戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man

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今日の横浜北部はまたまたよく晴れております。昨日よりも気温が上がるとか。

さて、すでに以前のエントリーで触れた通り、ノーベル賞を受賞した京都大学の山中教授が「累積戦略」と「順次戦略」を「ビジョン&ハードワーク」という言葉で表現していることを書きましたが、その補足を。

ネットにはこの彼の「究極の戦略論」の説明が出ておりますが、たとえばこのサイトでは以下のような説明が。

===

山中教授の話の中で印象的だったのは、座右の銘であるという「Vision(ビジョン)&Hard Work(ハードワーク)」という言葉。

「ビジョン&ハードワーク」、すなわち「目的をはっきり持って、それに向かって懸命に働くということ」ですね。

山中教授は講演の中で

・「日本人は、ハードワークは得意だがビジョンを見失っている学生が本当に多い。」
・「ビジョン(仮説)がないとハードワーク(作業)のムダ使いになる。」

と話しているそうです。

===

とあります。それに対して私は以下のように、

===

これについてですが、私の「武器捨て本」を読まれた方はすでにご存知の通り、これは山中教授が無意識的に戦略の肝となる部分を理解していたということ。

どういうことかというと、

ビジョン:順次戦略

ハードワーク:累積戦略

ということになります。

私が翻訳したワイリーは、著書の中で「この二つの戦略の両方を使わないとダメ」としておりますが、山中教授は(米国で教えられて?)この二つを意識していたと。

しかも彼は上の講演会で、「日本人はハードワークは得意だが、ビジョンを見失っている学生が本当に多い」としており、日本人は累積戦略が得意だが、順次戦略が(とくに若者たちに)ないと言っているわけです。

さらに面白いのは、この記事の見出しが「技術者マインド」で、さらに該当部分の小見出しが「ハードワーク」だけ、という点でしょうか。

日本人がいかに累積戦略が好きなのかを象徴しているような(笑

===

と説明したわけですが、今回のCD「若きクリエイターたちへ捧ぐ! Cumulative & Sequential Strategy 累積戦略と順次戦略
~『Quiet(クワイエット)』を読み解く:引きこもりが勝利する時代~
」をつくる過程でつくづく感じたのは、最近の日本人の多くの思考法が、どちらかの戦略論に極端に偏りすぎているということです。

たとえば累積戦略、つまり(孤独な)ハードワークというのは、近年アメリカから大量に輸入された順次系の戦略理論などの攻勢に押されて、最近はあまり垣間みられなくなっております。

ところが古い世代の「現場」出身の人たち(しかもバブルまでは大成功していた)というのは、この累積戦略の大切さを肌身でわかっているために、若い世代に対してとにかくハードワークをやらせようとするわけです。(この極端な例が体罰問題?)

しかし若い世代の人間が、順次系に毒されてしまったために、累積系を「完全に古い時代遅れなもの」と見なしているため、その大切さが伝わりません。ここにギャップが生まれるんですな。

では古い「累積ハードワーク系」の世代が、若い「順次ビジョン系」の世代の考え方をわかるかというと、彼らも実は理解不能なわけですから、結局は意志の疎通ができずに共倒れするという構図が現在の日本の産業界全体にあるのかと。

肝腎なのは、ワイリーや山中教授も言うように「累積」と「順次」の両方をバランスよくもって、それを「回す」ことにあるわけですが・・・これはなかなか簡単に理解しずらいものなのかと。

もちろんこのような世代間のギャップについての考えの違いについての分類はかなり大雑把なわけですが、それでも一つの傾向のようなものを表しているのかと。

先日の某官僚の方々との会話でもそうですが、「戦略の階層」とともに、この「累積順次」の重要性を理解する人が増えればだいぶマシになるのになぁ、と思う今日このごろです。
by masa_the_man | 2013-02-28 11:13 | 日記 | Comments(1)
昨日の横浜北部はまたも快晴でした。気温はやや上がりましたね。

さて、私は国際政治における「戦略」というものを学んできたために、どうしても「プロパガンダ」と「メディア」ということを意識してしまいがちなのですが、最近のアメリカの実験結果として面白いものがありましたので、その記事の要約を。

これがどこまで大人のケースにも適応できるのかわかりませんが、逆にテレビなどの目に触れるメディアを遮断/制限するというのは現代の一つの選択肢として極めて重要なのかと考えております。

そういう意味で、この実験結果は私がこの前つくった「累積・順次戦略」のCDの内容にも関わってくるものであると感じています。

人間というのは口に入れる食べ物にについてはあれほど気をつけるのに、耳にするものや見るものについてはほとんど気にしないという不思議な習性がある、ということも言えそうな。

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優しい子に育てたいなら良い番組を見させろ
Byキャサリン・セント・ルイス

●専門家たちは、昔から子供がテレビに映っている行動を――それが良いものであれ悪いものであれ――マネするものであることを知っている。それでもこれが幼い子供たちの家庭におけるテレビの見方を変えることにはつながっていない。

●先週出版された小児科専門誌に含まれている研究によれば、小学校前の子供たちに暴力的なビデオやテレビ番組を見せないよう制限して、教育番組を見る時間を増やすような実験すると、子供たちの「共感力」が上がるという結果が出たという。

●この実験では、制限された番組を見た子供たちは、どの番組を見てもよいとした子供たちのグループに比べて、他人にたいする攻撃性が減少したというのだ。

●この実験には関わっていないが、あるスタンフォードの教授は「これが一つの解決を示しているのかもしれません」と述べている。

●「子供に大人向けのテレビ番組の視聴を制限し、より攻撃的ではない、向社会的なテレビ番組を見せるような介入を行うことによって、われわれは子供たちの行動に効果を与えることができるかもしれないということです」

