戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man

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今日の横浜北部は雲は多めだったのですが、また晴れました。しかし朝晩はかなり涼しくなりましたね。

さて、安倍首相が今日からカナダに訪問ということらしいですが、首相の来加記念ということで、私の母校の専門家が書いた北極海ネタです。

ロシアの沿岸を通る「北東航路」にたいして、カナダ側を通過する「北西航路」の準備不足を警告する内容です。

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カナダの北極の悪夢が実現!北西航路が商業化
by マイケル・バイヤーズ

●今週のハーパー首相はあまり眠れなかったかもしれない。デンマークのノルディック・オリオン号が北極の「北西航路」を国際的な交易航路として使った最初の貨物船になったからであり、しかもこれがカナダの環境と主権に与えるリスクは潜在的に高い。

●先週に同航路上で起こった沿岸警備隊のヘリコプターの事故は、この航路の危険性を教えることになった。

●三人の乗組員は全員サバイバルスーツを着ており、ヘリが沈む前に脱出できたのだが、それでも砕氷船が現場に到着する前に凍死してしまったのだ。

●ノルディック・オリオン号はある程度の北極海の厳しい環境に耐えうる構造にはなっているとはいえ、それでも海中にある氷山の一角などによって沈んでしまうリスクは存在するのだ。

●カナダの遭難救助の能力は深刻なほど低い。われわれの長距離用ヘリの基地は西部のブリティッシュ・コロンビア州とノバスコシア州、それにラブラドールにあり、北西航路にいくまでには一日かけて2500キロ飛ぶ必要があり、しかも途中で補給をしなければならないのだ。

●カナダ南部からCー130を派遣するのも可能だが、ヘリとは違って人を海上から救出することはできない。しかもこの飛行機は使用して50年近くたっており、維持管理のために派遣できない時期もある。別の飛行機を購入する計画は2002年に始まったが、いまだにその交渉はまとまっていない。

●それと比較すると、ロシアは北極海にいくつかの遭難救助拠点を持っており、それ以外に10箇所を新しく建造中だ。しかもそれぞれ新しい船と飛行機がつくのだ。

●カナダには北西航路周辺に船の故障などに対応できる港を一つも持っていないが、ロシアは16箇所も北極海沿岸に持っているのだ。

●われわれはそろそろ長年議論されているバフィン島にある波止場を通年使える基地につくりかえるべきであり、それ以外にもタクトヤクツクやイカルイトなどにも施設をつくるべきだ。

●大規模な海図の書き換え計画も必要だ。2010年にジョン・ファーキンハム氏は、北極海における最大の問題は海図が不適切であるとあるメディアに答えている。彼によれば、現代の海図の基準から考えると、北極海のたった1割ほどしか適切なものではないという。実際に事故やニアミスは多発している。

●また環境面でのリスクもある。ノルディック・オリオンが運搬する石炭は、いざ事故が起こってもあまり環境にダメージを与えるわけではない。しかし船の燃料はダメージを与える。

●2004年にマレーシアの貨物船がアラスカ近辺で嵐に遭遇して航行不能になり、岸辺に座礁している。この際に120万リットルもの燃料をばらまいてしまった。もちろん場所が場所だったために海から燃料を回収できず、それに対処できるような船も人員もほとんど存在しなかった。

●ところがロシアはこのような事態への備えを行っており、外国の船を護送するための十数隻の砕氷船を用意している。

●一方でカナダの沿岸警備隊の艦船は古くなりつつあり、それらのほとんどは小さすぎて護送船としては使えない。そのうちの一隻をつくる計画もあるのだが、実際の建造の契約はまだなのだ。カナダ海軍には砕氷能力を持つ艦船は一隻もなく、そのような建造計画もはるかに遅れている。

●ノルディック・オリオンの航行はカナダの北西航路における法的立場をおかすものではないし、実際にカナダ政府から通行許可を得ている。ところが他の船がそれに続くことになると、彼らの安全の確保と環境保護の徹底はできなくなるのだ。

●カナダの法的立場を推進する最適な方法は、インフラと重要なサービスを提供することだ。国際的な貿易会社は、砕氷船や世界レベルの遭難救助システム、それに天気(流氷)予報や安全確保のための港湾施設などが確保できれば、カナダの北西航路を活用しようとするはずだ。

●外交的にも北西航路について議論を進めるべきだ。とくにこの航路が自国の安全にも関わってくるアメリカにとっても悪い話ではない。

●アメリカ人の中には、すでにこれらの問題に対処するためには、強力な北極海沿岸諸国の国内法によって対処するのが最も良いということを知っているものもいる。

●カナダが北極海にかける意気込みはどこまで強いのだろうか?その責務をどこまで果たすつもりがあるのだろうか?アメリカとの信頼に足る同盟国であろうか?

