戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man

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今日の横浜北部は、雨が降りそうで降らない微妙な寒い一日でした。

さて、また昨日の話のつづきを。

「質問はレンズだ」ということを述べたわけですが、これは実は「戦略の階層」に関連づけて考えることができます。

すでに述べたように、「質問」というのは「問題解決」のためのものではなく、むしろそれ以前の「問題設定」を行うためのもの

そして「解決」と「設定」のどちらのほうが「抽象度」の高い思考が求められるかというと、それはもう断然「設定」を考える方なわけです。

これを応用して考えますと、問題解決に集中するというレベルは、いわば現場レベルの話に近く、より具体的であるために、「戦略の階層」から考えれば下のほうの「戦術」のレベルに当てはまります。

その反対に、問題設定のようなものごとの「前提」をとらえるレベルは、プランニングやゲームのルールづくりのほうを考えるものであるためにより抽象的で、「戦略の階層」から考えれば上のほうの「戦略」レベルに当てはまることになります。

これを別の言い方で言えば、

「戦術」にたけている人は「問題解決」の達人。
「戦略」にたけている人は「問題設定」の達人。

という議論もできるわけです。

ではどちらのほうが強いのか?という質問はややミスリーディングなのですが、一般的にいえば「問題を考えてつくる人」のほうが「問題を解決する人」よりも立場的に有利なのは明白です。

これはこれから大学受験をする受験生と、受験問題をつくる大学入試センターのような大学教官(?)の関係を考えてみれば一目瞭然かと。

問題をつくる側というのは、それを解決する側よりも常に有利に立っており、いわば解決する側を「コントロール」できる立場にあります。

したがって、そもそも「解決法」ばかり考えている人が、「問題そのものをどう設定するのか」を考えている人に勝てるわけがないのです。

日本とカナダ・イギリスの両方の教育を受けてきた立場から言わせていただけば、日本の教育で決定的にかけているなぁと思うのは、「問題を設定する」というか、「問題がどこにあるのか」を見極めるような訓練かと。

そしてこの訓練ができているかどうかが、戦略づくりの能力の高さに直結してきます。

もちろん日本の教育の得意技である、「一つの答え」を徹底的に探し求める戦術レベルの訓練は非常に大事だと思いますし、日本のこの面での優位を失ってはならないと私も思います。

ただしそれだけに偏りすぎてもダメなことは、現在の日本が直面している様々な問題の共通要因の中に見えてくるような気が。

戦略的に考えたかったら、「答え」ではなく、「問題そのもの」に視点を集中すべき時が来ているのかもしれません。
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(The Great Wall of Hakata Bay 2)
by masa_the_man | 2013-03-31 20:25 | 日記 | Comments(3)
今日の横浜北部は曇りがちで、朝よりも昼あたりから気温が一気に下がったような。

さて、二日前のエントリーのつづきを。

「質問がいかに重要か」ということなんですが、これは前回お話しさせていただいように、人生の質を左右します。

つまり、自分に問いかけている質問の善し悪しが集めてくる情報の質を変えてしまい、その結果として自分の意識の方向性までを決定してしまう、というメカニズムになっているわけです。

そしてこのような「質問」の機能は、戦略を考える上でも極めて決定的な役割を果たしております。

たとえば何か問題が起きたときも、よい「質問」ができていれば、その解決法や対処法が一気にクリアーになることがあります。

その一例が湾岸戦争の時の、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍将軍の問いかけた「質問」。

シュワルツコフは、91年の湾岸戦争の時に「砂漠の嵐作戦」で陸上部隊の指揮をとり、彼の「左フック」という機動展開は有名ですが、それ以上に大切なのが、彼が作戦を執行するにあたって、たった一つの質問を自分の判断基準にしていたということ。その質問とは、

これは、イラク軍をクウェートの領土内から撤退させることに必要か?