●この実験では小学校前の子供たちの行動に「小規模から中規模の効果」があることが示されたわけだが、この教授は「世間一般的にとっても大きい意味がある」と言っている。

●この研究はこの分野では珍しい無作為試験で行われており、3歳から5歳までの子供を持つ565組の親を二組にわけて実験している。

●この二組とも子供の毎日のテレビの視聴のパターンと子供の行動(とくに他人への優しさと暴力を使わない問題の解決法)が関係しているかどうかを調べることを説明されている。

●対照群となるグループのほうには、両親にたいして「子供によい食事を与えてください」というアドバイスがなされた。

●もう一方のグループの両親たちには子供たちによいとされるポジティブな番組表や、子供と一緒にテレビを見て番組の途中に、どうやったら問題を解決すればいいのかを聞くことをアドバイスするようなニュースレターが送られ、さらには毎月一度、その研究者たちから電話をかけるようにした。

●研究者たちはこの両親たちに六ヶ月後と一年後に連絡をとって、子供の社会的な行動について調査を行っている。

●六ヶ月後の結果:アドバイスを受けていたほうの両親の子供たちは、別の対照群のグループの子供たちよりもあまり攻撃的ではなくなったという。より暴力的ではない番組を見た子供たちは社会的な適正能力の試験でも高い点数をつけており、これは一年後の調査でも全く同じ結果が出ている。

●しかもこれは、とくに低所得層の男子に大きな改善が見られるという。ただし研究者たちはこの理由はわからないとしている。

●この二つのグループでは、テレビを見ていた時間そのものに違いはなかった。

●この実験を主導した教授は「両親にとって大事なのは、テレビを消すことだけでなく、チャンネルを変えてあげるということです。子供によい行動をしてもらいたいと思ったら、その手始めに消費するメディアを変えるのは一つの手ですね」と言っている。

●この実験に参加した物書きをやっている親の一人は、いままでこれほどいい番組があるとは思っていなかったという。それまで三歳の娘に見せていたのはオッサンたちがビールを飲みながら近所のゴシップを語る「キング・オブ・ヒル」(写真下)で、たしかに面白いが、三歳に見せる番組じゃないと実感したという。
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●この親は、最近になってから自分の娘たちが上質な番組を見れるようなNPOにアドバイスをしているという。彼女の娘はすでに六歳になっており、やはりそれほど攻撃的ではないと答えている。

●この娘が通っている学校の先生は、彼女のことを「とても思いやりのある子ですね」と褒めたというが、この親はテレビ番組の選択がその一因だと考えている

●もちろんこの実験には限界があることを専門家たちは指摘している。なぜならこの結果というのは、子供たちの両親という、完全に客観的とはいえない存在から答えを聞いているからだ。

●それにこの実験では家で見るテレビ番組の中身だけを見ており、それ以外の場所で見られている番組などは考慮していないからだ。

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たしかにこの実験もツッコミどころはありそうですが、鈍感になっているとはいえ、大人も小学生前の子供と同じように外からの入力信号にさらされていて、それが溜まって(累積的な効果を上げて)その人の気分に影響しているということはいえそうな。

しかしこういう内容の記事というのは、やはりゲームやアニメが好きな人たちにとってはウケが良くないんだろうなぁと思いますが(苦笑

この辺の話題については、私が定期的に執筆を担当している「アメリカ通信」というメールマガジン誌上でも、逐次取り上げてゆきたいと思っております。

ちなみに戦略学の分野に関していえば、下の古典的な研究がとても参考になると思います。これはベトナム戦争における兵士の訓練における映像の活用法などに警鐘を鳴らしておりましたね。

同じことは現在の無人機パイロットの訓練、またはアルカイダなどのテロリストたちの訓練にもいえるかと。
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by masa_the_man | 2013-02-27 06:00 | 日記 | Comments(8)
昨日のことですが、某霞ヶ関の方々とお話させていただきました。

そこで聞いた貴重なことを、いつものようなポイントフォームで、メモ代わりに書いておきます。

●イノベーションについて色々な識者に話を聞くが、とくに世代間の認識と定義のギャップが大きすぎで話が混乱している。

●「ものづくり」にこだわる古い世代は、バブルまでの強烈な成功体験にしばられている。この世代の人々にとっての「イノベーション」というのは「技術革新」のこと。

●ところが若い世代にとっての「イノベーション」というのはどちらかというと「テクノロジーによる社会変革」という意味になる。仕事の仕方やビジネスの仕組みそのものが変わるという感覚。

●料理サイト、クックパッドvs楽天.当初はポイントがたまる楽天の圧勝と見られていたが、無料のクックパッドが圧勝。お金が発生すると「仕事」になってしまい、読者が投稿しなくなる。人間の心理の理解が必要。

●これから日本が世界で勝負していくときに、どうしても必要になってくる知識が心理学的なアプローチであると感じて、そっち方面の先生に色々と聞きに行った。

●日本の企業にはまだ本当の「危機感」が足りない。若い世代も「今が一番しあわせ」と保守的に。

●「武器捨て本」を読んでから「戦略の階層」を使って日本の業界の人たちに「コントロールすべきだ」という話をすると、どうしても「ああ、国際標準を狙うことね」となってしまう。自らが相手や状況をコントロールしようという意識が徹底的に欠けている。

●40億人いるとされるBOP層も、実は生活必需品以外の娯楽や通信などへの支出が増えている。ここを見誤ってはいけない。

●日本市場において「所有」の価値観は下がってきている。むしろ今後や「体験」や「利用」という方向へ向かう。

●大学の先生のレベルまで内向き志向が強まっている。彼らがよく言うのが「日本で世界レベルの研究ができるからねぇ」。

●いまは車という単体だけではなく、それに色々な価値をつけることが増えてきた。まだGT-RとかフェアレディZだけでも売れるが、今後はそれにもっと別のものをつける必要が出てくるはず。