●今週のハーパー首相は、目覚めた時にこのような質問を自分自身にたいして問いかけなければならないだろう。

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カナダからの視点ということで、なかなか興味深いものかと。

カナダのインフラが十分でないことは知っておりましたが、まさか現実的にここまでロシアに遅れをとっているとは知りませんでした。

遭難救助が関係してくると、北極海の中央の「公海」を通過する中国の思惑というのは現実的ではないことがわかります。それに今年の夏は北極海の氷がかなり復活したらしいですし。

北極海の地政学ネタは、引き続き本ブログでも追いかけて行くつもりです。
by masa_the_man | 2013-09-29 18:25 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は朝からほとんど曇空。気温もやや低めです。

さて、久しぶりにメルマガを更新しましたのでその内容を半分だけご紹介します。

本ブログをお読みの皆様でしたら、このメルマガにかかれている主旨は十分おわかりかと思いますが、私がこれを読んでいただく際に今一度思い起こしていただきたいのは、リアリズムの分析法には余計な善悪判断が入らないものであり、入らないという点に良さが(そして見る人によってはそこに弱点が)ある、ということです。

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現在、日本国内で、安全保障関連での大きな関心事の一つは、なんといっても、集団的自衛権の件をどうするのか?ということではないでしょうか。

これについては、安倍政権が私的な諮問機関として、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」いわゆる「安保法制懇」という有識者会合を開催して議論しています。

そして、今回のその座長代理をつとめているのは、北岡伸一氏。彼は現在の日本の安全保障研究の「ドン」とも言える人物であり、そもそもは歴史家で、昭和陸軍の歴史を書いて名を成した人です。彼は基本的には、いわゆる「パンダハガー」的な、中国に対して、どちらかといえばリベラル寄りな発言を繰り返してきた人物である、というのが、私が北岡氏に抱く印象です。

ところが、その北岡氏が、読売新聞(9月22日付1面)の意見記事の中で、反中的とも取れる意見を書いておりました。その概要をざっくりとご紹介すると、

日本が現在直面しているコンテクストを構成している「五つの条件」を検証し、それを中国側にも当てはめて比較検討してみた、

という主旨です。

北岡氏はこの意見記事のなかで、

「日本が自衛力強化の議論をしているのに、すぐに“いつか来た道”と言い、戦争につながると批判する人がいる」

として、"批判する人々"(おそらく、日本の平和原理主義の左翼陣営)が日本が第二次大戦に参戦するに至る、そのそもそもの原因を全く考えたことがないからではないか?

と、いくぶん挑発的な指摘をしております。

そして、その当時の状況と、現在の日本のおかれた状況を比較しつつ、その違いを浮かび上がらせてくれる「五つの条件」として、

・地理的膨張が国家の安全と繁栄を保証するという考え
・相手は弱い、という認識
・国際社会は無力であり、制裁する力はない、という判断
・軍にたいする政治のコントロールの弱さ
・言論の自由の欠如

を挙げています。

要するに、北岡氏は、
「戦前の日本は、この五つの条件にすべて“イエス”で当てはまった」
と分析しているのです。

確かに、日本は満州を獲得することで、ロシアからの侵攻を防ごうと画策していただけでなく、
そこには、当然、経済的なチャンスも見出していました。そして、当時の軍部は、中国の軍閥を見下していた・・・という話もあり、北岡氏が指摘する上記の五つの条件にはたしかに「イエス」と言えるものばかり。

そして、北岡氏は、現在の日本は、この「五つの条件」については、すべて"ノー”と言える状態にある、と主張しています。

実際のところ、日本は拡大主義が安全につながるとは思ってはおらず、相手(中国など)をそこまで舐めているわけでもなく、自衛隊のシビリアンコントロールはしっかり効いています。

更に北岡氏は、現在の中国は上のすべての条件に「イエス」となり、戦前の日本に近い状態であるとして、警戒すべきは中国のほうであり、だからこそ、日本は防衛的な意味において粛々と防衛に関する法的な議論を進めるべきだ、という主旨のことを述べています。

