる。われわれの頭脳は、その知識の多くについてかなり詳細にわたって「知っている」わけではないからだ。

つまりわれわれは知的な面において、どこかの「コミュニティー」に依存しなければならないのだが、このような共有状態にあることがわかっていないと、それが人々のおごりにつながってしまうおそれが出てくる

たとえば最近の例として、トランプ大統領と連邦議会が、鉱山の採掘で出てきた廃棄物を河川で処分することについての規制を緩和すると発表したときに、声高な反対意見が上がってきた。

もちろんこれは改悪的な法案なのかもしれないが、この政策の評価は非常に複雑なため、一般的な国民のほとんどはその結論に対して意見できるような詳細な知識を持ち合わせていない

環境政策というのは損益のバランスに関するものである。このケースの場合は、河川に対して鉱山の産業廃棄物がどのような影響を与えるのか、どれだけの量になると悪影響が出るのか、どれくらいの経済活動の規模だったら自由に廃棄できるのか、採掘活動の減少は他のエネルギー源でどこまで埋め合わせることができるのか、そして実際の環境へのダメージはどれくらいなのかということについて、かなり詳細な知識が必要になってくる

おそらくこの法案に対して声高な怒りを表明しているほとんどの人々は、その法案を評価するのに必要な詳細な知識をもっていないだろうし、その法案に投票するはずの議員のほとんどもその詳細は知らないはずだ。それでも自信を持って発言している人は多い。

このような「集団的な幻想」というのは、人間の思考の強みでもあり、大きな弱みでもある。

人間が一つの共通の信念を信じて、大規模な集団の中の個々人がそれぞれの知識を貢献しながら共同作業を行えるのは、実に驚くべきことだ。これが可能であったからこそ、われわれはヒッグス粒子を発見できたし、20世紀には人間の平均寿命を30年も伸ばすことができたのである。

ところが同じような能力によって、われわれはでたらめなことも信じることになっており、それが驚くべきほどひどい結果につながることもある。

「個別の人間の無知は普通のことだ」という事実を、われわれは苦い教訓として受け止めなければならない。そしてこれが理解できれば、われわれの能力を高めることにもつながる。

また、これが理解できれば、本物の検証に役立つ問いかけと、受身的で表層的な分析しかもたらさない問いかけを区別することもできるようになる可能性がある。そして、われわれのリーダーたちに専門的で詳細な分析(これは効果的な政策をつくるための経験から得た、唯一本物のやり方だ)を要求することもできるようになるのだ。

「われわれの頭の中には知識がそれほど詰まっているわけではない」という事実をより自覚できるようになることこそが、われわれに本当に役立つことなのである。

===

いい記事ですね。ただし最後はちょっと楽観的な気がしないでもないですが。

人間が集合的に「真実」を決めていることは、国際関係論の世界ではコンストラクティビズムの議論によってすでに論じられているところでもあり、戦略学の世界では最近は意思決定者の心理学という観点からも議論されている通りです。

これはトランプ政権の問題を念頭に書かれたものでもありますが、日本にいるとやはり豊洲問題や原発関連の話として重ねて考えると感慨深いものがあります。
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(ちよだ)







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# by masa_the_man | 2017-03-31 14:20 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は久々にすっきり晴れましたが午後は少し曇りました。これで冬が終わったと考えていいのでしょうか?

さて、ルトワックの最終原稿の追い込みで忙しくしておりましたが、来週発売の『フォースターニング』に関連して、原著者の一人であるニール・ハウが、最近ワシントン・ポスト紙に意見記事を投稿しておりましたので、その要約です。

====

バノンの世界観は私の本が元ネタだ
By ニール・ハウ

今月のメディアの見出しには以下のような警戒心を呼び起こすものが並んだ。

スティーヴ・バノンの暗い歴史観への傾倒は警戒すべきものだ(ビジネス・インサイダー)
バノンは最後の審判の到来や戦争の勃発が不可避だと信じている(ハフィントンポスト)
●バノンは第三次世界大戦の勃発を願っている(ネイション誌)

このようなメディアの報道に共通するのは、トランプ大統領の首席戦略アドバイザーが、彼自身の世界観に最も影響を与えた本(フォース・ターニング)の熱心な読者である、というものだ。

私はこの本を、ウィリアム・ストラウス氏と共に1997年に出版した。この本がバノン氏の心を奪ったという話は事実である

彼は2010年に「ジェネレーション・ゼロ」というドキュメンタリー映画を発表したのだが、この映画はわれわれが描いたアメリカ史(そしてほとんどの近代社会の歴史)についての、4世代にわたる循環理論を土台にして構成されたものであった。

このサイクルには、社会政治面での「危機」(これをわれわれは「フォース・ターニング」と名付けたが)を含むものだが、この本について解説していた記事では、あまりにもその恐ろしさが誇張されすぎていた

私はバノンのことをよく知るわけではない。ただし「ジェネレーション・ゼロ」を含むいくつかの映画制作で、彼と関わったことは事実である。

彼の文化面での知識は豊富で関心したし、彼の政治観もそれほど攻撃的なものには感じられなかった。私が驚かされたのは、彼がブライトバートというサイトの代表になり、しかもそのサイトの主張を拡散しはじめてからだ。

私がオルト・ライト(ブライトバート周辺の極右・白人至上主義を目指しているとされる動き)を知ったのは、多くの人々と同じように、主要メディアの報道によってだ。

2007年に亡くなったストラウス氏と私は、バノンに対してどのように考えて何を主張すべきかをアドバイスしたことはない

ただし、われわれが彼に一つの示唆を与えた可能性はある。それは、ポピュリズム、ナショナリズム、国家独裁主義が台頭するというイメージなのだが、それはアメリカだけでなく世界中で起こるというものだ。

われわれは政治的なマニフェストを書いたつもりはなかったため、「フォース・ターニング」の内容が左派と右派の中の一部の熱心な運動家たちの間で非常な人気を博したのには驚かされた。

「フォース・ターニング」が出版された当時に最も受けたのは民主党の人々の間であったが、その理由は「ミレニアル世代」(これはわれわれの造語だ)がアメリカを進歩的な理想に向かわせるコミュニティー志向の楽観主義者たちとして記述したからだ。

しかし保守派にもファンがいて、彼らは別の教訓をその本から見つけている。それは、新たな時代になれば左派経済と右派の社会的価値観がうまく融合させることができるというものだ。

