戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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今日の横浜北部は朝から晴れておりまして、おそらく暑くなるかと。まだ真夏が続いております。

さて、すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、昨日発売された「夕刊フジ」に私のインタビュー記事が掲載されました。

基本的に新しい本の紹介コーナーということなんですが、実際のインタビューはけっこう地政学の細かいところまで聞かれまして、聞かれた本人としても楽しい時間を過ごさせていただきました。

実はインタビューを受けたのは先週の金曜日で、場所は産経新聞の本社の会議室を借りて行いました。正味一時間くらい話をしたのですが、この記事を書いた方がなかなか優秀でして、この本をかなり読み込んでしっかりと概念を理解していただけでなく、私の他の本も一通り読んで基本的なところは押さえていてくれました。

掲載された写真についてはまあ賛否両論色々とあるわけですが(苦笑)もう少し話をしている時は深刻そうな顔をしたほうがいいですかね?

さっそく記事のほうは全文が夕刊フジのサイトであるZAKZAKのほうに掲載されておりますので、ご興味のあるかたはぜひご覧ください。

以下は冒頭部分だけ貼付けです。

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“ハウツー本頼み”では勝者になれない!“脱スキル奴隷”のススメ
2012.08.29

 ビジネス書のタイトルや経済誌の特集には「技」や「術」があふれている。不況の深刻化により、即効性のあるハウツーが求められているからだろう。が、戦略の専門家によれば、いくら場当たり的な対処をしても最後に笑う勝者にはなれないという。テクニックの“奴隷”にならない戦略的な生き方とは-。

 「3年後に年収○○○万円を達成する術」「TOEICで○○○点を取る技」「もうかる財布の使い方」などなど。スキル、つまり自らの武器となる技術を高めることで不況時代を乗り切ろうとする傾向が顕著だ。

 地政学・戦略学者の奥山真司氏が警告する

 「スキルに関する目標は達成すると、また一から目標を立てて新たな技術を身に付けなければならない。自分の人生に有利になるような仕組みを作ったわけではないため、環境が変化すれば、それに合わせる努力をまたしなければならない」

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以上。
by masa_the_man | 2012-08-30 09:11 | ニュース | Comments(7)
アップルとサムソンの特許裁判の行方についての最近のニュースに関連して、ちょっと前に要約した以下の記事を再掲します。かなり参考になるかと。

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「最新機器」というのは、人間の感情とむすびつきやすく、それが「宗教戦争」を起こす原因となっているという興味深い記事です。

政治学や心理学との共通項もありますし、本ブログではおなじみの「恐怖」「利益」「名誉」という三要素に関する話もあります。

これは本ブログで何度も強調している通り、「テクノロジー」というものには、人間の思想や感情が込められやすいからです。

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テクノロジーに関する罵詈雑言コメントと「宗教戦争」

●ある読者から以下のようなコメントをいただいた。

●「君が今日NYタイムズに載せた記事はくだらないね。ギャラクシーSIIIはダサいし、冷たく感情の感じられない、失敗作だ。単なる次世代携帯というだけで特徴がない。画像はキレイになったけどビジョンはない。昔のあなたの記事はよかったけど、今は僕たちにゴミを勧めているのかい?あなたはクビになって別の人のわかっている人に記事書いてもらいたいです。」

●このようなコメントをいただくのは、テクノロジー系の批評家の仕事のうちの一つだ。舞台や音楽系の批評家も同じようなメールを送りつけられていることは想像に難くない。

●ぶっちゃけ言うと、最近の私のこのようなコメントに対する反応は「好奇心」である。このような読者には一体何が起こっているのだろうか?たんなる大量生産品になぜここまで感情的になれるのだろう?

●上のコメントをくれた読者について少し考えてみよう。

●まずこのコメントをくれた時点で、まだその携帯は発売されていないのだ。つまり彼はそれをまださわって試せるわけがなかったし、コメントのような判断ができるわけがなかったのだ。

●では彼がここまで断罪できる根拠は何だったというのだろう?

