戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


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中国の空母

すでにご存知かと思われますが資料代わりにここへ


by masa_the_man | 2012-11-26 20:30 | ニュース | Comments(6)

リーダーたちのジレンマ

今日の横浜北部はよく晴れました。しかしけっこう冷え込んでおります。

さて、近づいている衆議院議員総選挙について簡単なコメントを一言。

民主党政権の数々の失敗、というか機能不全を経ての、実に三年ぶりの衆議院議員総選挙が来月の16日に開催されることになったのはみなさんもすでにご存知の通りですが、これについて少し思うところが。

今回の民主党政権は、いわゆる「マニフェスト」と呼ばれるものを掲げて政権交代を果たしたわけですが、最近の日本で見られるようなこの「目標明確型の民主選挙」を目撃してくると、政治だけでなく、あらゆる組織のリーダーシップというものに潜むジレンマを感じることばかり。

すでに皆さんはご存知かもしれませんが、私が最初に地政学を習ったのは、伝統的な「古典地政学」を批判することに意義を見いだす「批判地政学」のルートからだったのですが、ここでとくに批判対象として出てくるのは「地政学コード」などと呼ばれる、いわばフィクションによる「単純化されたキーワード」みたいなものです。

たとえばマッキンダーの「ハートランド」とか、ジョージ・ケナンの「封じ込め」とかリップマンの「冷戦」、それにレーガンの「悪の帝国」からブッシュの「悪の枢軸」「テロとの戦争」まで、とにかく国際政治の政治地理的な枠組みを教える、いわば「単純化したキーワード」に色々とツッコミを入れる、というのが批判地政学の研究の「肝」だと言えるでしょう。

こういうところから学問を学んだので、いまでもこのような特定のイメージ(世界観・地理観)を持つ言葉がどうしても気になってしまう自分がいるわけです。

ところが批判地政学の決定的な限界があります。それは、基本的に「批判だけ」なので、代替案というか、別の政策を出すという方向にあまり行かないことです。

いいかえれば、批判地政学の研究者というのは、政治のリーダーたちや政府がやっていることを徹底的に皮肉っているだけともいえるわけで、「単なる揚げ足取りでしょう」と逆にツッコミを入れられる危険もあるわけです(実際に古典地政学系に理解を示す研究者でそう批判する人もいます)。

現代の地政学に見られるこのような対立構図を簡単に示しますと、

●古典地政学(権力側):フィクション的な、単純化したキーワードを使用
     vs.
●批判地政学(批判側):フィクションを暴くために、キーワードを分析・批判する

ということになります。

ところがこの「権力側vs批判側」という対立構図ですが、実は国内政治や組織経営などについてもそのまま適用できます。

たとえば橋下氏が主導した大阪維新の会の近年の躍進ですが、あそこには「大阪都構想」という、古典地政学でいうところの「封じ込め」と似たような性格の「単純化したキーワード」が使われました。

地政学の世界でしたら、ここで批判地政学の論者たちが出てきて、「大阪都構想という言葉にはこういう前提がある」とか「背後にどのような意図があるのか」のような点を哲学的に分析したりするわけですが、日本だとこれをメディアや知識人たちが担当して「橋下批判」のような形でやります。

しかしここでひとつのジレンマが発生します。

なぜならこのメディア・知識人側のツッコミがあまりに強すぎると、(とくに日本のような国では)リーダーとなる人が余計なプレッシャーによってつぶされてしまい、結局何も決められなくなってしまうからです。

ところがあらゆる「リーダー」のひとつの役割としてあるのは、多くの人々を(良い意味でも悪い意味でも)うまく騙して、国や組織全体をひとつの方向に向かわせなければならないという点です。

そしてその場合には、どうしても政治や経営環境や社会の現実という複雑な現象を思い切り単純化した、わかりやすいイメージやキーワードを使わざるえないわけです。

なぜならリーダーたちは、古典地政学が使うような「単純なキーワード」というものを使わないと、部下や民衆、ひいては国そのものを動かせないからです。

政治でも組織でも、それをある程度効率よく運用するためには、どうしてもツッコミ所満載なもの、つまり「マニフェスト」や「政権公約」、それに政敵をシンボル化したり単純化したりする言葉などを使わざるを得ないということです。

じゃあそのツッコミを入れていた批判側が、権力側に代わっていざ自分たいが権力側に回るとどうなるかというと、彼らもさっそく怪しい単純化されたキーワードを使いはじめます。使わざるを得なくなってしまうのです。