イデオロギー以外にも、われわれの本が注目を再び集めている理由がある。それはわれわれが近代の西洋の歴史家たちが大前提としている「線的な時間」(一方向への進歩や衰退)や「カオス的な時間」(複雑すぎで方向性を見いだせない)というものを拒否しているからだ。

その代わりにわれわれは、伝統的な社会のほとんどで受け入れられている「循環する時間」を採用しており、ある出来事が意味を持つのは、哲学者のエリアデが「再演」と呼ぶものが見られた時であるとしている。

循環論的な世界では、偶発的な事件やテクノロジーを除けば、その社会的な雰囲気は似通ったものとなり、その再演の順番も決まっている。

このサイクルの中には四つの節目(ターニング)があり、この一つの節目はおよそ20年ほどつづくことになる。ちなみにこの20年とは、一つの「世代」の長さに対応するのだ。

これを循環する「季節」として考えてみていただきたい。それは春からはじまって冬に終わるのであり、一つの「節目」で新しい世代が生まれ、年上の世代は人生の新たなステージを迎えることになる。

このサイクルは「第一の節目」(the First Turning)の「高揚」(High)の時代から始まる。これはその前の危機の時代が過ぎ去った後に始まるのだ。

この「高揚」という春の時代では、公的な制度機関の力が強まり、個人主義は弱まる。社会において、個人たちは同調圧力に不満を感じながらも、集団としては向かう方向に自信を持っている。

現在を生きている多くのアメリカ人の中には、第二次世界大戦後の「アメリカの高揚」(これは歴史家のウィリアム・オニールが名付けた)の時代の雰囲気を覚えている人もいるかもしれない。トルーマン、アイゼンハワー、そしてケネディ大統領の政権時代がこれに当たる。

それ以前のものとしては、「南北戦争後のビクトリア時代の高揚」(the post-Civil War Victorian High )というものがあり、この時代には工業の発展と安定的な家族が見られた。民主共和派が主導した「憲法制定後の高揚」(the post-Constitution High )や「好感情の時代」(Era of Good Feelings)もこれに当てはまる。

「第二の節目」(the Second Turning)は「覚醒」(Awakening)であり、この時代には高尚な原則や深い価値観の名の元に公的な制度や機関が攻撃される。

社会の公共面での進歩が最高潮を迎える時に、人々は突然にあらゆる社会的な規律に疲れを感じ、個人の権威という感覚を再び獲得したいと考えるようになる。仕事ではなく宗教による救済が若者の主張として叫ばれるようになる。

この時代の典型的な例が、1960年代後半から70年代にかけての「意識革命」(the Consciousness Revolution)である。歴史家の中にはこの時代を「アメリカの第四の覚醒」もしくは「第五の覚醒」と呼ぶ人もあるのだが、これは17世紀のジョン・ウィンスロップの時代か、18世紀のジョナサン・エドワーズの時代を最初とするのかでわかれる。

「第三の節目」(the Third Turning)は「分解」(Unraveling)であり、これは多くの面で「高揚」の正反対であると言える。公的な制度は弱体化して信頼を失い、個人主義が強まって賞賛されるのだ。

「第三の節目」の時代としては、1990年代以外にも、1920年代や1850年代があるのだが、これらの時代はその懐疑的な態度やマナーの悪さ、そして公的機関の力の弱まりによって知られている。政府の力は縮小され、投機的な狂信が頂点に達する。

最後の「第四の節目」(the Fourth Turning)は「危機」(Crisis)である。この時代に入ると公的な制度機関は根本的に再編されるのだが、その原因は国家の存続の危機が感じられるからだ。もし歴史でそのような緊迫した脅威が生み出されなければ、この時代のリーダーたちは国民的な行動を動員を行う目的で、そのような危機を発見したり、さらにはでっち上げたりすることになる。

公的な制度機関の権威は復活し、市民や集団は、より大きなコミュニティーに参加者として協力を始める。このような集団的な努力が実って解決法を生み出すと、第四の節目はわれわれの国家としてのアイデンティティを活発化させたり再定義したりすることになる。

1945年、1865年、そして1794年は、アメリカ史においてそれぞれが新たな「創建的な瞬間」を決定づけたのだ。

「第二の節目」がわれわれの内的な世界(価値観、文化、そして宗教)を再構築したように、「第四の節目」はわれわれの外的な世界(政治、経済、帝国)を再構築するだろう。

われわれの理論によれば、これからやってくる時代(たとえば10年間など)は、その本質的な人間の働きによって過去のある時期と同じようなものになるはずだ。

われわれは『フォース・ターニング』の中で、アメリカは2005年頃に金融市場において「偉大な低下」を経験し、これが契機となって1930年代のような時代に突入すると予測した

たしかにわれわれがこれまで経験した時間を考えれば、1930年代と同じような道筋を辿っているという考えはかなり当てはまると言えるだろう。

たとえば経済では、1930年代も2000年代も世界的な金融危機によって始まり、経済成長率の鈍化や慢性的な雇用や資本の低下が見られる。投資は低下し、デフレの恐怖や格差の拡大、そして中央銀行による消費増大への刺激策も不調に終わっているのだ。

地政学的な観点からいえば、現在では孤立主義、ナショナリズム、そして右派のポピュリズムの台頭を世界中に見たのだ。地政戦略家のイアン・ブレマーはわれわれが「Gゼロ」の時代にいると述べており、これはすべての国家が利己的になる時代という意味だ。

これは1930年代にも当てはまる。大国による同盟の権威は失墜し、新たな独裁的な政権がなりふりかまわず行動するような状態を見ることになったからだ。

社会的なトレンドにおいても、この二つの時代は似た部分を示している。たとえば出生率や持ち家率の低下、数世代同居の世帯の台頭、そして地元主義の拡大やコミュニティーのアイデンティティ、そして若者による暴力事件の数の劇的な減少(トランプ大統領はこの事実に気づいていないようだが)、そしてポップな若者文化の定着などである。

結局のところ、われわれは世界中の有権者の間に生まれつつある「リーダーたちにより大きな権限を与え、プロセスよりも実行、そして抽象よりも具体的な結果を出してもらいたい」という欲求を感じているのだ。

われわれは歴史がそのスピードを上げ、リベラルな民主制度は弱体化しつつある、極めて不安定で最も重要な時代に生きている。レーニンは「10年間何もなかったとしても、その10年を決定づけるような出来事は数週間のうちに起こる」と記している。