●80年代から90年代の最新テクノロジーに関する「宗教戦争」の図式はもっとシンプルだった。アップルとマイクロソフトの二大巨頭しか存在しなかったからである。

●アップル側の人々は、マイクロソフトが発展したのは品質ではなくアイディアを盗んで活用したからという理由で批判していた。逆にマイクロソフト側の人々は、アップルの製品がキザでエリートっぽく、しかもやたら高いことに文句を言っていた。

●しかもそこには「判官贔屓」という要因もまざっており、好きなチームに肩入れして応援するという心理が働いていたのだ。

●もちろんマイクロソフトとアップルの間の憎しみ合いはまだ続いている。私は先日ある製品発表会で同業者のコラムニストと似たような罵詈雑言コメントをもらうことを確認して大笑いしたばかりだ。

●ところが最近はまた新しい「宗教戦争」がはじまった。グーグルvsフェイスブックだ。カメラだとニコンvsキャノン、電子書籍リーダーだとキンドルvsヌックだ。そして今はサムソンだ。

●ではなぜ多くの人が私のような携帯電話のレビューアーの書いた記事にわざわざ自分の時間をつかって大量の罵詈雑言メールを送ってくるのだろうか?

●政治学ではこのような現象に「敵対的メディア認知」(the hostile media effect)というコミュニケーション理論の名前がつけられている。

●これは、あなたがあるトピックに関心をいだいていて、たまたま見たメディアの報道の仕方が自分の見解と異なると、実際にその報道がいくら中立的なものであったとしても「バイアスがかかっている」と感じる現象のことだ。

●この現象は、エレクトロニクス業界だと「恐怖」という強力な感情によって、さらに大きく増幅されるのだ。

●たとえばある製品を購入してしまえば、あなたはすでにこの製品に固定されることになる。ようするにあなたはあるブランドにすでにコミットしてしまったということだ。

●しかもそれが電子書籍リーダーであれカメラであれ、とにかくすでに多くの資金をつぎ込んでいるのだ。

●そうなると誰かが別ブランドの新しい製品を素晴らしいとコメントしたとする・・・これはすでに別の製品を持っている彼らにとっては恐怖以外のなにものでもない

●そうなるとあなたはこのコメンテーターのことを、あたかも自分の製品、そしてあなた自身、そしてあなたの「知性」を酷評したと勘違いしてしまうのだ。なぜなら賞賛した製品はあなたが選んだ製品ではないからだ。

つまりこのコメンテーターは「あなたは間違った選択をしました」と自分に対して言っていることになり、無駄金を使ったように感じさせることになるのだ。

●さらには社会的に見られる姿という点においても恐怖を加速させる。アップルの製品は単なる機器ではなく、最近はそのデザインのおかげで「ファッション」になってきたのであり、あなたが持っているものはあなた自身を表すように思えてしまうのだ。

●たとえばマイクロソフトのZuneはデザインの優れた音楽プレイヤーだったが、生産打ち切りになってしまった。その理由は、iPodのほうがかっこよかったし、iPodをもってダンスするシルエットの広告がかっこ良かったからだ。

●逆に人々は、Zuneをもっているおかげで哀れみを感じてもらいたくないのだ。

●ここでまた同じメカニズムが発生する。新しくてよい製品を褒めると、読者には「あなたは選択を間違えた」ということだけでなく、「あなたにはセンスがない」と言っているように聞こえてしまうのだ。

●それはまあよいとしても、ではなぜ電機製品でこういう現象が起こるのだろうか?なぜ朝食のシリアルやレンタカー会社、それに保険会社のブランドの間でこういう戦いは起こらないのだろうか?

●もちろんその答えは、それが日常的に比較検討されないからだ。たとえば朝食用のシリアルについて毎週比較するような記事なんか書かれないのだ。

●ところがネットというのもこの要素の一つに入っている。テクノロジー系の製品が「宗教戦争」で争われる理由は、インターネット自体がテクノロジーにのっとった場だからだ。

●しかもその匿名性のおかげで、ネットでは人前では言えないような過激なことも言えてしまうのだ。

●私はネット上でもっと大人な、落ち着いた議論ができればいいと思っている。どのような携帯を持っていても個人の価値には関係ないことを学んでくれたらなおいい。

●ところがこんなことを言っても、それはまるで「われわれはもっと身体を動かすべきだ」とか「国家はもっと仲良くすべきだ」と言っているようなものだ。ようするにわれわれの「人間の本質」の中には、なかなか変化させることができないものがあるのだ

●そして明らかに最新ガジェットに関する人間の感覚は、その内の一つであろう。

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結論は、戦略学でも中心的なテーマになっている、人間の本質(human nature)の不変性というところに落ち着きました。
by masa_the_man | 2012-08-29 00:00 | ニュース | Comments(1)
今日の横浜北部も相変わらずよい天気で暑いです。ただし朝晩はやや暑さが落ち着いてきたような気が。あくまでも「気」だけですが。

