戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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今日の横浜北部は曇りがちでしたがやけに蒸し暑い感じで、10月後半とは思えない感覚でした。

さて、何度も告知させていただいたのですでにご存知のかたもいらっしゃると思いますが、私が翻訳したロバート・カプランの『南シナ海 中国海洋覇権の野望』が無事発売されまして、本日都内の某大型書店で陳列されている様子を確認してきました。
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ところがなんだか不思議なもので、いざ自分が関わった本が発売されたと言っても、原稿(ゲラ)段階で何度も読みなおしているので、いまさら手にとってみても、

「あ、ここに並んでいるのか・・・」

くらいで、あまり「感激」という感覚は、正直なところありません(苦笑

ただし翻訳していて面白かった箇所というのは鮮明に覚えておりまして、個人的に一番興味深かったのは、第五章(シンガポール)と第七章(台湾)のエピソード

とくに第五章は、儒教が西洋の価値観から見て「独裁制」とも呼べる体制に対して寛容な要素を提供しており、それが今後のグローバル化、つまり西洋化の価値観と折り合いをつけていくのかという点を探っているところが興味深かったわけです。

第七章では、なんと言っても台湾が実効支配している「東沙島」にカプランが乗り込んで行って見聞きするシーンが印象的でした。

もちろん地政学を研究している人間としては、第二章のカリブ海と南シナ海の対比がとても「スパイクマン/ミアシャイマー」していて、思わずニヤリとせざるをえませんでした。

この本は『インド洋圏』の時と同じく、「旅行記」という体裁をとっている本なのですが、ページ数の少なさの割にはなかなか考えさせてくれるすぐれた本です。

中心的なテーマは一応「中国の軍事的台頭」というところに焦点が当てられているわけですが、最初と最後でこの地域の複雑さを教えてくれる効果的なエピソードが紹介されていて、一筋縄ではいかない国際政治の難しさを教えてくれています。

明日はある出版社の仕事の関係から、この原著者のカプランに私が電話インタビュー(!)をすることになっているのですが、その時のこぼれ話などは火曜日夜の特番(http://live.nicovideo.jp/gate/lv195767981)で少しだけお話させていただきたいと思っております。

ということで、カプランの『南シナ海』、ぜひよろしくお願いします。



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by masa_the_man | 2014-10-26 23:59 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から雨が続いておりました。

イギリスからインパール作戦で戦った元兵士の方(93歳)が来日中でして、そのお手伝いとして、本日は都内でエスコートをしておりました。

足は弱っておりますが、この元兵士の方、なかなか気さくな方で、なんと私が通っていた大学の近くの連隊出身の人だとか。

さて、前回のイスラム教についての記事の続報的な位置づけにある意見記事でなかなか面白いものがありました。元オフェンシヴ・リアリストで、現在はCNNの情報番組の司会者をしておりますインド出身のザカリアの記事です。

===

イスラム教には問題がある:この事実から目をそむけるのはやめよう
By ファリード・ザカリア

●テレビ番組の司会者であるビル・マー(Bill Maher)が、毎週やっている自身の番組の中で「イスラム世界は・・・ISISとあまりにも共通するところが多い」と宣言し、その時のゲストのサム・ハリスも、イスラム教のことを「悪いアイディアの宝庫だ」と述べた。

●私はこれがなぜ人々の怒りを買ったのかがよく理解できる。マーと作家のハリスは、イスラム教をあまりにも単純化して誇張していたからだ。

●ところがそれでも「彼らは真実について語っていた」と言える部分がある。

●もちろん私はイスラム教について批判するような議論は、暴力的で反動的なものであることは知っている。その信徒は16億人もいて、インドやインドネシアにはこのような単純化に当てはめることのできない人々が数百万人いることも知っている。

● よって、マーとハリスがあまりにも物事を一般化した点で有罪であることは明らかだ。

●ところがそれでも今日のイスラム教が問題を抱えていることは否めない。現代の世界で問題を抱えている国の多くは、かなりの確率でイスラム教国なのだ。

●たとえば2013年の時点で、世界でテロ行為を行ったグループの上位10位の内の7つが、イスラム教系であった。テロ攻撃が行われた数でトップから数えて10位までの国のうちの7ヶ国も、イスラム教が多数派を占める国々であった。

●ピュー研究所では宗教活動への制限のレベルを国ごとに調査しているのだが、最もそのレベルが厳しい国の24ヶ国のうち、19ヶ国がイスラム教が多数派を占める国々であった。しかも宗教に背くことを違法としている21ヶ国のすべてが、イスラム教が多数派を占める国々なのだ。

●今日のイスラム教の中には過激主義のがん細胞が存在する。イスラム教徒の非常な少数派の中には、暴力と非寛容を称賛し、女性やマイノリティーたちに対して極めて反動的な態度をとるものもいる。

●イスラム教徒の中にはこのような過激主義者たちを抑えようとする人々もいるが、その努力はまだ足らないし、それに対する異論を唱える声も低い。アラブ世界では、イスラム国(ISIS)を非難するデモはほとんど行なわれていないのだ。

●もちろんここで重要なのは、「今日のイスラム教」という点だ。マーとハリスの分析における中心的な問題は、イスラム教の中の過激主義という現実をとらえ、それがその宗教に元々備わった要素であると暗示したという点だ。

●マーはイスラム教が「間違ったことを言ったり、間違った絵を描いたり、本を書いたりしたら殺される、マフィアのような活動をしている唯一の宗教」だと述べている。彼はその残虐性を指摘している点では正しいが、それを「イスラム教徒の中の何人か」ではなく「イスラム教」全体とリンクさせているという意味で間違っている

●ハリスは博士号を持っていることもあり、自分が極めて分析的であることを誇っている。ところが私が大学院に行っていたときに学んだのは、固定した原因から従属変数的な現象を説明することは決してできないということであった。

●つまり「イスラム教が元々暴力的で非寛容的なものである」と主張するのであれば、イスラム教が存在しているこの1400年間という長い時間を通じて、われわれはこのような行動を目撃しているはずだ。