その部分を具体的に引用すると、

「日本がかつての愚を繰り返さないようにするというのは当然・・・今、考えるべきことは、日本に侵略された中華民国の側に逆に身を置き、不当な侵略をどう防ぐか、より効果的な自衛のためにどうすればよいのかということである」(9月22日付『読売新聞』朝刊:「地球を読む」より)

というコメントを載せているのです。

単純にいえば、昔の日本が「愚」で、中華民国に「義」があり
現在は中国が「愚」で、日本に「義」がある、という感じですね。

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この続きは以下のメルマガでお楽しみ下さい。


by masa_the_man | 2013-09-26 16:48 | 日記 | Comments(4)

累積戦略のスゴイ人

今日の福井市は曇りがちでしたが、ほんのり暖かな早秋の一日。

さて、ある新聞社の方に聞いた記者の話。

といっても、この記者の方は私が今日うかがった新聞社とは別の新聞社で働いている人らしいのですが、累積戦略の説明をしたら、「そういえば私が聞いたよその新聞社にこんな累積の人が・・・」といって教えてくれました。

曰く、この累積記者というのは昔から「超」がつくほどの現場大好き人間だそうで、とくに警察ネタを得意にしていて、夜な夜な繁華街に繰り出しては、裏の世界の方々とお付き合いの毎日だとか。

ところが年功序列のサガというか、彼も勤続何十年かしていよいよデスクになり、現場から離れることになったのですが、どうも管理というものが肌に合わなかったらしく、とにかく仕事をしても失敗続き。

本人も「現場に戻りたい」と嘆願していたらしく、それではということで上司が特別待遇にして、まるで鬼平犯科帳の鬼平のように、特別遊撃部隊のような、いわばフリーの記者のような形で自由に取材をやらせてもらうようになってから真価を発揮。

彼の持ち味は、なんといっても毎日の(裏の世界の)人との密度の濃い接触にあり、半年に一度くらいは地方紙の枠組みを越えた大スクープをとってくるようになったとか。

その新聞社では、この記者のように「現場に張り付け(=累積戦略を実行せよ)」と行っても、この記者の累積のレベルがあまりにもすごすぎて、若い記者たちの見本にはならないとか。

すでに私も色々なところで解説している通り、累積戦略というのはある一定以上のレベルに達するとそれまでの小さな成果が有機的かつ爆発的につながり、いわゆる「創発」と呼ばれる結果を生み出すことになります。

そうなると、後ろから追いかけている人にとっては全く追いつけない存在になってしまいます。

ではそれを追いかける人(この場合は若い新人記者)はどうすればいいかというと、それはやっぱり自分でコツコツと地道に累積を繰り返していくしかないわけで、この戦略には「王道なし」というか、遠回りが一番の近道だったりするわけですから皮肉です。

ということで何を言いたいかというと、やっぱり何かものをなすときには地道なところからコツコツ始めましょう、ということです。


『Quiet(クワイエット)内向型人間の時代』を読み解く~累積戦略と順次戦略を徹底解説
by masa_the_man | 2013-09-25 21:56 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は涼しい曇の日でした。

さて、ここ2日ほどネット上で音沙汰なかったわけですが、実は日曜日の某A省のイベントに参加してきてから体調を崩し、この二日間は寝たきり状態でした。今日の午後になってようやく回復してきたので、久しぶりに書き込みをしております。

まだ本調子ではないので、本日はそのイベントで撮影してきた写真だけでご勘弁下さい。

イベントですが、晴天に恵まれて最高でした。私はコネを使ってすぐ下の写真からわかるように、招待席に座らせていただきました。
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↑74式戦車。当日は一般向けの試乗会(!)も行われておりました。私は時間がなかったので乗りませんでしたが・・・。
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↑子供向けの戦車型遊具(?)
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↑観閲式でジープに乗る司令
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↑FH-70。訓練展示で空砲発射。あまりの音のデカさに周囲の子どもたちが一発でギャン泣き。
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↑観閲行進だけの参加だと思ったら訓練展示にも参加したコブラ。
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↑本部隊舎の廊下の看板。
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↑特別に見せてもらった司令の部屋の中。

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以上です。

明日は福井に出張なのですが、ブログのほうもメルマガのほうも本格的に再開予定です。
by masa_the_man | 2013-09-24 22:48 | 日記 | Comments(3)
今日の出羽国は本当に気持ちの良い秋晴れでした。