さて、本当に久々にブログにエントリーを。要約なんですが、これはテクノロジーが社会を不便にしているという負の面を強調した興味深いものかと。

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GPSが救助信号を頻発させる

by ディヴィッド・ロバーツ

●携帯やGPS関連機器が普及したおかげで、アメリカの山岳地帯などでは不必要な救助を求める行為が増えており、結果として救助を行う際の救助隊員の命をリスクにさらすことになってきている。

●アメリカ中の救助隊たちは「誤った警報」や、新しい機器のおかげで安全を担保されていると勘違いして無理をしてしまった初心者たちに直面しているのだ。

●多くの人々が個人用捜索救助システム(PLB)を使い始めたおかげで、山岳地帯のような自然あふれる過疎地でボタンを押して、救助信号を出して救助できるようになったのだ。

●ところが問題は、PLBは救助を求めていることは教えてくれるが、その具体的な内容までは教えてくれないことだ。

●救助隊員たちはPLBのことを「お坊ちゃんたちの110番信号」と呼んでおり、「そもそもいっちゃ行けないようなところにいくアホのために政府のカネを使う装置だ」と皮肉を言う人もある。

●また別の人物は、本当の問題が「このような機器に頼ろうとする人間側にあるのです。彼らはまるで近所のパトカーか消防車を呼ぶような感覚で呼ぶわけですから困ったものです」と言っている。

●2009年にグランドキャニオンで起こった例では、四人のハイカーたちがSPOTと呼ばれる救助信号機器でヘリの助けを呼んだのだが、救助されることは断っている。理由は「水が少なくなったから心配になって呼んだ」とのこと。

●ところが次の日に彼らはまた救助信号を出し、別の救助チームがヘリで駆けつけると、ハイカーたちから聞いたのは「持っていた水がしょっぱい」という不満だった。

●三日目に三回目の救助信号が押された時、救助チームは堪え兼ねて三人をヘリで町まで連れ戻すことにしたのだ。理由はハイカーのグループのリーダーが執行妨害である。

●もちろんこのような極端な例は少ないのだが、それでも「誤った警報」は増加している。

●たとえば2010年にグランドティートン国立公園では、ハイカーたちが山を降りるためにヘリを要請したのだが、一人は「温かいココアを持ってきてくれ」と頼んでいる

●2011年の10月にはヨセミテ国立公園で山頂まで雷雨の中で登っていたハイカーたちがヘリで救助を求めているが、救助隊は悪天候ではヘリを飛ばせないと断っている。ハイカーたちは「そんなにやばい状況だとは思わなかった」と言っていた。

●ヨーロッパのいくつかの国では救助を呼ぶための安い保険があるのだが、それでも誤って救助を呼んで悪質だった場合には「自腹」になることもある。

●ところがアメリカではこのような違反者が罪を追求されるようなケースはほとんどない。

●ロッキー山脈の救助隊の広報を担当している人物によれば、「無理して救助を呼ばないで深刻なトラブルに巻き込まれるよりは、呼んでもらうほうがいいですよ」と言っている。

●たとえそれが「お坊ちゃんたちの110番信号」であったとしても、PLBはたしかに多くの人命を救ってきた面はある。

●たとえばテクノロジーの発展は、それに伴う問題を自ら解消することがある。PLBの場合も単なる信号だけではなく、それにメール機能もつけることができたからだ。

●ところが長年山登りなどに携わっている私としては、今後の展開に悲観的だ。

●問題の原因はこのような機器そのものにあるわけではなく、そのような機器が我々の中で「冒険」という概念を根本的に変化させてしまったことにあるからだ。

●ハイカーやスキーヤーやボーダーたちは、ボタンを押すことによってすぐさま安全を求めることができるようになっただけでなく、このような贅沢を「奪うことのできない権利である」と考えてしまっているのだ。

