戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man

<   2017年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

今日の横浜北部はよく晴れまして、気温も心なしか真冬状態からは抜け出せておりました。

さて、連日にわたって孫子本の訳で忙しいので、だいぶ前に訳したルトワックの論文の「試訳版」をここにおいておきます。完成版ではないので誤字脱字がかなり含まれております。

お気づきになられた方はコメント欄でぜひお知らせください。修正します。

=====

ポスト・ヒロイック・ウォーに向かって
by エドワード・ルトワック
May/June 1995 Foreign Affairs

▼総力戦の衰退

元ユーゴスラビアで長期化する戦い、グロズニーの破壊、そして最近のエクアドルとペルーの国境地帯での戦闘をつなげる共通項が一つある。それは数世紀前と同じように、戦争が再び「容易に開始しやすく、明確な制約もなしに戦われるようになった」ということだ。参戦者同士が戦争開始や戦闘であらゆる手段を使うこと――空爆や砲撃などによって町全体を破壊することなど――に対する罰を与えられないと考えるようになると、軍事力の行使に対して自ら課した制限は下がるものだ。エクアドルとペルーの間の国境紛争は戦術爆撃が使用されてから始まったのであり、しかもそれは単なる歩兵同士の小競り合いくらいの結果しか生み出さないかのような形で実行されたのだ。

この新しい戦争の時代の到来は、冷戦の終焉によるもう一つの結果である。とりわけ冷戦では、紛争地域におけるいくつもの熱戦を誘発もしくは強化したのであり、米ソ両国はそれぞれの同盟国や保護国に対して、現地の能力を遥かに越える武器や専門技術を供給してきた。そのような代理戦争の場となることが多かったのが中東である。

ところが同時に、核戦争へとエスカレートする恐怖は、米ソ両国がヨーロッパやその他の地域で(それが最小規模のものであっても)直接対決するのを阻止したのである。結局のところ、冷戦は世界各地における多くの潜在的な戦争を抑えこんできたのであり、その理由は米ソ両国が自分の隷下の国々に勝手に戦争を起こすことを許さなかったからだ。さらにいえば、両国とも朝鮮半島やベトナム、それにアフガニスタンでの戦争のような形や地理的な範囲や、自分の同盟国や衛星国が戦った戦争をコントロールすることに関して非常に神経質になっており、ここでも直接対決や核戦争へとエスカレートすることの恐怖があったのだ。

このような戦いを条件づけている戦争の概念というのは、特定の状況によって生み出されるものと認識されているわけではなく、むしろ普遍的なものであると見られてきた。この概念では、戦争が国民の熱狂を引き起こす国家の偉大な目的のために戦われ、ビジネス的に戦う職業軍人の集団ではなく、国家を代表する軍隊によって戦われることが想定されているのだ。ところがこのような想定は戦争の概念のうちのたった一つであることは、軍事史に少しでも関心のある人々であればよく知っていることだ。この概念は「究極の真理」からはほど遠いものであり、むしろ近代によって発明された、どちらかといえばより最近の時代に関連したものなのだ。フランス革命以前のほとんどの戦争は、国民の熱狂を呼び起こすことはほとんどない、はるかに切迫性の少ない目的のために戦われたのであり、高価なプロの軍隊を温存するために慎重な戦略や戦術が使われていた。一八世紀の戦争では偉大な目標がなかったおかげで全国民を戦争に向かわせることはできなかったが、それでもそれを正当化するだけの控えめな目的があり、犠牲者が出るのを避けることがその標準的な規範となっていたのだ。
 
▼戦争の新しい文化

緊張の度合いは高いが統制された「冷戦文化」では、軍事力の使用に対する抑制的な制限が必要とされていたが、これはインドやパキスタンのような非同盟志向の国家にも影響を与えているように見える。軍事力の使用は、冷戦期には世界中で非常に恐ろしいことであると見られるようになり、最大限の熟慮の上でのみ決定され、普通は「最後の手段」として用いられるものとなったのである。関与を否定できるようなゲリラ作戦ではなく通常の歩兵戦をエスカレートさせたり、歩兵戦ではなく機甲戦や砲撃支援、そして地上戦よりも空爆を行うことは、過去の場合のような現場の部隊の指揮官の自由裁量ではなく、国のトップの政治的な判断が必要とされるとみなされるようになったのである。もちろん現場の指揮官たちは(時には大声で)不満を漏らしたが、それでもこの新しい抑制的な文化を受け入れて従ったのだ。

もちろんこの抑制は一九四五年から八九年までの間の(最も多く見積もった場合の)一三八回もの戦争と二三〇〇万人もの犠牲者を防ぐことはできなかったが、それ以前の二つの世界大戦を含む四四年間ではそれよりもはるかに多くの人々が犠牲になっているのだ。また、一九四五年から八九年までの国内の暴動鎮圧や内戦では、抑制的な考えから生じる戦略面での慎重さが欠如した状態であったために、一三八回の戦争の合計よりもさらに多い犠牲者が出ている。

冷戦が「熱い戦争」を抑圧できなくなった今、軍事力の使用に対する抑制的な制限を促す文化は全体的に消えつつある。イラク戦争を除けば、その結果は主にソ連やユーゴスラビアであった地域で出現しつつある。東部モルドバ、コーカサス地方の三つの共和国、中央アジアの一部、そして最近ではチェチェン、クロアチア、ボスニアなどで続いている長期戦や壊滅的な破壊、そしておびただしい数の残虐行為は、たしかに多くのアメリカ人を恐れさせその考えを変えさせた。ところがこれらの多岐にわたる暴力は、帝国が植民地へと権力を大々的なスケールで移譲した時とまったく同じ構造や、純粋に土着的な原因から発生していたのだ。それゆえに、われわれは新しい無制限戦争の始まりも、少なくとも地理的に限定されたもの(といってもその対象地域は広大だが)であると考えることもできる。

エクアドルとペルーの間の戦闘、ギリシャとトルコの間の増大する無謀さ、そしてカシミール地方における増長するパキスタンの大胆さなどから感じられるのは、新しい、そしてより制限の少ない戦争の文化が、はるかに広範囲で台頭しつつあるという不吉な予感である。今やこれら多くの事例に対抗できる手段は何もない。侵略行為や故意のエスカレーションなどは処罰されずに存在し、勝者はすでに獲得したものを保持したままであり、敗者は自らのものを奪われたままである。冷戦期はこのような状態ではなく、ほとんどの国は米ソどちらかの保護を受けることができたのであり、その両国自身もその国々をコントロールする理由を持っていたのだ。そして勝者たちは米ソ両国との協定によって獲得したものを徐々に減らされ、敗者は勝者側と同盟関係にない両国のどちらかに支援してもらえたのだ。

もちろんエクアドル・ペルー間の戦闘がどのような前例となるのかは謎のままだ。地図が変わるような結末がでなければ、ラテンアメリカ諸国間で凍結されていた国境紛争が復活するとは主張できないからだ。ただしこれらの紛争は、当然ながら極端に民族主義的な立場をとる政治家たちに再評価されているはずだ。軍事費が低下傾向にある多くのラテンアメリカ諸国においては、明確な反発は無理だとしても、軍事費削減の減速は確実に起こるだろう。政治・経済面で大きな利益をもたらした近年における最もポジティブな流れは、いまや危機的な状態にあるのだ。エクアドル・ペルー戦争はラテンアメリカ諸国全体に対してかなり大きな損害になるかもしれず、それは地理的な制限を越えてアメリカにも波及しかねない。
 
▼「戦争」の意味

ではアメリカは倒錯した事例や、容易かつ無制限な暴力の新しい文化に対処できるだろうか?外交の先には、多国間的な枠組みや他国の援助を必要とする、もしくはしない、「武力介入」という問題の多い対処法が存在する。ところが状況的には武力介入が有効な場合(もちろん想像不可能な状況もある)があるにもかかわらず、米軍は武力介入について、アメリカ国民からの全般的に繰り返し否定されることになる。

このような政治的な制約は当然のこととして受け入れるべきである。なぜならこれらは米軍の指導層が現在採用している、特定の戦争の概念や介入手法によって生じる不慮のコストだからだ。もしこれらが戦闘で米軍兵卒がさらされるリスクを最小化する目的で大きく変換されるものであれば、提案された軍事介入に対する国民側の反応も変わるはずだ。アメリカは侵略やエスカレーションを今よりも積極的に思いとどまらせることができるようになるだろう。

アメリカが当事者となって介入している場合は、たとえば米軍の公式マニュアルや一般的な「戦争」という言葉の理解において、これらのほとんどは政治議論でも暗黙のものとなっている。当然だが、ワインバーガー・ドクトリン、パウエル・ドクトリン、それにチェイニー・ドクトリンなどは、米軍を戦場に送り込む決定をする際のいくつかの条件を提示しており、それらは同じ戦争の概念に則っているにもかかわらず、それを議論せずに暗黙の状態でベースとしているのだ。これらの三つのドクトリンで触れられている条件の詳細は異なるものだが、そのすべてではアメリカの明白かつ致命的な国益が脅かされていることが条件となっており、アメリカは国民の熱狂が冷めるまでに決定的なだけでなく迅速に勝てるだけの十分な戦力を使用する必要があるとされている。

「大きな目標のために戦われる戦争」というのは、当然のようにフランス革命やアメリカ独立戦争から生み出されたものだ。ただし私は歴史的な正確性は無視して、ここではとりあえずこれを「ナポレオン戦争」と名づけておく。なぜならここで言う「大きな目標」は、まさにナポレオンがやったように、大規模な作戦において大兵力を決定的に使用することを意味することが多いからだ。この概念は、ナポレオンによってあざけられ、カール・フォン・クラウゼヴィッツによって体系的に批判された、一八世紀のヨーロッパにおける典型的な戦い方に対する反応として生まれたものだ。

もちろんクラウゼヴィッツは、前世紀の注意深い戦い方がその時代と「内閣戦争」(cabinet wars)と呼ばれた戦争の狙いと一致していたことを十分認識していたにもかかわらず、それを極めて手厳しく批判している。その際に使われていた、相手に見せつけるための部隊の機動的な動きは、一度も銃を発射することなく敵を撤退させる目的で行われたのだが、一旦激烈な戦闘が始まってしまえば、すぐに中止されるようなものであった。優位な部隊でさえ、勝利において犠牲が多く出ることがわかれば戦闘を避けたほどなのだ。戦闘の勝利にあたっては、決戦よりも長期的な包囲戦、そして全面攻撃よりも慎重な追撃のほうが好まれたのである。戦略レベルにおいては、よく練られた攻勢でもその目標はかなり控えめなものであり、成功しそうな作戦でも単に犠牲者を避けたいがために冬期に備えて早めに手仕舞いされることが多く、攻撃による成果の発揮は、犠牲者の回避という遥かに優先順位の高いことによって常に避けられ、次回の戦闘のために部隊を温存し、線的な防御や要塞の構築や配備のためにはるかに多くの努力が傾けられたのだ。