そうなると今度はいままで自分たちが権力批判に使ってきたやり方そのものに苦しめられることになります。批判していたその矛先が、今度は自分たちに向いてきてしまうという「ブーメラン」状態の完成です。

話が広がりすぎてしまいましたが、結論だけいうと、あらゆる組織のリーダーというのは、どうしてもツッコミ所満載の、極めて怪しい「単純化されたキーワード」を使わざるを得ないわけですが、なぜそうせざるを得ないのかというと、そうしないと組織全体(国であれ会社であれ)を動かすことができないからです。

さらに言えば、人間を動かすには(良い意味でも悪い意味でも)「フィクション」が必要だということです

そのフィクション性に気づいた批判側が、そのフィクションが具現化されえたその「キーワード」を批判しても、彼らがいざ権力側に回ったときには、同じくそのキーワードを、自分自身が使わざるを得なくなります。

最悪の場合は、その「キ―ワード」を批判するために、さらに別の(フィクション的な)「キーワード」を使わなければならないという矛盾が。マルクス主義なんかがこの典型でしょう。

なんだか上手くまとまっていないような気がするんですが、ようするに私の言いたいことは、このようなフィクション/無理矢理な単純化の必然性というのは、あらゆる政治につきまとうジレンマかと。

ということで、みなさんも来月16日の総選挙にいたるまでに、各党・各候補の使うキーワードや、どのようなフィクションを使っているのかに注意してみていくと、意外と面白いかもしれません。
by masa_the_man | 2012-11-24 21:46 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から快晴でした。昨日よりは寒くないですが、それでも冬ですね。

さて、久々に感じたことをコメント。

今週末に開催予定の「戦略の階層」についての講演会なのですが、その内容について色々と考えているときにどうしても気になるのが、日本語での「技術」と「テクノロジー」のニュアンスの違いについて。

すでにご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、本ブログではかなり以前から「テクノロジー」が社会に与える影響について何度も指摘しております。

なぜ私がここまでテクノロジーについてここまでしつこいくらいに言及するのかというと、これは日本語に翻訳された「技術」という言葉と、戦略学をはじめとする海外の学問での捉えられ方に大きな差があるからです。

もちろん私は「テクノロジー」という単語を「技術」という言葉に訳したことにとりたてて異議をもうしたいというわけではないんですが、それでも日本人が海外でいわれている「テクノロジー」という言葉を単純に「技術」とするときに、大きな意味の「自動変換」をしてしまうように思えてならないのです。

では何が問題なのかというと、日本人の言う「技術」という言葉のもつニュアンスがが、どうも具体的すぎるというか、非常に唯物論的な感覚がしてならないわけです。

たとえば「ものづくり」という九〇年代から進められている「(準)国策」がありますが、これなどは、そこから感じられるニュアンスがとっても具体的。「もの」をつくるわけですから。

ところが最近はこれで結果が思うように出なかったために「ことづくり」のほうが良い、みたいなアイディアも出てきているほど。

イノベーション(革新)という言葉があります。これだって日本人の手にかかるとなぜかやたらと唯物的に変化します。つまり「具体的なハードウェアの発明」みたいな感覚でとらえられてしまうわけです。

ところが伝統的なイノベーション関連の本を読むと、どうも本質は違う感覚であり、どちらかといえば「仕組み」というか、ソフトウエア的な「やり方」の部分の革新という意味合いが強い。

つまり本来の意味は、日本人の考え方ほど「唯物的」では全くないわけです。

じゃあ唯物的ではないとすればどうなるのか。それはその反対の「形而上的」なものなのです。イノベーションとは、実はもっと抽象的というか、目に見えづらいものであるということでしょうか。

ここで「戦略の階層」の話が出てきます。私がこの概念が非常に有効だと考えるのは、日本人のクセというか、戦略文化のようなことを教えてくれるからです。

それは何かというと、日本人の考え方というのは、この階層の下、つまり具体的で抽象度の低い、どちらかというと唯物的なものに偏りがちだということなのです。

「いやいや、技術を突き詰めて独特の世界観を出しているじゃないか」

という反論も一理あるとは思いますが、それは私からみれば単なる言い訳でありまして、本来の「形而上」的な意味での抽象度の高い考え方は(集団レベルでは)全然できていないと思います。