●ハリス氏はザカリー・カラベル氏の著書(Peace Be Upon You)を読むべきであろう。この本からわかるのは、たしかにイスラム世界では戦争はあったが、同時に平和な時代も存在したということだ。

●たとえばイスラム世界は近代の最先端を行っていた時代もあったし、逆に今日のように極めて後進的であった時代もある。

●カラベルが私に説明してくれたように、「ここ70年間をのぞけば、イスラム世界というのはキリスト教世界よりも一般的にマイノリティーに対して寛容的であった。1950年代初期までにアラブ世界で100万人以上のユダヤ人が生活していたのはそのような理由からであり、イラクだけでも20万人が住んでいた」という。

イスラム世界には開放的で現代的、そして平和的な時代があったとすれば、これはその宗教の教えにあるわけではないということだし、その傾向も再び変化する可能性があることになる

●それではマーたちはこのようなコメントをしたのだろうか?私は同じようにメディアに出ている知識人として、ありのままの真実(といっても彼の「真実」はあまりにも単純で誇張されたものだが)をコメントする必要に迫られていたのは理解できる。

●ところがメディアに出ている知識人には別の任務もある。それは、「世界を良い方向に動かす」というものだ。

●彼はマフィアとイスラム教を比較することで世界を良い方向に変えられると本気で考えているのだろうか?ハリスは「真剣に信仰していない名ばかりのイスラム教徒たち」に対してイスラム教を改革してもらいたいと述べていた。

●ではイスラム教を改革するための戦略として、16億のイスラム教徒たちの中でも極めて真剣に信仰しているほとんどの人々に対して「あなたたちの宗教は悪で、その信仰を真剣に行うのはやめるべきだ」と教えるのはよい戦略だと言えるだろうか?

●キリスト教もたしかに何世紀にもわたって暴力、十字軍、異端審問、魔女狩り、そして非寛容を煽る立場から、近代国家へと変化してきた。そして知識人や神学者たちは、熱心なキリスト教徒たちにたいして信仰に自信を持つような理由を与えつつ、この宗教の中にある寛容、リベラル、そして近代性の要素を称賛してきたのだ。

●似たようなアプローチ――これは尊敬に則った改革のこと――も長期的にはイスラム教でも成功するだろう。

●このディベートで交わされているテーマは影響の大きいものだ。ニュースになるのもいいのだが、同時に世の中に立つこともできる。私はマー氏が後者を選ぶことを願いたい。

===

うーん、この分析もやや玉虫色的な感じがあるのは否めませんね。ただし上手いと思ったのは「現代のイスラム教」を以前のイスラム教とわけているという部分でしょうか。

カナダの国会での銃乱射事件での絡みもありますので、今後もこのような議論は続くんでしょうね。



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by masa_the_man | 2014-10-23 23:59 | 日記 | Comments(8)
今日の横浜北部は朝からよく晴れました。

昨日でミアシャイマーの『大国政治の悲劇』に関する訳出作業がすべて終わったのもつかの間、大学の授業の準備や次の本の訳出作業などもありますので、常に仕事はありますね。

さて、先週の放送(http://ch.nicovideo.jp/strategy/live)でも少し触れた「イスラム教の土着性」についてのすぐれた論説記事がありましたので要約です。

これは最近HBOで放映されて大問題になった、以下のトーク番組でのイスラム教についてのコメントが炎上した件に関係するものです。

この時のゲストたちは、イスラム教側に批判的な側として右側に座っている二人(司会者のビル・マーとサム・ハリス)と、左側の寛容派である俳優のベン・アフレック、NYタイムス記者のニコラス・クリストフ、そして共和党元全国委員長を務めた経験を持つ黒人のマイケル・スティールたちの三人。

以下のように議論しております。



この番組での議論を元に書かれたのが、以下の記事です。著者はイラン系アメリカ人で宗教学を専門とするカリフォルニア大学の先生です。

===

宗教をわかっていないのはビル・マーだけじゃない
by レザ・アスラン

●ビル・マー(BILL MAHER)の最近のイスラム教に対する暴言は、とりわけイスラム教に関する宗教的暴力の問題ついて激論を巻き起こすことになった。

●このマー氏の暴言は「イスラム教はまるでマフィアみたいだ」というものであったが、彼はオバマ大統領がテロ集団で「イスラム国」に対してイスラム教を体現していないと発言したことに立腹したという。

彼の視点では、イスラム教は「ISISとあまりにも共通点がある」という。

●彼のコメントは嵐のような反応を巻き起こすことになり、中でも同じ番組でゲストに呼ばれていた俳優のベン・アフレックによる、イスラム教徒に対する「不快で人種差別主義的」な一般化だ、という非難は、最も強烈なものであった。

●それでもこの両者の議論には、宗教と暴力に関していえば、それぞれ大きな穴がある。

●たとえば一方で、宗教を本当に信じている人間は、自分の宗教の中の過激主義の人間と熱心に距離を置きたがるものであり、そのような暴力が宗教的な動機によるものではないと否定することが多い。

●これはとりわけイスラム教徒に当てはまるケースであり、イスラム教の名を語りながらテロ行為を行う人間たちを「奴らは本当のイスラム教徒ではない」と拒絶することが多い。

●その一方で、その宗教を批判的に見る人々は、その絶対主義以外の部分を理解できていないことが多い。彼らは宗教書の中に記されている蛮行を指摘したり、その歴史の中の極端な例を持ちだしてして、世界中の抑圧の原因になっている一般化してしまうのだ。

●信じる側と批判的な側の両方が共に忘れていることが多いのが、宗教はその信じていることや実践よりも、はるかに「アイデンティティ」の問題に直結していることが多いという点である。

●つまり「私はイスラム教徒です」「私はキリスト教徒です」「私はユダヤ教徒です」という言葉は、彼らが何を信じていて、どのような宗教的な行為を日常的に行っているかではなくて、単純に自分たちのアイデンティティ、つまり世界の中でどのような位置を自分たちが占めているのかを表現したものであるということだ。