ナポレオンはそのような慎重な戦い方に対して、大規模な兵力や急速に集中する部隊の勢いを使った大胆な戦略的攻勢を用いることによって勝利したのであり、クラウゼヴィッツが提唱したのはまさにこのような戦い方だったのである。偉大な国家目的のために戦われる戦争や、ドイツ統一を念頭におきつつ、クラウゼヴィッツは熱しきらずにリスクを避け、しかも長期的にはコストがかかるような戦い方が抱える論理面での誤りを明らかにした。もちろんクラウゼヴィッツは、政治的な考慮の優位を主張することによって、戦略における慎重さ推奨する最も強力な議論を展開している。ところがこれも、彼の戦術・作戦面における大胆さの効率性の良さを示す議論の前ではほとんど力を持つことはなかった。この効率性の議論というのは、その野心的な目標を正当化するような文脈から簡単に切り離されやすいものであったのだ。

戦争に内在する永続的な構造や心理学について深い洞察力を備えたクラウゼヴィッツの教えは、いまだにそれを凌ぐものがないほどだ。リスクをとって成功した歴史上の偉大な指揮官たち
(ブラッドレーやクィントゥス・ファビウス・マクシムスたちのような慎重な勝者を排除し、パットンやハンニバルのような人々を集めた極めて偏ったもの)のリストと同様に、これらの教えは米軍の教育機関は国防大学などでの議論で浸透しており、現在の野戦教則(フィールド・マニュアル)や公式のドクトリンなどでも容易に見つけることができる。このような文書の多くでは、冒頭で「戦争の原則」(戦力の集中、多勢、勢いなど)を言い直したものが掲載されるのだが、実際それらのほとんどが、ナポレオン戦争時代におけるクラウゼヴィッツ式の原則なのだ。

この「原則」は、核兵器を使わない軍事作戦の計画という意味においては、二つの世界大戦や冷戦の状況にとってたしかに当てはまるものであった。ところがそれは現在の国内外の状況には当てはまらないのだ。現在の国際政治において世界を脅かすような大国は存在せず、わずかな数の動きのない「ならず者国家」や、遥かに規模の小さな戦争や内乱が発生しているだけであり。そのどれもがアメリカを直接脅かすことはないし、その重大な国益を害するものでもない。したがって、ナポレオン戦争や、たとえばワインバーガー/パウエル/チェイニー・ドクトリンなどによって示されている軍事介入のための前提条件は、そもそも存在していないのである。

ところが最大規模の残虐行為にあふれた侵略行為を注目しながらもただ傍観していたという事態のおかげで、アメリカは倫理・道徳面で被害を受けることになった。さらにいえば、戦争における新たな文化の広まりが、アメリカの物理的な利益に対して容易かつ急激に被害を与えつつあることは明らかである。銃撃が発生する場所では商業のチャンス(しかもその多くはかなり大規模なものだ)が毎日に失われ、将来においてはさらにその数が増えるかもしれないのだ。

いくつかの現代兵器が発揮できる機能から考えれば、軍が本気でテクノロジーの潜在力を活用して一八世紀のような犠牲者を避ける方法を真似ることができるかもしれないし、実質的には血の流れない武力介入を実行可能となるかもしれないのだ。もちろんアメリカの狙いは、それと同時に控えめなものとしなければならず、「部分的かつ制限的な成果以上のものを達成したい」という誘惑に負けずに、一八世紀の将軍たちのように遅く出てくる結果を生むような状態を維持しなければならないのである。

それとは対照的に、現代の軍にはクラウゼヴィッツによって補強されたナポレオン戦争のタイプの考え方がいまだに浸透しているのだが、それが直近の軍事面での必要性と極めて大きな違いを見せている。たとえばアメリカのソマリア介入は、ハイリスク/ハイリターンの特殊作戦方式の大胆なヘリによる急襲が大失敗したことによって突然終わりを迎えた。ところがこれがアメリカの国益にとっては最も関係の薄い国における自由裁量度の高い介入であったという事情を考えると、リスクの高い手法は、それがどのようなものであれ原則として全く不適切なものであった。さらに結果がどのようなものであれ、この介入を行う判断そのものがひどいものであった。米軍のトップの計画担当者たちは、アメリカの特殊部隊司令部に対し、浸透しているメンタリティに沿う形で本質的に犠牲者を出すリスクの高いタイプのソマリア介入作戦の開始を許してしまったのである。

ナポレオン式の概念が応用できる限り、米軍にとって合理的な範囲で犠牲者を出すことは重大な決断要因とはならなかった。「偉大な目的のために戦われる戦争」が暗示しているのは、たとえその数が大規模なものになっても犠牲が出るのを積極的に受け入れるということだ。さらにいえば、犠牲に対する許容というのは、産業革命以前、もしくは初期の産業社会の人口動態、つまり家族には多くの子供がいて、そのうちの何人かを病気で失うのはまったく日常的であった状況と一致しているのだ。若者を戦闘において失うのはたしかに悲劇的ではあったが、それでも一人から多くても三人の子供しかいない現代の家族に比べれば、完全に許しがたいことではなかったのである。現代ではすべての子供が成人することを当然視されており、家族の感情的な絆を抱えていることが多い。アメリカでさえ、植民地拡大や目立たない動機を目的として戦われた、任意の大国間戦争の「燃料」となる「消耗品的な兵士」を過去に十分に供給できたことはない。しかも現代のような低出生率のポスト産業化社会では、回避可能な戦闘におけるそのような「消耗品的」な命の供給は許されないのである。

現代のように、プロとして給料や退職金も出る、出世を狙う兵卒によって占められ、犠牲者を出すことに不寛容な国家に属する軍隊が、民族主義や宗教過激主義によって感情を燃え上がらせた敵と対処できるかどうかはほぼ不可能なことのように見える。ところが戦闘を避けて何もしないと、セルビアのような攻撃的な小国だけでなく、ソマリアの軍閥のように、自由に暴れまわったり、自らの意志で勝利を獲得できるような事態が生まれるのだ。

このジレンマを、前代未聞であったり解決不能なものであるとみなす人々もいる。ところが実際はそのどちらでもない。もしわれわれがナポレオン式の概念から離れ、一八世紀型の歴史的に「普通」の状態を認めることができれば、同じジレンマが出現してそれをうまく克服できた、多くの歴史的な事例に気づくことができる。たとえば二千年ほどさかのぼってみると、まさに現代と同じようにプロとして給料が出て退職金ももらえ、出世を狙う人々によって構成されたローマ軍の兵士たちは、部族や宗教のために栄誉を持って死を恐れない戦士たちと、日常的に戦わなければならなかったのである。そしてその当時から、ローマ軍側の上官たちは戦闘での犠牲者には無関心でいられなかったのだ。その理由として、戦闘部隊を訓練するのにはコストがかかり、しかもローマ市民の人材が豊富というわけではなかったという点などが挙げられるだろう。アウグストゥスが数年前に行われた「トイトブルク森の戦い」で三個軍団を失った指揮官ウァルスの墓に行って哀悼の意を表した話は有名である。

===

つづきはのちほど。

b0015356_2311225.jpg



▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-27 00:08 | 日記 | Comments(0)
つづきです。

===


▼ローマの包囲戦

ローマは部隊の損失を最小限化しつつ、ブリテン島からメソポタミアまでの敵に打ち勝つために、いくつかの対処法を使っていた。まず最初は彼らの基本として、開けた場所での戦闘を避けるということであり、とりわけ自分たちがはるかに優位にあっても自発的に戦闘を始めることを最大限避けるというものであった。ローマは時と場の不確実性に直面して、同じく不確実な犠牲の損害を出すよりも、むしろ敵に好きなポジション(しかもそれが強固に要塞化されていたり地理的に優位なものであったとしても)まで撤退することを許しているのだ。流動的な状況をより自らが統制できる状況に変えることによって、ローマ人は体系的な包囲作戦を開始することを狙い、部隊を編成して武器を集積し、供給したのである。それでもまだ彼らの最優先事項は敵の防御を突破することではなく、包囲している部隊を守るために精緻な要塞をつくり、敵の反撃によって出る犠牲を最小化することであったのだ。全体的にいえば、包囲戦はローマにとって、包囲技術の優秀さと兵站面での優位という二つの面で得意とするものであった。これによって、彼らは包囲している敵の食糧の尽きるまで待つことが可能になったのである。故意の計算された忍耐は、軍事面での優位を示すものである。

ローマ軍の包囲戦の現代版ともいえる貿易禁止や武力封鎖というのは、戦術的なものではなくて戦略的なものである。あいにくだが、ナポレオン式の概念が普及している限り、戦争に似たような結果を戦死者を出すことなく達成するのは無理であろう。興奮した国家は結果をすぐ求めたがるものだが、貿易禁止や封鎖の効果というのはすぐに出るというよりもむしろ累積的なものであり、その結果は思ったよりも長くかかることが多い。さらにいえば、ナポレオン式の戦争の概念では決定的な結果しか認めないものであり、貿易禁止や封鎖の効果というのは完全というよりも部分的なものでしかない(それでも何もないよりははるかにマシだが)。たとえば一九九〇年以来、このような手段はサダム・フセイン率いるイラクの軍事的復活を抑えてきた。イラク軍は一九九一年の湾岸戦争で受けた兵器の損失から復活することを許されておらず、破壊された、もしくは老朽化した兵器の更新はままならずに弱体化が進んでいたのだ。もちろん禁止となっていたのはタンカーやパイプラインによる直接的な輸出だけであったが、陸上で運びだされるそれよりもはるかに少ない量の原油取引では再武装には十分ではなかったのだ。


また、国連がイラクの輸出禁止を解いたとしても、実質的な「封じ込め」状態は深刻な軍事力の脅しのない状態ですぐに解消されるわけではなかったのだ。ついでに言えば、大々的な戦争だけが達成できる決定的な結果は、この場合にはさらに一時的で不確定なものとなっていただろう。なぜならイラクの軍事力の完全な破壊は、即座にイランという脅威に対する封じ込めを遥かに難しくしたはずだからだ。

それと同様に、元ユーゴスラビアでは国連、ヨーロッパ共同体、もしくなNATOによるあらゆる外交や軍事介入の大失敗の中で、ポジティブな効果を唯一生み出したのが、セルビアとモンテネグロへの輸入の拒否(といってもそれは完全なものからはほど遠いものであったが)だったのだ。セルビアとモンテネグロの軍事力への確実な(といっても計測不能かもしれないが)インパクトに加えて、禁輸措置はセルビアの最も過激なリーダーシップを和らげる効果があった。禁輸措置は少なくともボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、そしてクラジナにいるセルビアの武装集団に対するより露骨な戦闘・兵站面での支援を思いとどまらせたのであり、交渉に向かう態度を(それが武器禁輸の解除を狙ったものであったとしても)引き出すことになったのである。禁輸措置が長引きそうになると感じられたおかげで、ギリシャの悪行を幇助するセルビアの拡大に、まだ脆弱を抱えたままのマケドニアに対する侵攻を防ぐ効果があったことは間違いない。

あいにくだが、最も楽観的な計算によってもその結果は不都合なものであった。それでもこの禁輸措置は人命や血税を失うことなく、国連の高価で効果のない武力介入や、それ以上に高くつくNATOによるボスニア上空での航空警戒活動(眼下では大虐殺が続いていたにもかかわらず戦闘も爆撃もほとんど行わなかった重武装の戦闘爆撃機によるもの)よりも、はるかに多くのことを達成したのである。

