戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

<   2011年 02月 ( 19 )   > この月の画像一覧

オフ会のお礼

今日の甲州は小雨が降る冬のような一日でした。

日曜日の午後ですが、おかげさまで「オフ会」を盛況のうちに終わらせていただくことができました。まずはご参加されたみなさまに感謝です。

今回はとくに個性的な方々が参加されたせいか、個人的にはかなり濃い内容のお話をうかがえたものと感じた次第です。

次回はとりあえず4月3日(日)の午後ということで日程は確定しておりますので、「参加してみようかな」とお考えの方はぜひスケジュールに予定を入れておいて下さい。

ということで、また明日からブログを書き始めますのでよろしくお願いします。
by masa_the_man | 2011-02-28 23:59 | 日記 | Comments(7)
●テロ攻撃やイランの核開発のような問題は、国際社会は危険だという雰囲気を継続させることになるからだ。

●ちなみに、最近の意識調査によると、実に最大64%もの人がイランの核開発を終わらせるためなら軍事攻撃もやむを得ない、と回答している。

●また、勃興する中国が及ぼすと感じられる脅威は、強力な軍隊を維持し、アメリカはグローバルなコミットメントを継続すべきだという国民の支持を強める働きをするものと思われる。

●ランド・ポール派とサラ・ペイリン派は、共にリベラル・インターナショナリズムに対する反感、つまり国際法や協定などの厳しい網の目による多国間制度機関を通じた国際関係の実践に対する不信感という点では一致するのだ。

●そう言った意味で、ティーパーティー運動に含まれる意味は色々あるのだが、本当に効果的な対外政策を考えるには、まず現実的にありのままの事実を見ることから始めないといけない。

●今日のジャクソニアンたちが消滅するとは考えにくい。しかも色々な意味で、ティーパーティー運動というのはアメリカの世界秩序建設という使命にとっては60年前の孤立主義者よりもはるかに好ましいものであり、その害悪も含めて大歓迎すべきなのだ。

●トルーマン政権時代のジャクソニアンたちと比べても、今日のジャクソニアンたちは人種差別的ではなくなっているし、反フェミニスト的、反ホモでもなくなってきており、他文化や異なる世界観にたいしては寛容である。

●さらに言えば、今日の南部の共和党のポピュリストたちはリベラルな資本主義の中核となるコンセプトに対してかなり許容しているところがあり、百年前のウィリアム・ジェニングス・ブライアンの支持者たちと比べるとその差は明白だ。

●対外政策の実務者たちは、国民からの余計な介入なしに外交に集中したいと考えることが多い。

●ところが彼らの望みはアメリカで叶えられることはない。なぜならもしティーパーティー運動が過ぎ去ったとしても、また別のポピュリスト運動が登場するはずだからだ。

●アメリカの政策家たちや、海外の政策家たちは、アメリカの政治を動かす大きな力を深く理解することなく自分たちの仕事をうまくこなすことはできないのだ。
by masa_the_man | 2011-02-27 02:17 | 日記 | Comments(4)
今日の甲州はかなり気温が上がりまして、午後になってから風がかなり強烈になりました。どうやら春一番というやつみたいです。

さて、国際関係に大きな影響を与えるリビア情勢の先が見えない中東はますます混沌となってきましたが、今日は裏のほうでも活用している、ウォルツの「三つのイメージ」について。

実は去年あたりから、ビジネスをやっている方々の前で私がお話させていただく時にウォルツの「三つのイメージ」という分析法を使うことが多くなったのですが、この概念についておさらいをするために、かなり昔にこのブログのエントリーで書いたものの中の、主要部分だけをもう一度ここに貼りつけておきます。

これは自分の人生や組織の戦略を考える場合にも使えますので、ぜひ応用してみて下さい。

=====

国際関係や世界情勢を論じる場合の考え方の枠組みとしてさまざまな方法があるのですが、これをわかりやすく分類したのが、ネオリアリストの創始者であるケネス・ウォルツ(Kenneth N. Waltz)でした。

ここでも何度か紹介している名著、『人間、国家、そして戦争』(Man, the State, and War)という古い本(1959年刊)の中で、ウォルツは「ファースト・イメージ」、「セカンド・イメージ」、「サード・イメージ」というアイディアを提案しております。

b0015356_152641.jpg


これはどういうことかというと、国際政治の動きを分析する際に「どのレベルを見ていけばよいか」ということを言っているわけです。

たとえば今回の「アメリカによるイラク侵攻」という事件があったとして、これをブッシュとフセインの関係など、個人の関係などから分析するやりかたがありますが、これを「ファースト・イメージ」による分析といいます。

ところが同じ事件をネオコンや政府内の省内の権力争い、ロビーなどの団体や組織の面や、アメリカの文化などから分析する方法もあります。これは国内レベルを中心に見ますので、「セカンド・イメージ」。