その証拠が、西洋でいう「テクノロジー」を「技術」と訳しながら、その微妙なニュアンスまで伝えきれていないこと。

もうおわかりだと思いますが、「テクノロジー」という概念と、日本語の「技術」という概念では、ニュアンスがだいぶ違います

なぜなら日本の「技術」だと、具体的な物質の組み合わせやノウハウ、技(わざ)という、かなりハードウェア重視的な概念になるわけですが、「テクノロジー」という言葉にはもっと知識というか社会的なもの、いわばソフトウェア的な意味が込められてくるからです。

簡単に結論をいいますが、日本は「技術」という言葉の使用を廃止して、これからそれに代わって「テクノロジー」という言葉を奨励するべきかと。

「技術」というハードウエア的なものだけにこだわっていたら、いつまでたっても上のレベルからコントロールされて終わりだからです。

「ものづくり」がその典型です。これは単に「ハードウエアの生産でがんばりましょう」ということ。しかしいくら優秀なハードをつくっても、ソフトが付随していないから負け続けております。

この失敗の反省から出てきた「しくみづくり」というのも、まだまだ抽象度は低いまま。戦略の階層で考えても、せいぜい「作戦レベル」が関の山でしょう。

では日本が本来目指すべきだったのは何かというと、それはずばり

(世界を自分の都合のよい状態にコントロールするための)仕組みづくり

ということだと思います。

「自分の都合のよい状態にコントロールするだなんて、なんて野蛮な!」

という方もいらっしゃるとは思いますが、残念ながら、世界の国々(とくに西洋諸国)は互いにたいして、そして日本にたいして、いかに都合良くコントロールしようかと毎日必死で考えているわけです。

そのような中で、ただひたすら階層の下の「ものづくり」なんかに邁進していたら、日本がこれからも負けつづけるのは火を見るより明らか。

その上の戦術、作戦レベルでコントロールされて終わりですから。

では日本がコントロールされたとしても、少なくともわれわれ個人がそれを乗り越えるために重要なのは何なのでしょうか?

その答えの一つが、私は「技術」という言葉を(一時的にせよ)捨てることだと思っています。

そしてもう一つの答えについて、私は今週末の講演会で詳しく語るつもりです。

ということでなんだか宣伝めいてしまいましたが、この問題は実のところ、なかなか根深いものなのかなと個人的には感じております。

みなさんのご意見をぜひ!
by masa_the_man | 2012-11-20 23:06 | 日記 | Comments(21)

戦略の実践

今日の横浜北部は朝からよく晴れましたが、気温が低かった!本格的な冬のような。

さて、久々に本の紹介を。

The Practice of Strategy:From Alexander the Great to the Present
Edited by John Andreas Olsen and Colin S. Gray

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編著者は私の先生と、ノルウェーの軍人の方です。

これはグレイの主著であるModern Strategyのテーマである「戦略は永遠なり」という主張を元にして、過去の戦史を12例も集めて検証する、というもの。

この構成は邦訳された『戦略の形成』などにも近く、基本的に各章をそれぞれの戦史の専門家が担当するというものなのですが、いままでと違うのは「戦略の共通性」というものを統一して探っているところでしょうか。

しかしこの本の売りは内容もさることながら、その執筆陣の豪華さ。

エドワード・ルトワック、アン・カリー、ジェレミー・ブラック、ウィリアムソン・マーレー、マーチン・ファン・クレフェルト、それにコリン・グレイという、戦略研究をかじったことのある人間だったら誰でも知っているという泣く子も黙る超豪華メンバー。

扱われている戦争もアレクサンダーのものからローマやビザンツ、オスマン帝国、百年戦争に三十年戦争、それに南北戦争や両大戦から、冷戦を経て現在のイラク・アフガン戦争までと、とにかく幅広く網羅されております。

もちろん批判としてはアジアのケースが全く扱われていないという点が挙げられるでしょうが、そのような欠点をもっても余りある内容。構成的にもよくまとまっていて(各章の著者にもよりますが)読みやすいです。

ハードカバーしかなく、しかも高いわけですが、戦略研究をする人間にとっては必読文献のクォリティー。

「戦略は不変なのか?」・・・この答えにYes!と言いたい人は、ぜひこの本を手に取って下さい。

ちなみに今月25日(日)に私が行うビジネスマン向けの講演会にも、この本のエッセンスが。
by masa_the_man | 2012-11-16 23:30 | おススメの本 | Comments(1)