昨日から泊まりがけて某A省関連のイベントに取材を兼ねて来ておりまして、本日無事に式典に参加してまいりました。

さて、くどいようですがテクノロジーについて考えていることを少し。

戦略研究の中では、テクノロジーというのはその始まりから常に重要な要因であることは、少しでも戦争の歴史などを学んだことがある人は知っておりますし、産業革命によって大きな変化が起こった社会全般についても実は全く同じことです。

ところが戦争や社会におけるテクノロジーの影響の研究をしようとすると必ず出てくる問題が、二つの極端な分析。

これは人間vsテクノロジーという対比と言い換えることができるかもしれませんが、最もわかりやすいのは、保守派vs革新派というものかと。

たとえば戦争におけるテクノロジーの「保守派」が極端に出ると、「テクノロジーよりも、それを操る戦士(ウォリアー)のほうが重要だ、という分析になります。人間中心主義ですね。

ところがその反対の「革新派」の立場だと、テクノロジーの進歩によって、それこそインテリジェンスのような情勢認識からからあらゆることが解決するという、いわばテクノロジー万能主義に傾くことになります。これはアメリカの専門家に多く見られる傾向ですな。

これもよくわかるんですが、落ち着いて考えてみると、テクノロジーというのは決して戦争の結末を決定する単独の要素ではありません。たとえそれが最先端のものであっても、それを使う側の人間がそもそもそれをマスターできておらず、ロクに活用できない場合には、なんの意味もないということになります。

また、最新のテクノロジーにはそもそも独特の弱点をかかえているものであり、たとえば最近の無人機の例では、それがハッキングされてしまえば使い物になりませんし、ステルス戦闘機でも目視で確認されてしまえば「ステルス性」そのものが全く活用できません。

結局のところテクノロジーの優位というのは、当たり前なんですがテクノロジーそのものの質の高さと、それを使う人間の能力や意図の正しさというものがとわれてくるものでして、いわば人間と技術が複雑に交じり合った「システムとしてのテクノロジー」の優位になったときに決定力を発揮する、ということになります。

ようするにここでまた強調したいのは、テクノロジーを「技術」というハードウェア的な解釈に押し込めるのではなく、もっと人間との絡みやそれを活用するソフトウェア的な部分をわれわれは理解する必要がある、ということですね。


by masa_the_man | 2013-09-22 22:03 | 日記 | Comments(0)
今日の甲州は気温も上がってまだ夏のようでした。

さて、スーザン・ケインの「内向型人間の時代」や、私の「累積・順次戦略のCD」に関連した内容の面白いエッセイがありましたのでその紹介を。ここにも「社会とテクノロジー」というキーワードの存在が。

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書きたいなら外にでなさい
By キャロル・カウフマン

●秋が来た。外に出るには最適の季節である。これはつまり、私のものを書く作業の効率がアップすることを意味している。

●バラバラな考えを文章にまとめるためには、気持ちの良い日に木陰に座ることほど最高な状況はない

●心地いいそよ風が吹いていて、鳥が歌をさえずり、私の周りを小さな虫たちが急いで這いずりまわっていて、しかも充電が満タンのラップトップ、もしくは大きなノートがそばにあれば、私が最高の文章を書けるのは確実なのだ。

●私が文章を書くための最高の状況を知ったのは、単なる偶然からだ。ナショナル・ジオグラフィック誌の記事の複雑な説明文をどう書こうかと頭を悩ませていた時に、私は家から出てポトマック川まで歩き、ノートと写真のコピーとペンを持っていったのだ。

●私は川沿いのピクニック用のテーブルに腰掛けて、川の水を眺め、自分の頭の中を考えるにまかせてみたのだ。目をトロンとリラックスさせ、どこにも焦点を当てないようにしてみた。

●すると、突然書く作業が楽になった。頭の中に引っかかっていた言葉が出てくるようになり、視点を大きくしてものごとを俯瞰的に見られるようになり、何を書くべきかがわかったのだ

●色々と調べてみると、家の外で書くことが私にとって最適である理由がわかってきた。そしてこれは、どうやら私以外の世界中の著者たちにも当てはまることみたいなのだ。

●1970年代のことになるが、レイチェル&スティーブン・カプランという二人の新進気鋭の環境心理学者は、人間の思考における自然の癒やし効果を研究し始めた。その数十年後、彼らの研究で判明したのは、自然とのつながりは人間の精神面の疲労を防ぎ、注意力の散漫を修復し、思考を鋭敏化させるということだ。

●また、都市の中の環境においても小規模の緑でさえわれわれの感覚を活性化してくれるという。自然の中に身を置くことはわれわれの生きているという感覚を蘇らせてくれるものだ。