●イギリスのある会社は半導体の設計だけをやっていて、それで産業になんとかからんでいるところもある。

●日本人が徹底的に下手なのが議論。プレゼンはまあできるが、議論となると、相手の意見を聞いて共通点と相違点の違いを明確にして、それを建設的な方向に修正して主張するという訓練を学校で全く受けていない。

●「技術」で勝る日本が「事業」で負けている。

●日本の文化はかわらないことを非常に大事にする。「お変わりありませんか」という言葉。歌詞の中にも「いつまでも変わらない君のままでいて」など。

●日本がまだ強いのは自動車や精密機器、それに素材や部品などの「すりあわせ型産業」

●ところが最近凋落が激しいのが「モジュール型」と呼ばれる、パソコンや携帯など。

以上。

他にも思いついたら後で書き足します。
by masa_the_man | 2013-02-26 07:00 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は風が吹いてて寒いですが、またまた快晴です。

さて、久しぶりに日本語の本でおススメのものを。

戦略の階層」にも通じる、中身の詰まった論文集です。

コンテクストデザイン戦略: 価値発現のための理論と実践
by 原田 保, 高井 透, 三浦 俊彦, 戦略研究学会(編集)

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私が所属する戦略研究学会の、経営系の上層部の方々がまとめた本です。

いままで私が読んできた経営系の戦略というのは、どうしても「戦略」というよりは「戦術」レベルの抽象度の低いレベルでも議論をしているものが多かったのですが、この本は従来の「コンテンツ」よりも「コンテクスト」という抽象度の高いところに注目している優れもの。

何よりもケーススタディが豊富で、AKBから東ハトのハバネロ、サントリーの角ハイボールから初音ミクまで、かなり意外な事例をこれでもかというくらい詰め込んであります。

難点といえば、やや事例が多すぎる(?)ために全体的な統一感に微妙に欠けることや、ケースが陳腐化しやすいところでしょうか。

また、論文集という形の学術書として書かれているために、文章もやや硬めで、値段もそれほどフレンドリーではないというところ。

ただし「戦略の階層」における思考の抽象度を上げた問題解決の注目の仕方を学ぶという意味では「コンテクスト」という切り口で考えることは極めて重要かと。

そういえば私が翻訳した『戦略の格言』でも「コンテクストが全てである」というものがありましたが、経営系の戦略と軍事系の戦略で共通項をみることができるという意味でとても面白い。
by masa_the_man | 2013-02-25 12:07 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から快晴です。そういえば今日は東京マラソンみたいですね。

さて、引き続き私の関心の中心にあるテクノロジー関連のネタについて。

しかしこの記事は本当に興味深い。というのも、ある意味で現在の自由貿易の思想の否定とも受け取られかねない知見が含まれているからです。

日本にとっても他人事ではない深刻なトピックです。

===

テクノロジー、貿易、そして減少する雇用
Byクリスティア・フリーランド

●先日のオバマ大統領の一般教書演説で確認されたのは、「先進国における政治・経済面での最優先で取り組まなければならない問題は、資本主義を中間層の人々にとってどう上手く働くようにするのか」という点だ。

●これはある意味で当然のことと言えよう。今世紀のアメリカにとって最も重要な事実は、中間層の人々の所得が停滞しているということだ。金融危機のおかげで、ヨーロッパのほとんどの国でも同じ構造的な問題があることが判明している。

●19世紀のような暗い時代は過去となった比較的豊かな現在でも、この中間層の衰退は経済だけではなく、政治的な問題である。民主制度のそもそもの目的は、「多数の人間にポジティブな結果をもたらす」というものだからだ。

●これらはすべて「現在中間層に何が起こっているのか」を知ることが極めて重要であることを物語っている。

●この点について、MITの経済学の教授であるデイヴィッド・オートー氏に話は有益である。彼は中間層が直面している最も深刻な、雇用の「二極化」についての専門家だ。

●「二極化」とは、経済全体がトップの高収入層と低収入層にわかれ、社会の土台を構成していた中間層の仕事が失われているという意味だ。

●わたしが先週このことについて聞いた時、彼はアメリカの中間層の停滞については独自の答えを持っていることがわかった。

●それは、「最も問題なのは、このような驚くべき雇用の停滞がはじまってまだ十年しか経っていないことです。2000年か2001年あたりから突然この問題が深刻化したのです」というものだった。

●学者というのは大抵の場合はすべてにおいて自信のある説明をしてくれるものだが、オートー氏のこのような答えを聞いて、私はかえって驚いた。「この原因について誰もわからないのです」というのが彼の最終的な答えだったからだ。

●これは魅力的な控えめな答えだったが、彼が他の学者との共同研究では、中間層で何が起こっているのかを読み解くにあたって常識感覚と学術研究が一致するのは、そこに二つの力が働いている、という点だ。

その二つの力とは、「テクノロジーの変化」と「貿易」である。もちろん感覚的にいえば、この二つの力は混じり合っているというのが本当のところだろう。

●結局のところ、貿易にはテクノロジーが必要なのだ。たとえばインターネットや高度に発達した物流システム、それに飛行機などがなければ、海外へ仕事を外注(アウトソーシング)できないからだ。

●また、テクノロジー自身も貿易に依存している。グローバルな事業展開の可能性というのは、テクノロジーのイノベーションがここまで展開してきた理由の一つだからだ。

●ところがアメリカ国内の労働市場の実態を詳しく調査した彼らの研究によれば、貿易とテクノロジーというのは、雇用の結果についてかなり異なる影響を与えていることがわかっている。

●オートー氏は「いやあ、この二つの違いには驚きましたよ。われわれの調査では、貿易のほうが失業率に明確に影響を与えていることはわかっています。たしかにテクノロジーは仕事の二極化につながるんですが、雇用についての影響はかなり限られています」と述べている。

●つまり少なくとも短期的には、貿易は海外へ雇用を逃がしてしまうのだ。そしてテクノロジーは雇用自体を無くすことにはならないのだが、中間層に必要となる仕事を空洞化させてしまうのだ。