宗教というのはアイデンティティの一つの形であるため、文化、人種、民族、性別、そして性的志向のように、その人を構成しているその他の要素と分離できないものである。

●たとえばテキサス州の郊外のメガチャーチ(巨大教会)のメンバーであるキリスト教徒と、グアテマラの山々でコーヒー豆を採取している貧しい農民のキリスト教徒の間にはかなりの違いがある。

●サウジアラビアのイスラム教徒の文化的な習慣は、社会における女性の立場という点から見れば、その他のもっと世俗化したトルコやインドネシアのような国のものとはだいぶ違うのだ。

●インドに逃れているチベット人の仏教徒と、ミャンマーの少数民族であるロヒンギャ族の戦闘的な仏教徒の違いは政治文化の違いによるものであり、仏教そのものとはほとんど関係のないものだ。

●あらゆる宗教は真空状態の中で存在できない。すべての宗教は、それが植えられた土壌に根を張っているものだ。つまり「宗教を信じている人間の価値観が主に聖典の中だけから来ている」というのは間違っている。

●その反対に、宗教を信じている人間というのは、聖典の中に彼らの価値観を織り込んでしまうものであり、自分たちの持っている文化、人種、民族、そして政治的なレンズを通してそれを読み解くことになる。

●結局のところ、聖典というのは解釈されなければ無意味なものだ。聖典が意味を持つには、それを読んで解釈して意味を持たせる人間が必要となる。そして聖典の解釈という行為そのものの中には、自身の視点や偏見を持ち込むことも含まれてくるのだ。

聖典の教えの永続性というのは、そこで述べられている真実というよりは、むしろそれが信じている人にどこまで柔軟に対応できるかという点にかかっている

●たとえば旧約聖書はユダヤ人に対して「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19章)と命令している。ところが同時に「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」(サムエル記上15章)と命じているのだ。

●イエス・キリストは弟子たちにたいして「もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ第五章)と言っているのだが、同時に「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」と述べている。そして「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」(ルカ22章)とも言っているのだ。

●コーランでも信者たちにたいして「 人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じである」(5章32)と言っているが、同時に「多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ」(9章5)と命じている。

これらの矛盾した命令をどのように扱うのかは、それを信じている人自身にかかっている。もしそれが暴力的な女嫌いの男性であれば、その考えを正当化する記述をいくつも聖典の中に見つけることができるだろう。

●ところがもしあなたが平和的かつ民主的なフェミニストであれば、そのような視点を支持する記述を聖典の中に見つけることができるはずだ。

●これらは実際面で、一体どのような意味を持つことになるのだろうか?

●第一に、宗教を信じている人々たちは、自分たちの宗教の中の過激主義者たちから目を逸らして「奴らは自分たちとは違う」と言うべきではない、ということだ。

●「イスラム国」の参加者たちはたしかにイスラム教徒である。なぜなら、彼ら自身がそう宣言しているからだ。

●彼らの宣言している宗教を否定することは、われわれが近代の世界の現実と宗教の教義をいかに調和させていくかという難しい問題に、我々自身を対処できなくさせてしまうからだ。

●ところがこの場合の犠牲者のほとんどはイスラム教徒自身であるということを考えると――イスラム国を非難して戦っている人々のほとんどが犠牲になっている――、この集団が自分で名乗っているアイデンティティは、グローバルな宗教としてのイスラム教についての論理的な表明としては使えないのだ。

●同時に、宗教に批判的な人々も信仰している人々を単純に一般化することは慎むべきだ。たしかに多くのイスラム教国では、女性の権利が男性ほど認められていない。

●ところがこの事実だけで「イスラム教はキリスト教やユダヤ教と比べてそもそも男尊女卑の宗教だ」とは言えない。なぜならイスラム教が多数派の国家では、女性のリーダーが選ばれることもあり、その反対に、アメリカではまだ女性大統領の誕生の機が熟しているかどうかを議論しているくらいだ。

●ビル・マーは、基本的な人権を侵害する宗教の習慣を非難した点で正しい。そして宗教コミュニティは、自分たちの宗教の過激主義的な解釈をさせないように手をうつべきである。

●ところが「宗教は文化の中に根ざしたものである」という事実に気づかないと――そして世界第二の規模を誇る宗教を一括りにして判断してしまうと――、それは単なる凝り固まった偏見としかならないのだ。

===

なんだか「ケンカ両成敗」的な分析とも言えますが、宗教はそれが信仰されている土地や文化や慣習と密接なかかわりがあるという点には納得。

この議論はまだまだアメリカをはじめとする西洋諸国で続くんでしょうな。今夜も生放送(http://live.nicovideo.jp/gate/lv195106058)します。



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by masa_the_man | 2014-10-21 00:46 | 日記 | Comments(5)
今日の横浜北部は朝から気持ちよく晴れております。朝晩はだいぶ冷えるようになりましたが、日中はほんと気持ちいいですよね。

さて、私が翻訳したミアシャイマーの『大国政治の悲劇』の改訂版の見本が届きましたので、そのご紹介を簡単に。
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すでにご存知のかたもしらっしゃるかも知れませんが、本の後ろの帯には国家安全保障局の谷内正太郎局長に推薦のお言葉をいただいております。

本書が2007年に刊行した日本語版と具体的に変わった点は以下の通り。

1,原著の第10章が「中国の平和的台頭は可能か?」というものに差し替えられたので、新たに訳出。

2,原著にあった註をすべて翻訳。紙面の都合上、訳は出版社のホームページにアップ。

3,原著の表にあった出典や注意書きもすべて訳出(この作業はようやく本日終了)。同じくホームページにアップ予定。

4,その他、難しい漢字にはフリガナをつけるなどした。

などなどです。

原著者が十年以上かけて本気で書いただけあって、あらためて訳し直してそのクオリティの高さに圧倒されました。

もちろん彼の分析に同意するしないは別ですが、それでもこのポジティビスト的というか、究極のデカルト主義者的な国際政治の理論については、一つの到達点として読んでみる価値はあると思います。