講演会で説明すること

今日の横浜北部は朝方の曇りから日中は快晴に変わりましたが、午後からまた曇って寒くなりました。

さて、二週間後に迫った講演会について詳細が決まってきましたので、その簡単な内容の予告を。

前回の出版記念講演会では、「戦略の階層」を中心として、大戦略と軍事戦略の間には極めて重大な境界線が存在し、階層の上下に対するアプローチの違いについて説明したわけですが、今回はそこからさらに話を進めて、戦略のパラドックスを中心に解説していきたいと思っています。

これは現在執筆中の夕刊フジの連載で書いている内容にも関わってくるのですが、具体的にいえば「コントロール」の話がベースになっております。

実は大戦略から上のレベルでは、「抽象度が高いのに具体的なもの」、そして軍事戦略から下には、「具体的なのに抽象的なもの」が求められるのであり、これはまさに矛盾だらけのパラドックス。

これだけだと一体何のことだかよくわからないと思いますが、実際に成功したプロジェクトや戦略などを見ていくと、このような矛盾の組み合わせばかり。

ということで、今回はこのような戦略の矛盾性を指摘する他にも、たとえば

●各階層の詳細な解説
●コントロールするために必要な「プロパガンダ」の役割は?
●戦略ではなぜ「質問すること」が重要なのか
●世界観の形成のために必要なことは?
●なぜ「素直」なほうが戦略を成功させられるのか?
●戦略家には「孤独」が必要?

という疑問を中心に、新しい知見も取り入れつつ、主にビジネスに使える戦略論を盛りだくさんの内容で展開していこうと思っております。

もちろん参加していただいたみなさんにも簡単なワークショップとして、用紙に書き込んでいただく時間も設けてあります。

ということで、25日(日)の講演会、ぜひご期待下さい!
by masa_the_man | 2012-11-13 21:47 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から快晴でした。午後から雲がややでてきましたが壮快な秋晴れです。

さて、現在某所で短期連載を書くことになっており、その準備を進めているのですが、それに関連しまして、今月後半に再び「戦略の階層」をビジネス向けに徹底的に説明をする講演会を開催します。

この思考のフレームワークですが、私が現在書き進めている戦略論に関する論文の調査段階で得た知見などを踏まえて、また新たに進化しております。

今回はそれを踏まえた上で、前回の講演会より内容をさらに進めて、「戦略の階層」の実際の活用の仕方をより徹底的に身につけるやりかたなどを共有したいと考えております。

今回は主に、

●「抽象度」を上げるにはどうすればいいのか?
●各階層の位置づけは?
●実際のビジネス上での活用法は?

ということを、私が最近各地で行ってきた講演のフィードバックなどと合わせて解説します。

お申し込みはこちらまで。

ご参加をお待ちしております!
by masa_the_man | 2012-11-13 21:46 | ためになる情報 | Comments(1)
前のエントリーの続きです。

===

規律と直感のはざま

●多くの意味で、「合理的な連続性」というのはたしかに可能なものである。

●国家安全保障会議(NSC)は元々はこのような問題を解決し、国防政策を作成するプロセスにおいて秩序を適用することを意図して組織されたものだ。

●ところがこのような組織でも、目標に集中する政治リーダーたちと、軍事作戦に集中する軍のリーダーたちが、戦略を別々の二つの方向に引っ張って行こうとする現実に影響を受けてしまうのだ。

●今日われわれが知っている国家安全保障会議というのは、元来目指されていたものとはかなり異なるものである。

●ジェームス・フォレスタル(James Forrestal)の元々の狙いは、大統領が走り回って思いついた命令をその場で下すようなものではなく、主な省庁の考え方を体系的に考慮するようにするよう大統領に迫ることにあった。

●国家安全保障会議の主な狙いは、大統領に知らせるための戦略的な討議を行い、性質の異なる省庁の官僚や、国務省、国防省、統合参謀本部、そしてインテリジェンス界の専門家たちを集め、議論する場を提供することであった。

●NSCも自分たちでこのようなことを独自に行っているが、実際にはわれわれが思いつくような役割を果たしてはいない。この会議は実質的に四人のメンバー、つまり大統領、副大統領、国務省長官、そして国防省長官(それにCIAの長官と議長が法定アドバイザーとして加わる)によって構成されている。