われわれは公的な制度の創造的な破壊に準備すべきだ。これはあらゆる社会が時代遅れになったり硬直化したり機能しなくなったものを破棄するために、定期的に必要とするものだ。そしてこれは、老人から若者に富を移行させる点でも必要になる。

森は定期的な山火事を必要としているし、川にも洪水が必要だ。社会も同じであり、新たな黄金時代を迎えるためにわれわれには支払わなければならない代償があるのだ。もしわれわれが歴史の大きなリズムを見ることができれば、このようなトレンドに落胆すべきではなく、むしろ励ましとすべきである。

過去数百年間にわたる英米史では社会的な危機がかなり定期的なサイクル、つまり80年から90年ほど、もしくは人間の一生分の長さで巡ってきている。

このパターンを見ると、植民地における名誉革命の時代、アメリカ革命、南北戦争、そして世界恐慌から第二次世界大戦という時代が繰り返されている。そして1930年代からのサイクルを一回し進めると、われわれが生きているまさに現代がその時代に当てはまる。

アメリカは2008年に新たな「第四の節目」に入った。これは2030年前後まで続く可能性が高い。われわれの理論では、現在の流れはその時代の半分に近づくにつれてさらに明確になってくるということが示されている。

新たな金融危機や、大規模な軍事紛争など、今よりもさらに不都合な出来事が発生すると、国民の議論を活発化させ、リーダーたちにさらに断固とした行動をとるよう求めることになる。

世界中で台頭する地域主義やナショナリズムは大きな政治主体(おそらくEU)の分裂や、紛争の勃発(おそらく南シナ海、朝鮮半島、バルカン半島、もしくはペルシャ湾)につながる可能性がある。

新たな孤立主義の台頭にもかかわらず、アメリカは戦争に巻き込まれるかもしれない。私は戦争を望んでいるわけではないし、単に冷静に観察をしているだけだ。

それによると、米国史上におけるすべての総力戦は「第四の節目」の時代に発生しているのであり、この時代が総力戦で終わらなかった事例はないのだ。もちろんそのような戦争におけるアメリカの目標は、非常に広範囲な分野から決定されるものであろう。

2020年代の後半になると「第四の節目」は頂点を迎え、終わりに近づくことになる。講和条約が交渉され、協定が締結され、新たな国境線が確定し、おそらく(1940年代の後半のように)新たな強い世界秩序がつくりあげられるはずだ。

また、2030年代初期までにわれわれは新たな「第一の節目」を迎え、若い家族は歓喜し、出生率は上がり、経済格差は縮まり、新たな中間層が台頭し、公共投資は21世紀のインフラのために増大し、秩序ある反映が復活するだろう。

次の「第一の節目」、つまり新たな「アメリカの高揚」の時代には、今のミレニアル世代たちが社会のリーダーとなり、彼らの楽観主義や賢明さ、能力、そして自信を見せつけることであろう。そして2030年代後半のどこかの時点で、ミレニアル世代の初の大統領が誕生し、新たな伝説を創り出すことになるだろう。

それからさらに数年後には、集団的な考えを持つミレニアル世代は、新たな若い世代から思いがけない形で猛烈な批判を浴びることになる。それが次の「覚醒」だ。

このように、歴史のサイクルは容赦なく回り続けるのだ。

====

拒否するのかと思いきや、ここぞとばかりに本の内容を説明しまくってますね。

しかもその考えは、バノンと同じく(というかバノンが学んだのでしょうが)、「2008年のリーマンショックによって危機が始まった」という考え方ですね。

個人的には「2008年に1930年代が始まった」というのはちょっと大げさであり、もしかしたらテクノロジーの発展によって彼らのいう「危機」が回避されているのかと思いたいところですが、トランプ政権の誕生と、しかもこの理論を信じているバノンが政権の中枢にいるという事実は「危機」の到来を予感させるに十分なほど異常事態でありまして。

ということで、この理論が書かれている『フォースターニング』は来週後半に本屋に並びます。賛否両論ある「奇書」かもしれませんが、ぜひ書かれている内容をお楽しみいただければ幸いです。


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(本日到着)


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奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
# by masa_the_man | 2017-03-16 23:17 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部はよく晴れまして、気温も心なしか真冬状態からは抜け出せておりました。

さて、連日にわたって孫子本の訳で忙しいので、だいぶ前に訳したルトワックの論文の「試訳版」をここにおいておきます。完成版ではないので誤字脱字がかなり含まれております。

お気づきになられた方はコメント欄でぜひお知らせください。修正します。

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ポスト・ヒロイック・ウォーに向かって
by エドワード・ルトワック
May/June 1995 Foreign Affairs

▼総力戦の衰退

元ユーゴスラビアで長期化する戦い、グロズニーの破壊、そして最近のエクアドルとペルーの国境地帯での戦闘をつなげる共通項が一つある。それは数世紀前と同じように、戦争が再び「容易に開始しやすく、明確な制約もなしに戦われるようになった」ということだ。参戦者同士が戦争開始や戦闘であらゆる手段を使うこと――空爆や砲撃などによって町全体を破壊することなど――に対する罰を与えられないと考えるようになると、軍事力の行使に対して自ら課した制限は下がるものだ。エクアドルとペルーの間の国境紛争は戦術爆撃が使用されてから始まったのであり、しかもそれは単なる歩兵同士の小競り合いくらいの結果しか生み出さないかのような形で実行されたのだ。

この新しい戦争の時代の到来は、冷戦の終焉によるもう一つの結果である。とりわけ冷戦では、紛争地域におけるいくつもの熱戦を誘発もしくは強化したのであり、米ソ両国はそれぞれの同盟国や保護国に対して、現地の能力を遥かに越える武器や専門技術を供給してきた。そのような代理戦争の場となることが多かったのが中東である。

ところが同時に、核戦争へとエスカレートする恐怖は、米ソ両国がヨーロッパやその他の地域で(それが最小規模のものであっても)直接対決するのを阻止したのである。結局のところ、冷戦は世界各地における多くの潜在的な戦争を抑えこんできたのであり、その理由は米ソ両国が自分の隷下の国々に勝手に戦争を起こすことを許さなかったからだ。さらにいえば、両国とも朝鮮半島やベトナム、それにアフガニスタンでの戦争のような形や地理的な範囲や、自分の同盟国や衛星国が戦った戦争をコントロールすることに関して非常に神経質になっており、ここでも直接対決や核戦争へとエスカレートすることの恐怖があったのだ。