ということで、見た目は初版とあまり変わらない感じですが、注釈番号やフリガナがついているために、ページ数はやや増えております。

価格は相変わらずのとんでもないレベルですが(苦笑)、12月には原著者の来日講演も予定されておりますので、ぜひこの機会にお手にとって見てください。




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by masa_the_man | 2014-10-19 17:25 | 日記 | Comments(0)
by masa_the_man | 2014-10-07 15:27 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は、台風18号の影響もあってか、朝から強めの雨が降り続いております。

さて、久々の更新はかなりマジメな学術論文を。

といってもこの論文は、私が訳本を出したことのあるウォルトというハーバード大学の先生が、いまから15年ほど前に書いた初学者向けの「国際関係論の入門の手引」みたいなものです。

私が現在教えている学生向けによい論文を探していたのですが、短くまとまったものでなかなか良いものがなかったので、思い切って私が自ら訳してしまいました。

明日の授業で配る予定だったんですが、どうやら休講になりそうな予感が・・・・・(休講決定)。

ということで、知る人ぞ知る超有名論文です。ちょっと長いので前半と後半にわけてみました。また後半の余分と思われる部分は一部カットしております(ヒマがあれば全訳版を載せますが・・)。

誤字脱字、誤訳などの指摘は大歓迎です。以下のコメント欄のほうまでどしどしお気軽にお寄せください。訳者である私の名前を表示してくれさえすれば、転載大歓迎です。

===

International Relations: One World, Many Theories
by Stephen M. Walt

Foreign Policy, No. 110, Special Edition: Frontiers of Knowledge. (Spring, 1998), pp.29-32+34-46.

国際関係論:一つの世界、多くの理論
by スティーブン・ウォルト

政策担当者たちは、なぜ国際政治についての学術研究を理解しておくべきなのだろうか?もちろん対外政策を実践する人々が、アカデミックな理論家たちの研究を理解しようとしないことが多いのはその通り(その理由も確かに納得できるものがある)なのだが、それでも理論の抽象的な世界と、政策が行なわれる現実の世界には、断ち切ることのできないつながりというものが存在するのだ。毎日浴びせかけられる洪水のような情報を整理するために、われわれは理論を必要とするからである。

 「理論」に対して軽蔑的な態度をとる政策担当者たちでさえも、何かものごとを決断する際には、世界がどのように動いているのかを説明する彼ら自身の(暗黙の場合が多いが)アイディアに頼らざるを得ない。もしその基本的な原理・原則が間違っていれば、良い政策を作成することも難しいのであり、これは現実世界をよく知らないまま良い理論を構築するのは困難であることと全く同じだ。誰もが自覚する・しないにかかわらず、理論を使っているのであり、政策についての意見の相違は、大抵の場合は国際的な動きを決する基本的な動きについての相違という根本点な面にまで行き着くことになる。

  たとえば、中国に対してどのように対処すればいいのかという現在行なわれている議論について考えてみよう。ある視点によれば、中国の上昇は台頭する国家が世界の勢力均衡を潜在的に危険な方向(とくにその影響力が上昇するおかげでますます野心的になる)へ変化させようとする最新例であることになる。ところが別の視点では、中国の将来の行動のカギは、世界のマーケットへの統合や(不可避な?)民主主義の原則によって柔和なものに変化するかどうかにかかってくることになる。さらに別の視点では、中国と中国以外の世界の国々との関係は文化やアイデンティティの問題に左右されることになる。つまり、中国は自分たちのことを(そして他国から)国際社会のノーマルな参加国として見るのか、それとも特別な扱いを受けるべき独特の国家であると捉えるのかが問題になるというのだ。

  同じような意味で、北大西洋条約機構(NATO)の拡大についての議論も、どの理論を使うかで見方が変わってくる。リアリスト(現実主義)の視点では、NATOの拡大は、ロシアが弱っていた時期に行なわれた、西側諸国の影響圏――アメリカの重大な国益がかかる伝統的な範囲をはるかに越える――の拡大を目指した行動であり、モスクワから激しい反発を生むことになると予測される。ところがリベラル(自由主義)の視点では、中欧の生まれたばかりの民主制度を強化し、潜在的に不穏な地域にNATOの紛争管理の仕組みを拡大することになる。三つ目の視点では、おそらくチェコやハンガリー、そしてポーランドなどを、戦争を考えられないものとする共通のアイデンティティを持った西側の安全保障のコミュニティーに組み込みことの価値を強調することになる。

  当然ながら、これらの理論のうちのたった一つを使うだけでは、現代の世界政治の複雑さのすべてを捉えきることはできない。したがって、われわれは単一の理論的な考え方を使うよりは、競合する様々なアイディアを採用するほうが良いといえる。理論間の競争によってそれらの強みと弱点が見えてくるし、それが後に各理論の精緻化を促し、同時に一般常識に潜む間違いも明らかにされる。もちろんわれわれは理論ごとの陣営に分かれて互いに悪態をつくのではなく、創意工夫を強調することを奨励し、現代の学問の異種混合状態を歓迎して、それを促進すべきなのだ。

●われわれはどこから来たのか

国際政治の学問は、リアリスト(現実主義)、リベラル(自由主義)、そしてラディカル(過激主義)という三つの学派の競争として見ることが最適である。リアリズムでは、国家間の紛争の永続的な傾向が強調される。リベラリズムでは、これらの紛争的な傾向を緩和するためのいくつかの方法が指摘される。そしてラディカルな学派では、国際関係の仕組み全体をどのように変えればよいのかが示されることになる。これらの学派の違いはそこまで明確なものではなく、重要な著作でも、この中のどれにも属さないものは多い。ところが学派の内部や学派の間での議論は、大まかに分類することができるのだ。

▼リアリズム
リアリズムは、冷戦期を通じて最も支配的な理論であった。この理論では利己的な国家の間でパワーを巡る争いが展開され、全般的に紛争と戦争を防ぐ見通しに関しては悲観的であることになる。リアリズムが冷戦期で圧倒的だったのは、戦争、同盟、帝国主義、国家間協力の難しさやその他の国際的な現象をシンプルかつ強力に説明したからであり、アメリカとソ連の争い中心にある国家間の競争関係の存在を強調したからだ。