というもの。

そうなると、この質問に合致しない問題、たとえば

「サウジアラビア政府が自分たちの野菜を米軍に納入させてくれと騒いでます!」

とか、

「イスラムの聖地であるサウジの米軍基地内で米軍女性がTシャツで肌をさらして歩いているのはけしからんという意見が沸騰しております!」

という問題や非難が発生したとしても、前述の質問に当てはまるかどうかという基準だけを考えれば、これらの問題を捨ておいて、ひたすら戦略の遂行、つまり「イラク軍のにクウェート領土内からの撤退」という本当の問題に集中することができるわけです。

これと同じような「質問」のメカニズムは、われわれの生活や仕事、それに組織の運営などでも応用できるのではないでしょうか?

戦略をうまく遂行できている人々というのは、このような「よい質問」を考えることによって、問題の本質をとらえるレンズを設置し、それを通じて目の前に起こっている複雑な現象の中から適切な解を導き出すやり方を、意識的か無意識的か知っているようなのです。

何度もいいますが、質問はレンズです

そしてこの質の高いレンズを用意できるかどうかが、戦略だけでなく、われわれの人生の質をも決定してくるということは、いくら強調してもし足りないほどです。

日本の教育というのは、どちらかといえば「正しい答え」を導き出すことに主眼がおかれております。

しかし上記のようなことを考慮すると、よい「答え」ではなく、先によい「質問」を考えることのほうがいかに重要か、ということがなんとなくおわかりいただけるかと。
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(The Great Wall of Hakata Bay)

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by masa_the_man | 2013-03-30 18:20 | 日記 | Comments(4)
今日の博多は春うららかな一日でして、桜が満開をほぼすぎているほどでした。

さて、最近考えていることをひとつ。

以前から本ブログでも何度も指摘しているように、「質問」というのは極めて大事です。

これが大事であることに気付いたのは、私がカナダに留学している時なのですが、その頃に授業などで私だけが本当にしつこく色々な先生に言われたのが、「正しい質問をせよ」ということ。

その反対に、なぜか「正しい答えを出せ」ということはあまり言われませんでした

そもそも「質問」の機能というのは不思議なもので、これを問いかけられると、人間はだれしもそれについて必死で答えようとする性質を持っており、このような性質を知ってうまく活用すれば、実は相手を自分の意のままにコントロールすることも可能になってくるのです。

なぜなら「質問」というのは脳というデータベースにたいする検索エンジンみたいなもので、ある一つの質問を入れると、脳はそれにたいする答えを、自分のメモリーの中から必死に探して集めてこようとする習性があるからです。

たとえば男女の問題でわかりやすく考えてみると、付き合いはじめの頃というのは、たとえば男のほうが常に自分にしている質問には、

この子はなんて可愛いんだろう

ということになります。そうすると、その彼女の「可愛い」要素を、脳は必死になって集めることになるのです。だからはじめは盛り上がって相手に夢中になるわけですな。

ところが時がたってマンネリ化してくると、その同じ男の脳の中に別の質問が入ってきます。それは、

「この女はなんてイヤな人なんだろう」

というものです。そうなると、脳は自動的にその質問にフィットするような答えや要素を集めてくるようになるわけですね。そして相手の女子を嫌うようになる、と。

これは自分自身についての質問においても全く同じことが言えまして、たとえば、

「オレの人生はなんて恵まれているんだろう?」

と常日頃から考えることができている人というのは、それに合致するような要素や現象を脳がコレクトしてきて、そのために気分のよい状態が継続することになります。

そして気分がいいわけですから、それにつられて人も集まってくるという構造ができて、結果的に成功に近づく、ということなんでしょうな。

その反対に、

「オレの人生はなんでいつも失敗つづきなんだろう」

と四六時中考えている人は、脳の検索エンジンに「自分がダメな理由」を集めるよう指示し続けているのと同じことであり、そうなるとそれに合致した情報や要素が自然と大量に集まることになり、さらにネガティブなサイクルに落ちていくという説明もできます。

つまり「質問」には、それを投げかけられた人間の世界観を構築する機能があるようで、いわば現実の風景から放たれている光を、一つの光線に集約させるレンズのような役割を果たすのかもしれません。

このレンズは、戦略を成功させるときにも非常に効果的なのですが、少々長くなりましたので、この続きはまた明日。

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(麻生さんの実家の門)
by masa_the_man | 2013-03-28 22:03 | 日記 | Comments(1)