この二つの(少なくとも部分的な)成功例をのぞけば、これまでの封鎖や貿易禁止の歴史のほとんどは完全な失敗だとして引用されている。ところがほとんどがそのような扱いを受けているのは、「すぐに結果が出ないものであれば価値はない」という想定が土台となっているからだ。そしてこのような封鎖や貿易禁止、もしくは進行の遅い累積的な形の戦闘を最大限活用するためには、計算された意図的な忍耐を尊重する、新しい(というか復活した)戦争の概念が必要になるだろう。これからもわかるように、ナポレオンやクラウゼヴィッツのように無意識に「テンポ」や「勢い」などを強調する考え方は、たとえ迅速に動く理由がないような状況でも強迫的ともいえる緊迫的な感覚を生み出すことになる。英陸軍元帥であったバーナード・ロー・モンゴメリー(Bernard Law Montgomery)は、他の人々が拙速な即興をして失敗した中で、単に徹底した準備を行って成功した、最初の、もしくは最後の将軍というわけではなかったのだ。

「強迫的ともいえる緊迫的な感覚」は、一九九一年の湾岸戦争の最初の週でも多く見ることができる。この時にイラク内の戦略目標に対して組織的な空爆が行われたのだが、これについて現場の多くの部隊の指揮官たちは明らかに我慢のできない様子で見守っていたのである。ニュースで流れてくる報道は彼らの戦略爆撃や、それがイラク軍をはじめとする戦術目標への破壊につながって素早く地上戦への道が広がるはずだという見方に対する、懐疑的な気持ちをさらに強めるものであった。

米軍の最高幹部たちは下から上がってくる圧力に抵抗している。しかもこの圧力にはいかなる客観的な緊急性がなく、むしろ直感的な感情や、さらには官僚的な欲望が反映されたものでしかなかった。そしてこの圧力を完全に抑えこむことはできなかった。地上部隊に対して航空支援を行うために戦略爆撃を実質的に止めるはるか前の戦争開始から三九日目の時点で、イラクの核・非核兵器に関する研究・開発・生産・そして貯蔵施設の組織的破壊に最適な航空機の多くは、四〇〇〇台にもおよぶ装甲車両の破壊任務にとりかかったのである。

航空作戦を戦略目標から戦術目標へと移してしまったことは、不満足な結果しか生み出さなかった。作戦後にも、多くの重要な核・生物・化学兵器関連の施設が破壊されないまま残ってしまったからだ。アメリカには戦闘機が豊富にあるにもかかわらず、精密誘導兵器で戦略目標を攻撃する兵器を完備していたのはたった二〇〇機以下であった。しかも結局この数は、三九日以内に指揮・統制、送電網、通信網、防空施設、そして石油精製・貯蔵施設、さらには航空基地や海軍基地、鉄道と車の陸橋、兵站集積所などを含む膨大な数のすべての目標を破壊するには、あまりにも少なすぎたのだ。

同じ「強迫的ともいえる緊迫的な感覚」は、たとえば戦争開始から四九日目ではなく、前述の三九日目の地上での攻勢開始の決定について、ある程度の役割を果たしたのである。すでに三九日目になると、イラク側の兵力は空爆作戦のおかげでほぼ壊滅状態にあり、とりわけ前線の部隊へのほとんどの兵站線が寸断されていたのだ。したがって地上での攻勢開始の決断は早まったわけだが、それでもアメリカと同盟国側の犠牲者の数は(そもそも全体的にも少なかったために)変わらなかったのだ。ところが空爆が一〇日間でも伸ばされていれば、戦略目標に対する出撃数は二〇〇〇回ほど増えたはずだ。戦略レベルの規模での精密誘導爆撃という新しい手法は、その全体的に進むスピードがあまりにも遅いが、累積的な結果においては効果が高いため、たしかにコストはかかるがアメリカ側の兵士の命という観点から考えれば非常に経済的である。ところがその潜在力を存分に発揮するための十分な時間は与えられなかったのだ。

地上戦での迅速な勝利は戦争後半に最も重要な役割を果たしたのだが、ここから判明したのは、ナポレオン時代の国民の意見について考え方が支配的な影響力を持っていたということだ。もちろん最後の地上戦は「掃討作戦」以上の役割は果たさなかったのだが、それでも全体的な世論に対するインパクトは空爆作戦よりもはるかに大きかったのである。なぜならそれが素早く実行されたと同時に、目に見える形で決定的なものであったからだ。
 
▼忍耐強いエアパワー

ボスニアにおけるアメリカの空爆使用の主張に対する批判の土台にあったのが、「すぐに結果が出るような作戦だけが価値を持つ」という暗黙の前提である。司令官たちは「領域爆撃に似たものは、どのようなものであれ一般市民の犠牲を多く出してしまう」という最初の声明の後、すべての攻撃目標は精密攻撃を効果的にするにはあまりにも特定しずらいものであったり、ボスニアの起伏のある地形の中に容易に偽装して隠すことのできるものであると論じている。彼らはあらゆる航空作戦を「素早く終わらせるべきもの」であったり「たった一度だけ行われるもの」という前提で論じていた。もちろんたった一度だけの精密誘導爆撃は簡単に失敗する。その瞬間に悪天候であったり、最後にいた場所から目標が動かされていたり、うまく偽装して隠されていたりするからだ。そして当然ながら、セルビア人民兵がサラエボを砲撃する際に活用した一二〇ミリ迫撃砲などは、すぐに移動したり隠したりすることが可能なのだ。さらに言えば、それよりもはるかに精緻な榴弾砲や野戦砲なども見つけにくい目標となりえるのである。

ところがこの議論は、一度だけの攻撃、もしくはあらゆる短期的な作戦と、何日も何週間も続けられる空爆作戦との間の違いを、完全にぼやけさせてしまうものだ。もし最初の空爆が分厚い雲のおかげで失敗してしまっても、次の出撃、もしくはその次の出撃は晴天にめぐまれるかもしれない。もし最初の空爆作戦で隠された榴弾砲を見つけることができなくとも、次の出撃では砲撃しているところを発見できるかもしれない。そして攻撃目標が民間人に近すぎるために最初の空爆が中止されたとしても、次の出撃では空爆できるかもしれないのだ。空爆作戦を素早く終わらせようとする原因は何なのだろうか?ボスニアでの戦闘は数年を経た今日までも相変わらず続いているが、その理由は軍の指導者たちが「数日間で戦いを止めることができる」とは考えなかったからだ。

もちろんもう一つのナポレオン式の戦争の考え方(「決定的な結果のみに価値がある」というもの)は、それ以上に重要である。米軍のトップが正しく指摘したように、空爆だけでは元ユーゴスラビアの戦争を終わらせることはできなかったし、ボスニアを敵から守ることもできなかったし、一般市民を強姦や殺人、もしくは強制退去などからも守ることはできなかったのである。ところが実際は、もしセルビア人民兵が国連の部隊に報復して撤退させたり、アメリカ主導の地上部隊の派遣が行われていれば、状況はさらにひどくなっていたはずである。

「国連の部隊が弱い民間人をしっかりと守ることができる」という怪しい想定や、「空爆は無駄だ」という思い込みがあれば、そこから出てくる結論は当然の結果となる。もちろん空爆だけで戦争を終えることはできないし、ボスニアを救うことができないというのは正しい。しかし空爆を継続させることができれば、とりわけ破壊的な戦い方である、都市部に対する大砲の使用は確実に阻止できたはずなのだ。そうなれば悲劇的な状況を改善できたかもしれないし、アメリカが状況を深刻に考えていることを周知させることもできたはずだ。もちろんこれは完全な解決策にはならなかったかもしれないが、それでも何もないよりははるかにましである。

▼犠牲者の出ない戦い

現在の軍備調達や戦術ドクトリンに関して、われわれは古代ローマ軍の実践からさらに学ぶことがある。たとえば攻撃的な行動をどこまで犠牲を出さないものにできるかを見るためには、ローマ軍の部隊の姿を思い浮かべるだけで十分であろう。大きな長方形の盾や頑丈な金属製の兜、大きな胸当て、肩当て、そしてすね当てなどは、あまりにも重かったために部隊の敏捷性を奪っていた。つまりローマ兵の身につけていた武具の防御力は非常に高かったのだが、撤退する敵を追撃することはほとんどできず、一時的な撤退に対しても追いつくことはできなかったほどだ。さらにいえば武具の重さを相殺するために、刺突用のけだけが支給されたのである。ローマ人は、敵の損害を最大化するよりも、味方の犠牲者を最小化することに明らかに努力を傾けていたのである。

現代では当時使われていた鉄や革よりもはるかにすぐれた原材料が手に入るが、不思議なことに高性能の防弾服の研究・開発には、現在までほとんど予算が振り分けられていないような状況だ。実際のところ今日入手可能なものとしては、民間が開発した警察をはじめとする国内治安維持組織向けのものしか存在しない。

現代においてローマ人の要塞と同じことを行うとすれば、それは現代の技術によって壁や要塞を建造することではなく、むしろローマ人がその前提として優先していたことを真似ることにある。これは兵器だけでなく、戦術面にも当てはまる。最も目立つのは、現在のコストパフォーマンスによる判断基準は、犠牲者を忌み嫌う時代の流れをまだ反映していないという点だ。予算全体の方向性を決定する際に、軍種ごと(陸・海・空)の枠組みの中ではまだコストや戦闘力の考慮が土台となっており、犠牲者の防止についてはそれと同等の考慮をされていないのである。ところが実際の軍事活動においては犠牲者を出すリスクというものが行動における決定的な要因となっている。もちろん軍種ごとによってはそのリスクが大幅に違っており、たとえばエアパワーによる攻撃の場合はそれが最小となり、陸軍や海兵隊の歩兵にとっては最大となるのだ。また、レーダーや赤外線などの探知から逃れることを狙って設計されたステルス航空機についての議論も興味深い。ステルス機というのは非常に高価格であると見られがちだが、その場合は暗黙のうちに同じような行動半径と積載量を持つ非ステルス機と比較されているものであり、しかもその場合に必要となる護衛戦闘機のパイロットが直面する高いリスクについては考慮されないことが多い。このような計算から欠けているのは、使用機会は限定されているがグローバルな行動範囲を持つ兵器である護衛なしのステルス爆撃機のような、「犠牲者の出ない手段」の獲得を尊重する対外政策である。犠牲者の回避は、現在の軍事計画においてはまだ高い優先順位を与えられていないのだ。


現在の状況から求められているのは、単なる戦争の新しいコンセプトだけではない。それは軍事計画に非英雄的な現実主義を取り入れた、軍事行動における過剰な小心さを克服するための新しいメンタリティなのだ。ナポレオン&クラウゼヴィッツ式のものから離れた新たな戦争の考え方には、忍耐力だけでなく控えめな要素も必要になる。そうなると、さらなる成果を求めれば兵士を危険にさらすことになり、かといって手を抜けば自尊心を傷つけてしまうような状況になるのだが、この結果としてわれわれには未解決な結果に甘んじる必要が出てくるのである。
b0015356_23193982.jpg


▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-26 23:19 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から微妙に曇っておりまして、気温も低めでした。

さて、トランプ政権の国家安全保障アドバイザーに新しく就任したマクマスター中将の過去の寄稿論文がNYタイムズ紙にありましたので、その記事の要約を。

====

「簡単な戦争」というラリった幻想(The Pipe Dream)

By H. R. マクマスター
JULY 20, 2013

小説家のソール・ベローは、「幻想への欲求が深い場合、素晴らしい知性が無知のためにつぎ込まれることもある」と記したことがある。

われわれはイラクとアフガニスタンの戦争から得た教訓を考える際に、このベローの言葉を肝に銘じておくべきであろう。なぜならこの教訓は、将来の軍事計画の際に極めて重要となってくるからだ。