●この会議は以前のような役割の重要性を失っており、多くの人々はNSCのことを会議ではなく、単なるスタッフであり、大統領にたいする国家安全保障のアシスタントだと考えているほとだ。

●このような状態は「国家安全保障法」(the National Security Act)が制定されてから十年ちょっとの間存在しただけだ。彼らはNSCを「大統領に制約を与える組織」ではなく、大統領が省庁にたいして自らの意志を強要するための出先機関、というイメージに変えてしまったのだ。
 
●時期によっては、省庁間の相違が激しくなったこともある。たとえばこれが最も明らかに出たのはリチャード・ニクソンの政権の時であり、大統領は国務省を無視してホワイトハウスに対外政策を実行させ、そのためにヘンリーキッシンジャーを使ったのだ。

●このようなトップからの強力な指示というのは、戦略の「線的なモデル」に確実に当てはまるものであり、ニクソン政権におけるビジョンはモスクワとのデタントや中国との関係改善という劇的なブレイクスルーを実現したのだが、これらは通常の政治のチャンネルを通じた駆け引きや推測ではここまで決定的かつ迅速には動かなかったはずだ。


●トップからの強力な指導は政軍間で深刻な緊張を生まなかったのだが、この理由は、大統領が外交を強力にコントロールしていたにも関わらず、軍に対してはそれほど強力な指令が出されなかったことにある。

●ホワイトハウスとメルヴィン・レアード国防省長官は、統合参謀本部と国防省にたいして大きな外交や予算の上限という制約があっただけで、行動の自由度は大きかったのだ。

●これはジョン・ケネディおよびリンドン・ジョンソン大統領がロバート・マクナマラ国防長官と共に、海軍や空軍があまりにもひどいと感じるほど軍事行動に口出しした、一九六〇年代の政軍間の摩擦の後のことである。

●一九六〇年代の民主党政権と一九七〇年代の共和党政権では、それぞれ階層的で連続的な、強いトップダウン型の政策システムが目指されていた。

●この両者の違いは、共和党政権のほうではホワイトハウスが軍事行動を政策の方向性とそれほど統合しようと思っていなかった点にあり、政策と軍隊の行う仕事を分担して離すことを許していたことだ。

●実際のところ、いくつかの例外を除けば、ニクソン政権における戦略面でのブレイクスルーは基本的に対外政策の分野のものであり、軍事行動は含まれていなかったのだ。
by masa_the_man | 2012-11-12 00:00 | 戦略学の論文 | Comments(1)
今日の横浜北部は朝から曇りがちでしたが、午後からシトシト降ってきました。

さて、以前に掲載した戦略関連の文献の翻訳のつづきを再開です。

戦略にまつわるトラブル:

===

一つの違った視点から

●戦争にはそれ自体が自律的な動きをしてしまうという傾向があるにもかかわらず、ほとんど人はいまだにひとつのレベルから別のレベルに連続して移るような、古典的な機能のヒエラルキー(階層)のモデルを思い浮かべる。

●この階層とは、戦争前の計画から戦時の実行を通して(統治についての戦略的な計画と共に行われる)戦後の活動に移るものであり、これが実質的に戦闘や大規模作戦を勝つための作戦と戦術を動かすことになり、これが最終的に戦争の勝利と政策の目的を生み出す、というものだ。

●このようなスタンダードな考え方は、戦争についての「線形モデル」(the linear model)とでも呼べるようなものだろう。

●ところがそれとは別の考え方として存在するのが「循環モデル」(circular model)である。これは各フェーズがフィードバックを発生させ、それが別の機能を変化させる、というモデルだ。ここでは作戦の結果や、まだ見えない要件などが戦略を変化させ、この戦略の変化した要件が政治目的を作り変えるのだ。

●この「循環モデル」というのは、エンジニアリング的な指向性が反映された「線的モデル」よりも、むしろカオス理論との共通性を多く持っている。

●戦争に従事する人々というのは、戦略をほとんどの場合に「線的モデル」で考えるものだが、実際の戦争というのは「循環モデル」に近い。そして最悪の場合、「線的モデル」に則した考え方というのは政治という馬を馬車の前に置いてしまうのだ。

●「線的モデル」からの逸脱というのはある意味で不可避なものであり、状況に合わせた修正を行うことは、時としてポジティブな効果を生み出すものだ。

●ところが一般的には「循環モデル」が優勢になる度合いを縮小すること――つまり軍事的要件が優位になるのを制限したり、戦争開始当初の政治的狙いを変形させること――のほうが、「良い戦略」の尺度になることが多い。