このような戦いを条件づけている戦争の概念というのは、特定の状況によって生み出されるものと認識されているわけではなく、むしろ普遍的なものであると見られてきた。この概念では、戦争が国民の熱狂を引き起こす国家の偉大な目的のために戦われ、ビジネス的に戦う職業軍人の集団ではなく、国家を代表する軍隊によって戦われることが想定されているのだ。ところがこのような想定は戦争の概念のうちのたった一つであることは、軍事史に少しでも関心のある人々であればよく知っていることだ。この概念は「究極の真理」からはほど遠いものであり、むしろ近代によって発明された、どちらかといえばより最近の時代に関連したものなのだ。フランス革命以前のほとんどの戦争は、国民の熱狂を呼び起こすことはほとんどない、はるかに切迫性の少ない目的のために戦われたのであり、高価なプロの軍隊を温存するために慎重な戦略や戦術が使われていた。一八世紀の戦争では偉大な目標がなかったおかげで全国民を戦争に向かわせることはできなかったが、それでもそれを正当化するだけの控えめな目的があり、犠牲者が出るのを避けることがその標準的な規範となっていたのだ。
 
▼戦争の新しい文化

緊張の度合いは高いが統制された「冷戦文化」では、軍事力の使用に対する抑制的な制限が必要とされていたが、これはインドやパキスタンのような非同盟志向の国家にも影響を与えているように見える。軍事力の使用は、冷戦期には世界中で非常に恐ろしいことであると見られるようになり、最大限の熟慮の上でのみ決定され、普通は「最後の手段」として用いられるものとなったのである。関与を否定できるようなゲリラ作戦ではなく通常の歩兵戦をエスカレートさせたり、歩兵戦ではなく機甲戦や砲撃支援、そして地上戦よりも空爆を行うことは、過去の場合のような現場の部隊の指揮官の自由裁量ではなく、国のトップの政治的な判断が必要とされるとみなされるようになったのである。もちろん現場の指揮官たちは(時には大声で)不満を漏らしたが、それでもこの新しい抑制的な文化を受け入れて従ったのだ。

もちろんこの抑制は一九四五年から八九年までの間の(最も多く見積もった場合の)一三八回もの戦争と二三〇〇万人もの犠牲者を防ぐことはできなかったが、それ以前の二つの世界大戦を含む四四年間ではそれよりもはるかに多くの人々が犠牲になっているのだ。また、一九四五年から八九年までの国内の暴動鎮圧や内戦では、抑制的な考えから生じる戦略面での慎重さが欠如した状態であったために、一三八回の戦争の合計よりもさらに多い犠牲者が出ている。

冷戦が「熱い戦争」を抑圧できなくなった今、軍事力の使用に対する抑制的な制限を促す文化は全体的に消えつつある。イラク戦争を除けば、その結果は主にソ連やユーゴスラビアであった地域で出現しつつある。東部モルドバ、コーカサス地方の三つの共和国、中央アジアの一部、そして最近ではチェチェン、クロアチア、ボスニアなどで続いている長期戦や壊滅的な破壊、そしておびただしい数の残虐行為は、たしかに多くのアメリカ人を恐れさせその考えを変えさせた。ところがこれらの多岐にわたる暴力は、帝国が植民地へと権力を大々的なスケールで移譲した時とまったく同じ構造や、純粋に土着的な原因から発生していたのだ。それゆえに、われわれは新しい無制限戦争の始まりも、少なくとも地理的に限定されたもの(といってもその対象地域は広大だが)であると考えることもできる。

エクアドルとペルーの間の戦闘、ギリシャとトルコの間の増大する無謀さ、そしてカシミール地方における増長するパキスタンの大胆さなどから感じられるのは、新しい、そしてより制限の少ない戦争の文化が、はるかに広範囲で台頭しつつあるという不吉な予感である。今やこれら多くの事例に対抗できる手段は何もない。侵略行為や故意のエスカレーションなどは処罰されずに存在し、勝者はすでに獲得したものを保持したままであり、敗者は自らのものを奪われたままである。冷戦期はこのような状態ではなく、ほとんどの国は米ソどちらかの保護を受けることができたのであり、その両国自身もその国々をコントロールする理由を持っていたのだ。そして勝者たちは米ソ両国との協定によって獲得したものを徐々に減らされ、敗者は勝者側と同盟関係にない両国のどちらかに支援してもらえたのだ。

もちろんエクアドル・ペルー間の戦闘がどのような前例となるのかは謎のままだ。地図が変わるような結末がでなければ、ラテンアメリカ諸国間で凍結されていた国境紛争が復活するとは主張できないからだ。ただしこれらの紛争は、当然ながら極端に民族主義的な立場をとる政治家たちに再評価されているはずだ。軍事費が低下傾向にある多くのラテンアメリカ諸国においては、明確な反発は無理だとしても、軍事費削減の減速は確実に起こるだろう。政治・経済面で大きな利益をもたらした近年における最もポジティブな流れは、いまや危機的な状態にあるのだ。エクアドル・ペルー戦争はラテンアメリカ諸国全体に対してかなり大きな損害になるかもしれず、それは地理的な制限を越えてアメリカにも波及しかねない。
 
▼「戦争」の意味

ではアメリカは倒錯した事例や、容易かつ無制限な暴力の新しい文化に対処できるだろうか?外交の先には、多国間的な枠組みや他国の援助を必要とする、もしくはしない、「武力介入」という問題の多い対処法が存在する。ところが状況的には武力介入が有効な場合(もちろん想像不可能な状況もある)があるにもかかわらず、米軍は武力介入について、アメリカ国民からの全般的に繰り返し否定されることになる。

このような政治的な制約は当然のこととして受け入れるべきである。なぜならこれらは米軍の指導層が現在採用している、特定の戦争の概念や介入手法によって生じる不慮のコストだからだ。もしこれらが戦闘で米軍兵卒がさらされるリスクを最小化する目的で大きく変換されるものであれば、提案された軍事介入に対する国民側の反応も変わるはずだ。アメリカは侵略やエスカレーションを今よりも積極的に思いとどまらせることができるようになるだろう。