われわれの持つ、過去の経験からの学びの成績は、惨憺たるものだ。この理由の一つは、われわれが歴史からの学びを、将来の戦争を簡単なものとして考えたり、過去のものとは根本的に違うものだという希望的観測の思考の結果として、単純に応用したり、それらを全部無視したりするからだ。

われわれは2001年9月11日のテロ攻撃以前にそのような考えにふけっており、多くの人々は「離れて安全な距離から敵のターゲットに対して精密攻撃を行える能力を持ったテクノロジー面で優位にある小規模の米軍の部隊は、短期的に勝利を得ることができる」という単なる思いつきを受け入れていたのだ。

新しいテクノロジーが戦争の新時代の幕開けとなったという信念に基づいたこのような国防理論は、その後にアフガニスタンとイラクでの戦争に応用された。そしてこのような考えは、その両戦争についての理解を曇らせることになり、本当に効果的な戦略の形成を遅らせることになってしまったのだ。

今日では予算の制約や、新たな紛争を回避したいという欲によって、「台頭するテクノロジー(もしくは地政学的シフト)が戦いの新たな時代を導き出した」という議論が復活している。そのような理論家の中には、われわれがアフガニスタンやイラクで直面している困難というのはかなりの例外であると論じる人もいるほどだ。

ところがこれらは例外ではない。新たな希望的観測に対する最高の予防策は、戦争についての古くから認められる三つの真実や、アフガニスタンやイラクでのわれわれの経験がその重要性をいかにそれを立証したのかを理解することにある。

第一の真実は「戦争は政治的である」というものだ。19世紀のプロイセンの戦争哲学者であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦争を何か自律したようなものとしてとらえてはならないのであり、それは常に政策のツールなのだ」と述べている。

アフガニスタンやイラクに至るまでの期間にアメリカでの国防についての考えは、その他のパワーを連携させて政治的な目標を達成・維持するための権力のツールの中の一つでしかないにもかかわらず、軍事作戦の成功そのものを目的としてとらえるようなアイディアによって突き動かされてきたのだ。

「軍事における革命」(RMA)として知られる理論の信奉者たちは、1991年の湾岸戦争におけるアメリカ主導の多国籍軍による一方的な勝利をあやまって解釈し、「軍事技術のさらなる進歩はいかなる敵に対しても圧倒的な状態を維持できるだろう」と予測したのだ。

彼らによれば、これによって潜在的な敵もアメリカの権益に挑戦してこようとは思わなくなるはずであった。

この理論は傲慢であった。ところがそれは容認された考えとなり、未熟な戦争計画が予期しない政治問題に直面したアフガニスタンやイラクの紛争において、われわれを苦しめることになったのだ。

アフガニスタンでは代理的な戦力がタリバン政府の打倒を助けてくれたが、そのような民兵やリーダーたちの多くは個人的な権益や政治課題を追求したおかげで「アフガニスタン」という国家の再建の努力を台無しにしてしまった。

2003年から2007年までのイラクにおける同盟国の戦略では、スンニ派のアラブ系やトルクメンをはじめとする少数派の民族の抱える政治面での不満に応えられなかった。この両戦争では、暴徒やテロ集団がこのような不満につけ込んで、新たな参加者を募ったり、住民の一部から支持を獲得している。

時間の経過とともに民族・部族・宗派ごとの分裂が強まることによって新たな暴力がはじまり、イラクとアフガニスタンの国家がそれぞれ弱まり、反乱側を強化し、住民の苦悩は激増している。

ここでの教訓は、戦争をその政治的な性質から分離するような概念、とりわけテクノロジーを通じて迅速かつ安価な勝利を約束するような概念については疑ってかかれ、というものだ。

第二の真実は、「戦争が人間的なものである」ということだ。人間はギリシャの歴史家ツキュディデスがおよそ2,500年前に指摘した根本的な動機に突き動かされて戦っているのであり、これは今日でも変わらない。

その動機とは、恐怖、名誉、利益である。

ところがその二つの戦争に至るまでの期間に、われわれの国防について考えでは戦争における人間的な面や政治的な面を軽視してきたのだ。

たしかにタリバンやサダム・フセインの体制は戦闘作戦によって崩壊さることができたが、アフガニスタンやイラクの近代史についての知識の欠如のおかげで、アメリカは初期に獲得した戦場での優位を継続的な安全につなげることができなかった。

時間の経過とともに米軍は、アフガニスタンやイラクの市民の間にある恐怖や利益、そして名誉についての感覚を理解することが、暴力のサイクルを断ち切り、過激主義者を孤立化させるためにコミュニティーを政治的に協調するよう促すことにつながると学んだのである。

市民の安全の確保に向けた努力のおかげで、2007年以降のイラクや、2010年以降のアフガニスタンでは、少数派民族の恐怖を和らげ、各集団の名誉を尊重し、彼らに「暴力ではなく政治を通じてそれぞれの権益を守ったり強化したりすることができる」と確信させたのである。

ここで得た苦い教訓は、防衛概念には戦争の人間的な面を構成する、社会、経済、そして歴史的な要因を考慮に入れなければならない、ということだ。

第三の真実は「戦争は不確実なものであり、その理由はまさにそれが政治的で人間的なものである」ということだ。

RMAの理論における支配的な前提とは、「情報が勝利の最大のカギを握る」というところにある。また、「ネットワーク中心の戦い」(NCW)や「迅速で決定的な作戦」(RDO)、「衝撃と畏怖」、そして「フルスペクトラム・ドミナンス」などが暗示しているのは、ほぼ完璧なインテリジェンスによって精密軍事作戦が可能となり、それが成功への近道である、ということだ。

ところがアフガニスタンやイラクでは、敵の順応やイニシアチブには対応できなかった。作戦開始当初は紛争によって順応してきた敵と対処するだけの数をもたなかった米軍は、安全を維持するのにも苦労していた。

ここでの教訓は、イラクとアフガニスタンの戦争は他の戦争と同じように「意志のぶつかり合い」であり、このダイナミックな動きによって将来の出来事の予測が不可能となった、ということだ。

幸運なことに、米軍はアフガニスタンとイラクで順応することができた。たとえば2005年のニネヴェ州では敵側が現地の宗派同士を争わせて内戦状態にしていた。

タル・アファルという町では、米軍の機甲連隊が最初に複雑な環境を理解しようとしており、同時に地元のイラクの治安部隊や包囲された住民たちと信頼構築に向けての働きかけを行った。特殊部隊とイラク兵とともに、わが軍の部隊は、敵と戦うだけでなく、住民の安全な環境の構築や、集団間の紛争解決を推進していた。

タル・アファルの市長であるナジム・アジド・アルジボウリが後に述べたように、「われわれの町はアブ・ムサブ・ザルカウィ掃討のための基地となっていたのであり、住民は恐怖から自宅に引きこもり、町中ではいつ殺されてもおかしくなかった」のである。

ところが米軍が来てからというもの、「テロリストという町に潜むがん細胞に対して正確な外科手術を行ったおかげで、町には不必要な被害は生じなかった」というのだ。

ここでわれわれが学んだのは、米軍は複雑で不確実な環境の中で、戦争の政治・人間的な面に対処しなければならない、ということだ。アフガニスタンやイラクのような戦争は、遠隔操作で戦えるようなものではないのだ。

予算面での制約やテクノロジーへの相変わらずの幻想によって、何人かの人間は「これまでのような戦争が終わりを告げた」と宣言している。

もちろん新たなテクノロジーというのは、軍事的な効果という面では極めて重要であるが、そのようなテクノロジーだけに頼ろうとする概念(精密攻撃や急襲やその他の敵のターゲティングへの手段)は、「軍事活動」と「戦時に目指している目標への進展」を混同させてしまうのだ。

われわれは、戦略と軍事能力を同等視してはならないのである。

戦争においてわれわれが目指すべき狙いの達成のためには、軍には味方になってくれる人々を安心させ、住民を守り、見つけにくい敵を見つけて倒すことまでが要求される。

将来の戦争では、当然ながら、現在のものとは異なる問題を浮き上がらせるだろうし、異なる条件を課してくるだろう。ところが戦争そのものは、古代から変わらない重要な真実を示し続けるはずだ。

国防費は削減の圧力下にあるが、明快な思考にカネはかからない。将来の戦争の問題を自分たちの望むような形で定義したり、それによって自分たちの抱いた幻想を元にした国防面の脆弱性をさらしてしまうようなことは、われわれがもっともやってはいけないことである。

===

戦争の現実は変わらないからそれを直視せよ、新しいテクノロジーの登場に騙されるな、ということですね。

何度もいいますが、これは戦略論の「保守派」の議論としては極めてスタンダードな意見です。

もちろんこの議論のベースにあるのは、「テクノロジーの進歩はすごいが、それでも戦争の本質(the nature of war)は変わらない。なぜなら人間の本性(the human nature)は変わらない」という認識です。

これを論証するのにあたって、このような「保守派」たちはクラウゼヴィッツやツキュディデスの議論を使うわけですが、それによって戦争の「易不易」の、いわば「不易」の部分を強調するわけです。

このマクマスターやマティスのような人々の考えの究極のものが、おそらく拙訳の『現代の戦略』におけるコリン・グレイのものでしょう。

グレイの場合は戦争や戦略の「易不易」の部分を説明するのに、クラウゼヴィッツの『戦争論』の中から「文法」(易)と「論理」(不易)という概念を引っ張ってくるわけですが、このような概念の使い方は、残念ながら日本の戦略に関する議論ではまったく取り上げられておりません。

こういう議論をみると、あらためてクラウゼヴィッツの考えというのは日本では「過去のもの」であったとしても、現実に戦争を行っている国々にとっては「活きた学問」として活用されていることがよくわかります。



b0015356_146660.jpg


▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-24 14:25 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から小雨で風が強く吹き付けております。

さて、トランプ政権に対して民主党系の大御所であるブレジンスキーが、NYタイムズ紙に「ドクトリンを出せ」という内容の論評を共同で出しましたのでその要約を。

===

なぜ世界はトランプ・ドクトリンが必要なのか
By ズビニエフ・ブレジンスキー&ポール・ワッサーマン

世界の秩序は混乱状態にある。世界はこのような同時に頻発する可能性の高い問題に対処できる国際秩序をもたないままに、その混乱に突入しつつあるのだ。

この問題をさらに複雑にしているのは、主要国のカオスが、さらに破滅的な結果につながる可能性があるという点だ。

これまでトランプ大統領はこのような世界情勢に対して、アメリカがいかに対処していくのかについて重要な発言を何も計画していない。その代わりに、彼の政権からは無責任かつ調整されないまま無知な声明が発表され、世界はそれを解釈するだけのような状態になっている

重要な位置を得ようとする人間であれば誰でも、自分がたまに発する単純かつ極端な言葉づかいを「国家政策にしようとしている」と思われるような事態はさけなければならないものだ。

ところが最近起こったアメリカの対モスクワ政策における失策は、政権発足からたった24日目のマイケル・フリン国家安全保障アドバイザーの辞職につながっていることからも明らかだ。