●米国憲法は、根本的に反戦略的である。戦略というのは統一性や一貫性、そして計画や行動に志向性や計算を直接転換したものであり、何が欲しいのかを決定し、それをどのように獲得し、実行するのかを解明するものだ。

●ところが米国憲法のほうは、志向性や見積もり、それに計画などの間で、競争や衝突を促すものなのである。この憲法は行政府と立法府の分離を通じて、ある権威が中心となって一貫した計画を他府に押し付けようとするのを防ぐ統治構造を提供するのだ。

●これは実質的に間に合わせの選択や、同時に多方面への動きを促すような、妥協を促すことになる。
 
●また、米国憲法は 官庁や軍レベルが不変な状態にある間に政治リーダーが行政レベルで政策決定を頻繁にひるがえすことを奨励している。

●官僚機構というのは大統領たちよりも長期的な時間の広がりと権益についての狭い考え方を持っており、このおかげで限定的な範囲の案件を熟慮し、確固とした計画に取り組むような傾向をもつのだが、政治のリーダーたちはそれについての考え方についてはもっと広く浅い立場であり、それらの実行の仕方については「その場しのぎ」になりがちだ。

●これらのすべてはチェック・アンド・バランスという意味では制御を改善するものだが、行動に一貫性は与えない。一旦戦争が始まってしまえば、これは「循環モデル」を促進することになる。

●文民の政治家は「循環モデル」のおかげで直感的に動く傾向がある。彼らは互いに争う有権者たちを管理し、総意をつくり、互いに矛盾する目標をつなぎあわせ、そして政策が展開するにつれ出てくる要求に対処することに慣れているのだ。

●彼らが取り扱うのは「創造的な無節操さ」であり、複雑な同盟関係を作り上げるのに熟達している。彼らは狙いをアウトプットすることには慣れていない。だからこそ決定と実行の間のギャップは慢性的なものとなるのであり、これは国防政策の分野だけでなく、政府のビジネス全般にも言えることなのだ。

●ワシントンで軍のトップになったリーダーたちはこのような現実に直面し、それに甘んじなければならない。ところが彼らは政治的な無秩序が、軍隊の風潮や工学的な直感、それに軍事組織の階層的なエッセンスとは正反対であるために、このような現実を好きにはなれない。

●政治家とは違って、軍は戦争の政治的混乱を、民主制度のエッセンスとしてではなく、「政府が秩序だってビジネスを行えるように矯正されるべき、一種の逸脱である」と捉えるのだ。

●軍人たちにとっては、国家安全保障体制全体をうまく動かす場合も同様であり、彼らにとってはものごとを階層的、明快、単純、正確、そして連続的に見ること――これは彼らの仕事の中で作戦計画と遂行を上手く行かせるためには重要なことである――はごく自然なことなのだ。

===

つづきはまた明日。
by masa_the_man | 2012-11-11 22:19 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から快晴でした。しかし晴れても気温はなかなか上がらない感じですね。冬の到来の予感が

さて、一昨日のエントリーの続きを。

前回は、アルバート・ウォルステッター(Albert Wohlstetter)が、奥さんのロバータ(Roberta)の真珠湾攻撃についての研究を読んで「代替リスク」(alternative risks)という新しい概念を思いつき、これが有名な「際どい恐怖の均衡」(The Delicate Balance of Terror)という彼の超有名論文に結実した、というところまで説明しました。

この奥さんの研究は、いわゆるインテリジェンス関連の文献の先駆けとなったわけですが、それよりも現代の経営戦略などで重要なのは、なんといってもこの旦那のアイディアが、後のケネディ政権で国防長官となる、ロバート・マクナマラ(Robert McNamara)に気に入られて政策の考え方に採用されたことです。

たとえばウォルステッターやランド研究所の仲間たちは、「損害限定」(damage limitation)や「確証破壊」(assured destruction)、それに「強制能力」(coesive capability)というアイディアを論じていたわけですが、これを気に入ったマクナマラは自身の戦略にも採用します。

ところがこれは概して矛盾した戦略であり、たとえば長期にわたって「(相互)確証破壊」や「損害限定」などを目指すと、逆にソ連側には脅威となり、結果的にソ連が核戦力を増強してしまいます。