アメリカが当事者となって介入している場合は、たとえば米軍の公式マニュアルや一般的な「戦争」という言葉の理解において、これらのほとんどは政治議論でも暗黙のものとなっている。当然だが、ワインバーガー・ドクトリン、パウエル・ドクトリン、それにチェイニー・ドクトリンなどは、米軍を戦場に送り込む決定をする際のいくつかの条件を提示しており、それらは同じ戦争の概念に則っているにもかかわらず、それを議論せずに暗黙の状態でベースとしているのだ。これらの三つのドクトリンで触れられている条件の詳細は異なるものだが、そのすべてではアメリカの明白かつ致命的な国益が脅かされていることが条件となっており、アメリカは国民の熱狂が冷めるまでに決定的なだけでなく迅速に勝てるだけの十分な戦力を使用する必要があるとされている。

「大きな目標のために戦われる戦争」というのは、当然のようにフランス革命やアメリカ独立戦争から生み出されたものだ。ただし私は歴史的な正確性は無視して、ここではとりあえずこれを「ナポレオン戦争」と名づけておく。なぜならここで言う「大きな目標」は、まさにナポレオンがやったように、大規模な作戦において大兵力を決定的に使用することを意味することが多いからだ。この概念は、ナポレオンによってあざけられ、カール・フォン・クラウゼヴィッツによって体系的に批判された、一八世紀のヨーロッパにおける典型的な戦い方に対する反応として生まれたものだ。

もちろんクラウゼヴィッツは、前世紀の注意深い戦い方がその時代と「内閣戦争」(cabinet wars)と呼ばれた戦争の狙いと一致していたことを十分認識していたにもかかわらず、それを極めて手厳しく批判している。その際に使われていた、相手に見せつけるための部隊の機動的な動きは、一度も銃を発射することなく敵を撤退させる目的で行われたのだが、一旦激烈な戦闘が始まってしまえば、すぐに中止されるようなものであった。優位な部隊でさえ、勝利において犠牲が多く出ることがわかれば戦闘を避けたほどなのだ。戦闘の勝利にあたっては、決戦よりも長期的な包囲戦、そして全面攻撃よりも慎重な追撃のほうが好まれたのである。戦略レベルにおいては、よく練られた攻勢でもその目標はかなり控えめなものであり、成功しそうな作戦でも単に犠牲者を避けたいがために冬期に備えて早めに手仕舞いされることが多く、攻撃による成果の発揮は、犠牲者の回避という遥かに優先順位の高いことによって常に避けられ、次回の戦闘のために部隊を温存し、線的な防御や要塞の構築や配備のためにはるかに多くの努力が傾けられたのだ。

ナポレオンはそのような慎重な戦い方に対して、大規模な兵力や急速に集中する部隊の勢いを使った大胆な戦略的攻勢を用いることによって勝利したのであり、クラウゼヴィッツが提唱したのはまさにこのような戦い方だったのである。偉大な国家目的のために戦われる戦争や、ドイツ統一を念頭におきつつ、クラウゼヴィッツは熱しきらずにリスクを避け、しかも長期的にはコストがかかるような戦い方が抱える論理面での誤りを明らかにした。もちろんクラウゼヴィッツは、政治的な考慮の優位を主張することによって、戦略における慎重さ推奨する最も強力な議論を展開している。ところがこれも、彼の戦術・作戦面における大胆さの効率性の良さを示す議論の前ではほとんど力を持つことはなかった。この効率性の議論というのは、その野心的な目標を正当化するような文脈から簡単に切り離されやすいものであったのだ。

戦争に内在する永続的な構造や心理学について深い洞察力を備えたクラウゼヴィッツの教えは、いまだにそれを凌ぐものがないほどだ。リスクをとって成功した歴史上の偉大な指揮官たち
(ブラッドレーやクィントゥス・ファビウス・マクシムスたちのような慎重な勝者を排除し、パットンやハンニバルのような人々を集めた極めて偏ったもの)のリストと同様に、これらの教えは米軍の教育機関は国防大学などでの議論で浸透しており、現在の野戦教則(フィールド・マニュアル)や公式のドクトリンなどでも容易に見つけることができる。このような文書の多くでは、冒頭で「戦争の原則」(戦力の集中、多勢、勢いなど)を言い直したものが掲載されるのだが、実際それらのほとんどが、ナポレオン戦争時代におけるクラウゼヴィッツ式の原則なのだ。

この「原則」は、核兵器を使わない軍事作戦の計画という意味においては、二つの世界大戦や冷戦の状況にとってたしかに当てはまるものであった。ところがそれは現在の国内外の状況には当てはまらないのだ。現在の国際政治において世界を脅かすような大国は存在せず、わずかな数の動きのない「ならず者国家」や、遥かに規模の小さな戦争や内乱が発生しているだけであり。そのどれもがアメリカを直接脅かすことはないし、その重大な国益を害するものでもない。したがって、ナポレオン戦争や、たとえばワインバーガー/パウエル/チェイニー・ドクトリンなどによって示されている軍事介入のための前提条件は、そもそも存在していないのである。

ところが最大規模の残虐行為にあふれた侵略行為を注目しながらもただ傍観していたという事態のおかげで、アメリカは倫理・道徳面で被害を受けることになった。さらにいえば、戦争における新たな文化の広まりが、アメリカの物理的な利益に対して容易かつ急激に被害を与えつつあることは明らかである。銃撃が発生する場所では商業のチャンス(しかもその多くはかなり大規模なものだ)が毎日に失われ、将来においてはさらにその数が増えるかもしれないのだ。

いくつかの現代兵器が発揮できる機能から考えれば、軍が本気でテクノロジーの潜在力を活用して一八世紀のような犠牲者を避ける方法を真似ることができるかもしれないし、実質的には血の流れない武力介入を実行可能となるかもしれないのだ。もちろんアメリカの狙いは、それと同時に控えめなものとしなければならず、「部分的かつ制限的な成果以上のものを達成したい」という誘惑に負けずに、一八世紀の将軍たちのように遅く出てくる結果を生むような状態を維持しなければならないのである。