●私のような古典自由主義派の「貿易はそれに関与する双方の国にとって利益になる」という経済観を持っている人間にとって驚きだったのは、「グローバル化はアメリカの労働者にとってかなりネガティブな影響を与えている」という調査結果だった。

●オートー氏たちによれば、これは失業のうちの15%から20%に当たると推測されるという。

●彼は「中国の台頭は大きいですね。本当に大きなインパクトです。第一に、中国は巨大な国であり、第二にテクノロジー面ではわれわれとは40年から50年の遅れがあります。よって追いつくまでにはまだ色々とやるべきことがあるわけです。第三に、これらの発展が急速に行われているということですね」と言っている。

●ここで驚くべき(そして恐るべき)ことは、少なくとも米中の貿易関係についていえば、知識人たちがあざ笑うようなポピュリストたちの反射的な恐怖感が、実は本当に正しかったと言えることだ。

●「米中貿易はほぼ一方通行です。この貿易関係は相手に大量にモノを売ることによって明確に利益を得られるということにはならないからです。自由貿易の推進というのは、たとえばアップルの本社にとっては利益になるでしょう。ところがそれで最初に何が起こるかといえば、(アメリカ人の)仕事の消滅です」とは別の共同研究者の言。

●テクノロジーのインパクトはもっとわかりやすいものだ。この共同研究者たちは全体的に仕事の数が減少することにはならないが、それでも中間層の仕事が消滅することを確認している。

●「テクノロジーは仕事の分布状況を本当に変えました。もちろんこれは必ずしも雇用の喪失の直接的な原因になるわけではないのですが、二項的な組み合わせのチャンスを創出することになるのです。食品系と金融・財政系には仕事が溢れているわけですが、中間層向けの中間の所得の仕事は少なくなってきています」とオートー氏。

●この二つのトレンドが突きつけている課題、そして中間層の仕事の喪失が政治的・経済的な問題となってくる理由は、あなたが会社の経営者からそれとも従業員かという立場の違いで、その問題への視点が大きく異なってくるという点だ。

中間層の仕事を中国に輸出してしまうことや、仕事を機械に任せてしまうことは、頭のよい管理職や株主たちにとっては「利益」になる。これをわれわれは「生産力の向上」と呼ぶ。

●ところが中間層の雇用という視点からみれば、これは「損失」に他ならない。

●この大きな視点の違いが、現在の先進国の民主制国家の政治が二極化していることにつながっている。資本主義と民主制度は互いに矛盾するものであり、誰もこの二つを上手く調和させる方法を知らないのだ。

===

うーむ、意外とヘビーな話題ですな。

民主制度と資本主義、そしてそこにテクノロジーが果たす役割についての問題というのは、地政学の祖であるハルフォード・マッキンダーも主著のテーマにしたほど深刻な問題です。

結局のところ、21世紀も人間はこの問題に相変わらず悩まされて行くということですね。
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by masa_the_man | 2013-02-24 11:32 | 日記 | Comments(6)
今日の横浜北部は朝から快晴です。相変わらず寒いですが、今日も一日春らしさを味わえるかと。

さて、久しぶりにメルマガのほうを連続投稿しておりますので、そのお知らせを。

今回は安倍首相のアメリカ訪問に合わせた形で、日中の戦略の捉え方の違いみたいなことを、いつもの「戦略の階層」を使って簡単に論じております。

来週はまた中国の戦略思想みたいなところを少し書いていこうかと考えております。

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by masa_the_man | 2013-02-23 10:09 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部はスッキリ晴れました。気温もやや上がって日差しは春です。

さて、これもまた古い記事ですが、アメリカとイギリスの違いについて戦略文化論的な面白い記事の要約を。

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心配なアメリカ人
Byルース・ホイップマン

●アメリカでは赤ん坊が生まれると、親たちが子供将来の希望について聞かれた後に、すぐに不文律の契約や義務的な答えとして、「この子が幸せであれば何になろうとかまいませんよ」という答えを用意する。

●ところがこの言葉には「ハーバード大学に言ってくれれば」という隠れた形容詞がつくのだが。

●「幸せ」というのはアメリカの成功の最高の勲章である。しかもこれはトランプの「ジョーカー」と同じように、いかなる職業面・社会面での成功や、家族、友情、そして愛などを越えて大きな影響を与えるのだ。

●「幸せ」というのは他人の達成を驚くほど矮小化してしまうもの(例:彼女は理想的な職についているし、旦那もすてきだけど、本当に幸せなのかしら?)であるし、同時に自分たちの外面的な輝きも失わせてしまうものだ。

●このような強迫観念的で追い込まれたような「幸せ」の追求はアメリカ人特有の闘いであり、独立宣言の日常生活への適用であと同時に、アメリカ人の神経を参らせてしまうものである。

●私はアメリカに住んでいるイギリス人であるため、自分の祖国とアメリカにおける「幸福」の追求における文化的な違いについてはかなり詳しいつもりだ

●アメリカの建国の父の一人であるトマス・ジェファーソンは、独立宣言の「幸福の追求」の一文を書いた時には、大西洋の向こう側の楽しみを避けるような圧政者側(イギリス)にたいして、完璧な反抗をしていたのだ。

●イギリス人というのは「幸せ」というテーマについてはあまり語ることは少ないし、基本的に「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という夢物語はまったく支持しない国民だ。

●もちろんこれはイギリス人たちが幸せになりたくないという意味ではなく、ただ単に彼らはこのようなテーマについてわざわざ語ったり追い求めたりするのを恥ずかしいと感じているというほうが正しいのだ。これはまるで最初のデートが終わった後で「楽しかった?」と相手に聞くのと同じような感覚だ。

●冷笑的で皮肉的な態度というのはイギリス人の得意技だ。イギリス人にとって「幸せ」というのは努力して獲得するようなものではなく、むしろ受け継いだ貴族の称号のように知らない間に与えられているものという感覚だ。