これに気づいたマクナマラは、ジョンソン政権の後期にはこれらのアイディアから離れるわけですが、ウォルステッターの「代替案」を持つやり方には感銘を受け、フォード社の経営手法から国防省にもたらした「計画,実行計画,予算編成制度」(PPBS)の中にもこのアイディア、つまり費用対効果を中心に「代替リスク」を考える案が積極的に採用されます。

そのマクナマラは、以前からハーバード大学の経営学とも関係が深く、ここが現代のアメリカ(および世界)の経営戦略の中心地になっているために、現代の最新の経営論、とくにリスクや費用対効果の計算についての考え方には、ウォルステッターとマクナマラを通じて、間接的に日本の真珠湾攻撃が関わっていた、とも言えるわけです。

かなり無理やりたかもしれませんが(苦笑)、歴史のつながりをたどっていくのはなかなか興味深いことかと。
by masa_the_man | 2012-11-08 22:00 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は午前中は大雨でして、午後からようやく小雨に変わりました。

さて、久々に戦略に関する小ネタを。

すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、今週から夕刊フジで週一回の連載コラムを始めましたが、これらの原稿を書く合間に色々とイギリス時代に入手した本を引っ張り出して読み返しておりまして、数日前に手にしたのは核戦略についての本。

ここで面白い記述がありまして、それを読み進めているうちに一つの興味深い歴史的なつながり(と言ってもかなり無理があるかもしれませんが)を発見。

それをここで簡単にご紹介しようかと。

アルバート・ウォルステッター(Albert Wohlstetter)といえば冷戦時代の初期を代表する、泣く子も黙る核戦略の理論家。

ネオコン派の頭領的な存在としても知られておりまして、あのリチャード・パールの義理の父でもあります。

元々は数学者でありまして、妻がいたランド研究所(RAND)に研究者として一九五〇年代に入ってからは核戦略では大きく二つの功績を残しました。

一つは「基地研究」(the Base Study)と呼ばれるものでありまして、これはSAC、つまり戦略航空軍団が、あまりにも当時の敵であるソ連にたいして攻撃的なポジションにあり、自分たちの基地が敵の攻撃に脆弱であることを自覚していない、と批判したものです。

このときに使われたのが理系のウォルステッターならではの「システム分析」というものでして、彼はこのアプローチを使って全てを数値化することにより、SACがいかに攻撃に弱いのかを説得力をもって示したわけです。

そしてウォルステッターの二つ目の功績が、抑止論についての新しいアイディア。

この当時もてはやされていたのは、「相互確証破壊」、いわゆるMADという概念であり、これは単に敵に最初に攻撃(第一撃)を受けても、そのあとの敵の都市等にたいする「報復能力」(第二撃)を備えておけば相手は抑止できる、というもの。

ところがウォルステッターは、これではただ単に敵味方の核兵器の「能力」(capability)だけに焦点を当てているだけで、まったく相手を抑止できない、現実的ではない、と批判しました。

その代わりに彼が強調したのは何かというと、「能力」と同じくらいに重要なのが「信頼性」(credibility)というもの。

つまり「抑止」には空の脅しではなく、相手に「核兵器が本当に使用されるかも!」と思わせることが肝心で、この「抑止」(deterrence)と「実現可能性」(probability)という二つをわけて考えることはできない、としたわけです。

このウォルステッターの「新しい抑止論」ですが、実はこれには日本が関係してきます。というよりも、より正確にいえば、日本の真珠湾攻撃を研究した自分の奥さんの意見が関係してくるわけです。

実はウォルステッターの奥さんロバータは、ウォルステッターよりも前にRANDにいた才女でして、日本の真珠湾攻撃について素晴らしい研究書を書いております。

この奥さんの本を読んだウォルステッターは「代替リスク」(alternative risks)という新しい概念を考えつきまして、「日本にとっては攻撃しないリスクのほうが、攻撃するリスクよりも高かった」ととらえます。

ではこの時に日本を「抑止」するためにどうしたらいいかというと、日本の指導者層に対して、攻撃が行われるよりも前の時点で「もし攻撃したらすぐに報復攻撃をしますよ」と言っておくべきだった、というのです。

この「代替リスク」という概念は「際どい恐怖の均衡」(The Delicate Balance of Terror)という彼の超有名論文の中心的なアイディアになったわけです。

ここまで書いて時間がなくなりましたので、続きはまた後ほど。
by masa_the_man | 2012-11-06 23:06 | 日記 | Comments(2)