アクションのための戦略

今日の千葉は小雨で蒸し暑い感じです。早くも梅雨のような天候が。

さて、先日後輩に勧められた本の紹介を。

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Strategy for Action: Using Force Wisely in the 21st Century
by Steven Jermy

著者はイギリス海軍の元高官で、退役後の現在は著者として活躍しております。

この本は全くノーマークだったのですが、友人から題名だけは聞いていたのでロンドンの本屋で探してみると、中身が思ったよりもはるかに充実しておりました。

内容は著者が現役の時にアフガニスタンで米英の政府と軍には「戦略」がなかったことを実感したため、そもそも戦略とは何なのかを、歴史を振り返りながら教訓を導き出して行こうとするもの。

著者はとくにブロディとボーフルを高く評価しているようで、しかも珍しいのはビジネス・経営系の戦略理論も積極的に取り入れている点でしょうか。

アメリカのような覇権国の立場ではなく、イギリスという元覇権国だけど現在の覇権国であるアメリカにもの申したい雰囲気もなんとなく見え隠れする好著です。

私が本書の中で一番気に入った引用は以下の通り。

●戦略の作成とは、最も複雑な構造の問題を解くのと同じだ。なぜならそれは、人間が直面するもの中で最も計り知ることが難しい三つのものに取り組まなければならないからだ。その三つとは、「人間の集団」、「戦争」、そして「未来」である。

これは結局のところ、結論として「戦略は難しい」ということで落ち着く感じなのですが、それでもそこにもっと注目してしっかり考えて行こうとしている姿勢には好感がもてます。

理論の説明の充実面だけでなく、実践者としての立場から色々と分析しているので日本の防衛関係者にも参考になるかと。おススメです。
by masa_the_man | 2013-03-27 19:33 | 日記 | Comments(1)
今日のイギリス南部はまたしても曇りで寒かったです。久しく日光を見ていない気が。

さて、イギリスの友人との会話で出てきた話を。

修士時代の元コースメイトのイギリス人女子二人と、先日久しぶりにメシを食いに言った時に聞いた話が面白かったのですが、これは以前の本ブログのエントリーでも出てきた「イギリスとアメリカの文化の違い」についてのものとソックリ。

この二人は私とは違って、修士をとった後にさっさとロンドンの金融系の会社に就職しており、働き出してから七年くらいたっているらしいのですが、最近そのうちのひとりの方が、海外にコールセンターを外注して設置し、そこの人々(フィリピンやインド)にイギリスのカスタマー向けの対応ができるように教育をする仕事を任されたとか。

そこで彼女が気付いたのは、外注した先のカスタマーセンターの人たちのしゃべり方が、やたらと丁寧すぎるという点。

まずは「お電話いただきありがとうございます」から始まり「ご機嫌はいかがですか?」と念押しされ、さらには用件が終わると「本日はお電話いただきありがとうございます」と繰り返し言われるというもの。

まあ日本のコールセンターの対応なんかはこれくらいが普通では、ということなのですが、この二人のイギリス人に言わせると、「丁寧すぎて会話がやたらと長くなり、時間がもったいない」とのこと。

とくにひとりのほうは、

「やたらと人のキゲンを聞いてくるじゃない?!あれってほんとアメリカ式の対応よね!イギリス人なんか自分のキゲンがどうだかなんて全然気にしないし、下手に何回も御礼言われるよりは、早く切ってもらってさっさと次の仕事したいって思っちゃうわよ!」

とのこと。では実際に周りはそのような対応をどう思っているのかというと、彼女の部署の人たちが試用期間中にコールセンターに電話してみたところの対応の感想は、なんと六割以上が「丁寧すぎるし時間を長くとられるから無駄」と答えたとか。

「自分のキゲン(well-being)がどうかなんて、イギリス人は全然気にしてないわよ。アメリカ人ってハッピーかどうかという点にやけに固執するのよね!」

とバッサリ。

そこで、先ほど紹介したエントリーの記事の内容を簡単に説明してみると、二人はその内容に大賛成。

ここから出てくる教訓は二つあるかと。

一つは、アメリカの「幸福追求文化」というのは、世界的に見ても特殊であるという点。アメリカン・スタンダードは決して他の国にとって心地よいものというわけではないということですね。