●2010年に環境心理学ジャーナルに掲載された別の研究でも、自然の中に身を置くことで人間は活力の上昇を感じ、逆に無気力を感じにくくなるという結果が出ている。これらはすべて、細かいことや物語の緊張を溢れさせるという、ものを書く際に最も重要な要素なのだ。

●結局のところ、人間は半分寝ているような状態では良い記事など書けないということだ。

●また、これは色々な電子機器の警告音に囲まれている状態でも同じことだ。作家でジャーナリストのリチャード・ロウブは、テクノロジーがわれわれの注意をそらすことについて考えてきた人物なのだが、彼の長年の研究から、人間は自然と接することによって多くのことを獲ることができるという主張を行っている。

●彼の有名な本(Last Child in the Woods: Saving Our Children From Nature-Deficit Disorder)の中には、自然と接することは子供の精神や身体の健康のためだけでなく、大人にとっても重要であるという証拠が盛り込まれている。この「大人のビタミンN(自然)の欠乏症」については、近著(The Nature Principle: Reconnecting with Life in a Virtual Age)の中でも触れられている。

●私は彼にたいして、私の「外で書く理論」について聞いてみた。

●すると彼の答えは、「あなたが外で書けるというのは、もちろん自然とのふれあいもあるでしょうが、それよりもあまりにも多くの注意を散漫にする邪魔なものが、外に行くとなくなるからかもしれませんね。そのほとんどがテクノロジーに関するものなんですが」とのこと。彼自身も湖や森の近くでものを書くと調子がいいそうだ。

●「通信機器によるの情報の洪水は“妨害科学”(interruption science)とでも呼ぶべき新しい研究分野や、人間にとって新しい環境である“継続的部分注意”(continuous partial attention)を生み出したのです」とはロウブ氏の弁。

●彼によれば、常に電子的なじゃまが入ることは、真剣に仕事をしようとしている人間にとってはフラストレーションやストレスがたまることになり、創造力は確実に下がるという。なんたることだ!

●もちろんこれはありえそうな結論であるが、われわれのようなもの書きにとって、室内のインテリアはどれほど被害を与えているのだろうか?なぜわれわれは人工物だらけのオフィスや携帯のアプリが邪魔する中でものを書こうとするのだろうか?

●これこそまさに「部分的な思考」の状態である。なぜならわれわれの思考は、屋内ではあまりにも多くのことに分散されてしまっているからだ。

●もちろん私自身にも責任がある。子供を学校に送ったあと、私は自分のラップトップが置いてあるダイニング・テーブルから動こうとしないし、まだ朝食の片付けが終わっておらず、いくつものガジェットが色々な警告音を発している中では、私は30分間も仕事をしているはずなのに、全然集中できていないことが多い。

●ロウブ氏は「問題なのは、われわれの生活の中では段々と電子の侵入(electrotrusion)から逃れられる場所を見つけるのが難しくなっているということなんです」と述べている。ちなみにこの言葉は、彼の造語である。

●でも私はひとつの答えを知っている。私は自分の理想のオフィスが、サバンナの真ん中にあって、Wi-Fiの電波や、電線さえも届いていない場所にあることを発見してしまったのだ。

●私は近著の『サファリ』という本の取材のためにケニヤ南部のデコボコ道を車で揺られている時に、まるで狂ったようにそこで感じた印象や考えをノートの中に書きなぐった。

●吸血バエをたたきながらものを書くというのは、ガイドの言葉やチーターについてメモを記すためには理想的な状態とは言えないはずだ。ところが私にとって、これは理想的な状態だったのだ

●この時に書いた文字はもちろん酷いものだったのだが、そこに書かれたことの出来栄えはよく、結果としてこれが本の文章の中に活きてきたのだ。

●つまり読みにくい文字は清書できるが、考えのまとまっていないものは煮ても焼いても食えないのだ。

●ダイアン・アッカーマンはある本(A Natural History of the Senses)の中で、「ほとんどの人は思考が頭の中で行われていると思っていますが、最近の生理学の研究では、それが脳の中にあるのではなく、ホルモンや酵素によって身体全体を流れており、触感や味覚、嗅覚、聴覚、視覚という複雑なものを構成していることが示されています」と述べている。