●ところがアメリカでは「幸せ」というのは努力して獲得するものである。

●彼らは激しい努力を注ぎこんだモチベーショナル・セミナーや、セラピーセッション、それに黙想会や空港の本屋などに殺到するのだ。左派にはヨガ、そして右派にはジーザス(宗教)が用意されており、誰もが努力を惜しまないのだ。

●私自身はカリフォルニア州に住んでいるのだが、ここはアメリカの中でも最も幸せが追求されている場所だ。私が原稿を執筆しているこの喫茶店ではさまざまなタイプの「幸せ追求セミナー」の告知が貼ってあり、マウム瞑想法からトランス・ダンス、チベットそれに最も奇妙なものとしては、オオカミの初乳を飲むセッション(?)もあるほどだ。

●統計的には共和党に入党するほうが幸せを感じるという統計があるにもかかわらず、この喫茶店の客たちはこのような告知にある電話番号を熱心に書き写したりしている。

「幸福の追求」に参加している人々というのは、基本的にとても幸せには見えない。たとえば私がアメリカに来てからすぐの時期に参加した唯一のヨガのクラスでは、その場に溢れている緊張感と悲惨さは明白だった。

●当たり前かもしれないが、すでに幸せを感じている人というのは、YMCAの汗臭い部屋の中に自発的にわざわざ自分をねじ込もうとするわけがないのだ。

●私はほんの一年ほど前にアメリカに移ってきたのだが、いままでイギリスで生きてきた時よりも多くの時間を、自分の幸せについて語ることに費やしている。

●この話題はこれを書いているちょっと前に通り過ぎた公園で、ブランコを押していたある母親が触れていたし、スーパーの魚売り場のカウンターにいた店の人、スポーツジムのインストラクター、それに私たちが雇っているベビーシッターも触れていたことだ。

●ちなみにこのベビーシッターは、カリフォルニア北部にあるヌードになってすごすことによって幸せを追求する施設のパンフレットを持ってきていた。

●イギリス人は疲れるほどネガティブな人々であると言えるかもしれないが、アメリカ人の幸せへのアプローチは逆に彼ら自身に不安を発生させているとも言える。

●「約束」や「希望」というのはたしかに一見すると魅力的だが、これはすぐに不満やいらだちの気持ちにとって代わることになる。

「私は幸せなのかしら?私の幸せは十分?みんなと同じくらい幸せ?もっと幸せになるために何かできるのでは?」このような問いかけは、むしろノイローゼへの近道だ。

●「幸せ」というのは偶然の発見のようなものであるべきで、よい生活の副産物のようなもので、それ自身を追求しても意味がないといえる。

●このような見解は、以下のようなやや憂鬱な統計結果から出てきたものだ。

●毎年のことだが、ある意識調査でがアメリカ人の33%は「とっても幸せだ」と答えており、この数は非常に安定している。

●この割合はかなりものだが、この割合は驚くほど一定していて、東洋の瞑想法や福音主義のキリスト教、アンソニー・ロビンスやグレッチェン・ルービンや愛情的な育児法の登場によっても変化していない。

●ようするにアメリカ人のこれほど努力にもかかわらず、彼らはまったく幸せになっていないのだ。そしてむしろ「幸せの追求」そのものが、逆に心配の原因の一つになっているのは不思議ではない。

●したがって、素晴らしい天候と風景にもかかわらず、カリフォルニア州の人々は、イギリスの北東部のグリムズビーの町の人々よりも幸せを感じておらず、不安である言えるのかもしれない。

●だから彼らはそれほど頑張って追求する必要はないのだ。

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現在日本で大流行している「ソーシャル」ではなく、内向的な人間にとっての「引きこもりの幸せ」というパターンもあるということが社会的に認知されてくれば、日本も少しはまともになるということも言えそうな。

『Quiet(クワイエット)内向型人間の時代』を読み解く~累積戦略と順次戦略を徹底解説
by masa_the_man | 2013-02-22 16:42 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は昼間晴れていたのですが、午後から曇ってきました。

さて、日本でもビッグデータの活用などが色々と話題になっておりますが、NYタイムズのブルックスがまたまた興味深いコラムを書いておりましたのでその要約を。

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データの哲学
by ディヴィッド・ブルックス

●今日台頭している哲学は何かと聞かれたら、私は「データ主義」だと答えるだろう。われわれは大量のデータを集めることができるようになってきており、これはわれわれの文化面での前提になっている。

●この前提とは、「計測できるものはすべて計測されるべきであり、データというのは、われわれの感情主義やイデオロギーなどを排除することを可能にする、透明性があって信頼できるレンズである。未来予測などのように、データはわれわれに驚くべきことを可能にしてくれる」というものだ。

●私は今年から来年にかけて、「データ革命」が生み出した新たな問題について理解できるようになればと考えている。その問題とは、

―われわれはどのような状況でデータではなく、自分たちの直観を信じればいいのか?
―その反対に、どのような状況でデータのほうを信じればいいのだろうか?
―統計分析を使えばどのような種類の出来事が予測可能になるのだろうか?
―その逆の出来事はどのような種類のものであろうか?