●2010年の1月にあるスキーヤーがグランドタージーのスキ―場でエリアから外れて迷ってしまい、携帯から救助を求めたが低体温症で死んでしまった事故があった。

●もちろん救助隊は命がけてこのスキーヤーを探したのだが発見できず、後に遺族は救助隊に対して5億円近い損害賠償を請求する訴訟を起こしている

●最近の傾向として問題なのは、自然に親しむ際に最低限のサバイバル・スキルを持たずに楽しもうという人々が増えているということだ。

●とくにそのような人々の多くが、通信機器などのガジェットを自動的に救出してくれるカードであるかのように勘違いしているパターンが見受けられる

●つまりこのような人々の多くは、自分たちのスキルのなさのおかげで救助を受けることになる。

●そしてさらに、彼らを助けるために多くの救助隊員が、ケガをしたり命を落としたりするケースが増えるのだ。

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通信関連のガジェットは、命を助けてくれるという一面はあるにせよ、一番の問題はアホな入門者を増やしてしまうことにあるという点は面白い指摘かと。

ちなみにテクノロジーと「世界観」の関係についてはこちらの本の第二章を読めば、手に取るようにわかります!
by masa_the_man | 2012-08-27 13:47 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部もまたまた暑くなりそうです。というか、もうすでに暑いです。

さて、またまたメルマガを更新しましたのでお知らせします。今週はいよいよ尖閣問題を考える上での「前提」の最終回です。

なんというか、最後は結局戦略を考える上で常につきまとってくる「不確実性」という事実が・・・・

ということでご興味のある方はこちらまでぜひ!

▼尖閣衝突の「前提」を考えよう(その4)▼


by masa_the_man | 2012-08-26 10:29 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部はとにかく暑かったですね!午後から都内に出かけて打ち合わせをしてきました。

さて、またまたメルマガを更新しましたのでお知らせします。

今週は再び先週に引き続き尖閣問題を考える上での「前提」をまた紹介しております。

実はこの文書自体はすでに三日くらい前に上げているのですが、いきなり事態が進んでいてビックリ。現実の動きがここまで早まるとは思いませんでした。

今回はとくに中国の動きの特色的なところを書いております。医学用語で説明しているのですが・・・

ということでご興味のある方はこちらまでぜひ!

▼尖閣衝突の「前提」を考えよう(その3)▼


by masa_the_man | 2012-08-17 21:43 | Comments(0)
遅れましたが、メルマガを更新しましたのでお知らせします。

今週は先週に引き続き尖閣問題を考える上で最も大切になってくる適切な「前提」を、具体的に二つほど挙げております。

これについてはみなさんもそれぞれ意見があると思うのですが、できればそれを聞かせていただきたいところですね。

とにかく必要なのは、日本の「世界観」と中国の「世界観」を知ることかと。片手落ちではダメです。

ということでご興味のある方はこちらまでぜひ!

▼尖閣衝突の「前提」を考えよう(その2)▼


by masa_the_man | 2012-08-13 11:43 | ニュース | Comments(1)
今日の横浜北部は暑さがまた復活してきました。しかし夜になるとだいぶ涼しくなりますね。

さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十二章と最終章となる第十三章。これでようやく終わりです。

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―12:戦略史における核兵器

本章のテーマは「核兵器が戦略の理論と実践にどのような意味を与えてきたのか」というものであり、それを理解するために実際の戦略が形成されてきたコンテクストを提供。そしてそのためにはクラウゼヴィッツ的なアプローチを使うことを改めて強調。

まずクラウゼヴィッツの理論と核兵器には親和性があるのかどうかを論じる。ないとするローレンス・フリードマンの言葉を引用して批判しつつ、それでも核兵器は単なる「武器」の一つであり、戦略的な効果を発揮するものであると解釈する。核兵器も「兵器」なのであり、そのようにあアプローチしないとダメであると断言。

次に二つの「核時代」について説明。核兵器の観点から考えれば、二〇世紀は主に二つの時代に区別できると著者は主張。一つ目が「第一核時代」で、一九四五年から一九九一年のソ連の崩壊まで。「第二核時代」は、冷戦後以降から現在まで。この区分はテクノロジーによってなされるというよりも、むしろ世界政治の状況によってなされると分析。

現在は「第二核時代」だが、「第三核時代」もありえると主張。その「敵」となりうるのはロシアよりも中国であろうと分析。「第二核時代」は二〇年間続いてからその後に中国と対立することになるのではと予測

その次に、世界政治における核兵器の役割について論じるのだが、基本的に核兵器は「最後の手段」であることを認めつつも、それでも政治によって動かされるものであることを再び強調。