  当然ながら、リアリズムはたった一つの理論ではなく、冷戦期を通じてリアリストの理論は大きく進化している。ハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau)やラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr )のような「伝統的」リアリストたちは、国家を人間と同じような存在としてとらえ、そこには生まれつき備わった「他者を支配したい」という欲望が備わっており、これが戦争へと導くと考えた。また、モーゲンソーは伝統的な、多極的な勢力均衡システムの利点を強調しており、米ソ間の二極的な競争関係は、とりわけ危険なものと見ていた。

  それに対してケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)によって進化させられた「ネオ・リアリスト」の理論では、人間の本性というものは無視され、国際システムの効果が中心になっている。ウォルツにとって、国際システムというのは一定数の大国によって構成されているもので、それぞれが「生き残り」(サヴァイヴァル)を目指している。このシステムはアナーキー(互いから守ってくれるような中央政府が存在しない状態)であるため、各国家は自ら生き残りを図らなければならない。ウォルツはこの状態のおかげで弱小国たちがより強力な国家にバンドワゴン(追従)するのではなく、バランス(直接対抗)することになるという。そしてモーゲンソーと対照的に、ウォルツは二極システムのほうが多極システムよりも安定的だと主張するのだ。

  リアリズムにとっての理論の重要な進化は、ロバート・ジャーヴィス(Robert Jervis)、ジョージ・クェスター(Geroge Quester)、そしてスティーブン・ヴァン・エヴェラ(Steven van Evera)によって論じられた「攻撃・防御理論」である。彼らは国家が互いをより簡単に侵攻できるようになればなるほど戦争の発生する確率が高まると論じた。ところが防御が攻撃よりも簡単な場合、安全の度合いは高まることになり、国家の拡大へのインセンティブは減少し、国家間の協力関係は促進されるというのだ。そしてもし防御側が有利になり、国家が攻撃的な兵器と防御的な兵器を見分けることができれば、その国家は他国を脅かすことなくそれから身を守るための手段を獲得することができるし、それによってアナーキーの効果も薄めることができるのだ。

  このような「ディフェンシヴ(防御的)・リアリスト」たちにとって、国家はただ単に「生き残り」を求めているだけであり、大国は自身の安全を、「バランシング同盟」(balancing alliances)を結成し、防御的な軍事態勢(報復的核兵力など)を選ぶことによって確保できることになる。そして当然のように、ウォルツや他のネオ・リアリストたちは、アメリカが冷戦期のほとんどの期間に極めて安全な状態にあったと考えているのだ。彼らの最大の心配は、アメリカがその有利なポジションを無駄に侵略的な対外政策を採用することによって浪費してしまうのではないかという点だ。したがって、冷戦の終わりにリアリズムはモーゲンソーの人間の本質に対する暗く重苦しい考え方から離れ、やや楽観的な雰囲気を採用することになった。

▼リベラリズム
リアリズムに対する主な挑戦は、リベラル系の理論の数々によって突きつけられてきた。たとえばリベラル派の一部は、経済相互依存によって国家が互いに軍事力を使おうとするのを抑えると論じている。その理由として、彼らは戦争が互いの経済的繁栄を脅かすことになるからだとしている。リベラル系の中でも、とくにウッドロウ・ウィルソン大統領の議論に代表される一派は、民主主義の拡大が世界平和の実現のための唯一のカギであり、この論拠を、民主制国家のほうが独裁的な国家よりも本質的に平和的であるという点に求めている。

  その他にも、より最近の考えでは、国際エネルギー機関(IEA)や国際通貨基金(IMF)のような国際制度機関が、直近の自国だけの得を諦めさせて、国際協力を通じたより多きな利益を得ることを奨励することによって、国家の利己的な行動を克服することができると主張している。リベラル派の中には、「多国籍企業のような新たな越境的なアクター(行為主体)が国家の力を侵食している」というアイディアをもてあそんでいる人々もいるが、一般的にリベラル派は「国家が国際政治における中心的なプレイヤーである」と見なしている。すべてのリベラル系の理論で示唆されているのは「国家間の協力はディフェンシブ・リアリズムよりもはるかに説得力を持つものである」ということだが、それをどのように促進していのかについては、それぞれ意見が異なる。

▼ラディカル派のアプローチ
マルクス主義は、一九八〇年代まで主流派のリアリスト系やリベラル系に対抗する主な学派であった。リアリスト・リベラルの両学派は国家システムを前提にものごとを見ていたのだが、マルクス主義は国際紛争について違った説明を行っており、既存の国際的な秩序を根本的に変える青写真を提供していた。

  古典的なマルクス主義の理論では、資本主義が国際紛争の中心的な原因であると見られていた。資本主義国家は、互いの絶え間ない利益を巡る争いや、社会主義国家との戦いのために戦ってきたのだが、この理由は彼らがそれらの中に自らの破滅の原因があると感じたからだ。それとは対照的に、新マルクス主義の「従属論」では、先進国である資本主義国家と後進国の関係性に着目し、前者――先進国の邪悪な支配階級の助けによって――が後者を搾取することによってますます富を蓄積していると論じられる。その唯一の解決法は、この寄生虫的なエリートたちを打倒して、自律的な発展を誓う革命政府を打ち立てることだという。

  この二つの理論は、冷戦が終わる前の時点でほぼ信用を失っており、先進工業国の間における経済・軍事面での密接な協力の歴史から判明したのは、資本主義が必ずしも紛争につながるわけではないということであった。また、共産主義世界が激しく分裂していたことからもわかるように、社会主義は常に調和を促したわけではない。 従属論も同じように次第に多くの反証を突きつけられることになり、第一に、世界経済への積極的な参加のほうが、自律的な社会主義的な発展よりも繁栄を得るにはより良いルートであることが判明したこと、そして第二に、多くの発展途上国が自ら証明したように、多国籍企業やその他の資本主義制度とうまく取り引きを行うことができたために、その説得力を失ってしまった。