●実際のところ、私はこのような問題については正直疑問をもっている。なぜならわれわれは全てを数値化できるという考え方に引きずられがちだからだ。

●しかしまず最初に、データが得意とする二つのことについては賞賛すべきであろう。

●第一に、データというのはわれわれの現実についての直観的な見方が間違っているということを指摘するのにとても役立つものだ。

●たとえばバスケットボールをしたことがある/よく見る人だったら、選手が神懸かり的に調子がいいときや、逆にジンクスにハマっている時を経験することはおわかりいただけると思う。ところがある研究者たちによれば、六回連続でペナルティ・ショットを決めた選手が次の七回目のシュートを決める確率は、六回連続で失敗した場合とまったく同じだというのだ。

●ある選手が六回連続でシュートを決めた場合、通常われわれはこの選手が「ツイている」と感じるものである。ところが実際このような「良い調子」というのも、コインの裏表を繰り返している際に出てくるのと同じような「統計上のランダムなノイズ」にすぎず、一回それぞれのシュートの成功率というのは、結局はその選手の生涯シュート率に集約されてくるのだ。

●同様に、選挙を戦おうとする人々は選挙資金が豊富であればあるほど当選の確率は高まると考えるものだ。ところがこれも大きく見れば間違っている

●たとえばアメリカの州や国政選挙におけるデータで判明しているのは、資金が豊富に使われているテレビ広告などはほとんど効果がないことがわかっている。

●2004年の選挙の後に政治学者たちは選挙CMの効果を計測しようとしたが、その結果判明したのは、もしある候補者が一つの選挙区で対立候補よりも資金を大量投入して千回多く(これはかなり大きな差だ)CMを流したとしても、たった0.19%しか獲得票は上がらなかったということだ。

●2006年の選挙の後では、ある研究者が現職の議員たちが選挙戦に使った資金と最終的に勝利した時の対抗候補との獲得票の差を調べているが、ここでも資金の量と大勝したかどうかという点にはほとんど有意が見られなかったのだ。

●2012年の5月から6月にかけて、オバマ側の選対本部は対抗候補であるミット・ロムニーにたいして巨額の広告キャンペーンを展開したが、ある政治学者のブログでは「この広告の効果は短期的なものであった」と言っている。

●同様に、教師の多くは生徒ごとに学習スタイルが違うと直観的に考えている。つまり口で説明するのが好きな子もいれば、視覚的な説明を好む子もいるし、線的/包括的なやりかたがいい子もいる。

●つまり教師たちはそれぞれの子にあったやりかたをすれば成績が上がると考えるものだが、これを支持するような統計結果は何もないのだ。

●第二に、データはわれわれの気付かない行動のパターンを浮かび上がらせてくれる。

●たとえば、私はいままで「私は」(I)という言葉を多く使う人というのは普通の人よりも自己中心的な性格っを持った人なのかと思っていた。

●ところがテキサス大学のジェームス・ペネベイカーは、人間は何かに自信を持っているときは目の間の仕事などに意識を集中するもので、自分たちのことについてはほとんど何も語らないものであると述べている。

●つまり立場の高い人で、しかも自信を持っている人々というのは「私は」という言葉を使うことは少ないのだ。

●ペネベイカーはニクソン元大統領の政権時代に録音されたテープを分析している。ニクソンは「私は」という言葉を政権前半ではあまり使っていないのだが、ウォーターゲート事件が問題になって自信を失ってきた後半では「私は」という言葉を多く使うようになっている

●ルディー・ジュリアー二元ニューヨーク市長も同じで、彼は現役の市長時代にはあまり「私は」という言葉を使っていないのだが、体調を崩してガンであることが判明して、しかも結婚生活が破綻した二週間の間には、「私は」という言葉を多用している。

●自信を持っているオバマ大統領は、現代の他の大統領たちと比べてもあまり「私は」という言葉を使ってはいない。

●われわれの脳は微妙な言葉のパターンについてはあまり気付かないものだが、ペネベイカーのコンピューターはそれに気付くことができるのだ。

●たとえば若い世代の著者たちは暗い言葉や過去形を文章の中で使うことが多いが、古い世代の著者たちはよりポジティブな未来形の言葉を使うことが多いという。

●また、嘘をついている人物というのは、元気で親しみのある言葉(“pal” や“friend” )を使うことが多く、その逆に否定句(but やexcept、それにwithout)をあまり使わないのだ。

●これはつまり嘘の話をしている際には見たことも考えたこともないことを交えて離すことは難しいということだ。

●われわれはビートルズのメンバーの中ではジョン・レノンが最も知性が高いと考えがちだが、実際はポール・マッカートニーの詩のほうが柔軟で多様性のある構成をもっていて、ジョージ・ハリスンの詩は最も知覚的に複雑なのだ。

●まとめると、データ革命はわれわれの現在と過去を理解するための素晴らしい手段を与えつつある。しかしこれが将来の予測につながるのかは、まだわからない。

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そういえば最近は文学関係の調査研究でも、ある著者の文体は誰の影響を受けているということまでわかるようになっているという記事がどこかにありましたね。

たしかにこれって最近の社会の「思想」や「哲学」ですよね。

しかもこれがコンピューターの検索機能などをはじめとする「テクノロジー」の影響を色濃く受けているというところが肝でしょうか。

やはりテクノロジーは社会に、そして社会はテクノロジーに影響を与えるわけです。

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by masa_the_man | 2013-02-21 16:55 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から雨と雪が降っている寒い一日でした。

さて、最近発売した「累積&順次戦略」を解説したCDなんですが、これに近い内容のことを別のアプローチから語っている人のインタビューをネット上で発見しましたので、その引用を。

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イノベーションを起こすには「孤独」が必須だ
「20代は捨て」と説く、四角大輔氏に聞く

レコード会社のプロデューサーとして輝かしい経歴をお持ちの四角さんですが、この『自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと』、の帯にある「20代は捨て」は、思い切った物言いですね。「若いうちは人に会え、本を読め、外国に行け、なんでも吸収しろ」、というのが、上の世代から若い人たちに送られるメッセージじゃないですか。

四角大輔(以下四角):よく言われます。まだまだ経験不足のはずの20代に「捨てろ」なんて勧めていいのか、と。

 しかし、20年前、40年前の20代と、今の20代とでは圧倒的に違うポイントがあります。

 現代は、たとえ受け身でいたとしても、異常なほど情報があふれ、選択肢もめちゃくちゃな数が示されている。20代の段階で、「やみくもに手に入れる」という姿勢では対応しきれません。ある程度の人生経験を積んできた、40代の僕でさえパニック寸前です。しかも、彼らはデジタルネイティブ、つまり生まれた頃すでにネットが存在していたのです。