そして国家同士の力関係や国際システムなどの枠組みの変化によってアメリカが侵攻した、という分析は、もっとも高いレベルの「サード・イメージ」による分析である、ということになります。

ウォルツはこの三つのレベルの強さを比較検討して、最終的には「サード・イメージ」、つまり国家の国際レベルの枠組みの力が国際関係を動かすもっとも強力な要素だという結論を出しております。

もちろんすべての国際政治の動きはこのように単純ではなく、ファースト・イメージからサード・イメージまでの力が複合的に組み合わさったものなのですが、とりあえずこの分析法を理解しておくととても便利だということです。

問題なのは、日本をはじめとする国際関係を分析する人々が、往々にしてこの三つのイメージの分析を整理せず、ごちゃまぜにしたままでいる、ということですな。

もちろんこの分析をごちゃまぜにしてもかまわないのですが、欧米の国際関係を分析する学者たちの間では、ウォルツのこのような分析の仕方を基本知識として持っている、という点で大きなアドバンテージなのです。

で、私が翻訳したミアシャイマーなのですが、完全に「サード・イメージ」による分析

これを理解できているといないとでは、なぜミアシャイマーが「国際システム内の枠組み」の中だけで議論をしているのかわからない、ということにもなりかねません。

もちろんミアシャイマーはナポレオンやヒトラーについても論じているのですが、自身の国際関係の理論であるオフェンシヴ・リアリズムを説明する際には、下の二つのイメージを完全に無視して議論を行っております。

もちろんウォルツも言いだしっぺだったので、1979年に発表したネオリアリズムの聖書である『国際政治の理論』では完全に「サード・イメージ」だけの分析でした。

ところがウォルツの「サード・イメージ」だけによる理論では、うまく説明できないことがたくさんありまして、それを出版直後から色々とほかの研究者に突っ込まれておりました。

よって、彼の弟子たちは、この「サード・イメージ」だけの理論に、「セカンド・イメージ」の要素、つまり国内政治の要因(軍国主義、官僚政治、国内の政治闘争など)を含むことによって補ったわけです。

========

この「三つのイメージ」による分析なんですが、かなり応用が効きます。

たとえば「グローバルに展開しているある自動車会社の業績が落ちている」というケースを分析しようとした場合、「三つのイメージ」から考えると、

●サードイメージ:欧米を中心とするサブプライムローンの失敗による、世界経済の失速が原因

●セカンド・イメージ:日本の政府、社会制度、もしくは会社組織そのものの制度疲労などが原因

●ファースト・イメージ:社長をはじめとする会社のリーダーたちの責任

という風にわけることができます。

ちなみにこれは個人の人生を分析する際にも使えるわけで、たとえば「最近自分の収入が落ちているなぁ」と考えた時に、その原因を探ってみると、

●サード・イメージ:世界の景気が悪いことに原因がある。

●セカンド・イメージ:会社がダメだから問題がある。

●ファースト・イメージ:自分自身に問題がある。

という風に考えられるわけです。

ここで重要なのは、あらゆる分野で「成功した人物」というのは、どう考えても「ファースト・イメージ」で考える人、いいかえれば「人生で起こる全てのことは、自分に責任がある」と考えている人が圧倒的に多い、という事実です。

そこで教訓:自分の人生は徹底的にファースト・イメージで考えるべし
by masa_the_man | 2011-02-26 01:19 | 日記 | Comments(40)
今日の甲州は曇りがちだったのですが、気温が高めで寒さがだいぶやわらぎました。東京へ出張したんですが、今年初めて上着をもたずにでかけることができました。

さて、中東とくにカダフィ大佐やイラクの艦船のスエズ通過の動きなど、いわゆる「地政学リスク」の要因が気になるところですが、例の土人論の話の続きを。

前回までは、西洋人が非西洋人に対して潜在的な差別的感情を持っていて、しかもその学問的な理解の違いから「日本人は土人である」とする某有名評論家の主張に、当時の私が半分納得していた、というところまで書きました。

しかしその半分のところで、どうも納得いかなかった自分があったというのも事実。

そしてその違和感を、私は戦略文化や批判地政学の議論を読み返す中で、「ある分析と、その分析を行った人物の性格」というものが切り離せない存在であることに気づいたことから、ようやく納得することができたわけです。

では実際に、この「日本人は土人である」論の何が私の中で引っかかっていたのかというと、それはこの論者の「日本人は土人である」という一種の構造的な差別感は、実はこの人物の持つ差別感そのものの現れだ、という当たり前の事実です。

どういうことかというと、実はアメリカのような多文化社会で「差別されている、人種差別だ!」と主張する人たちに限って、実は自分も差別主義者だったりするパターンというのがあります。