●自然の中――私の場合は象やライオンやクロコダイルの住む場所――に身を置き、さらにはその環境に耳を済まし、匂いをかぎ、それを感じて味わうことほど良いことはない。

●私は現在、海についての本を書いている。現在はまだそのリサーチ段階であり、室内でさまざまなガジェットや用事に囲まれながら行っており、これはかなり困難な状況だ。

●ところがもうすぐ私は屋外にでる予定だ。自分の目で海のいきものや植物を確かめ、そこから書く作業に入るのだ。

●もちろん私はつねに海やアフリカのサバンナに行けるわけではないし、そのようなチャンスはかなり稀だ。それでも私はそこから得た教訓は忘れていない。室内のテーブルではなく、家の裏庭に行くことを学んだのだ。たしかに私の家の裏庭は小さいが、それでも隣の家の木や豪華な藤の木に囲まれている。

●たしかに最初は完璧にはいかないのだが、しばらくすると言葉がどんどん浮かんでくるのだ。

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少なからずものを書くという仕事に従事している自分にとって、この記事は非常に色々な示唆を与えてくれるものです。

そういえば私の先生の自宅にある書斎も、外の庭に面していて景色を眺められるようになっておりました。以下がその実際の様子です。
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by masa_the_man | 2013-09-20 21:18 | 日記 | Comments(6)

松山藩の「戦略の階層」

今日の横浜北部はまたしても快晴でした。朝はかなり気持ちいいですね。

さて、昨日の松山での講演のあとに飛行機まで時間があったので、ある博物館に行きまして、面白いものを発見しました。論より証拠、まずは以下の写真を御覧ください。

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ずばり、松山藩の人事の階級を示したものだったのですが、これが当然といえば当然ながら、「戦略の階層」そのもの。

日本はどちらかというと下の階級の優秀さで支えられているようなところがあるわけで、他の外国とは階層でいえば「底上げ」されているところあるわけですが、この松山藩の場合でいくと、下級武士の代官レベルまでが非常に優秀だったといえそうですね。

ということで、こういう図というのは色々と想像力をかきたてられて刺激になります。


by masa_the_man | 2013-09-19 20:06 | 日記 | Comments(0)
今日の松山市はよく晴れてまして、とても気持ちのよい初秋の快晴でした。

さて、昨日の続きのような感じで一筆。

古典地政学の歴史の移り変わりを見ていくと、ひとつ痛感することがあります。それは地理という要素を無視しようとすると、逆に地理が復讐してくるという現象です。

これだけではわけがわからないと思いますので、最近の具体的な例を挙げますと、数日前の紹介したサイバー紛争の歴史にかんする本の中に書かれている、「サイバー戦争というのは、隣国の間でしか起こっていない」という興味深い事実。

サイバー紛争(戦争)というのは、その定義からすると、国家がからんだアクター同士が、サイバースペース上で政治的な意図を持った形で破壊行為に及ぶ、ということになるのでしょう。

ところがこの本の中では、いままで行われてきた国家同士のサイバー紛争では、そのほとんどが隣国の間でしか行われていない、と指摘されているのです。

これは「サイバー空間は地理を越える!」と言ってきた、いわゆるサイバーパワーの推進者たちにとっては頭をかしげるような事態なのですが、抽象度を上げて考えてみれば、このような現象は至極当然なことです。

なぜなら、ある一方の要素を完全に否定するような理論(この場合は地理を否定するサイバー理論)が必要以上に押し進められると、逆にある時からその否定された要素の重要性に焦点が当たるようになるからです。

昨日の絡みでいえば、地理を全く考慮に入れないで理論を構築したウォルツの弟子たち(ウォルトやポーゼンなど)は、すぐに師匠の理論に地理的な要素を補完するような行為に出ておりますし、第二次大戦後に「地政学」を最も強く否定したアメリカが、実は極めて地政学的な大戦略を冷戦時代に推し進めたことなどはその良い例です。

このような、「一つの要素を否定しようとしてその対極の要素の役割を強調しすぎると、逆に元の要素の重要性が浮かび上がってきてしまう」という現象は、なにも学問の世界だけの話ではありません。

たとえば「愛」を強調しすぎると、その反対にそれを説いている人の「憎しみ」の部分がふとした瞬間にスキャンダルとして出てきたり、リベラル的な政策を提唱している党の内部が、リベラルとは正反対の冷酷な人間関係で成り立っていたり、という例はザラなのです。

似たようなことはEHカーも言っており、彼の主著である『危機の二十年』の中では、

「リベラルの理想はリアリズムの現実の前にひれ伏すだろう。しかしリアリズムは何も理想を示せないために行き詰まる」

という主旨のことを言っています。これはどちらが正しいというよりも、二つの思想の要素というのは表裏一体であるということなのかもしれません。

沈黙があるから音が存在できるように、どうもわれわれの住む世界というのは、一方の要素を否定しようとすると、逆に否定されているという事実のおかげで、かえって否定できないもののようになってしまうのではないでしょうか?