そしてもう一つは、世界でも誇るべきレベルにあると信じられている日本のサービスも、潜在的には「やりすぎで無駄だ」と思われてしまう可能性を秘めているということです。

ようするに日本人が思っているほどは、日本のサービスの優秀さというのは世界の誰にでも受け入れられるものではないのかも、ということです。

そういう意味で、日本のサービスを世界に広めようとする場合、やはり相手国との「文化」の違いを意識するのは重要なのだとあらためて感じたわけです。
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(LSEの本屋のディスプレー)
by masa_the_man | 2013-03-26 09:52 | 日記 | Comments(3)
今日のイギリス南部は一瞬小雪がちらついた曇り空だったのですが、なぜか昼間から一気に極寒になりました。

さて、かなり以前に要約した面白い記事を編集して再録します。

ピンカーによれば、われわれは「人類史上で最も平和な時代」に生きているのだとか。

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●元アナーキストのカナダ人のスティーブン・ピンカー氏、彼は若かりし頃、両親に「警察はいらない、政府機関が逆に社会問題の元凶だ」と主張。ところが彼の住んでいた平和なモントリオールで、一九六九年一〇月一七日に暴動や放火や盗みや殺人が大量に発生。原因は警察や消防員をはじめとする公務員がストに入ったから。

●これをきっかけに、ピンカー氏は人間の性質そのものに興味をいだき、まずは言語、そして次に進化心理学(evolutionary psychology)を提唱するようになった。

●彼の主張は、人間の精神面での機能(感情、ものごとの決定判断、そして画像認識など)というのは自然淘汰によってつくられてきたものだ、というもの。

●彼は「若い頃から教育すれば人間はいくらでもつくりかえられる」とする社会工学などには真っ向から反対。その理由は、それらが進化のプロセスの中でわれわれの心の中に残るものを無視しているから。

●彼の新刊本では、人間の最も根源的な性質である「暴力」について議論。この本の中で、彼は数千年間を経て人間の暴力の使用の頻度(殺人件数、戦争の犠牲者数など)は劇的に落ちたと指摘している。

●一般的な進化心理学の原理からすれば、人間の本質にはすでに古代からの暴力の傾向が備わっていることになるために逆に反証になるのでは、と思える。ところがピンカー氏は「人間の脳は環境によってかなり広範囲に反応を変えることができる」と論じている。

●きっかけは彼自身の元々の専門である言語だ。不規則動詞の研究をしている際に、彼は人間の脳の中に言語について二つの機能を発見した。単語帳のような記憶装置の部分と、要素をいろいろと構成して意味をつくりあげる部分である。

●彼はここから「言語には生物学的なルーツがある」と確信。結論としては、「言語は自然淘汰の際につくりあげられてきたものである」となる。

●この主張が認められ、彼は学者としても成功したが、最新刊では暴力の発生率を歴史ごとに図式化して並べており、たとえば一四〇〇年頃のイギリスでは、殺人事件の発生率が現在のそれよりも100倍多かったという。

●彼は二〇〇六年に「あなたが人類の未来に楽観的な理由は?」というテーマでエッセイを書くように頼まれたときに「暴力の低下です」と論じて注目を浴びた。それに賛同する研究結果が世界中から集まるようになり、彼はこれについて本をかかねばならないと思ったらしい。その結果が今回の新刊だ。

●人間の暴力が減り始めたのは、数千年前に最初に国家が誕生した時からだという。それ以来、その率は落ち続けているというのが事実らしい。

●もちろん20世紀には両大戦で大量の人が死んだが、それでも彼は自身の議論の反証にはならないという。その二つの戦いは例外的な事件だから、というのが彼の弁。

●人間の暴力が減ってきたのは「歴史」と人間の「進化する心」が相乗効果を上げているからだとか。

●「人間の本質というのは複雑ですね。暴力に向かう傾向もありながら、共感や協力、自制への傾向もあります」とはピンカー氏の談。

●そしてどの傾向が強まるのかは、実はその時々の「社会環境」によって決定されるのであり、古代の社会では国家がなかったために暴力の傾向が強かったが、文明が台頭してきて社会のルールも変わってくると、暴力が減少しはじめたのだ。