次に「核兵力と核戦略」という本章のメインの部分に移る。核戦略とその歴史の問題点を論じるのだが、そもそも「核戦争」は起こらなかったのであり、この事実が重大であると主張。元軍人のブルース・ブレアの言葉を引用しつつ、彼のような現場で働いていた専門家の分析でも実は怪しいと説く。それらはすべて「仮の歴史」だから。

それと似たような意味から、著者がならった六〇年代の戦略学も怪しいと説く。この分野の初期の学者たちはみんな軍事が専門ではなく、経済、数学、政治科学(合理選択理論)の人間たちばかり。著者は戦略学に文化人類学や歴史を専門とした人間が少ないことに疑問を呈している。

また、著者は戦略学の大きな三つの概念、つまり「抑止」「制限戦争」「軍備管理」の三つがいかにあやふやなものであったのかを、朝鮮戦争やベトナム戦争、それに実際のソ連との兵器削減交渉などの例を豊富に用いて分析。

また、核戦略の歴史の怪しさは、そもそも核兵器の影響がどのようなものか不明であることにもあると指摘。また、核兵器をもった米ソには意外と共通点が多くあったとして、

1、弾頭の数へのこだわり
2、残存性と効果を多様化しようとする動き
3、コントロールへの投資
4、ターゲティングを重要視
5、細部にこだわっていた

という五つの共通点を挙げている。また、核保有国は一様に核兵器を「最後の手段」であると認識していたことを指摘。

本章のまとめとして、「戦略はまだまだ続く」としながら、冷戦が冷戦のまま終わってよかったこと、しかし冷戦を初めから戦わなくてもよかったとする言説は間違っていること、核兵器の重要性を否定するのは間違っていること、そしてウェルトマンの本の意見を引用しつつ、現代の戦略はとりあえず成功してしてきたことなどを主張している。

また、核兵器以外の「非核大量破壊兵器」である生物・化学兵器などについては、①核を持った国というのはその動きがある程度予測できるが、非核兵器の場合は無理、②非核大量破壊兵器も核兵器と同じような倫理問題上の重みが出てきた、③非核大量破壊兵器も戦略的に使える、という三点を指摘して簡単にまとめている。

―13:戦略史における核兵器

本書の冒頭であるイントロで提出された「六つの質問」に答えるという形でまとめる。

①戦略の実践と理論はどのように交わるもの?

これについて著者は、「必要になるから理論が出てくる」という立場から「必要性」を強調。

②複雑化する現代の戦争準備は、戦略にとってどのような意味をもたらす?

これについては戦略の中の一つの要素(例:テクノロジー)だけを優れたものにしても意味がないと指摘。

③なぜ戦略はむずかしい?

上の質問と近いが、戦略には様々な面や要素があるから。戦略には「万能薬」が存在せず、一つの要因に優れていても他の要素との「摩擦」や弱点が浮かび上がってくるという難点があるから。

④戦略の位相の中でいくつかが優れていれば戦争に勝てる?

これについてはクラウゼヴィッツの議論を元にして「全体論的にアプローチすることの重要性」から否定的な見解を提示。戦略の要素は相互依存しており、統合的なアプローチが必要であることをあらためて強調。

⑤二〇世紀において、戦略の何が変わった/変わらなかった?

これについても「人間が変わらないから戦略の本質も変わっていない」という立場を誇示。ツールが変わっても人間のやることは同じなのだと強調。クラウゼヴィッツは「聖典」ではなっく、やはり時代のコンテクストに縛られていると認め、とくに戦闘の実態や政軍関係の難しさについてほとんど言っていないが、それでもかなり普遍的なことを言っているという意味で素晴らしいと断定。

⑥二〇世紀の戦略の経験は、二一世紀に何を教えている?

これについては基本的に「歴史は繰り返す」という立場をとっており、これからも「厳しい時代」は到来すると断言。また、現代でも「厳しい時代」というのは地球上のどこかに訪れれているものであるということを強調。テクノロジーが急速に発展しても戦争の形そのものは変わっていないとして、本書のまとめに、ソ連出身のノーベル賞作家、アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンの印象的な言葉である、

われわれはコンピューターの時代に生きているのに、いまだに石器時代の法の下に生きている。大きなこん棒をもった男のほうが強いのに、まるでそれがウソであるかのように振る舞っているのだ」