われわれは大統領選でトランプ氏を支持しなかったが、それでも彼はアメリカの大統領である。彼はわれわれの大統領なのであり、われわれは彼に成功してもらいたいのだ。

ところが現在の彼は世界にとって、そしてわれわれにとっても「成功してもらいたい人物」のようには見えない。脆弱な世界には、楽観主義や進歩を反映した明晰な考えやリーダーシップによって性格づけられた、「アメリカ」が必要なのだ

「アメリカを再び偉大に」や「アメリカ第一」というのは、車のバンパーに貼るステッカーの文言としては素晴らしいものだが、アメリカの対外政策はそのような選挙戦用のスローガンよりもはるかに重要なものであるべきだ。

したがって、われわれはトランプ大統領に対して、世界をより安定したものにする上でアメリカがリーダーシップをとるという決意を含む、自らのビジョンを、大胆に説明する声明を発表するようにアドバイスしたい

この声明は必ずしもアメリカの対外政策を詳細につめた青写真のようなものである必要はないのだが、それでも自分がアメリカが事態を注意深く見守っており、それに積極的に関与していると同時に歴史全体の流れを自覚していることを思い起こさせるようなものであることが求められる。

われわれが大統領から聞きたいのは、なぜアメリカが世界にとって重要であり、なぜ世界はアメリカを必要としているのか、ということだ。同時に大統領はこの機会に便乗して、アメリカ自身が世界からどのような貢献をしてもらいたいのかを表明することもできる。

われわれは大統領が毎日行っている細かい決定には賛成できなくとも、理想的な長期解決法としては、世界の三大軍事大国(米・中・露)が世界情勢の安定を保つために協力しあえるようなものしかないことを認めることが求められている

この問題の多くは、アメリカと中国がどこまで対話を成功させることができるかにかかっている。そうなると、米中間におけるより深刻な戦略面での理解への道が広がってくるのであり、これが実質的に三大軍事大国の間でのより長期的な相互理解につながる。

なぜならロシアは、自分たちが米中間の調整に入れてもらえなければ、自らの国益にとってリスクになることを気づくはずだからだ。

また、アメリカはロシアと中国が戦略的な同盟を結ぶ危険を常に自覚しておくべきだ。このような理由から、アメリカは中国を下位の立場にある者として扱って行動してはならない。中国とロシアを近づけてしまうだけだからだ。

より直近の懸念としては、北朝鮮が及ぼす問題があるのだが、これは北朝鮮の強力な隣国である中国や日本(そして潜在的にはロシア)との緊密な連携がさらに必要になるはずだ。よって、アメリカの単独の動きは、北朝鮮をポジティブな方向に動かす可能性が低いのである。

もしアメリカがロシアとの関係を改善するのであれば、互いに「法に規定されたコミットメント」が国際的な秩序にとって重要であることを再認識する必要がある。表面的に関係改善は、近隣の弱小国にたいする騙しや策略、もしくは暴力などを覆い隠すようなものであってはならないのだ。

ロシアとの関係改善を求めるトランプ大統領の方針は賢明であると言えるが、許容できる行動範囲を規定した枠組みが必要であり、残念ながら現時点でこのようなものは存在しない

ロシアは、ウクライナやウズベキスタンのような非ロシアの元ソ連邦諸国がその独立状態を確立しつつある状態に直面しており、同時に中国が経済的に中央アジアに浸透しつつあるために、その地域への影響力を落としている。

よって、この三大軍事大国にとっての利害関係というものは大きいのだが、同時にそこから受けられる潜在的な利益は大きく、この事実をこの三国は十分わかっている。

短期的にみれば、アメリカは日本や英国のような友好国たちと地域的な合意の形成を目指すべきであろう。このような国々との関係は、地域情勢を管理する点において必須のものだからだ。

ここから考えれば、トランプ政権が日本と韓国に対するアメリカの支持を再確認するような動きをしたことは期待のもてるものだ。ところがNATOの中心的存在であるアメリカは、西欧と中欧を守る備えもおこたってはいけない。

トランプ大統領は自らの経験を通して、ビジネスの力を知っている。アメリカはロシアに対して、紛争当初にウクライナ東部で見られたような「小規模な緑の制服の人々」を使った戦術を含む、欧州に対するいかなる軍事的急襲も、ロシアの西側に対する海洋のアクセス(ロシアの海上貿易の75%)への処罰的封鎖につながることを明確に伝えるべきだ。

戦略的な意思決定のためのリーダーシップの任命におけるトランプ政権のこれまでのハチャメチャな仕事ぶりを踏まえて考えると、大統領がリーダーシップのビジョンとコミットメントを表明することは、アメリカだけでなく世界にとっても決定的に重要となる。

つまり「トランプ・ドクトリン」とでも呼べるようなドクトリンが本当に必要なのだ。

===

これは共著なので、おそらく文そのものを書いたのはワッサーマンの方でしょう

それでもロシアに対する警戒感と、中国に対する融和的な態度、大国の戦略家にありがちな「上から目線」、そして大国による世界バランスの安定(この場合は米中露)を提唱しているところなどは、明らかにブレジンスキーの意見ですね。

たしかにドクトリンを表明することは重要でしょうが、報道で漏れてくるところを見ると、トランプ側としての正直な気持ちとしては「したくてもできない」ということでしょう。

これまでの前例を考えると、トランプ政権の混乱は少なくともあと一年以上は続くわけですから、このような提案もそれまでは虚しく響くだけ、ということになりそうです。


b0015356_11204553.jpg
(火口)


▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-23 11:33 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は昨日に比べて随分と気温が下がりました。晴れておりましたが全体的にもやがかかっているような感じでした。

さて、連日お伝えしているバノンと拙訳「フォース・ターニング」についての話ですが、トランプ政権誕生の直後にバノンの映画の出演者であるカイザー教授による意見記事がタイム誌に掲載されておりましたので、あらためてその要約を。

===

トランプ、バノン、そして米国における危機の到来
by デイヴィッド・カイザー

1990年代にニール・ハウと故ウィリアム・ストラウスという2人の在野の歴史家が、米国史についての新しい理論を2冊の本の中で提唱した。

最初が1991年に出た『世代:米国の未来の歴史』(Generations: the History of America’s Future)であり、次が97年の『フォース・ターニング:米国の預言』(The Fourth Turning: An American Prophecy)である。

そして2人は米国史における80年のサイクルを指摘し、それが古い秩序を破壊して新しい秩序をつくる、大きな危機によって区切られていると主張したのだ。

彼らの理論は大学で広く教えられているわけではないし、メディアでも議論されているようなものではないのだが、それでもトランプ政権では大きな役割を果たす可能性が大きい

なぜならブレイトバートニュースというサイトの元代表でトランプ政権の首席戦略家に任命されたスティーブン・バノンは、ストラウスとハウの危機の理論について詳しく、しかもそれを使って特定の目標をどうやって達成しようかを長年に渡って考え続けてきた人物だからだ。

私がなぜこのようなことを知っているのかというと、バノンはドキュメンタリー映画を制作する際にニール・ハウとこの私に、当時進行していた金融危機に関して2009年にインタビューを行ったからだ。

この映画は「ジェネレーション・ゼロ」というタイトルで、その中でその「危機の理論」がかなり詳しく議論されている。

バノンはこの理論の最大のカギとなる、米国史は80年毎に「危機」、もしくは「第四の節目」(フォース・ターニング)を迎えており、これによって古い秩序が破壊されて新しい秩序が確立される、という考えに焦点を当てている。

ストラウスとハウによって指摘された大きな「危機」には、アメリカの独立戦争から憲法制定までの時代(1774-1794)、南北戦争とその後までの時代(1860-68)、そして世界恐慌から第二次世界大戦までの時代(1929-45)が含まれている。

このような経緯を踏まえて、彼らは21世紀の最初の15年に同じような大きな危機がくると予測している。

ストラウスとハウの主な予測はあきらかに実現している。たとえばアメリカが政治的な危機の状態を迎えてかなりの時が経過したことを否定する人はいないだろう。これは党派による分断状態や、深刻な不景気、海外での戦争、そしてとりわけ政治エスタブリッシュメントと国家との結びつきが崩壊していることなどだ。

私はプロの歴史家の中でも、ストラウスとハウの研究に興味を示した数少ない人間の一人であった。そして彼らの知見を、自分が書いたベトナム戦争の原因についての著作や、第2次世界大戦への参戦におけるフランクリン・ルーズベルトの役割についての本に応用している。

また、私は彼らの理論を自身のヨーロッパの歴史や現状についての分析にも応用している。

正直に言わなければならないが、私は市民連合という保守派団体のために働いていたバノンが私にインタビューを申し込んできた時に、それが何を意味しているのかはよくわからなかった。

それでもストラウスとハウのアイディアや、迫りつつあった「危機」について議論するチャンスはめったにないので、私はこのインタビューを歓迎したことを覚えている。

バノンは知的でカリスマ的な人物であり、私自身と同様に彼も明らかに私へのインタビューを楽しんでいたようだ。完成した映画を見たが、彼は私のインタビューを、自身の極右的な立場に有利になるようなバイアスがかった形ではなく、完全に公平な形で使ってくれた

ストラウスとハウの「危機の理論」の強みは、それが特定のイデオロギーに染まっていないという点にある。私の解釈によれば、それまでの政治・経済・社会の秩序の崩壊は、新たなビジョンを定着させるために、決定的なムーヴメントやリーダーを生み出すチャンスを創出する、ということになる。

最もわかりやすい極端な例を使えば、1933年当時のアメリカとドイツは、両国とも恐るべき経済・政治面での危機に直面していたが、アメリカはフランクリン・ルーズベルトとニューディール政策、ドイツはアドルフ・ヒトラーとナチスにそれぞれ活路を見出したということだ。

バノンと私が会った2009年の頃、私はオバマ大統領と民主党が多数派の連邦議会がリーマンショックによる経済危機を契機としてニューディール政策の価値を復活させるのではないかと期待していた。もちろんバノンは危機がどうなるのかについては私とは別の考え方をもっていたことは明らかだ。

結果的に、オバマ大統領は「新たなニューディール政策」を打ち出すことはできなかった。彼はわれわれのシステムが根本的に間違っているわけではなく、微調整によって修復できるものと考えていたようなのだ。

政権末期になってオバマ大統領はニューヨーカー誌のデイヴィッド・レムニックへのインタビューにおいて、大統領というものは米国社会を造る変えるようなことはできないし、わざわざ造り替える必要もなかったと述べている。

ここに、リンカーンやフランクリン・ルーズベルト、そして今日の共和党との決定的な違いがある。共和党は、私の意見では早ければ2000年の頃から、現在の危機において主導する立場を得て、それ維持している。その理由はまさに共和党こそが革命的な変化を起こすことを目指す党であり、民主党は実質的に「現状維持を目指す党」になっているからだ。

もちろん現在の共和党のスタンスというのは、ニュート・ギングリッジが政治活動を始めた1980年代に遡る(ちなみにギングリッジはジェネレーション・ゼロの中で長いインタビューを使われており、トランプ政権でも高い地位につくと見られている。国務省長官の候補者であったジョン・ボルトンも映画でインタビューされている)。

現在の下院議長であるポール・ライアンは、メディケアと米国年金制度を破棄しようと長年考えていた人物であり、それを実行するチャンスはいまや到来したと言える。

選挙戦を戦ったトランプやバノンたちは、すでに古い政治秩序を破壊することに成功している。

トランプはすでに伝統的な共和党候補者層を一掃し、得票数では負けたにもかかわらず大統領になっている。同時にあらゆる政治階層に対する共和党側からの絶え間ない政治攻勢は、トランプに共和党多数派の下院やわずかなリードにおける上院での多数派を与えている。