●さらに携帯のようなコミュニケーション機器が人々の間に広まると、悪いアイディアが攻撃されて駆逐される速度がはやまることになる。

●もちろん暴力が減少しつつあるのは事実だが、それが増加する可能性があることも否定できないという。しかし減少している原因を理解できれば、人類は平和を推進できるという。

●最近の本では「“平和のためには正義を求めよ”というのは間違いだ」と論じるものがあるが、これはピンカー氏は正しいと考える。しかし彼の場合は「平和を求めるなら平和になれ」のほうが良いという。

●もしかすると一番正しいのは「平和を求めるのなら心理学を理解せよ」ということになるのかもしれない。

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いつはこの本、戦略学にとってもかなり重要になりそうです。いわゆる「戦争の様相」(character of war)の議論に影響を与えそうなので。

さすがに800頁越えの本なので翻訳は当分出そうにもありませんが、もしかして数冊にわけて出版されるかも?

最近の紛争の死者数の数え方にはけっこう問題があると指摘されているみたいですし、いわゆる「バックスライディング」(後戻り)の問題にももっと言及しないとまずいかと。

それにしても、これはフクヤマの「歴史の終わり」に近いものを感じますね。いい意味でも悪い意味でも。
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(昨日たべた超ヘビーなトビー・カーヴリーのランチ。デザートつきで1500円ほど)
by masa_the_man | 2013-03-25 10:16 | Comments(1)
今日のイギリス南部は朝から天気が悪く、昼前から雪が降りました。まだ真冬で、このような状態があと一ヶ月続くそうです。

元コースメイトの英人女子二人とめちゃめちゃビッグなランチを食べまして、そこで聞いた話がなかなか面白かったのでここに書こうと思ったのですが、例の「累積・順次戦略」とスーザン・ケインの『クワイエット』という本の話を裏付けるような非常に興味深い記事がBBCに載っていたので、今日はその要約を。

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子供を「退屈」にさせるべきだ
By ハナ・リチャードソン

●テレサ・ベルトン博士がBBCに語ったところによると、「子供を常に行動的にしておくべきだ」というわれわれの文化的な刷り込みは、逆に彼らの想像力の発達を妨げることになるらしい。

●彼女は、作家のミーラ・シアルと芸術家のグレイソン・ペリーに、子供時代にいかに退屈な時間が彼らの創造性をつけるのに役立ったのかを聞いたという。

●シアル女史は退屈な時間のおかげで書くことが好きになり、ペリー氏の場合はそれが「創造的な状態」であったと答えている。

●イーストアングリア大学の教育学部の研究者であるベルトン博士は、数多くの著者、芸術家、そして科学者たちに退屈な時間の効果についてインタビューしている。その中で、彼女はシアル女史があまり刺激のない小さな鉱山の町で生まれ育ったと聞いた。

●ベルトン博士は「そのような小さな町ではあまりにもやることがなかったので、他の場所ではありえないこと、たとえば近所の老人と話をすることや、ケーキの焼き方を教わったりする経験を得ることができたのでしょう」と述べている。

退屈な時間というのは孤独と関係していることが多く、シアル女史は若い時に窓の外の野原や森、そして天候や季節の変化を何時間も見つめたりしていたという。

●「ところが退屈な時間が彼女にものを書かせることになったのです。彼女は若い時から日記をつけはじめ、そこに日頃みたことの観察や、短い物語、詩、そして痛烈な批判などを書いていたのです。彼女はこのような若い頃の時間の過ごし方が、のちに作家になるのに役に立ったと言ってます」

●喜劇女優から作家になった彼女は、「何も書かれていない紙一枚と、強制的な孤独の時間というのは、すばらしい刺激になります」と述べている。

●ペリー氏は、退屈な時間は大人にとっても有益なものだと言っている。

●「年をとってから、私はいままでよりもさらに内省と退屈な時間を大切にするようになりました。退屈な時間というのは創造的な状態なのです」とは彼の弁。

●スーザン・グリーンフィールド教授は神経科学と脳の劣化の専門家であるが、彼女もベルトン博士にたいして、若い頃は家が貧乏で、13歳まで兄弟がいなかったと語っている。「彼女も自分で勝手に話をつくったりその話の絵を書いたり、図書館に行ったりしていたようです。」