  この学派の思想がいくつもの面で欠点があからさまになってくると、その思想的な部分は、文芸評論や社会理論におけるポストモダンの著作などから多くのアイディアを借りた、ある理論家たちの集団に引き継がれることになった。この「脱構築的」(deconstructionist)なアプローチは、リアリズムやリベラリズムのような一般的・普遍的な理論を構築しようとする努力に対して明確に批判的であった。その証拠に、このアプローチの提唱者たちは、社会的な結果を形成する際に使用される言葉の「言説」の重要性を強調したのだ。ところがこの学派の人々は、当初は主流派のパラダイムを批判することを狙っていたにもかかわらず、それに代わる新たな代替案を提出しなかったために、一九八〇年代のほとんどの期間を通じて、あえて反体制の少数派のまま残ったのである。

▼国内政治
もちろん冷戦期のすべての国際政治の分野の専門家たちが、リアリスト、リベラル、もしくはマルクス主義という分類に入るわけではない。なぜなら多くの重要な著作が、国家や政府の組織、もしくはリーダー個人たちの特徴について注目しているからだ。リベラル派の理論の民主制を強調する学派はこの分類に当てはまるのであり、他にもグレアム・アリソン(Graham Allison)やジョン・ステインブルーナー(John Steinbruner)などは、組織理論や官僚政治を使って国家の対外政策の行動を説明しており、ジャーヴィスやアーヴィング・ジャニス(Irving Janis)などは社会・認知心理学を応用している。彼らの研究のほとんどは国際政治の全般的な行動を説明しようとするものではなく、むしろ国家がリアリストやリベラルなアプローチとは異なる行動をする別の要因を指摘するものであった。したがって、これらの文献のほとんどは、国際システム全体を分析するアプローチというよりも、これらの三つの主流派のパラダイムを補完するものであると見なされるべきである。

(↓後半につづく)
by masa_the_man | 2014-10-05 20:00 | 日記 | Comments(10)
つづきです。

●古いパラダイムの再生

国際政治についての学術研究は、冷戦が終わってから劇的に多様化した。アメリカ以外の学者たちの意見が目立つようになり、より多くのメソッドや理論が正統的なものとみなされるようになり、そして民族紛争や環境問題、そして国家の未来像についてのような、新しいテーマがそこかしこで論じられるようになった。

  ところがそこで見られるようになった既視感も、それと同じくらい驚くべきものだ。冷戦の終わりは伝統的な理論の間の戦いを解決するのではなく、ただ単にあらたな議論を開始しただけだった。皮肉なことに、多くの国が民主制、自由市場、そして人権のような似たようなアイディアを賞賛するようになったにもかかわらず、専門家たちは今までにないほど分裂してきたのだ。

▼よみがえったリアリズム
冷戦の終わりによってリアリズムが過去のものになった宣言する人々も現れたが、それが終わったとする噂はかなり誇張されている。

  最近のリアリストの学者たちの間で行なわれている議論で目立つものは、相対的なパワーの獲得と絶対的なパワーの獲得に関するものだ。「国際制度機関は国家に短期的な優位の獲得を我慢させて、より大きな長期的利益を目指すように促す」というリベラルの制度学派の人々に反論する形で、ジョセフ・グリーコ(Joseph Grieco)やスティーブン・クラズナー(Stephen Krasner)のような人々は、アナーキーが国家に対して協力することによる絶対的なゲインと、その協力者たちの間でゲインの分配のされかたについて心配させるという点を指摘している。ここでのロジックは明快だ。もしある国がパートナーたちよりも大きなゲインを獲得できるのであれば、自分はより強力になって、逆にパートナーたちは最終的に脆弱になるということだ。

  また、リアリストたちは新たな問題についても迅速にその分析の幅を広げている。たとえばバリー・ポーゼン(Barry Posen)は民族紛争についてリアリスト的な説明を行っており、多民族国家の崩壊はライバル同士の関係にある民族集団をアナーキーな状況に追い込むことになり、互いに対して強烈な恐怖を感じさせるようになり、互いに武力を使って相対的なポジションを上げようとすると指摘している。この問題は、ユーゴスラビアで見られたように、各民族集団の領土の中にライバルの民族集団の小さな居住区がある場合にはとくに激化することになるという。なぜなら、各集団はこの異質な少数派を「(予防的に)浄化」しようと考えたり、国境の外にいる味方の民族を中に引き戻して領土を拡大しようとするからだ。リアリストたちは(現在は明確な敵の存在しない)北大西洋条約機構(NATO)がストレスに直面して東側に拡大すると予測しており、それによってロシアとの関係を危うくすると見ている。他にもマイケル・マスタンデューノ(Micael Masutanduno)のような専門家は、「アメリカの対外政策は全体的にリアリストの原則に沿ったものであり、その行動はアメリカの圧倒的優位な状態を維持し、アメリカの国益を推進するための第二次大戦後の秩序を形成することを狙ったものである」と論じている。

  冷戦後のリアリストのパラダイムの中で最も興味深い概念の発展は、その理論が「防御的(ディフェンシヴ)」と「攻撃的(オフェンシヴ)」に分かれてきたという点であろう。ウォルツ、ヴァン・エヴェラ、そしてジャック・スナイダー(Jack Snyder)のような「ディフェンシヴ・リアリスト」たちは、「軍事的侵攻には国家にとっての固有の利益はない」という想定を持っており、そこから「領土拡大にかかるコストはそこから得られる利益よりも一般的に大きい」と主張している。また、彼らは「大国戦争が起こるのは、主に国内の集団が脅威を過剰に評価して軍事力の効果に過大な期待をかけているからだ」と論じるのだ。