それとは対照的に、現代の軍にはクラウゼヴィッツによって補強されたナポレオン戦争のタイプの考え方がいまだに浸透しているのだが、それが直近の軍事面での必要性と極めて大きな違いを見せている。たとえばアメリカのソマリア介入は、ハイリスク/ハイリターンの特殊作戦方式の大胆なヘリによる急襲が大失敗したことによって突然終わりを迎えた。ところがこれがアメリカの国益にとっては最も関係の薄い国における自由裁量度の高い介入であったという事情を考えると、リスクの高い手法は、それがどのようなものであれ原則として全く不適切なものであった。さらに結果がどのようなものであれ、この介入を行う判断そのものがひどいものであった。米軍のトップの計画担当者たちは、アメリカの特殊部隊司令部に対し、浸透しているメンタリティに沿う形で本質的に犠牲者を出すリスクの高いタイプのソマリア介入作戦の開始を許してしまったのである。

ナポレオン式の概念が応用できる限り、米軍にとって合理的な範囲で犠牲者を出すことは重大な決断要因とはならなかった。「偉大な目的のために戦われる戦争」が暗示しているのは、たとえその数が大規模なものになっても犠牲が出るのを積極的に受け入れるということだ。さらにいえば、犠牲に対する許容というのは、産業革命以前、もしくは初期の産業社会の人口動態、つまり家族には多くの子供がいて、そのうちの何人かを病気で失うのはまったく日常的であった状況と一致しているのだ。若者を戦闘において失うのはたしかに悲劇的ではあったが、それでも一人から多くても三人の子供しかいない現代の家族に比べれば、完全に許しがたいことではなかったのである。現代ではすべての子供が成人することを当然視されており、家族の感情的な絆を抱えていることが多い。アメリカでさえ、植民地拡大や目立たない動機を目的として戦われた、任意の大国間戦争の「燃料」となる「消耗品的な兵士」を過去に十分に供給できたことはない。しかも現代のような低出生率のポスト産業化社会では、回避可能な戦闘におけるそのような「消耗品的」な命の供給は許されないのである。

現代のように、プロとして給料や退職金も出る、出世を狙う兵卒によって占められ、犠牲者を出すことに不寛容な国家に属する軍隊が、民族主義や宗教過激主義によって感情を燃え上がらせた敵と対処できるかどうかはほぼ不可能なことのように見える。ところが戦闘を避けて何もしないと、セルビアのような攻撃的な小国だけでなく、ソマリアの軍閥のように、自由に暴れまわったり、自らの意志で勝利を獲得できるような事態が生まれるのだ。

このジレンマを、前代未聞であったり解決不能なものであるとみなす人々もいる。ところが実際はそのどちらでもない。もしわれわれがナポレオン式の概念から離れ、一八世紀型の歴史的に「普通」の状態を認めることができれば、同じジレンマが出現してそれをうまく克服できた、多くの歴史的な事例に気づくことができる。たとえば二千年ほどさかのぼってみると、まさに現代と同じようにプロとして給料が出て退職金ももらえ、出世を狙う人々によって構成されたローマ軍の兵士たちは、部族や宗教のために栄誉を持って死を恐れない戦士たちと、日常的に戦わなければならなかったのである。そしてその当時から、ローマ軍側の上官たちは戦闘での犠牲者には無関心でいられなかったのだ。その理由として、戦闘部隊を訓練するのにはコストがかかり、しかもローマ市民の人材が豊富というわけではなかったという点などが挙げられるだろう。アウグストゥスが数年前に行われた「トイトブルク森の戦い」で三個軍団を失った指揮官ウァルスの墓に行って哀悼の意を表した話は有名である。

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つづきはのちほど。

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奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
# by masa_the_man | 2017-02-27 00:08 | 日記 | Comments(0)
つづきです。

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▼ローマの包囲戦

ローマは部隊の損失を最小限化しつつ、ブリテン島からメソポタミアまでの敵に打ち勝つために、いくつかの対処法を使っていた。まず最初は彼らの基本として、開けた場所での戦闘を避けるということであり、とりわけ自分たちがはるかに優位にあっても自発的に戦闘を始めることを最大限避けるというものであった。ローマは時と場の不確実性に直面して、同じく不確実な犠牲の損害を出すよりも、むしろ敵に好きなポジション(しかもそれが強固に要塞化されていたり地理的に優位なものであったとしても)まで撤退することを許しているのだ。流動的な状況をより自らが統制できる状況に変えることによって、ローマ人は体系的な包囲作戦を開始することを狙い、部隊を編成して武器を集積し、供給したのである。それでもまだ彼らの最優先事項は敵の防御を突破することではなく、包囲している部隊を守るために精緻な要塞をつくり、敵の反撃によって出る犠牲を最小化することであったのだ。全体的にいえば、包囲戦はローマにとって、包囲技術の優秀さと兵站面での優位という二つの面で得意とするものであった。これによって、彼らは包囲している敵の食糧の尽きるまで待つことが可能になったのである。故意の計算された忍耐は、軍事面での優位を示すものである。

ローマ軍の包囲戦の現代版ともいえる貿易禁止や武力封鎖というのは、戦術的なものではなくて戦略的なものである。あいにくだが、ナポレオン式の概念が普及している限り、戦争に似たような結果を戦死者を出すことなく達成するのは無理であろう。興奮した国家は結果をすぐ求めたがるものだが、貿易禁止や封鎖の効果というのはすぐに出るというよりもむしろ累積的なものであり、その結果は思ったよりも長くかかることが多い。さらにいえば、ナポレオン式の戦争の概念では決定的な結果しか認めないものであり、貿易禁止や封鎖の効果というのは完全というよりも部分的なものでしかない(それでも何もないよりははるかにマシだが)。たとえば一九九〇年以来、このような手段はサダム・フセイン率いるイラクの軍事的復活を抑えてきた。イラク軍は一九九一年の湾岸戦争で受けた兵器の損失から復活することを許されておらず、破壊された、もしくは老朽化した兵器の更新はままならずに弱体化が進んでいたのだ。もちろん禁止となっていたのはタンカーやパイプラインによる直接的な輸出だけであったが、陸上で運びだされるそれよりもはるかに少ない量の原油取引では再武装には十分ではなかったのだ。


また、国連がイラクの輸出禁止を解いたとしても、実質的な「封じ込め」状態は深刻な軍事力の脅しのない状態ですぐに解消されるわけではなかったのだ。ついでに言えば、大々的な戦争だけが達成できる決定的な結果は、この場合にはさらに一時的で不確定なものとなっていただろう。なぜならイラクの軍事力の完全な破壊は、即座にイランという脅威に対する封じ込めを遥かに難しくしたはずだからだ。