●ベルトン博士の専門は、情動が行動と学習に与える影響だが、退屈な時間は「あまり心地よい感情ではない」ことがあるため、いままでの社会は「つねに感情をどこかに向けさせて刺激するように発展してきたのです」と言っている。

●ところが彼女は、創造性を発揮するためには「内的な刺激を発展させることができないとダメ」と警告しているのだ。

●彼女は「自然は真空を嫌うものであり、われわれはそれを埋めようとしてしまうのです」と言っている。ところが「若者の中には、内的に考える力がなかったり、そのような退屈な時間にたいして創造的に対処することができない人たちもいるため、バスの待ち合い場所のガラスを壊したり、盗んだ車で暴走したりすることにつながってしまうのです」と言っている。

●ベルトン博士は以前にテレビやビデオが子供の書く能力にどのような影響を及ぼすのかを研究していたが、「子供たちはやることがなくなるとすぐにテレビやパソコン、それに携帯や何かの画面をみたがるようになるのです。そして彼らがこれらを見る時間は増えています」と述べている。

●「ところが子供にはボーッと立って眺めるような時間、つまり想像して自分自身の考えのプロセスを追求したり、自分たちの経験を遊びや周辺の世界を観察することによって理解するような時間が必要なのです」とは彼女の弁。これこそが彼らの想像力を刺激するものであり、その逆に画面を眺めることは創造性を発揮するためのプロセスと発展を簡略化してしまう傾向があるという。

●これについてシアル女史は「他に何もすることがなかったし、何も失うものはなかったから書くことを始めました。惰性とヒマつぶし以外に理由がないから創造的になれるのです」と述べている。

●ベルトン氏も「創造性を発揮するためには、われわれはものごとをスローダウンさせて、時々オフラインの状態に身を置く必要があるのです」と結論づけている。

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言わずもがな、これはまさに私が以下のCDで解説していることそのままです。

▼若きクリエイターたちへ捧ぐ!
累積戦略と順次戦略
~スーザン・ケインの『Quiet(クワイエット)』を読み解く:引きこもりが勝利する時代~

明日は友人に聞いた話などを中心に書きます。

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(本日の雪景色)
by masa_the_man | 2013-03-24 06:02 | 日記 | Comments(1)

傭兵の倫理問題

今日のイギリス南部は、昼までは晴れていたのですが、午後から段々と天候が悪くなってきて、夜になって雨でした。しかも風があって凍えるほど寒い。

さて、同じコースの後輩に今日聞いた話をひとつ。

この後輩は若いドイツ人で、彼の専門は「傭兵の倫理」という渋いもの。

彼は私がコースを修了する半年くらいから始めて、今年の九月に論文を提出するとのこと。その内容を学校の中にあるパブでラガー(フォスターズ)を飲みながら披露してくれました。

時間がないので、例のごとく箇条書きで。

●「傭兵」(マーセナリーズ) は、一般的には古代からあると言われているが、実は現代の民間軍事会社(PMC)と昔のそれは全然違う。

●昔は、現在のような「傭兵」という概念はなかった。

●「傭兵」の歴史に関する現在の学術界の研究は、しっかとした歴史研究をしていない。とくに中世のラテン語の文献まで調べて書いているものは皆無。

●現代の「傭兵」はグレーゾーンにある。だからこそ便利。

●現在のPMCの多くは、むしろ各国政府に国際的な法律や制度を作ってもらいたいと考えている。

ピーター・シンガーの本はPMCについてよく調べて書かれているが、それでも内容はジャーナリスティックで、理論や哲学・倫理面までには全然踏み込んでいない。

●現在のPMCはイギリスのSASの創設に関わった人物が60年代につくった会社が最初。

●アメリカはリビアなどをはじめとする相手側が「傭兵」を使っているとして道徳的な面を非難するが、実際に自分たちが攻撃する際に真っ先に戦闘に行かせるのがPMCだったりする。