もちろんこれがすべての人間に当てはまるわけではないのですが、どうも「自分は被害者だ!」と言っている人が、実は別のところでは加害者だった、というパターンもあるわけです。

これを言い換えると、この人物は「日本人は(西洋人からみると)土人だ」という分析を主張した結果、無意識的に「自分は西洋人であり、日本人を差別している側にいる」ということを表明してしまったわけです。

つまりここでも「自分を勘定に入れていない」というロジックが当てはまるわけですな。

よく昔言われていたのが、「自由だ!」と叫ぶやつに限って「不自由な奴」たったりするパターンや、「俺はすごいんだ!」と言いまくっている奴が、実は周囲の評価はメチャ低かったり、というのがあります(この場合は、逆にコンプレックスがあるのを隠す目的もあるのかも知れませんが)。

ところが、私が今まで見てきた優秀な日本人というのは、そのような「土人として見られている日本人」という差別構造があるということをなんとなく認めつつも、その垣根を安々と越えていっている人物が大半なわけです。

この違いは何かというと、彼らはものごとを「ファースト・イメージ」でとらえているからなんですね。

ところがこのような「土人発言」をするような人たちというのは、どうも自分をめぐる状況というものを「サードイメージ」でしか捉えられていないパターンが多いのです。つまり「悪いのは自分じゃなくて、奴ら、もしくは環境だ」みたいな。

時間がないのでここで簡単な結論ですが、「世界はこうなっている!」と分析するのは構わないのですが、実はそういう分析にはその人の「世界観」が如実に反映されるということを忘れてはならない、ということです。
by masa_the_man | 2011-02-25 02:04 | 日記 | Comments(34)
ティーパーティーとアメリカの対外政策

By ウォルター・ラッセル・ミード

February 22, 2011

●ティーパーティーの登場は、近年のアメリカの政治の動きの中でも、最も議論を呼ぶ劇的なものだ。

●この運動の支持者たちは、この活動をアメリカの価値観への回帰であると称賛しており、批判的な人々はこれを人種差別的で反動的、そして結局のところは多文化的で多人種的なアメリカという現実に対する無駄な抵抗であり、新しい政治活動の一つの形だと見ている。

●それでもティーパーティーという運動はアメリカ政治の中で一定の刺激を与えたのであり、アメリカの対外政策の研究者たちはこのポピュリスト的でナショナリスト的な政治暴動の及ぼす影響について真剣に考えるべきなのだ。

●アメリカのケースがそうであるように、対外政策の現在と未来を理解するためには過去をしっかりと把握する必要があるだろう。

●ティーパーティー運動は、アメリカの歴史の中の深いところにその源流がある。

●一番分かりやすいのは、これがジャクソン派の常識を現代に復活させようとしている動きであるということだ。

●この考え方には、腐敗して誤った考えを持つエリート達ではなく、普通の人々こそが、倫理道徳的にも、科学的にも、政治的にも、そして宗教的な面でも優れているというアイディアがあるのだ。

●おそらくこの運動自体は比較的短期に終焉することになるのかも知れないが、それでもこのポピュリスト的なエネルギーがすぐに消え去ることはないはずだ。

●ジャクソン主義というのはアメリカの政治においては強力な勢力だったのであり、現在のような社会・経済の変革時にはその重要性がアップする傾向があるのだ。

●対外政策において、ジャクソニアンたちはかなり強烈にナショナリスト的なアイディアを主張することになる。

●彼らはアメリカがリベラルな世界秩序を作る能力について深い疑念を持ちつつ、いわゆるアメリカ例外主義を頑なに信じるのだ。

●彼らはジャクソニアン的な動きが最も必要とされている時に、オバマ政権がジャクソニアン的な対外政策から逸脱しつつあると考えるのだ。

●このような新しい政治運動がアメリカの対外政策にどのような影響を与えることになるのかを正確に予測するのは難しい。

●なぜならアメリカ国内のテロ攻撃や東アジア・中東での危機などによって、アメリカの対外政策は一夜で激変することもあるからだ。

●それでもいくつかの流れは散見することができる。

●まず一つ目は、ティーパーティー内部での、いわゆるサラ・ペイリン派とランド・ポール派の戦いは、ペイリン派の勝利で終息しそうなことだ。

●ペイリン派は中東におけるテロ問題については、密接な関係をもつ同盟国であるイスラエルを頼った積極的な姿勢で臨むことを表明している。

●その反対に、ポール派はイスラエルとは距離をとる政策を表明しており、これは労多くして実り少ない中東という地域から全体的にコミットメントを縮小していく大きな流れの一部として行うものだ。

●ポール派はこの戦いに破れる公算が高い。なぜなら、現在のアメリカ国民の一般的な常識として、海外でかなり介入を続けないとアメリカ国内の安全は守れないという考えが強いからだ。