を引用しつつ、戦争はその形が変わっても本質は変わらないことや、戦略史に敬意を払うべき人間は将来についても楽観的になるべきではない、として締めくくっている。

===

長々と要約を書いてきましたが、これはある「宿題」のためです。この成果については来年の早春あたりにお見せできるかと思います。いましばらくお待ち下さい。
by masa_the_man | 2012-08-13 10:52 | おススメの本 | Comments(1)
今日の横浜北部は暑さがまた復活してきました。しかし夜になるとだいぶ涼しくなりますね。

さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十一章だけですが、いよいよ著者の得意とする核兵器についてのトピックです。

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―11:核兵器ー再考

本章のテーマとなるのは、日本では論じられるのさえ憚れるような「核兵器」について。基本的に著者がここで論じるのは「戦略家たちが核の問題にどのように向き合ってきたか」ということ。もちろん他の章と同じように、本章での議論は「戦略は普遍的なもの」であり、その普遍性は核兵器にも適用できるとなる。

歴史を後から振り返ってみれば、たしかに「核兵器の使用に関する戦略を考えるなんて集団的に狂っていたとしかいいようがない」という議論もわからないでもないが、(内部にいた当事者として言えるのは)彼らは必要に迫られていたからベストを尽くしたまで、ということ。これには「再考」が必要だ。

まず核戦略について真剣に考えた理論家として挙げられるのは、バーナード・ブロディ、アルバート・ウォルステッター、トマス・シェリング、ハーマン・カーン、そしてヘンリー・キッシンジャーだが、キッシンジャーは革新的な理論を提出したというよりもその理論を有名にするような役割を果たしただけ。

核戦略の問題は、広島・長崎以降に使われていないため、そこに必然的に「推測」が含まれてくること。実際に核ミサイルの撃ち合いをやっても、それがどうなるかは誰にも予測できない。つまり「起こらなかったこと」を論じるということになるのだが、これは人間にとって極めて難しい作業である。

また、核戦略については冷静に語れない雰囲気がある。たしかにその凄まじい破壊力があるために倫理的な問題があることは確実なのだが、それを冷静に分析しようとしても、学者の中に感情論で語りものが後を絶たない。彼らはバイアスを持っているからだ。

本章と次章では、主に四つの質問について答える形をとっている。

1、核兵器が現代の戦略においてどのような目的をもっていたのか。
2、戦略効果における核兵器の影響はどのようなもの?
3、米ソのエスタブリッシュメントはいかにして世界を破滅に追いやるような「死のマシーン」の一部を構成していたのか?
4、米ソ両国は実際に使えないにもかかわらず、なぜ何千発も核弾頭を蓄えたのか?

そして著者は、最後の質問については、とりあえず第一次大戦の時の参戦国の使っていた戦術についても同じことが言えるとして、各論に移る。

まず最初に論じるのは「必要性」という観点から。これもやはりクラウゼヴィッツの「戦争の文法」という概念を使いつつ、「核戦争だって戦争のもう一つの分野だ」と主張し、「核革命」は過大評価されていると断定。

つまりいつものように「戦略は戦略だ」ということなのだが、このような「新しい兵器が戦略を無意味にしてしまう!」という議論は歴史上に何度も起こってきたものだと指摘。

もちろん歴史を振り返って人々は核戦略を考えていた人々を断罪しようとするのだが、著者はそれを計画している「当事者」である戦略家たちには完全な情報がなかったという重要な事実を指摘する。ようするに歴史家たちは全員が「後付け」の分析になりやすいということ。

また、歴史家が陥りやすいのは、戦略家たちが「実践者」であるという点を見逃してしまうこと。その当時の状況(コンテクスト)に身を置くような体験をしていないからわからないのだと鋭く指摘。

次に「核革命」についてのポイントが五つあるとする。

①それほど「絶対的」な兵器ではない
②核が使われた後でも人間は生き残る
③軍事バランスは、その渦中にいる国家のリーダーや戦略家たちにもわからない
④問題なのは「真実」よりも「相手が何を信じているか」
⑤作戦レベルではとにかく戦う準備をするのが軍人である

この中でもとくに興味深いのは、④について著者が冷戦後に出てきたソ連軍側の元リーダーたちへの聞き取り調査(オーラル・ヒストリー)によって、彼らが「核兵器のバランス」を信じていなかったことが判明したという点。