●国連憲章などでは「傭兵」を使うことは違法だということになっている。ところが誰もその違法性については問いたださない。グレーだから。

●PMCの人間が戦闘で殺されても、当たり前だが政府からの補償みたいなものは皆無。ここの倫理問題が将来的にまずいことになる。

●フランスの外人部隊は有名だが、ここにはけっこうな数の日本人が所属している。

●この外人部隊で少しでもケガしたりすると、自動的にフランスの市民権がもらえる。「フランスのために血を流したから」という理由。普通はかなりの年数を全うしないともらえない。

以上です。

こんど彼が書いた論文を読ませてもらうことになるので、その要約をいずれここにアップする予定です。
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(プライマーク)
by masa_the_man | 2013-03-23 11:49 | 日記 | Comments(0)

某有名作家の墓を訪問

今日のイギリス南部は複雑で寒い天気。まだ一桁台で風が強く、夜に入ったらシトシト小雨が。

さて、某有名作家の墓参りに行ってきましたのでその報告を。今回は写真がいっぱいです。

墓は私の大学があった町から電車でたった15分くらいの「ディトコット・パークウェイ」という駅が最寄り駅で、そこからちょっと離れた教会の敷地の中にあるとのこと。

さっそく駅まで往復チケットを買うと5ポンドちょっと。オックスフォード方面に向かう電車に乗ったと思ったら、次の駅でいきなり到着。意外に近かったのでかなり拍子抜けしました。ほぼ隣町だったんですね。

駅の様子は以下のような感じで、とりあえずプラットフォームは五番線くらいまでありましたが、やっぱり田舎です。
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ここから#32というバスで行けるらしいのですが、平日の昼間でも一時間に一本しか出ていないので、時間のことを考えてタクシーで行くことに決めました。

下の写真は、列車から降りて墓のある北西方向を見た景色なのですが、ご覧の通り古くて巨大な煙突というか、クーリングタワー(冷却塔)が三本ありまして、「すわ原発か」と思ってタクシーの運転手に聞いてみると、これは石炭、ガス、そして柳の枝を圧縮した木材ペレットによる発電所なんだとか。
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この巨大な発電所の脇を抜けて駅からオックスフォード方面に北上し、ものの10分くらい行った古い町の中で下ろされました。料金は初乗り4.6ポンドで、片道は合計11ポンドちょっと。

そしてその墓のある教会の様子は以下の通り。
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名前は「オールセインツ教会」というらしいのですが、ややこしいことに駅の近くにも同じ名前の教会があります。というか、この教会の名前は「諏訪神社」と同じくらいどこにでもあるもののようです。

墓のありかは人から聞いてなんとなくわかっていたつもりだったので「すぐ見つかるだろう」などと気楽に考えていたら大間違い。全然見つかりません。

困ったので教会の事務所の人に話を聞こうと中に入っても誰もいません(しかも扉にカギがかかってない)。

結局のところ、この教会の敷地内にあるほぼすべての墓石を隅々まで自分で探すことになってしまいました。

しかもこっちの墓というのは、日本と違って(というか、日本も昔はそうだったんですが)基本は土葬

私が行った当日も新しい墓穴が開けられてまして、どうやらこれから葬式が行われるところだったみたいです。

注意して歩かないと人が埋まっているところを踏んづけて歩いていることもしばしば。気持ち悪いったらありゃしない。

具体的には下の写真のようになっておりますので、その様子はなんとなくおわかりいただけるかと。
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20分くらいくまなく探しましたが、あきらめかけた時に思いがけない場所でようやく墓を発見。さっそく記念写真をパチパチ。

場所は正面入り口から入って、ほぼ正反対の壁のちょっと手前。かなり奥のほうでした。

以下はその墓をやや離れた位置から撮影したもの。
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その後は教会の隣にあるパブで昼食。パブの外観はこんな感じ。
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タクシーの運転手から「そこの魚のフライは絶品だ」と聞いておりましたので、迷うことなくフィッシュアンドチップスを注文。コーラとあわせて12ポンドちょっと。
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たしかにタクシーの運転手の言っていたように、この白身の魚のフライ(フィッシュ)は絶品。サクサクで中身もクセがなく大変美味。