サイバーで地理を越えられる!グローバル化で地理を越えられる!という楽観論もわかるのですが、最終的には「やっぱり地理って重要だよね」というところにかえってくるのでは。


by masa_the_man | 2013-09-18 23:36 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は快晴でした。朝も気温はかなり下がり、つい数日前とは驚くほどの違い。

さて、随分と前から考えていることについて、メモ代わりにここへ。

数週間前に参加したある講演会で、「国際関係論というのは、究極のところをいえば、国を動かすリーダーたちの頭の中でどのような認識がなされているかだ」という印象的な言葉を聞きました。

しかもこの言葉を発したのが、アメリカのリアリスト系の学者であったことから、この発言はさらに感慨深いものに。

なぜなら、国際関係におけるリアリスト系の議論というのは、どちらかといえば唯物論的なものが多く、理論の基礎になっているのは国家の「パワー」であり、これは物理的にも計測可能なものであるという前提を踏まえながら理論を構築するからです。

この典型的なのが、私が翻訳した『大国政治の悲劇』の著者であるジョン・ミアシャイマーでありまして、彼は「国家のパワーは国の持つ陸上兵力によって計測できる」という強固な立場を崩しておりません。

考えてみれば、古典地政学の論者たちも基本的にはこのような唯物論的な前提に立って議論を構築しておりまして、たとえばニコラス・スパイクマンなどは、

「地理は、国家の対外政策の要素の中で最も根本的なものである。なぜならそれは最も永続的なものだからだ。大臣たちは登場してもいずれは去るし、独裁者でさえいつかは死ぬが、山脈は微動だにしない」

という印象的な言葉を残しております。

これを言い換えれば、地理というフィジカル(物理的)な要素を中心にして国家の関係を見ていくという、いわば唯物論的なものの見方であるわけですが、ナチス・ドイツがあまりにこのような見方を極端に推し進めて失敗したために(ドイツ)地政学が第二次大戦後に抹殺されたのはみなさんもご存知の通り。

しかし、このような見方とは反対の、いわば唯心論的なもの見方が、アメリカの社会科学を中心として発達してしまったために、逆に地理のようなフィジカルな要素を国際政治から排除することになりまして、ここで大きな問題が出てきます。

ちなみに国際関係論で(リアリストであるにもかかわらず)その唯心論的な理論をピークにまで高めたのが、今年前半に亡くなったばかりのケネス・ウォルツのシステム論です。ここには驚くほど地理についての考察がなく、メンタル的というか、自然よりも「社会」がその考察の中心になっております。

もちろんその弟子たちは、その同じネオリアリズムに属しながら、地理という概念もいれなくてはマズイよねということで、その反対にフィジカルな地理というものをどんどん加えていったわけですが、逆にコンストラクティビズムのように「規範」のようなメンタル部分を強調するものが90年代から盛んになり、最近になってインターネットやサイバー、それにインテリジェンスという、まさにフィジカルを越えたメンタルに直接作用するものが登場。

そして冒頭の「国際関係論というのは、究極のところをいえば、国を動かすリーダーたちの頭の中でどのような認識がなされているかだ」というリアリストの発言もあり、やはりメンタル優勢かという議論もできるわけですが、私が地政学をやりながら国際関係論を傍から見て感じていたのは、このような「メンタル一辺倒」への流れへの警戒感でした。

私がなぜ地政学にここまでこだわるのかというのは、結局のところは人間はフィジカルな存在であり、地理のような要素はいくら「サイバーだ」と言ってごまかそうとしても絶対になくならず、むしろそれを忘れてしまった時に、カプランの言葉を借りれば「地理が復讐してくる」わけです。

ということで、なんだかまとまりがないですが、私が言いたかったのはフィジカルもメンタルも、どちらか一方だけに偏ったものの見方は危険ですよ、ということです。

スパイクマンも言っております。

「地理的な事実は変化しないが、それらが対外政策に与える影響は変化する」

この「事実」と「変化」いうところに、最も重要なことが隠れているような気が。


by masa_the_man | 2013-09-17 23:26 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は午前中が台風の為に大荒れの天候、そして午後は一点して穏やかな曇空でした。