そして⑤では、軍人が狂っていたから核戦争の準備をしたという一般的な見方は間違いで、ブライアン・ボンドの『勝利の追求』(邦訳あり)の中の言葉を引用しつつ、彼らは政治的な対立がまずその前提にあり、たとえ核戦争が合理的でなかったとしてもできる範囲でベストを尽くすのが軍人であり、彼らはそれを作戦レベルまで落とし込んだ結果として核戦争の準備をした、というのが実態であると分析している。

さらに、「あらゆる戦略は“戦争を戦うためのもの”でなければならないのであり、核戦略もその例外ではない」という自身の「核戦略家」としてのキャリアを彩った主張を展開し、最後の締めとして「それ以外の選択肢は果たして本当にあったのか」という根本的な議論を投げかけつつ、抑止をするかしないかという選択そのものは実践的ではないとして章をまとめている。

===

この辺の「レーガン政権の核戦略家」としての実体験を踏まえた議論は読んでて面白いですね。とくに後付けの理論に対する厳しい議論はまさに面目躍如の箇所かと。

今日はここまで。明日は次章の核戦略の話のつづきを。
by masa_the_man | 2012-08-10 20:32 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から晴れておりまして、昨日と比べてかなり暑くなりそうな。

さて、メルマガの原稿のために以前から調べていた「中国側の視点」について、ひとつ面白い記事がありましたのでその要約を。

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日本の尖閣戦略の裏にあるもの

by Joe Hung

●数ヶ月前に石原慎太郎東京都知事が尖閣の三島の購入を決定したが、彼は都が買わないと尖閣を守れないと考えていたために実行に移した。

●野田政権もこれに追従。その発表のタイミングが重要で、これは首相が属する与党の民主党が、小沢一郎の脱党によって弱体化した時に行われたもの。

●東京と北京を仲違いさせるだけでなく、台北と東京の関係まで悪くしてしまうのにもかかわらず、なぜ野田首相はあえてこのようなことを発表したのだろうか?ところが野田首相自身はどうやら総選挙に勝つための最善の策だと考えているらしい。

日本は尖閣領有を主張している三カ国の中で最も弱い立場にある

●一八七九年に琉球を沖縄に編入したわけだが、もう一方の宗主国であった清朝はそれを認めていない。

●清は明治政府と「沖縄以北の島は日本の領有だが沖縄以南(これには尖閣諸島も含む)は清国に属する」という取り決めを交わす約束をしたが、この取り決めは発効されず、一八九四年に日清戦争が始まったのだ。

●一八八五年に当時の沖縄県令であった西村捨三は尖閣諸島の領有を公式に認めるように明治政府に嘆願したが、外相の井上馨は清国側を刺激することをおそれ、内相だった山県有朋が西村の嘆願を拒否している。

日本が沖縄県の一部として尖閣諸島を編入したのは日清戦争が行われている最中の一八九五年の一月一四日だ。その理由として、一八八四年から尖閣の調査を続けており、無人島で、そこに中国の支配が及んでいる証拠がないということを挙げていた。

●ところがこの編入の事実は、第二次大戦後の一九五〇年まで公表されなかったのだ。

●日清戦争後の一八九五年の下関条約で、清国政府は「フォルモサ(台湾)とその周辺に属する島々」が日本の管轄下に置かれることを認めたが、第二次大戦後の一九五一年のサンフランシスコ講和条約では下関条約は無効化された。

しかもサンフランシスコ講和条約には、中国も台湾もサインしていない

●日本は一九五二年に台北と平和条約、北京とは七四年に友好条約を結んでいるが、そこでも尖閣諸島の帰属については何も触れられていない。

●なぜなら北京も台北も尖閣は台湾と一九五二年に交わされた条約で「フォルモサ(台湾)とその周辺に属する島々」ということで返還されたと考えているからだ。

●ところがこれについて日本政府は見解が違う。東京は尖閣が無人だったとしているが、台北と北京は山県有朋の言明と彼が西村の嘆願の拒否したことを根拠にしているのだ。

●第二次大戦の最後に琉球諸島を獲得したアメリカが日本への返還を打診したとき、台北と北京は尖閣諸島の領有を主張している。

●ところがアメリカは一九七一年六月一一日に尖閣諸島を含めた琉球列島の支配を終わらせている(沖縄返還)。

●この返還に関しては議論されている部分がある。なぜなら日本が一九四五年に受諾したポツダム宣言には「日本の主権は本州、北海道、九州、四国、そしてわれわれが定めた小さな諸島に限られる」と書かれているのだ。