しかしどうもこの国はどこにいってもポテト(チップス)の調理の仕方がなっとらんわけでして、いつも後半は塩とモルトビネガーを大量にかけることになってしまいます。

帰りは駅までバスで安く帰ろうと思ったのですが、乗る時間を間違えて覚えていたために、のんきにパブで昼飯を食っている間に乗り過ごしてしまいまして、もう一時間待たなくてはならなくなりました。

時間がもったいないということで、また諦めて先ほど乗ってきたタクシーでもらった名刺の番号に電話をして一台配車してもらうことに。

15分ほどパブの外で待っているとようやくタクシーが来まして、そこからまた10分ほど同じ道をたどって駅まで戻りました。

帰りの電車に乗る時に、実に興味深い風景に遭遇。なんとイギリスの「撮り鉄」です。

みんないいカメラを持っているのですが、なぜか全員がデカくて太め。右側はチームらしいのですが、左側はソロでした。
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私がそばで見ていた時に彼らが撮影していたのは以下の二つ。
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彼らも、まさか自分たちが背後から撮られていたとは思わなかったでしょうな(笑

ということで最後になりましたが、その作家の墓の近影です。誰の墓だかおわかりでしょうか?当たっても賞品は出ませんが(苦笑
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by masa_the_man | 2013-03-22 07:14 | 日記 | Comments(5)

圧倒的な「他人」感覚

今日のイギリス南部は朝からずっと霧に包まれておりまして、気温もずっと一桁台の肌寒い一日でした。

さて、Twitterでも少し書いたことの補足を。

今回だけでなく、いつも日本から離れるたびに私が強く感じるのは、あの圧倒的な「他人」感覚。

海外に主張したり留学したことのある人だったらおわかりいただけると思うのですが、日本人以外の人々がいる(とくに多民族が混在している)所に来ると、なんというか、他人の目が全く気にならなくなる感覚を強く感じることがあります。

これはなぜかというと、日本と外国(というか多民族社会)では、以下のような他人にたいする態度、そして考え方の「前提」に、とても大きな違いがあるわけです。

●日本の場合:「あなたとわたしは同じ人間」

●外国(多民族社会)の場合:「あなたとわたしは違う人間」

そしてこの「前提」の違いは、私は非常に重要であると考えております。なぜなら、日本のようなより均質的な社会ではより思いを共有すること、いいかえれば同調圧力が強いわけですが、そもそも動物園(失礼!)のように個人一人一人が全然違うタイプの人間で構成されている社会では、人間同士が同じであるという気が起こらず、はじめから「違う」というところから社会全体が成り立っているという違いがあるからです。

私は長いこと留学させていただいたおかげで、この「他人で構成されている社会」というものに慣れてしまっているところがあり、むしろ「気楽でいいなぁ」と感じることのほうが多いわけですが、同じく留学していた日本人の中には、このような他人だらけの社会がニガテという人も少なからずおりました。

もちろん私はだからといって、日本のような「同じような人間や家族で構成されている社会」がダメだと言いたいわけでなく、考えようによっては、日本は「個人」や「自己」をはっきりさせなくても今までなんとかやってきてこれた「幸せな社会」だったのかもしれない、と考えているほど。

ところが問題は、陳腐に聞こえるかもしれませんが、これから世界がどんどんグローバル化、つまり多民族化していき、良い悪いは別として、日本の社会もどんどん「他人化」していくことが確実だ、ということです。

これを止めようという考え方もおそらく「あり」だと思いますが、果たして制度的な仕組みでどこまで抵抗できるのか。

ということでやや悲観的な結論かもしれませんが、われわれはこれから日本の社会がもっと多民族化することにより、サバサバしてドライな「他人だらけの前提で構成された社会」に近づいて行くことを覚悟しなければいけないのかも知れません。

明日は某有名作家の墓参りに行ってきますので、その報告を。

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(近所のスーパーに隣接するカフェのメニュー)
by masa_the_man | 2013-03-21 05:01 | 日記 | Comments(3)