 これが50年前、僕の父親が20歳のときだったら、情報も選択肢もほとんどなかったから、「とにかく吸収しろ」で良かったと思うんです

ー私たちは「情報はこちらから貪欲に求めていくもの」と思って育ってきました。

四角:そうなんですよね。でも、20代の子たちと向き合っていると興味深い事実に直面します。みんな「忙しい」と言うんですよ。学生が、ですよ

ー確かに、忙しいと言いますね。

四角:言うでしょう。「忙しい」に続けて「やりたいことが分からない」と必ず言ってくる。それは、あまりにも多い情報量が彼らのキャパを超えていて、メンタルも思考も追いつかないんです

ー情報が多すぎて考えられない。なぜでしょう。

▼今の我々と同じ年頃の上司は、もう少し暇そうだった

四角:その情報が実際に自分に必要なのか、やりたいことなのかを考える前に、まず目に入るものを一通りチェックしようとしている。でも実は、ネットやメディアを通して勝手に飛び込んでくる情報って、単なる二次情報でノイズだらけです。そんな不確かな情報の渦の中で「自分軸」を失い、混乱してしまっているんです。

 心の奥底ではやりたいことがあるんだけど、「やらなきゃいけないこと地獄」に追われている。学生にアドバイスしているとよくあることなんですけど、実際に「ToDoリスト」を全部書き出させて整理整頓したら、半分以上は「やらなくていいこと」なんですよね。

ーToDoリストが、いらないことでがーっと埋まってる。

四角:めちゃくちゃですよ。やっぱり今が、そういう情報ノイズにあふれかえっている環境だからなんですよ。彼らは、ノイズジャングルという異常事態の世界にいるのです

ーなるほど。そういえば新人の頃に今の私の年の上司はもっとゆったり働いていたような気がしますねえ。人ごとじゃないのか。

四角:今、70歳の人が20歳のころ、つまり50年前に膨大な数のToDoリストがあったかといえば、おそらくないんですよ。頭にガンとたたき込んでおけるくらいシンプルだった。今の20代の子たちは、あまりにもたくさんのノイズを抱え過ぎている。それを少しでも減らしてあげたいんです

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うーむ、これは厳しいですね。

ただし根本的なところの問題は、私やこの四角さんも含めて、「情報をカットせよ」「孤独になれ!」と言っている情報そのものがノイズになって聞き入れられにくくなっている、という矛盾でしょうか。

つまり現代はそれほど情報に溢れすぎているということも。

ただしそういう中で本当に情報をカットして孤独に考えられた人たちのみが、本物のクリエイティブな仕事ができる、というのはあるのかもしれません。

つまり現在の世の中では、求められている才能(創造性)と、それを生み出す環境(外向指向/情報過多)との矛盾が、最も激しく出ている時代とも言えるわけですな。
by masa_the_man | 2013-02-19 17:00 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から小雨が降っておりまして、とにかく寒い一日でした。明日は雪が降るそうですから、すっかり冬へ逆戻りですな。

さて、地理、テクノロジー、地理観の三位一体については、私の著書でも何度も出てきている概念なので、本ブログをご覧の皆さんにはすでに馴染みのある概念だと思いますが、それを別の面からとらえた(ちょっと古いですが)面白い記事がありましたので、その要約を。

テーマは移民が感じる「郷愁」、つまり「ホームシック」なのですが、これがなんとも興味深いことに、非常に地政学的なのです。

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“世界市民”のホームシック
by スーザン・マット

●最近のある世論調査では、世界の大人の25%にあたる11億人が、より良い稼ぎができる場所を求めて、一時的に異国に移住しており、それに加えて6億3千万人が外国に永住したいと考えているという。

●世界におけるこのような「祖国を離れたい」という欲望は貧困のようなやむに止まれぬ事情もあるはずだが、同時にそれは「移住が可能である」という確信からも生まれてきたものだ。

●このような世界市民的な考えをもつ人々というのは、「人間は世界中どこにいっても安心して住むことができる。だからどこか特定の場所に縛られる必要はない」という想定を持っている。

●このような考え方というのはヨーロッパ近代の啓蒙主義から生まれてきた奇妙なアイディアなのだが、現在はグローバル化した経済の中心的な思想として広く受け入れられているものだ。

●たしかに外国に移住すれば、チャンスや利益につながるのかもしれないが、それは同時に人間にとっての心理学的なコストも高まるのだ。

●ここ十年近くで私が行ってきた移民や移住者たちへの感情や経験についての調査によって判明したのは、異国で一旗揚げようとしてした人々の中には、結局は孤独を感じたり鬱になっている人々が多いということだ。

●このような感情は移り住むことの多かった20世紀のアメリカ人に多く見られるものだったが、この時は過去との決別という意味合いが強かった。19世紀のあらゆる階層の人々は、移住することは感情面で過酷であることを認めていた。

●医療専門誌はこの状態を調べて、これを一つの症状として扱った。それが「郷愁」(ノスタルジア)である。

●ホームシックの破壊的な症状というのはとても頻繁に見られていた。1887年にサンフランシスコのある新聞の見出しには「ノスタルジアの犠牲者:牧師が祖国の風景に憧れて死ぬ」というものがあったくらいだ。

●この牧師はアイルランド出身で、ニューヨークのブルックリンに到着した後に「ノスタルジア」の病気にかかってしまったという。死ぬ直前には「私はホームシックにかかっている。親愛なる祖国よ、わたしはもう二度とその緑の岸辺に足をつけることはないのだ!」と嘆いたという。

●今日ではこのようなホームシックについての表立った話を聞くことはほとんどないが、これはこのような感情が、個人の成長と繁栄にとっては恥ずかしい障害であると社会的に認識されているからである。このような沈黙のおかげで、移住するということは非常に簡単なことのように思えてしまうほどだ。