さて、巨大都市の安全についての社会学的な記事がありましたのでその要約を。

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都市は最も安全な場所になった。この都会の安全を輸出しよう
byダグ・サウンダース

●シカゴの名前を聞いたことのある人は、みんな「殺人事件だらけの町さ」というかもしれない。これがトロントの場合も同じで、銃撃事件や殺傷事件、それに殴り合いなどが、町の中心部にあるモールのフードコートでも起こっている。

●つまり都市は危険な場所のように思えるが、これは全く逆だ。

●たとえばシカゴは1963年以来最も殺人率が低くなっており、はるかに小さな町とくらべてもその率は低いのだ。トロントはさらに低く、カナダの最大の都市であるにもかかわらず、危険な町としてはカナダ内で25位なのだ。トロントはカナダの都市の中で最も犯罪率の低いのだ。

北米の大都市は危険だというイメージがあるが、実際は世界で最も安全な場所のうちの一つである。ではこの認識のギャップの差はなぜなのだろうか?

●その理由の一つは、過去(19世紀と20世紀のほとんど)において最も危険な場所であったことに間違いはないからだ。殺人、強盗、性的暴力などは大都市特有の現象であり、その危険から身を守るのに一番なのはそこから離れることだった。

●ところが今日はその正反対のことが正しいのだ。

●もしあなたが最も殺人の多い都市に行きたいのならば、北米の都市を選ぶべきではない。現在、世界で最も危険な都市というのは、以前は小規模で平和だったが、つい最近になって巨大都市になったところなのだ。

●実際のところ、南半球と東半球の都市というのは百年前の北米の都市、つまり農村から移ってきた莫大な人口を吸収しつつあった頃と同じような状況に直面しているのだ。

●たとえばキンシャサは50年間で50万から800万人に増えており、イスタンブールは90万人が1200万人になっている。このような農村部の莫大人口の都会への流入には、家族構成が固まっているところから不安定なところへと社会構成が激減するために、とくに女性にとって大きなリスクとなる。

●これと同じような動きが、現在、世界の他の地域で(国内の移動、自治体の腐敗、インフラの未整備、治安がよわく、警察が軍事的な手法に頼っていることなど)起こっているのだ。

●では、われわれがこれらの問題を克服したやり方を輸出すべきだろうか?カナダとイギリスの研究機関ではそのようなアイディアが検討されている。

●都市というのは必ずしも危険な場所だというわけではないのだが、実際にはカラカスやケープタウンの殺人率は異常に高い。しかしその反対に、ムンバイやダッカのように人口密度が高いところはその国の殺人率の平均よりも低く、そこに住む人々が捨ててきた故郷よりも低いのだ。

貧困国と西側諸国における巨大都市というのは、実際には腐敗や危険が存在している中小規模の都市よりも、はるかに安全であることが多い

●たとえばレイプ事件で問題になっているインド北部の新興都市ではその割合が農村部よりも高止まりしている。そしてブラジルや南米では、国家の大胆な介入によって危険な都市が安全になることも証明されている。つまり、都市部における暴力というのは一時的なものであり、それを修正することができる問題なのだ。

●ではわれわれが提供できるものは何であろう?

●第一に、よい警備体制だ。ほとんどの国々では、都市部の警察は国軍の一部であり、しかも腐敗していることが多い。警察を地元の住民やソーシャルワーカーにできるかどうかがカギをにぎっている。

●第二に、良い制度機関だ。われわれの都市が安全になったのは、政府や司法、それに交通機関が機能しはじめてからなのだ。

●第三に、良いデザインである。犯罪が起こるのは人の目が届かず、管理する人もいない場所である。このような空っぽな場所を人が住んでいる住居で埋めることによって、街は安全になるのだ。

●われわれは都市内に所有権を得る喜びと誇りを創造した時に安全への欲求が高まるのであり、これは世界が求めているものであると言えるだろう。

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これは国際関係にも似たようなメカニズムが働いているのでは。

少し議論の質は違うかもしれませんが、たとえば「世界の都市化」を唱えたトマス・バーネットは、冷戦後のアメリカの地政学的な大戦略を述べる際に、これと似たようなロジックから自身の考えを述べております。

つまり、「都会化(グローバル化)を進めていけば世界は平和になる」ということです。まあものごとはそれほど単純ではないのでしょうが・・・


by masa_the_man | 2013-09-16 23:23 | 日記 | Comments(0)