  ところがこの見方はいくつかの点から批判を受けている。ランドール・シュウェラー(Randall Schweller)が指摘しているように、まず最初に批判されるのが、ネオリアリストの「国家は非常に不利な中でも、ただ生き残りを図るために現状維持を志向する」という想定だ。これによって国家は、アドルフ・ヒトラー率いるドイツや、ナポレオン・ボナパルテ率いるフランスのように、すでに持っている以上のものを熱望し、しかもその狙いを達成するためには殲滅戦も辞さないような略奪的な修正主義国家(revisionist states)の脅威を阻止するというのだが、この分析は怪しい。第二にピーター・リーバーマン(Peter Liberman)の『占領は利益になるか?』(Does Conquest Pay?)という本では、ナチスの西ヨーロッパ占領やソ連の東欧に対する覇権のようないくつもの例を挙げて、占領の利益はそのコストを上回ることが多く、 「軍事的な拡大がもう利益にはならない」という主張に疑問を投げかけている。 第三に、エリック・ラブス(Eric Labs)やジョン・ミアシャイマー(John Mearsheimer)、そしてファリード・ザカリア(Fareed Zakaria )のようなオフェンシヴ・リアリストたちは、アナーキーがすべての国に相対的なパワーの最大化に向かうように促すと主張している。その理由は、単純にどの国家も本物の修正主義国家が絶対に登場しないと確信を持てないからだ。

  このような違いは、リアリストたちがなぜヨーロッパの将来のような問題について合意できないのかについて教えてくれる。たとえばヴァン・エヴェラのようなディヴェンシヴ・リアリストたちは、戦争が利益を生むことはほとんどなく、そのほとんどは軍国主義や熱狂的なナショナリズム、もしくはいくつかのネジ曲がった国内的な要因の結果だとしている。ヴァン・エヴェラはこのような要因が冷戦後のヨーロッパにはほとんど存在していないために、この地域は「平和の機が熟している」と考えるのだ。ところがミアシャイマーやその他のオフェンシヴ・リアリストたちは、アナーキーがそれぞれの国の内部の特徴に関係なく、大国を互いに競わせるようにし、アメリカという調停者が撤退すれば、ヨーロッパではすぐに安全保障競争が復活すると考えるのだ。

▼リベラリズムの新たな生命
共産主義の敗北は、西側諸国で自己満足的な称賛の数々を生み出したが、この典型はフランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)による、人類の「歴史の終わり」に到達したという評判の悪い主張である。もちろん歴史がこの称賛のおかげで何かを変えたわけではないのだが、西洋の勝利はリベラル派の思想に大きな勇気を与えたのだ。

  その中でも最も興味深い、重要な発展は、「民主制平和論」(democratic peace)についての活発な議論であろう。この最近の議論の流れはソ連崩壊以前からすでに始まっており、しかもその後にいくつもの民主制国家が新たに誕生して、その証拠が集まってきたことから影響力を高めたのである。

  「民主制平和論」は「民主制は独裁制よりも平和的である」とするリベラル派の初期の主張を精緻化させたものである。その論拠は、民主制国家もその他の種類の国と同じくらい戦争はするが、民主制国家同士は(絶対というわけではないが)ほとんど戦争しないという考えにある。マイケル・ドイル(Michael Doyle)やジェームス・リー・レイ(James Lee Ray)、そしてブルース・ラセット(Bruce Russet)のような専門家たちは、この傾向について無数の説明を行っており、その中でも最も人気があるのが、民主制国家は同じような原則を持つ集団に対して軍事力の行使を禁止する、妥協の「規範」(norms)を持っているというものだ。近年の学術界の議論の中で、「民主制同士は戦わない」という意見ほどクリントン政権の民主的な支配圏の拡大への努力を正当化する上で影響力のあるものはない。

  リベラル制度論者(Liberal institutionalists)たちも自分たちの理論を引き続き構築し続けており、まず一方で、その中心的な主張は段々と控えめなものになりつつある。現代の制度機関は、国家同士が「お互いに利己的な国益に反する行動をできない」と合意した時に、協力関係の土台を敷く役割を果たすと言われている。その一方で、ジョン・ダフィールド(John Duffield)やロバート・マッカラ(Robert McCalla)のような制度機関主義者たちは理論を拡大して、最も目立つところではNATOの研究などに応用している。これらの専門家たちは、NATOの高度に制度化された性質によって、主な敵の喪失(ソ連崩壊)にかかわらず、その後も生き残って順応していけたのかについて説明できるというのだ。

  リベラル派の理論の経済分野の議論も、いまだに影響力が大きい。最近も多くの専門家たちが、世界市場の「グローバル化」や、国境を越えたネットワークや非政府組織の台頭、そしてグローバル・コミュニケーション技術の急速な拡散が、国家の力を弱めており、その焦点が軍事安全保障から経済・社会面での繁栄に移ってきたと論じている。もちろんその詳細は新しいものだが、基本的なロジックは見覚えのあるものだ。つまり世界中の国家が経済・社会面での網にどんどんからめとられるようになると、このつながりを妨害する時に発生するコストが、国家の独断的な行動、とりわけ軍事力の行使を阻止する役割を果たすというのだ。

  この視点が示しているのは、戦争の可能性が先進工業国の民主制国家の間ではほぼ消滅したまま続くということであり、他にも中国とロシアを世界の資本主義のシステムに組み込んでしまえば、そのプロセスの間にこのような国々の中で強力な中間層の人口が増え、彼らが民主化への圧力を強めるために、繁栄と平和を推進することになるというのだ。これらの国々を経済発展に集中させてしまえば、競争は経済分野の中だけの話になる。

  この視点は「実際にグローバル化している範囲は狭く、これらの変化はまだ国家という枠組みの中の環境で起こっている」と論じる専門家たちから批判されている。それでも「経済的な力が従来の大国政治を克服した」とする考えは専門家や知識人、そして政策家たちの間で広くもてはやされており、国家の役割が将来の学問の上の問題として重要なテーマでありつづける可能性は高い。