●この「われわれ」とは、戦争に勝った米・英・中(台湾)なのだが、尖閣が日本に返還された時に北京と台北はアメリカの単独決定について何も聞かされていないのだ。

●二〇一〇年に国務省のアジア特使であるジェフ・ベーダーは「尖閣の帰属問題には米国は中立の立場をとります・・・しかし日米安保は日本が支配しているすべての領域に適用されますし、尖閣は日本によって支配されています」と発言。

●これはつまり日米間で交わされた一九七一年の沖縄返還協定は、尖閣諸島の帰属には何の効力もないということだ。

●それでもアメリカ側の地理の定義によれば、尖閣諸島は琉球諸島の枠組みに入るため、日本側の立場を支持していることになる。

野田首相が狙っているのはアメリカのコミットメントであり、それを盾にして尖閣諸島を守り、東京都から購入して、アメリカ側に自分たちの主権を認めさせることなのだ。

●一方で石原都知事は次の選挙で勝ちそうな大阪維新の会との連携を模索しており、これによって二〇年間の経済の停滞を打ち破って明治「維新」を再現したいと考えているのかもしれない。

●野田首相は小沢、石原、橋下による歴史的大勝利を止めたいと願っているのだ。

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著者はおそらく台湾の人ですが、「日本は火事場泥棒だ」と言いたいのかも。山県を使ってくるとは。
by masa_the_man | 2012-08-07 09:56 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から曇りがちです。相変わらず暑いですが、なんか雨が降りそうな。

さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十章だけ。

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―10:小戦争とその他の野蛮な暴力

本章のテーマとなるのは、正規軍同士以外の軍事力の使用(とその使用の脅し)を含む暴力についてであり、しかもそれが「政治的な目的」を含むことが前提。ゲリラ的な戦術というのは戦争の歴史と同じくらい古いことが指摘され、チャールズ・コールウェル(Charles E. Callwell)を引用しつつ、「小戦争」(small wars)は必ずしも小規模なものではないという分析が示される。

次に紛争では兵士の命がかかることに変わりはないことから、西洋諸国で戦争が列度(低・中・高)によって区別されていることがおかしいと指摘しつつ、核戦争のような「仮想の戦争」と、小戦争のような「実際の戦争」の違いを分析。さらに深く分析するために、一九世紀末のコールウェルと二〇世紀後半のラルフ・ピーターズ(Ralph Peters)の二人の議論から、戦略理論と実践との微妙な関係性を探る。

ここで全般的に理論家たちが犯しやすい二つの間違いとして、①非正規戦を正規戦と同じように扱ってしまうこと、②非正規戦が未来の戦争であるとみなしてしまうことがあると指摘しつつ、毛沢東はゲリラ戦を自身の政治目的達成のための一つの手段としか考えていなかったことを強調。

つぎに小戦争などにも理論と実践の対話があるとして、二〇世紀の例にいくつか触れながら、ローレンス、毛沢東、シオニスト、チェ・ゲバラの例などに言及。非正規戦には様々な形があることを認識しつつも政治がその目的にあるという面から戦略としてとらえることができることを確認。

続いて特殊部隊についても分析し、そもそも特殊部隊というのは軍服を着たゲリラ部隊であると指摘。特殊部隊は一九三九年以降に重要性を増して活用されるようになったとして、その戦術やドクトリンは多様化してきたことを認めている。ただし歴史的にも戦略的にもまだまとまった理論というものが生み出されていないと主張。

その中でもとりあえずローレンスとコールウェル、そして毛沢東たちが、不完全ながらも理論らしきものを提唱しているとして紹介している。

まとめとして、まず二〇世紀には小戦争について五つの重なり合った時代にわけることができるとしている。

①古典的小戦争:一九〇〇〜三六年
②帝国の警備:一九一九〜六六年
③革命ゲリラ戦:一九一七〜九〇年
④テロリズム:一九四五年〜現在まで
⑤文明、文化、人種、それ以外の部族間の暴力:一九九一年〜現在まで

そしてテロの専門家としても名高いウォルター・ラカー(Walter Laqueur)の議論を引用しつつ、テロリストとゲリラは厳密には違うのに混同されやすいことを指摘して、最後に戦争のやり方には様々な形があれども、その本質は時代を越えて変わらないと強調して本章を締めくくっている。

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今日はここまで。明日はいよいよ核戦略についての二章です。
by masa_the_man | 2012-08-06 10:08 | おススメの本 | Comments(0)