それと同様に、元ユーゴスラビアでは国連、ヨーロッパ共同体、もしくなNATOによるあらゆる外交や軍事介入の大失敗の中で、ポジティブな効果を唯一生み出したのが、セルビアとモンテネグロへの輸入の拒否(といってもそれは完全なものからはほど遠いものであったが)だったのだ。セルビアとモンテネグロの軍事力への確実な(といっても計測不能かもしれないが)インパクトに加えて、禁輸措置はセルビアの最も過激なリーダーシップを和らげる効果があった。禁輸措置は少なくともボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、そしてクラジナにいるセルビアの武装集団に対するより露骨な戦闘・兵站面での支援を思いとどまらせたのであり、交渉に向かう態度を(それが武器禁輸の解除を狙ったものであったとしても)引き出すことになったのである。禁輸措置が長引きそうになると感じられたおかげで、ギリシャの悪行を幇助するセルビアの拡大に、まだ脆弱を抱えたままのマケドニアに対する侵攻を防ぐ効果があったことは間違いない。

あいにくだが、最も楽観的な計算によってもその結果は不都合なものであった。それでもこの禁輸措置は人命や血税を失うことなく、国連の高価で効果のない武力介入や、それ以上に高くつくNATOによるボスニア上空での航空警戒活動(眼下では大虐殺が続いていたにもかかわらず戦闘も爆撃もほとんど行わなかった重武装の戦闘爆撃機によるもの)よりも、はるかに多くのことを達成したのである。

この二つの(少なくとも部分的な)成功例をのぞけば、これまでの封鎖や貿易禁止の歴史のほとんどは完全な失敗だとして引用されている。ところがほとんどがそのような扱いを受けているのは、「すぐに結果が出ないものであれば価値はない」という想定が土台となっているからだ。そしてこのような封鎖や貿易禁止、もしくは進行の遅い累積的な形の戦闘を最大限活用するためには、計算された意図的な忍耐を尊重する、新しい(というか復活した)戦争の概念が必要になるだろう。これからもわかるように、ナポレオンやクラウゼヴィッツのように無意識に「テンポ」や「勢い」などを強調する考え方は、たとえ迅速に動く理由がないような状況でも強迫的ともいえる緊迫的な感覚を生み出すことになる。英陸軍元帥であったバーナード・ロー・モンゴメリー(Bernard Law Montgomery)は、他の人々が拙速な即興をして失敗した中で、単に徹底した準備を行って成功した、最初の、もしくは最後の将軍というわけではなかったのだ。

「強迫的ともいえる緊迫的な感覚」は、一九九一年の湾岸戦争の最初の週でも多く見ることができる。この時にイラク内の戦略目標に対して組織的な空爆が行われたのだが、これについて現場の多くの部隊の指揮官たちは明らかに我慢のできない様子で見守っていたのである。ニュースで流れてくる報道は彼らの戦略爆撃や、それがイラク軍をはじめとする戦術目標への破壊につながって素早く地上戦への道が広がるはずだという見方に対する、懐疑的な気持ちをさらに強めるものであった。

米軍の最高幹部たちは下から上がってくる圧力に抵抗している。しかもこの圧力にはいかなる客観的な緊急性がなく、むしろ直感的な感情や、さらには官僚的な欲望が反映されたものでしかなかった。そしてこの圧力を完全に抑えこむことはできなかった。地上部隊に対して航空支援を行うために戦略爆撃を実質的に止めるはるか前の戦争開始から三九日目の時点で、イラクの核・非核兵器に関する研究・開発・生産・そして貯蔵施設の組織的破壊に最適な航空機の多くは、四〇〇〇台にもおよぶ装甲車両の破壊任務にとりかかったのである。

航空作戦を戦略目標から戦術目標へと移してしまったことは、不満足な結果しか生み出さなかった。作戦後にも、多くの重要な核・生物・化学兵器関連の施設が破壊されないまま残ってしまったからだ。アメリカには戦闘機が豊富にあるにもかかわらず、精密誘導兵器で戦略目標を攻撃する兵器を完備していたのはたった二〇〇機以下であった。しかも結局この数は、三九日以内に指揮・統制、送電網、通信網、防空施設、そして石油精製・貯蔵施設、さらには航空基地や海軍基地、鉄道と車の陸橋、兵站集積所などを含む膨大な数のすべての目標を破壊するには、あまりにも少なすぎたのだ。

同じ「強迫的ともいえる緊迫的な感覚」は、たとえば戦争開始から四九日目ではなく、前述の三九日目の地上での攻勢開始の決定について、ある程度の役割を果たしたのである。すでに三九日目になると、イラク側の兵力は空爆作戦のおかげでほぼ壊滅状態にあり、とりわけ前線の部隊へのほとんどの兵站線が寸断されていたのだ。したがって地上での攻勢開始の決断は早まったわけだが、それでもアメリカと同盟国側の犠牲者の数は(そもそも全体的にも少なかったために)変わらなかったのだ。ところが空爆が一〇日間でも伸ばされていれば、戦略目標に対する出撃数は二〇〇〇回ほど増えたはずだ。戦略レベルの規模での精密誘導爆撃という新しい手法は、その全体的に進むスピードがあまりにも遅いが、累積的な結果においては効果が高いため、たしかにコストはかかるがアメリカ側の兵士の命という観点から考えれば非常に経済的である。ところがその潜在力を存分に発揮するための十分な時間は与えられなかったのだ。

地上戦での迅速な勝利は戦争後半に最も重要な役割を果たしたのだが、ここから判明したのは、ナポレオン時代の国民の意見について考え方が支配的な影響力を持っていたということだ。もちろん最後の地上戦は「掃討作戦」以上の役割は果たさなかったのだが、それでも全体的な世論に対するインパクトは空爆作戦よりもはるかに大きかったのである。なぜならそれが素早く実行されたと同時に、目に見える形で決定的なものであったからだ。
 