●また、テクノロジーもわれわれに「移住は痛みのない簡単なものである」という考えを起させてしまうものだ。スカイプの広告には「無料ビデオ電話は、そこに一緒にいなくてもみんなで簡単に集まることができます」というものがある。

●テクノロジーのおかげでマウスのクリックや電話をかけることによって「絆」が簡単に得られるという幻想は、移住という選択肢をそれほど影響のないものであるかのように考えさせてしまうものだ。

●もしテクノロジーがホームシックを消滅させてわれわれを「世界市民」にしてしまうことができるとすれば、スカイプ、Facebook、携帯やEメールなどは、古代ギリシャの「オデュッセイア」以来のわれわれの痛みを解消してくれたはずだ。

百年以上前にも、当時のテクノロジーはこの症状の解決法だと見られていたことがある。1898年にアメリカの評論家たちはホームシックが「最近の迅速なコミュニケーション、急速なニュース、それに地理の知識の広がりなどによって緩和されるはずだ」と論じていた。

●ところがそのような宣言はかなり楽観的なものだった。なぜならホームシックは、移住した人間の多くを悩ませ続けることになったからだ。

今日のテクノロジーでも、ホームシックを解消するには至っていない。ニューヨークのある研究所の調査によると、移民たちは以前よりも頻繁に連絡を取り合っているということがわかっている。

●2002年には移民のうちで一週間に一回故郷の家に電話していたのはたった28%だけだったのだが、2009年にはその割合が66%に上がっている。

●ところがこのレベルの連絡頻度でも、移民たちの悲しい感情を満足させることができていない。2011年の専門誌の調査でわかったのは、アメリカに在住しているメキシコ移民たちは、移民していない親戚や家族たちにくらべて鬱や不安感に悩まされている率が40%も高いのだ。

●また、アメリカに新しく移民してきた人間たちも高い率で鬱や「文化変容ストレス」に悩まされるという。

●メキシコからの移民であるバレンシア氏は、このような統計を如実に表している典型的な例だ。彼は2005年に自宅のローンを払うためにアメリカのネバダ州に出稼ぎにきたのだが、着いたその翌日から「帰りたい!」と思ったという。

●彼は「私はつねに家族と一緒に暮らしていたもので・・・もちろん耐えなきゃいかんですよ、われわれ出稼ぎ労働者は耐えなきゃいかんです。でも常に帰りたいという考えは頭の中にありますね」と私に説明してくれた。彼はEメールや国際電話カードを使って妻と連絡をとっていて、週に数回はかけるという。

●ところがこのような定期的なコミュニケーションでも、彼の強烈なホームシックは和らぐことはなかった。彼は2009年に家族のもとへ戻っていった。

●ヴァレンシア氏のように、アメリカに来た移民のうちの20%から40%は最終的に祖国に帰ってしまうという。彼らはスカイプが実際にふるさとにいることの代わりにはならないことを知っているからだ。

●もしかすると、これらの新しいテクノロジーは、むしろホームシックの感覚を高める効果があるのかもしれない。メキシコのある心理学者は、テクノロジーがホームシックを強める可能性があると考えているほどだ。

●彼女の妹はサンディエゴに25年間住んでいるのだが、長距離電話が安くなったために、以前よりも何度も電話をかけられるようになったという。毎週日曜日には大家族が一緒に食事を囲んでいるときにメキシコに電話してくるようになった。彼女は家族に向かって、誰が来て何を食べているのかをいちいち聞くという。

テクノロジーは彼女の家族とのコンタクトを増加させたのだが、同時に家族と離れて暮らしているという現実を定期的に思い起こさせるようになったのだ。

●電話やインターネットの即時性が意味しているのは、家から離れて暮らしている人々に、その離れて暮らしているという現実を知らせることができるということだ。このようなテクノロジーは人間に二つの場所に同時に存在できるような幻想をもたらしてくれるのだが、この幻想はまさにそれが幻想であるということを見せつけてしまうのだ。

●ホームシックの強さというのは、われわれのマーケットや社会を大きく補強する世界市民的な哲学の限界を示している。「われわれは世界のどこでも心地よく暮らしていけることができる/いくべきだ」というアイディアは、孤独かつ移動可能な個人を賞賛し、個人が家族や過去から簡単に離れられるという世界観にのっとったものだ。

●ところがこの世界観はわれわれの感情とは相容れないものである。なぜならわれわれの家との結びつきというのは、軽視されることが多いのだが、それでも強くて永続的なものだからだ。

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これはまさに地政学の三位一体の話ではないでしょうか?

物理的地理、テクノロジー、そして地理観の相互作用は、いくらテクノロジーが進化したとしても、それが人間の「距離感」までを縮めるまでには至っていない(むしろ遠ざけている?)、ということですね。

ちなみに私には故郷と呼べる場所が横須賀かカナダの町くらいしかないのですが、それでもそれほどホームシックにかかるということはありませんね。これは個人差があるのでしょうか?

そういえばカナダ留学中に強烈なホームシックにかかって、毎日日本に電話して、電話代が毎月十万円くらいになっていたという日本人の女の子の話を聞いたことがあります。

そんなに金かけるんだったら電話代を飛行機代にしても同じなのに、と思ったことが(苦笑)これは90年代後半の、まだEメールやスカイプなんかが使われていない時代でしたが。

ちなみにホームシックには「文学や芸術にとって有益なもの」とも言えるものでして、たとえば私が翻訳した「インド洋本」には、ポルトガルの船乗りたちが「サウダージ」と呼ばれる「郷愁」を遠洋航海の間に感じており、それがカモンイスの『ウズ・ルジアダス』という史上最高レベルの叙情詩に結実したことが書かれております。

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by masa_the_man | 2013-02-18 22:34 | 日記 | Comments(4)