そして最高裁判事は、すぐに保守系によって多数派を占められるようになるはずだ。

彼らは何をしてくるのだろうか?彼らのレトリックや人格は、ストラウスとハウの危機の理論から見れば、共和党はそれまでの慣習というものにとらわれずに、現在の時代環境における彼らなりの英雄と悪者という見方を使って活動することが見込まれる。

ドキュメンタリー映画「ジェネレーション・ゼロ」は、リーマンショックによって起こった経済危機の話を巧妙に歪めて描いている。

たとえば映画の中でインタビューされた多くの識者が経済危機をもたらした原因として、人間の深い欲望や、あやしい金融取引などを挙げているが、最終的な非難の矛先はリベラル派や官僚、それにエスタブリッシュメントの政治家たちに向けられている

そして共和党の政治家やコメンテーターたちがまさに過去7年間にわたって行ってきたように、映画でインタビューされている識者たちの多くが(オバマ政権の初期に)オバマ大統領の暗い先行きを描き、経済破綻や社会主義の押し付けなどが起こるとしているのだ。

ところがこれは危機の時期に起こる恐ろしいことの一つにしかすぎないのであり、多くの人が実に様々なことを考えるものだ。

アメリカは8年前と比べて経済的にははるかに改善し、大規模な戦争にも巻き込まれていないにもかかわらず、現在でも恐ろしい危機に直面している。そして共和党とトランプ新大統領は、それらを自らの有利なものとして活用せんとするばかりの勢いだ。

私の個人的な意見では、トランプ、バノン、ギングリッジ、ライアンなどの人物は、これから2年ほどの間にこれまで民主党がつくりあげてきた遺産をすべて否定しようと動き出すだろう。しかもこの遺産には、オバマ政権のものだけでなく、フランクリン・ルーズベルトやリンドン・ジョンソンのものまでも含まれるのだ。

この映画の中には二つの危険な部分がある。第一は、私自身がバノンと最初に出会った時に鮮明になったものだ。

ストラウスとハウの著作をはじめて知った時、私は彼らの理論がアメリカ以外の国でも応用できるか考えはじめたのだが、映画のインタビューの時、私は1790年代のフランスや1917年以降のロシアが恐怖政治につながったことに触れ、バノンはこれを映画の中で採用している。

第二に、その理論は国際的な影響があるという点であり、これはかなり不吉な部分だ。ところが映画ではその部分がカットされていた。

バノンはストラウスとハウの理論が、国内の危機だけでなく国際的な危機の可能性を指摘していることについても長年考えてきたはずであり、これはむしろ明らかだ。当時のインタビューで、彼は以前の三回の危機において大規模な戦争が起こっており、しかもその規模が回を追うごとに規模を拡大させていることについて何度も指摘している。

彼は現在の「危機」において、新たな、しかもさらに大規模な戦争を予期しており、しかもそのような展望に怯えている様子はまったく見せていなかった

私はその点に関して彼と意見が違い、そのことを彼にも明言した。ところが国際紛争の歴史は私の専門であることを知っていたバノンは、何度も私に「短期から中期的には、少なくとも第二次世界大戦規模の紛争が起こると予見できる」と言わせようとしているが、私はそれを拒否した

終末的なレトリックや考えは危機の時期に拡大するものだが、トランプ政権における最大の危険はむしろここにあるのかもしれない。そして意識ある国民は、この部分を今後長い期間にわたって注視していく必要があるだろう。

===

ストラウスとハウの意見には同意するところが多いが、それよりもかなりダークなバノンの解釈には同意しない、ということですね。

私はこれに関してすでに日本の二つのメディアでインタビューを受けておりますが、たしかにバノンの独自解釈というのは後ろ暗い何かを感じますね。トランプ政権で力を持っているだけに不気味です。

余談なのですが、私はこのカイザー教授の書いた論文を翻訳して学会の専門誌に投稿したことがあります。視点がユニークで面白かった気が。



b0015356_23233581.jpg
(大島)



▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-18 23:28 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部はまた快晴の真冬の寒さです。

さて、昨晩の放送でもとりあげた、トランプ政権の重鎮となりつつあるバノン氏が7年前につくったドキュメンタリー映画をとりあえずここでご紹介しておきます。

気になるその内容なのですが、すでに述べた通り、彼の世界観がいかんなく発揮されておりまして、その構成が拙訳の『4th ターニング』の概念に沿ったものです。

実際は映像と共和党系の識者たちのインタビューで構成された1時間半の映画なのですが、主に戦後のアメリカ史を振り返る内容でして、春である「覚醒」から夏である「高揚」を経て、秋である「分解」、そして2008年の金融危機から始まる冬の「危機」という流れを説明したものです。

本の内容と微妙に違うのは、バノン自身の「ウォール街敵視」の姿勢です。とりわけ中盤から後半にかけて、ウォール街が社会主義を採用しつつも、それ以外のアメリカ人を資本主義で切り捨ててきた、というメッセージが強烈に発せられております。

最後の締めはニュート・ギングリッジ元下院議長なのですが、彼も『4th ターニング』からそっくりそのまま出てきた「歴史は繰り返す」という印象的な言葉で終えております。

字幕はありませんが、英語がわかる方はぜひ。バノン自身の世界観を知る上で大変勉強になります。


b0015356_11014800.jpg

▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-15 09:36 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部はあいかわらず寒くてよく晴れております。

さて、以前ご紹介していただいた最近のドゥーギンの中国についての英文のコメントを要約しました。トランプ政権を受けての分析ですが、この独特の世界観が面白いですね

====

ドゥーギンの中国論
by アレクサンドル・ドゥーギン

トランプは「ランドパワーとシーパワーの対立」という古典地政学の基本から離れつつある

この基本は、19世紀に英露間で行われた「グレート・ゲーム」や、20世紀のほぼすべての地政学−−マッキンダーから冷戦、そして純粋た大西洋主義、そして最近までアメリカの政権が追究してきた一極によるグローバル化までの枠組みそのものであった。

これはつまり、中国が地政学的な現状を変えつつある、ということである。1980年代に始まった中国の「ペレストロイカ」は、ブレジンスキーやキッシンジャーを含む三極委員会の北京訪問がきっかけとなった。

彼らの狙いは中国をソ連から永遠に引き離し、グローバルな資本主義体制に引き込み、ユーラシアを包囲し、その沿岸部(リムランド)を閉じ込めてしまうことにあった。

外交評議会や世界政府のプロトタイプとなる三極委員会を形成したブレジンスキーやキッシンジャーのようなグローバリストたちの計画によれば、ソ連の崩壊は間もなく起こるはずであった。

実際のところ、三極委員会のロシア支部となるグビシアーニ教授の主導した「応用システム分析研究所」の狙いはソ連を内側から分裂させることであり、これは三極委員会の中国問題についての文書の中で指摘されている。

チュバイス、ガイダル、ベレゾフスキーなどはすべてこの研究所の出身であり、彼らはその目的の達成に貢献しているのだが、すべては中国から始まっているのだ。

なぜだろうか?その理由は、中国が世界政府の指導下にあるからだ。

天安門でデモ隊に発砲してからのアメリカの反応は厳しいものであったが、その後は何も実行されなかった。中国はグローバル化のシステムに組み込まれる予定だったのであり、これこそが最大の目標だったからだ。

これがキッシンジャーであれば、「個人的な話ではない、これは外交なのだ」と言うところであろう。このようなダブルスタンダードは長年続いており、むしろそれが強制的に従うべき規範になったとも言える。

したがって、中国の「奇跡」は二つのタイプの全体主義の組み合わせだ。政治におけるマルクス主義と、経済における自由主義である。民主化はゼロだが、資本主義は大歓迎ということだ。

中国はこのような有利な立場を活用して大発展した。ところがグローバリストたちは地政学の古典的な教科書に従って厳格に行動しているため、中国はいまだに沿岸部を占めている勢力にしかすぎない

彼らにとっての最大の敵、脅威、そして危険はロシアという「ユーラシアのハートランド」のままなのだ。このような流れがトランプ政権の誕生まで続いてきたのだ。

ところが選挙戦においてトランプは、地政学を実質的に放棄した。もしかすると彼はそもそも地政学を知らないのかもしれないし、知っていたとしてもそれを信じていないのかもしれない。ところが本当に重要なのは、彼がそれを拒否したという点だ。それに尽きる。率直にいえば、これが現在の状況なのだ。

グローバリストの世界政府によって人工的に支えられている中国を解体させるということは、トランプの反グローバリズムから見れば論理的な動きだ。

トランプは物事をシンプルに見ている。莫大な人口を抱える全体主義式の共産主義国が台湾の併合をちらつかせつつ太平洋において挑戦しつつあり、アメリカを安いガラクタにあふれさせ、目につけた高い技術はすぐに盗むのである。しかも彼らは、これを非常にうまく行っているのだ。

中国の挑戦というのは、アメリカにとっては莫大で圧倒的なものであり、その経済成長率はアメリカにつきつけられた大きな課題でもある。このような背景の中で、経済の弱いロシアはアメリカにとって二次的な問題に成り下がっている

もちろんこれは単純な「親ロシア政策」がトランプ政権に採用されるという意味ではない。トランプは愛国者でありリアリストであるため、ことは簡単に行かない。

それでもこれはトランプが中国に対してかなり真剣に対抗していくということを意味する。彼が大統領にある間は、中国問題だけで忙殺されることになるだろう。

われわれは明らかにこのような状況を有利に活用しなければならない。もちろんこれは中国との友好関係をあきらめるべきだということではないし、トランプに擦り寄るべきだという意味でもない。そもそもこのようなことは大国にふさわしい態度ではないからだ。

ところが米中間の紛争というのは、われわれの関するところではないのであり、もしワシントン政府が極東に集中するのであれば、われわれは中東において、そしてさらに重要なことに、ユーラシアの空間で、迅速に任務を終えるチャンスを得ることになるのだ。

もしトランプが地政学を無視するのであれば、このようなメカニズムにそれほど注意を払わないことになる。少なくとも私はこうなればいいと考えている。

何はともあれ、問題は中国だ。私は中国がイデオロギー面で万全だとは思えず、毛沢東がかなり昔に得た「天命」はあきらかに危機に直面していると考えている。見た目の「成功」の影で、中国社会は危機に向かっている

ただしこれも中国自身の問題であり、われわれの関知するところではないのだ。

===

三極委員会をはじめとする世界政府が中国を指揮・指導しているという考え方は、日本でも陰謀論界隈ではかなり一般的な見方ですが、ドゥーギンがあらためてこういう風に見ていることを確認すると感慨深いものがあります。

トランプは反グローバリストなので中国を追い詰める、というのはかなり単純な分析ではありますが、それ以上にここでフォーカスされているのはロシア自身が感じている「恐怖」ですね。

「大国であるから・・・」と述べている箇所がありますが、大国であるがゆえに感じている恐怖というのは世界一位の広さの国土をもつロシアならでは悩みでしょう。
b0015356_12194898.jpg
(フォースターニングの最終稿)

▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-12 12:20 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は相変わらず朝から快晴です。気温も低めで、とくに風が強いですね。