▼コンストラクティヴィストの理論
リアリズムとリベラリズムが、パワーや貿易のような物理的な要因に注目するのに対して、コンストラクティヴィスト(社会構成主義)のアプローチでは、アイディアのインパクトに注目している。国家をはじめから存在するものと仮定して生き残りを探っていると想定する代わりに、コンストラクティヴィストたちは、国家の利益やアイデンティティーというものが、歴史的なプロセスによって大きく影響を受けてきたものであると見なしている。彼らは社会の中で広く使われている「言説」(ディスコース)というものにとりわけ注目するのだが、それは言説が信念や国益を反映して形成し、その国家に受け入れられる行動規範を確立するからだ。結果として、コンストラクティヴィストたちはとりわけ変化を起こす要因に注意することになり、このアプローチは国際政治についてのラディカル派の理論では、冷戦中のマルクス主義の立場にとって代わる存在となったと言える。

  冷戦の終わりはコンストラクティヴィストの理論を正統化するという意味で重要な役割を果たすことになった。なぜならリアリズムとリベラリズムは双方とも冷戦の終結を予測できなかったし、その理論からこの現象を説明することも困難だったからだ。ところがコンストラクティヴィストたちはこれを説明できたのである。具体的には、元ソ連代表のミハイル・ゴルバチョフが新たに「公共の安全保障」(common security)というアイディアを出したおかげでソ連の対外政策に革命を起こしたというものだ。

  さらにいえば、われわれは古い規範が挑戦を受け、明確だった境界線が曖昧になり、アイデンティティーの問題が先鋭化している時代に生きているということから考えれば、専門家たちがこれらの問題を前面かつ中心におかずにはいられなくなったことは当然とも言えるのだ。コンストラクティヴィストの視点から言えば、冷戦後の時代の最も重要な問題は、「異なる集団が自らのアイデンティティーと利益をどのように捉えるか」ということになるのだ。もちろんこれは「パワーが無関係になった」というわけではないのだ、コンストラクティヴィズムではアイディアとアイデンティティーの作られ方や、その発展の仕方、そして国家が自身の状況をどのように理解してどう対処するのかというところに影響を与える点が強調される。したがってここで重要なのは、ヨーロッパの人々が自分たちのことを国家単位と大陸単位のどちらで定義するのか、ドイツと日本はより積極的に国際的な役割を果たすことを狙って自分たちの過去をどのように再定義するのか、そしてアメリカが「世界の警察官」というアイデンティティーを称賛するのか、それとも否定するのかという点になる。

  コンストラクティヴィストの理論はきわめて多様であり、これらの問題については統一された予測のようなもの提供されない。純粋に概念的なレベルで、アレクサンダー・ウェント(Alexander Wendt)が「リアリストのアナーキーの捉え方では、なぜ国家間で紛争が起こるのかを適切に説明できない」と主張している。彼によれば、本当に重要なのはアナーキーがどのように理解されているかという点なのであり、論文のタイトルにあるように、「アナーキーは国家が思い描くもの」(anarchy is what states make of it)なのだ。別のコンストラクティヴィストの考えでは、領土国家の将来が主な研究対象となっており、国境を越えたコミュニケーションや共有された市民文化などが従来の領土国家に対する国民の忠誠心を切り崩しており、劇的に新しい形の政治的な動きを創造していると論じている。コンストラクティヴィストの中には規範(norms)の役割に注目している人々がおり、国際法やそれ以外の規範的な原則がこれまでの「国家主権」のような概念を衰退させ、国家権力が行使される際の目的の正統性を変えてしまったと論じている。ここで示したいくつかのコンストラクティヴィストの議論に共通するテーマは、政治のアクターたちが自らのアイデンティティーや利益を形成して行動を変化する際に果たす「言説」の力なのだ。

▼国内政治の再考
冷戦期においても、学者たちは国家の行動における国内政治のインパクトを常に探っていた。国内政治は「民主制平和論」の議論においては明らかに中心的な位置を占めるものであり、スナイダー、ジェフリー・フリードマン(Jeffrey Friedman)、そしてヘレン・ミルナー(Helen Milner)のような学者たちは国内の利益団体が国家の志向性に対してどのような(悪)影響を与えるのかということを論じている。また、ジョージ・ダウンズ(George Downs)やディヴィッド・ロック(David Rocke)などは、国内の制度機関が、国家にとって消え去ることのない不確実性に対処するための助けとなる可能性を示しており、心理学の専門家たちは、プロスペクト理論やその他の新しい理論を応用して、なぜ政策決定者が合理的な行動をできなくなるのかを説明している。

  ここ十年間では「文化」という概念への関心も劇的に高まっており、これはコンストラクティヴィストの「アイディアと規範の重要性の強調」という部分とオーバーラップしている。

  このトレンドは、その一部がアカデミック界(そして国民の間での議論)での文化的な問題についての興味の高まりを反映しているが、それは同時に、ソ連崩壊の後の部族、民族、文化面での紛争の急増という国際的な環境が反映されたものであると言える。

●将来の概念的なツール

これらの議論は国際政治における現代の学術研究の分野の広まりを反映しているが、同時にそれが統合されていく予兆も見受けられる。ほとんどのリアリストたちは、ナショナリズムや軍国主義、民族性、そしてそれ以外の国内的な要因も重要であることを認めており、リベラルたちは、国際間の行動におけるパワーの重要性を受け入れている。そして何人かのコンストラクティヴィストたちは、アイディアが最大のインパクトを持つのは、それが強力な国家によって支持され、物理的な力によって継続的に強化されたときであると認めているのだ。これらのパラダイムの境界線は低くなっており、知的面で互いに「良いとこ取り」することは十分可能になってきている

  まとめていえば、これらの競合する理論は、世界政治の重要な面をそれぞれ捉えている。もしわれわれがこの中のたった一つの理論だけでしかものごとを考えられなくなってしまえば、われわれの理解は貧弱なものになってしまうはずだ。将来の「完全な外交官」たちはリアリズムにとって不可避である「パワー」の役割の重要性の強調や、リベラリズムの国内からの圧力の認識、そしてコンストラクティヴィズムの変化についての考え方などを心に留めおくべきなのだ。

(了)



奥山真司のアメリカ通信LIVE


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by masa_the_man | 2014-10-05 19:59 | 日記 | Comments(7)