▼忍耐強いエアパワー

ボスニアにおけるアメリカの空爆使用の主張に対する批判の土台にあったのが、「すぐに結果が出るような作戦だけが価値を持つ」という暗黙の前提である。司令官たちは「領域爆撃に似たものは、どのようなものであれ一般市民の犠牲を多く出してしまう」という最初の声明の後、すべての攻撃目標は精密攻撃を効果的にするにはあまりにも特定しずらいものであったり、ボスニアの起伏のある地形の中に容易に偽装して隠すことのできるものであると論じている。彼らはあらゆる航空作戦を「素早く終わらせるべきもの」であったり「たった一度だけ行われるもの」という前提で論じていた。もちろんたった一度だけの精密誘導爆撃は簡単に失敗する。その瞬間に悪天候であったり、最後にいた場所から目標が動かされていたり、うまく偽装して隠されていたりするからだ。そして当然ながら、セルビア人民兵がサラエボを砲撃する際に活用した一二〇ミリ迫撃砲などは、すぐに移動したり隠したりすることが可能なのだ。さらに言えば、それよりもはるかに精緻な榴弾砲や野戦砲なども見つけにくい目標となりえるのである。

ところがこの議論は、一度だけの攻撃、もしくはあらゆる短期的な作戦と、何日も何週間も続けられる空爆作戦との間の違いを、完全にぼやけさせてしまうものだ。もし最初の空爆が分厚い雲のおかげで失敗してしまっても、次の出撃、もしくはその次の出撃は晴天にめぐまれるかもしれない。もし最初の空爆作戦で隠された榴弾砲を見つけることができなくとも、次の出撃では砲撃しているところを発見できるかもしれない。そして攻撃目標が民間人に近すぎるために最初の空爆が中止されたとしても、次の出撃では空爆できるかもしれないのだ。空爆作戦を素早く終わらせようとする原因は何なのだろうか?ボスニアでの戦闘は数年を経た今日までも相変わらず続いているが、その理由は軍の指導者たちが「数日間で戦いを止めることができる」とは考えなかったからだ。

もちろんもう一つのナポレオン式の戦争の考え方(「決定的な結果のみに価値がある」というもの)は、それ以上に重要である。米軍のトップが正しく指摘したように、空爆だけでは元ユーゴスラビアの戦争を終わらせることはできなかったし、ボスニアを敵から守ることもできなかったし、一般市民を強姦や殺人、もしくは強制退去などからも守ることはできなかったのである。ところが実際は、もしセルビア人民兵が国連の部隊に報復して撤退させたり、アメリカ主導の地上部隊の派遣が行われていれば、状況はさらにひどくなっていたはずである。

「国連の部隊が弱い民間人をしっかりと守ることができる」という怪しい想定や、「空爆は無駄だ」という思い込みがあれば、そこから出てくる結論は当然の結果となる。もちろん空爆だけで戦争を終えることはできないし、ボスニアを救うことができないというのは正しい。しかし空爆を継続させることができれば、とりわけ破壊的な戦い方である、都市部に対する大砲の使用は確実に阻止できたはずなのだ。そうなれば悲劇的な状況を改善できたかもしれないし、アメリカが状況を深刻に考えていることを周知させることもできたはずだ。もちろんこれは完全な解決策にはならなかったかもしれないが、それでも何もないよりははるかにましである。

▼犠牲者の出ない戦い

現在の軍備調達や戦術ドクトリンに関して、われわれは古代ローマ軍の実践からさらに学ぶことがある。たとえば攻撃的な行動をどこまで犠牲を出さないものにできるかを見るためには、ローマ軍の部隊の姿を思い浮かべるだけで十分であろう。大きな長方形の盾や頑丈な金属製の兜、大きな胸当て、肩当て、そしてすね当てなどは、あまりにも重かったために部隊の敏捷性を奪っていた。つまりローマ兵の身につけていた武具の防御力は非常に高かったのだが、撤退する敵を追撃することはほとんどできず、一時的な撤退に対しても追いつくことはできなかったほどだ。さらにいえば武具の重さを相殺するために、刺突用のけだけが支給されたのである。ローマ人は、敵の損害を最大化するよりも、味方の犠牲者を最小化することに明らかに努力を傾けていたのである。

現代では当時使われていた鉄や革よりもはるかにすぐれた原材料が手に入るが、不思議なことに高性能の防弾服の研究・開発には、現在までほとんど予算が振り分けられていないような状況だ。実際のところ今日入手可能なものとしては、民間が開発した警察をはじめとする国内治安維持組織向けのものしか存在しない。

現代においてローマ人の要塞と同じことを行うとすれば、それは現代の技術によって壁や要塞を建造することではなく、むしろローマ人がその前提として優先していたことを真似ることにある。これは兵器だけでなく、戦術面にも当てはまる。最も目立つのは、現在のコストパフォーマンスによる判断基準は、犠牲者を忌み嫌う時代の流れをまだ反映していないという点だ。予算全体の方向性を決定する際に、軍種ごと(陸・海・空)の枠組みの中ではまだコストや戦闘力の考慮が土台となっており、犠牲者の防止についてはそれと同等の考慮をされていないのである。ところが実際の軍事活動においては犠牲者を出すリスクというものが行動における決定的な要因となっている。もちろん軍種ごとによってはそのリスクが大幅に違っており、たとえばエアパワーによる攻撃の場合はそれが最小となり、陸軍や海兵隊の歩兵にとっては最大となるのだ。また、レーダーや赤外線などの探知から逃れることを狙って設計されたステルス航空機についての議論も興味深い。ステルス機というのは非常に高価格であると見られがちだが、その場合は暗黙のうちに同じような行動半径と積載量を持つ非ステルス機と比較されているものであり、しかもその場合に必要となる護衛戦闘機のパイロットが直面する高いリスクについては考慮されないことが多い。このような計算から欠けているのは、使用機会は限定されているがグローバルな行動範囲を持つ兵器である護衛なしのステルス爆撃機のような、「犠牲者の出ない手段」の獲得を尊重する対外政策である。犠牲者の回避は、現在の軍事計画においてはまだ高い優先順位を与えられていないのだ。


現在の状況から求められているのは、単なる戦争の新しいコンセプトだけではない。それは軍事計画に非英雄的な現実主義を取り入れた、軍事行動における過剰な小心さを克服するための新しいメンタリティなのだ。ナポレオン&クラウゼヴィッツ式のものから離れた新たな戦争の考え方には、忍耐力だけでなく控えめな要素も必要になる。そうなると、さらなる成果を求めれば兵士を危険にさらすことになり、かといって手を抜けば自尊心を傷つけてしまうような状況になるのだが、この結果としてわれわれには未解決な結果に甘んじる必要が出てくるのである。
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# by masa_the_man | 2017-02-26 23:19 | 日記 | Comments(2)