日中衝突は第一次大戦前夜・・・ではない! |
北朝鮮が「核実験」をしましたねぇ。本気な国というのはなんでもできるという一つの好例のような気が。必死が伝わってきますが、またしても日本は何もできず、と。
さて、先日のエントリーでもお伝えしました、日中紛争が第一次世界大戦前夜だというFTの記事の指摘にウォルトが反論しておりますのでその要約を。
この記事の存在はちゃんきりさんに教えてもらいました。
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よい知らせ:第一次大戦は過去のことでもう二度と起こらない
by スティーブン・ウォルト
●ギデオン・ラックマンは国際政治について優れた論文を書くコラムニストであり、FT紙を購読する一つの理由足りうる人物でもある(それに比べてウォールストリートジャーナル紙は煽り記事がひどくて読めたもんだじゃない)。
●したがって、彼が最近FT紙に書いた東アジアにおける日中衝突に関する記事について書くことは気が引けるのだが、彼が私の同僚であるジョセフ・ナイとグラハム・アリソンについて触れたから、書かないわけにはいかないだろう。
●尖閣を中心とした日中衝突についての彼の懸念は理解できるのが、それでも状況がどれほど深刻で不安定なのかはわかりづらいところがある。
●ラックマンの記事の問題は、彼が第一次大戦の直前の戦争につながった時期のアナロジーを使ったことだ。
●たしかに一九一四年のアナロジーというのは多くの専門家が長年にわたって使っており、その理由の一部はそれが参戦国全員にあまりにも破壊的な戦争におろかに突き進ませてしまったことにある。
●さらにいえば、バーバラ・タックマンの『八月の砲声』という有名な本(これはケネディ大統領のキューバ危機の決断にも影響を与えたとしされている)やAJPテイラーの『時刻表による戦争』などが、第一次大戦を誰も望まず、計算違いや柔軟性のない動員計画、拡大的な同盟へのコミットメント、そしてコミュニケーションの行き違いなどで起こった「悲劇的な事件」であったというイメージを広めたからである。
●冷戦時代は「核戦争に突き進んでしまう!」という意味からのようなアナロジーが人気があったのであり、その事態の深刻さから、ラックマンが日中衝突にこのアナロジーを使いたいと思ったのもわからないでもない。
●ところが問題は、彼の一九一四年の事例の解釈が間違っていることだ。
●第一次世界大戦はアクシデントとして起こったわけではないし、ヨーロッパの列強たちも間違えて戦争に突入したわけではないのだ。
●実際のところはその逆で、この戦争はドイツが意図的に起したことから発生したのであり、その決定では長期的な勢力均衡についての懸念や、短期的に勝利できるという希望的観測によってなされたものだったからだ。
●デール・コープランドが『大規模戦争の起源』という名著の第四章でも書いているように、当時のドイツ首相であるテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークはオーストリアのフェルディナント大公の暗殺を「予防戦争」を発動するための口実にしようとしたのであり、これはドイツのリーダーたちが長年温めていた構想であった。
●また、ドイツのリーダーたちはバルカン戦争がロシア軍の動員につながる可能性が高いことを知っていた。そしてこれも口実になると思っていたのであり、結局はこれが実現したのだ。
●よって、第一次世界大戦は少なくともラックマンの言うような「アクシデント」だったわけではないことになる。
●もちろんこれは一九一四年の時にエラーや計算違いが全くなかったというわけではない。ロシアとイギリスはドイツが何を企んでいるのかを察知できなかったし、ドイツ側はロシアの長期的な脅威(これは彼らが戦争を起した最大の動機)を誇張しすぎていた。
●そしてドイツの軍のリーダーも、自軍の力とシュリーフェンプランにそれほど自信がなかったにもかかわらず、賭けに出てしまった。
●しかし一九一四年の事例で重要なのは、ヨーロッパの列強が互いに戦争をはじめたのはマイナーな事件からコントロール不能になってエスカレートして覇権戦争につながったということではなく、本当の教訓は、百年前のドイツのように、アジアの国々が地域覇権を狙って戦争を起そうとしているのかどうかという点だ。
●そしてよいニュースなのは、これはほとんどありえないということだ。
●日本はまずこれを実行できるような立場にはないし、中国の軍の多数の近隣諸国(とアメリカ)と戦うだけの力は持っていない。しかも現在は核兵器のある時代なので、軍事的な手段でこのような覇権状態が達成できるかはきわめて怪しいのだ。
●もし中国がアジアで圧倒的な国になりたいとすれば(そしてそうするだけのリアリストてきな理由はあるが)、軍事力を段々と強化したり――アメリカをそこに貼付けさせてしまうというコストとリスクを増加させてしまうが――経済力をつかって現在のアメリカの同盟国たちをアメリカから引き離すようなことをするはずだ。
●ところが実際に中国がこれを実行するかは不明だ。なぜなら中国の経済と政治の動向はきわめて不透明だからだ。
●ところが大規模戦争を意図的に起こすというのはきわめて可能性が低いし、とくに現在のような状況では無理であろう。
●しかし現在の東アジアの安全保障環境において気になること(一九一四年の時とはかなり異なるが)がある。それは(エアシーバトル構想に代表されるような)「空軍&海軍力だけで決戦が行われるから本土の領土や人間には関係ない」という考え方だ。
●すべてのアジアの国々は相手国の本土を攻撃することにはかなり慎重であるが、遠くの島の近くの海上や空中での戦いは、エスカレートするリスクをもつことなく軍事力を見せつけることができるチャンスであると考えているかもしれないのだ。
●これこそが私が恐れるシナリオだが、これは一九一四年の七月に起こったこととは違うのだ。
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これを読むと、ウォルトはいわゆる「コンテクスト」の違いを強調しているといえそうですね。
この文章からも、第一次大戦の勃発ケースというのは本当に冷戦時代の学者たちによって研究されていたという点がよくおわかりいただけるかと。