さて、久々にブログ更新です。ツィッターでも触れましたが、バノンの愛読書がなんと私が次に出す予定の本だとのこと。驚きです。

====

スティーヴ・バノンの暗い歴史の理論書への傾倒は懸念すべき事態だ
by リネッテ・ロペス

トランプ大統領のアドバイザーであるスティーヴ・バノンは、今週のタイム誌の表紙を飾っており、その記事の中では『4thターニング』と呼ばれるアメリカの未来を予測した本の中で展開されている理論を深く信じていることが明らかにされている。

この事実は、すべてのアメリカ国民にとって懸念すべきことだ。

なぜならこの本の著者であるウィリアム・ストラウスとニール・ハウは、人間の世代は80年から100年の周期で「サエクラム」と呼ばれる一つのサイクルを構成しているというのだ。

このような考え方が古代ギリシャ時代までさかのぼることができるとしており、ギリシャ人たちは「サエクラム」の終わりが「エクピロシス」という破滅的な出来事によってそれまでの秩序が破壊され、劇的な形で新しい秩序がもたらされると考えていたという。

この激変時代は「第四の節目」(4thターニング)として知られており、バノンはこの二人の著者のようにこの時代に突入していると考えているのだ。

(3月に邦訳が発売される)この本によれば、アメリカが過去2回経験した「4th ターニング」は、南北戦争とその再興、そして世界恐慌から第二次世界大戦までの期間だという。そしてその前は、米国の独立戦争の時代となる。

いずれの「4th ターニング」においてもアメリカ人は新たな未来のために団結して再興することを余儀なくされたのだが、それらはすべて大規模な紛争によって多くの人命が失われた後なのだ。

この「節目」は例外なく「破壊的な出来事」の発生から始まり、その後に退廃の期間が続いてから古い秩序をめぐる決定的なクライマックスが戦争とともに訪れ、最終的に新たな世界秩序によって解決して安定化するというのだ。

そしてバノンが傾倒しているこの部分にこそ、大きな懸念がある。

バノンは新たな秩序の到来のためには「激変」が必要であると考えている。それによってわれわれは紛争のクライマックスを迎えるというのだ。彼はホワイトハウスにおいて、自分が「必然的」であると考える秩序をもたらすために現在の秩序を崩すような政策をトランプにアドバイスしようとしていることを示してきたのである。

彼はカオスを発生させるために、政治・経済面での連携を分断し、伝統的なアメリカの原則から背を向けようとしている。こうすることによって、バノンは「4th ターニング」を招き入れようとしているのだ。

▼バノンにとっての「聖書」

バノン自身はトランプを使って自分自身のアメリカについてのビジョンを実現するという欲望について、あけっぴろげに語っている。

たとえば去年の夏のヴァニティー・フェアー誌のインタビューで、トランプについて「われわれにとってのガサツなツールだが・・・彼がそれを理解しているかどうかはわからない」と語っている。

おそらくトランプは理解していないのだろうが、『4thターニング』という本の視点からトランプの政策を見れば、ことの重大さがわかる

バノンは「4thターニング」を発生させる「きっかけ」はすでに起こっていると考えている。それは2008年の金融危機(リーマン・ショック)である

よって、われわれは退廃期に入っており、ハウとストラウスはこの期間のことを、孤立主義、インフラ建設、連邦政府への権力の集中とその権限の強化、そして経済の再構築の想像が考えられる期間だと考えているのだ。

もちろんこれらがその目的そのものになっているわけではない。バノンは独裁的な政治の開始が東西間での大規模な紛争に備えたものになると考えている。もちろんそこでの「東」は、中東と中国のどちらかを意味することになる。

長年にわたってバノンは、現在マサチューセッツ工科大学(MIT)の歴史学者であるデイヴィッド・カイザーにも同様のことを言わせようとして圧力をかけてきたが、失敗している。

タイム誌によれば、「バノン氏は私に向かって、独立戦争の次はさらに大きな革命となる南北戦争、そしてさらに大きな第二次世界大戦という革命をアメリカは経験しましたよね、と言ってきたわけですが、これと同じことをカメラに向かって言うように促したのです。もちろん私はそう言いませんでしたが」とカイザー教授は証言している。

さらに「ハウ自身も、バノンの過激な未来予測については衝撃を受けておりました」とカイザー教授。

バノンは自身のラジオ番組で、アメリカが世界中でイスラム過激派と「戦争中」であることを繰り返し述べており、「グローバルな生死をかけた戦争」であり、「再び中東での大規模な軍事闘争」に発展する可能性が高いとしている

また、中国との戦争も迫りつつあると言っている。これは彼が主宰していたニュースサイト「ブレイトバート」における中心的なテーマであり、2015年11月には「われわれの運営しているサイトの主なメッセージの一つは、われわれが戦争中であるということだ」と述べている。

▼繰り返される現実

究極的にいえば、過去と未来を同時に書くことの危険性は、著者がその二つをわけたものとして考えられなくなる点にある。過去の歩みやその踏み間違いというのは、容易に繰り返されるように感じるものであり、未来も決まっていると考えがちだ。

ところが実際の歴史はこのようなことを示しているわけではない。すべての時代の大災害は、常に独特な形で発生しているからだ。ストラウスとハウがその著書の中で失敗し、バノンがはまってしまったのは、まさにこの点であった。

ハウとストラウスは「危機」をもたらす出来事が「金融危機の不吉な予兆か、もしくは国政選挙のような通常の形でもたらされる」とも書いている。

これはたしかに合理的だ。南北戦争と再興までの「4thターニング」は、それ以降の世界恐慌から第二次世界大戦までの「4thターニング」とは違う形で発生したからだ。

ところがストラウスとハウは、このような違いというものを次の「4thターニング」の到来において指摘するのを忘れている。彼らは同じ「節目」が存在しないことを指摘できていないのである。

その代わりに彼らは前回の「危機」の予兆となる出来事である世界恐慌という金融危機が今回も起こるはずであり、バノンもこれを信じているのだ。彼が2008年のリーマン・ショックを「危機」の始まりであると信じているのは、まさにこの点にある。

ところがこの二つは比較できるようなものではない。米国内の失業率は前回の危機のような20%のレベルまで上がらず、最悪であった2009年10月でも10%であった。2008年の政府はフーバー大統領が2年間何もせずに状況を悪化させたのとは違い、世界的な金融崩壊を阻止するために素早く動いて対処したのである。

今回の金融危機は、アメリカ全体を苦しめる代わりに、それ以前の40年間に拡大していた経済格差を悪化させた。よって、フランクリン・ルーズベルト大統領が1933年の就任演説で描いた「世界恐慌で失われたアメリカ」という姿は、すべてのアメリカ国民に共感できるものであった。

ところがトランプ大統領が就任演説で描いた「大虐殺されるアメリカ」という暗い世界観は、多くの人々には共有されていなかった

そしてこの認識の隔たりが、まさにアメリカという国の深い分裂状態をあらわしているのだ。

▼調整

よって、「4thターニング」は来るかもしれないが、バノンがその設計図を描いているわけではない。ハウとストラウスによれば、退廃期の最大の特徴は「結束」だからだ。

この結束のおかげで、リーダーたちは危機において「独裁的で厳しく断固とした態度」をとることができるようになるというのだ。ルーズベルトはまさにこのような立場をとることになり、国民を働かせるために政府の全権を握ったのである。

ところがこのような結束は、アメリカでは長年見られていない現象だ。むしろその反対に、現在の米国社会の分裂は今までに見たことのないほどの状態なのだ。

「4thターニング」で活躍するのはベビーブーマーとミレニアル世代たち
である。ブーマーたちは暴挙によってわれわれを紛争に導くイデオローグであり、ミレニアル世代は若き「英雄」という役割を担ってその困難を戦うのである。

危機の「きっかけ」的な出来事が発生すれば、アメリカはストラウスとハウのいうブーマー世代の「老年の守護者」のリーダーの元に団結するという。そしてこのリーダーは、「いかに経済が崩壊しようとも、アメリカン・ドリームが二世代続けて拒否されるような考えに対して激しく抵抗する」ような人物だというのだ。

もしバノンがこの「老年の守護者」のために働いていると考えるのであれば、彼は一つ重要な点を勘違いしている。それはミレニアル世代こそがこの危機からの脱出を主導するという点だ。ところがトランプの考えの中には、若者の必要性は考慮されていない

トランプのメッセージは喪失感のある古い世代に人気があり、そもそもアメリカン・ドリームを追究するチャンスさえ与えられてこなかったと感じている若い世代には響いていない

2016年の大統領選挙において、選挙に行った若者のほとんどはトランプ大統領に投票しておらず、それ以上の数のミレニアル世代は投票さえしていない。この理由の一つは、トランプが若者に対してほとんど何も公約を提供していないからだ。

その証拠に、七月の共和党大会では青年部代表のアレクサンドラ・スミスが、自分の党に対してこのような状態を警告しており、「共和党は長年にわたってミレニアル世代に対して何もアピールしていいません。わが党はあまりにも老人向けであり、自分たちの価値観を次の世代にアピールするための努力が足りないのです」と説いている。

ハウとストラウスによって示された「4th ターニング」には、アメリカ国民がすべからく合意できるような価値観への回帰が必要となるのだが、ミレニアル世代と共和党(というかバノン)との間の距離はあまりにも大きい。

その理由として、ミレニアル世代というのは米国の歴史の中でも最も多様な集団(43%が非白人)であり、そのほとんどがバノンの「人種紛争」というビジョンを共有していないからだ。

「4thターニング」には、米国が国内の分裂と外からの脅威に対して結束するというストーリーが描かれている。著者たちはこれが歴史の自然な流れであり、その発生は不可避であると説明している。

ところがメキシコやカナダに対する脅しや、渡航禁止措置などによってわれわれが目撃しているのは、敵の創出であり、しかもこの敵というのは多くのアメリカ人がそもそも欲していないような存在なのだ。

バノンの「4thターニング」に対する信仰は、われわれを結束させるものではなく、分裂させるものだ。これは危険であり、まだ誰も見たことのない現象となっている。

そして当然だが、次に何がやってくるのかは、まだ誰にもわからないのだ。

===

この記事を書くために記者の方は本を読み込んだらしいですが、やや勘違いしているところがいくつかあります。たとえば原著で「老年の守護者」(Gray Gaurdian)となっているところを、記事では「老年の戦士」(Gray Warrior)と誤って表記していることなどでしょうか。

「バノンが心酔しているって本当なの?」という人は、この動画も参考になります。

バノンはこの中でも4thターニングについて触れており、「アメリカは現在4thターニングを迎えている、われわれブーマたちはミレニアル世代に富という遺産を残せてやれなかった」などと、完全にこの本から影響を受けた発言をしております。

実際にトランプ政権では今一番影響力が大きいという報道が出てきているわけですから、かなり気になりますね。

ちなみに私が監修した訳本の発売は来月になりそうですが、すでにその内容についてはCDの方で徹底的に解説しておりますので、詳しくはそちらを参考にしていただければ幸いです。

■未来予測と戦略CD
~『The 4th Turning(危機の時代)』と『戦略の階層』~
http://www.realist.jp/the4thturning.html


b0015356_159839.jpg

(車内からの富士山の眺め)

▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略〜
奥山真司の『未来予測と戦略』CD
奥山真司の『未来予測と戦略』CD



▼奴隷の人生からの脱却のために
戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD


▼〜あなたは本当の「孫子」を知らない〜
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』



▼〜これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座


▼〜これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です〜
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回






奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-07 18:08 | Comments(0)
今日の甲州は朝から快晴です。さすがに朝晩の冷え込みは厳しいです。

さて、先週とりあげて好評だった、NYタイムズ紙に掲載された意見記事の要約です。

====

デモの規模は本当に重要なのか?
by ジーナップ・トゥフェックチー

全米各地(と世界各国)で先月行われた「女性の権利デモ」(the Women’s March)は、おそらくアメリカ史上最大規模のデモとなったはずだ。350万人が参加したという推測もある。

ということは、もちろん何かしらの意義があったはずであろう。

ところが過去20年間に行われてきたデモ行進を調査した人間として、私はここでみなさんに悪い知らせをお伝えしなければならない。

それは、デジタル時代のデモの規模は、そのムーブメントの強さを測ることができるだけの信頼に足る指標ではなくなっている、ということだ。過去に行われたデモ行進の参加者数との比較は、とりわけ誤解を生みやすい。

いまや「多くの人がひとつの場所に集まった」というだけでは、そのデモの力を示すことにはならない。むしろデモというのは、そのムーブメントの潜在力を象徴しているだけなのだ。

自然界とのたとえから考えてみよう。トムソン・ガゼルは草を食べている時に、目的もなく突然高く飛び跳ねることがあるが、これは捕食者に対して「これだけ高く飛べるのだから速く走れます、だから追いかけても無駄ですよ」と伝えている。

これと同じように、デモの参加者も「われわれはこれだけ集まれるのだから、本気だしたらどうなるかわかってますよね」と発信していることになる。

ところが大規模なデモを開催するのは以前よりもはるかに容易になってきている。たとえば過去には大規模なデモのためには少なくとも数ヶ月の準備期間が必要であった。たとえば1963年の「ワシントン大行進」は、その準備が9ヶ月前となる1962年12月から始めらている。

結果として25万人が集まったが、それ自体は今日の同規模のデモよりもはるかに多くの努力やコミットメント、そして準備を象徴したものであった。

フェイスブックやツィッター、Eメール、携帯電話、そしてクラウドファンディング無しでそのようなデモを組織するということは、まさに公民権運動のようなムーブメントの強さと精緻さを必要としたのである。

最近の大規模なデモが、政策面での実質的な結果につながらず、期待はずれに終わっている理由はまさにここにある。

私は2003年2月に開催された反戦デモにも参加したことがある。このデモは当時において世界中で行われた史上最大規模のデモであるとされ、世界の600以上の都市で行われた。

私は「さすがにアメリカとその同盟国たちは、これほどの規模のデモを無視するわけにはいかないのでは?」と思ったが、ジョージ・W・ブッシュ大統領はデモを「単なるフォーカス・グループによって行われたものでしかない」として退け、実際にわれわれを無視して、そのすぐ後にイラク戦争が始められたのだ。

ブッシュ大統領は、実際は1つの面で正しかったといえる。デモの参加者たちは、ブッシュ大統領を2004年の選挙で敗北させるまでの政治的に力には変えられなかったからだ。

私は2011年の「世界占拠」デモにも参加した。これは80カ国以上の1000都市以上で開催され、これも当時の時点で再び史上最大規模となり、テクノロジーの発展のおかげでもあって、たった数週間で組織されたものだ。

ここでも私は、経済格差に対するこれほどの大規模な抵抗運動のおかげですぐに政治・経済面で変化が起こると楽観視していたのだが、やはり間違っていた。前回と同様に、残念な結果にしかつながらなかったのである。

その後、世界中で似たようなデモが開催されているが、いずれも実質的な成果にはつながっていない

もちろんこれは、デモの重要性が失くなったということを意味するわけではない。デモはいまだに重要だ。

だがわれわれは、その捉え方を変えるできであろう。近年のデモは、組織的な努力の成果として見るのではなく、むしろその運動の、最初の潜在的な第一歩として捉えるべきなのだ。

今日の大規模なデモというのは、1963年の「ワシントン大行進」ではなく、どちらかといえばローザ・パークスがバスで白人に席をゆずるのを拒否したという行動に近い。

つまり以前は「最終地点」だったものが、現在は「最初の火花」になっている、ということだ。

デモの重要性というのは、以前にもまして「その後に起こること」に左右されるようになったのである。

2009年のティーパーティー(茶会党)運動を思い出してほしい。この時も全米の多くの都市に何十万人もの人々が集まり、デジタルコミュニケーションの助けを借りて動員されている。

そして他のデモ(先月の「女性の権利デモ」も含む)と同じように、これらはムーブメントへの支持を象徴的な形で表明したものであり、自分と同じような考えを持つ仲間と知り合うことのできる「イベント」としての機能を持っていたのだ。

ところがティーパーティーのデモ参加者たちは、自分たちの目指す政策を実現させるために猛烈な働きかけをした。それは、自分たちの支持する候補者を見つけて予備選挙に出し、それに抵抗した共和党員に挑戦し、政策のプロセスを見守り、ティーパーティーの方針からはずれる政治家に圧力をかけることなどだ。

先週ノースカロライナ州で開催された「女性の権利デモ」に私自身も参加したが、その参加者の数の多さと行進する人々の情熱の熱さに驚かされた。

ただし、これらのデモの参加者たちが互いの連絡先を交換せず、地元での戦略会合も開かなかったら、その数の多さもティーパーティーの支持者たちが2009年のデモの後に獲得したような影響力を持つことはできないだろう。

当然ながら、ムーブメントを進める上で参考すべきはティーパーティーだけではない。ところが街をデモ行進するだけでは何の結果も生み出すことはできないのである。

私が参加したノースカロライナ州のデモは、「さあ仕事を始めよう」(Let’s Get to Work)という歌をみんなで歌ってお開きとなった。そして今日のデモにとって、この歌の題名ほどよく当てはまるメッセージはないのである。

====

これもテクノロジーの進化のパラドックスですね。

抗議デモのような形のイベントはSNSの発展によって以前よりも簡単に組織できるようになったにもかかわらず、それが実際の政治ムーブメントにつながるかどうかは別問題、ということ。

ワイリーのいうように「ランドパワーが決定権を持つ」というわけではないのでしょうが、やはり最後は地道な政治努力と政策実現のための組織運営というところに行き着くわけです。

さらに言えば、あらゆる政治組織の運営には、やはり「利権」のような構造が必要になってくる、とも言えます。



b0015356_1527121.jpg

(朝の新宿)


▼奴隷の人生からの脱却のために

戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD

▼~あなたは本当の「孫子」を知らない~
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』


▼~これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です~
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座

▼~これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です~
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回



奥山真司のアメリカ通信LIVE

奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-04 18:19 | 日記 | Comments(0)
お知らせです。新刊が発売されます。

b0015356_19244437.jpg


すでに何度もここでお知らせしているのでご存知かもしれませんが、その内容は、クラウゼヴィッツの戦争論がどのように読まれてきたのか、そしてどのように読むべきなのかについて、さまざまな文献を比較検討しながら研究したものです。

もちろん体裁は「入門書」なのですが、どちらかといえば「総論」に近いかもしれません。

「日本語版へのまえがき」として原著者から日本の読者向けに一文いただいているので、今回の発売記念としてここで特別に公開しておきます。

〜〜〜

本書は、クラウゼヴィッツが生きている間に自ら経験した戦争(フランス革命戦争とナポレオン戦争)から得た教訓についての研究書であるが、ここで明らかになったのは、彼の考えが二つの段階を経ているということだ。

一つ目は、これらの戦争が戦いの形を永久に変えてしまい、将来のすべての戦争はこのパターンを追従することになる、と考えたということだ。

ところが後に、彼はこの間違いに気づき、非常に限定的なものから全面戦争、つまり非常に抑制的なものから無制限な暴力、あるいは小さな狙いから無制限な狙いまで、戦いの種類には移り変わるスケールの上のもののように、実にさまざまなタイプのものがあると考えるようになった

彼の考えをまとめたものが『戦争論』だが、この著作は彼が死んだ時にはまだ修正中であり、結果としてこの本は矛盾だらけの内容となってしまったのである。

ところがこのような欠点に気づかず、クラウゼヴィッツのいくつかの偉大なひらめきに圧倒された多くの読者たちは、『戦争論』に書かれている内容を無批判に受け取ってしまった。彼らはまだ議論しつくされていない文章を部分的に取り出したことに気づかずに、自分たちに都合の良い教訓を引き出したのだ。

端的にいえば、彼らが得た教訓は間違っていたのであり、その間違いが致命的であったともいえる。そしてこのような間違いは、互いに利益となる「安定的な講和の追究」というクラウゼヴィッツ自身も見逃していた考えを、「すべての戦争は軍事的勝利の追究、つまり我が意志を敵に屈服せしめるもの」という考えへと変化させてしまった。

したがって、クラウゼヴィッツを読んだ多くの人々に見られる第一の特徴は、彼の本に示された教訓を無視したということではなく、むしろ誤った教訓を得たということになる。

第二の特徴は、彼らの全員(われわれも含めて)がその本(というよりもすべての本)を、自分たちの文化のレンズを通して読んだということだ。

彼らは『戦争論』の中に自分たちの好みのフレーズやアイディアを見つけたのだが、これは彼らが生きていた時代やその雰囲気、それにその当時に置かれていた環境によって影響を受けていたということだ。

彼らは、クラウゼヴィッツがそれを書いていた時代の言葉の意味ではなく、その後に含まれるようになった意味を受け取るようになり、本来の微妙な表現や、その矛盾や限定的な議論を無視したのである。

したがって、クラウゼヴィッツの解釈の歴史は、政治思想や政治文化の発展の歴史が凝縮されたものであり、そのテーマが戦争に関わるものであった。

 結果として、本書はクラウゼヴィッツの著作が、人々が自らの価値観や政治・イデオロギー的な見解から論じたい議論を擁護するために、異なるイデオロギーを通じて、いかに多様かつ選択的な読まれ方をされてきたのかを論証したものだ。

〜〜〜

クラウゼヴィッツも人の子です。彼はたしかに偉大な「戦争の哲学書」を書いたわけですが、だからといってそこに書いてあるものが完全に正しいわけではないのですが、未完の本であったために誤解され、誤用され、利用されてきたことはもっと認識されてもいいですよね。

ところが一番の問題なのは、それがどれほど未完であったかという認識のないままに、いまでもそれを「まったく問題ないもの」としてシレっと引用しているというその態度なのかと思います。

この本には、このような問いに対する答えがいくつか書いてあります。ぜひご参考にしてみてください。



もちろん、CDでもこの本からの知見が十分に盛り込んであり、きっちり解説していますので、ぜひご参照のほどをよろしくお願いします。

b0015356_2151949.jpg
(横須賀中央)


▼奴隷の人生からの脱却のために

戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
戦略の階層を徹底解説するCD

▼~あなたは本当の「孫子」を知らない~
奥山真司の『真説 孫子解読』CD
奥山真司の『真説 孫子解読』


▼~これまでのクラウゼヴィッツ解説本はすべて処分して結構です~
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座CD
奥山真司の現代のクラウゼヴィッツ『戦争論』講座

▼~これまでの地政学解説本はすべて処分して結構です~
奥山真司の地政学講座CD 全10回
奥山真司の地政学講座 全10回



奥山真司のアメリカ通信LIVE

奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-01 00:00 | 日記 | Comments(3)