後半は後ほど。
by masa_the_man | 2011-02-24 21:28 | 日記 | Comments(2)
今日の甲州は朝から良く晴れましたが、相変わらず気温だけは低めです。見た目は春なんですが、本格的に暖かくなるのはもうちょっと先なんでしょうか。

いやー、それにしてもカダフィ大佐はすごいですね。いまこれを書いている現在も演説をやっているみたいですが、自国の国民に対して空爆に実弾ですからね(苦笑)

昔、古舘伊知郎がカダフィのことを「中東の暴れん坊将軍」とか言っていたと思いますが、ここまで国民とトップが乖離しているとなれば、いままであまり成功しなかった「斬首戦略」も簡単に成功しそうな気が。

しかし今回の例でも見られたように、追い込まれた指導者というのは、おしなべて「外国からの分断工作だ!」という発言を行うのが通例となってきたような。

さて、ここ連日続けている話の続きというか、その拡大版の話を一つ。

みなさんの中には、ある某有名評論家の「日本人は土人だ」論をご存知かと思われますが、私が最近考えていることとこの理論(?)には少し関係があると思ったので、一言ここで述べておきたいかと。

この人物なんですが、私の解釈だと「日本人は西洋の近代的な概念を全く正しく理解していない、いわば土人と一緒なのだ」という、一見するとかなり乱暴な議論を行っておりまして、この部分は彼だけでなく、その弟子たち周辺にも脈々と受け継がれているように思います。

さて、普通の人が「土人論」を聞いた時の反応として考えられるのは、

●日本人を愚弄した、失礼な分析だ!
●冷徹な分析だ。言い方は失礼だが、それでも白人の日本人に対する優越感情を描いている。

という二つの極端なものかと。

私はこれを初めて聞いた当時はカナダに留学中でして、当然のように周りは(私にとって)外国人だらけだったわけですが、私はこの「日本人土人論」には後者のような反応をしまして、この分析には半分賛成できるようなところがあるなぁと感じておりました。

実際に外から見ても、日本の人文系の学問ではたしかに西洋式のロジカルな考え方をどこまで正確に理解できているかどうか怪しいところもありますし、さらに私のような東洋人に対する(白人からの)差別感情のようなものを肌で感じたことも何度かあります。

ところがこの「土人論」、私の中ではあとの半分がどうしても納得できないところがありまして、それがなんだかわからずに、心の奥底でひっかかっていた、というのがつい数年前までの状況でした。

ところがやはり「戦略文化」について少し考えたことがキッカケで、なぜこの「土人論」について違和感を感じていたのかわかったのです。

昨日までのエントリーで私が言いたかったのは、「人は何かを分析する時に、自分のことをその分析対象の勘定にいれていない」ということであり、また「すべて人間は完全に客観的にはなれない」ということだったかと。

そして私がこの「土人論」が半分ひっかかっていたカギが、この「分析と分析する人物の視点」の部分でした。

遅くなりましたので、続きはまた明日。
by masa_the_man | 2011-02-23 02:02 | 日記 | Comments(53)
今日の甲州は午後になってすっかり晴れました。気温は相変わらず低めですが、日差しはかなり春らしくなってきてますね。

さて、バーレーンやリビアがだいぶキナ臭くなってきてますが、こちらは連日やっている話題の続きを。

私がなぜこのような「分析している人の性格」と「分析そのもの」の関連性が気になってしまったのかといえば、すでに述べたようにアメリカの政治言論を追いかけていた十年くらい前の体験に端を発しているところがあるのですが、イギリスに行ってからも似たようなことを追体験しました。

それは何かというと、「戦略文化」(strategic culture)についての議論です。

すでにご存知の方も多いと思われますが、私のイギリスの指導教官は70年代から米ソ核戦略の違いなどについて研究をしていたことがキッカケで、ジャック・スナイダーらと共に戦略文化研究の「第一世代」と呼ばれる人々に属していると考えられております。

それが90年代の後半に「第三世代」と呼ばれる学者たちに批判されたことから再び論争に加わったわけですが、その時の論争の的になったのが、

文化と行為者(アクター)は切り離して考えられるのか

という問題。

これについては、「第三世代」の代表であるアラスター・イアン・ジョンストンなどが、

リアリスト的なユニバーサルな動機によるアクターの「行動」と「文化」は切り離して考えられる

という立場だったのに対し、「第一世代」に属する私の先生は

「アクターの行動と文化は切り離せない」

という立場で応戦したわけです。

これをわかりやすい例で例えると、

第三世代:日本の武士の「戦い方」は文化的特徴を持つが、「戦う」という行為は普遍的なもの。

第一世代:日本の武士の「戦い方」も「戦う」という行為も、すべて日本の文化に影響を受けている。

という違いなのです。

この違いは、一般の人にとってはどうでもいい問題なのかも知れませんが、学問的にはちょっとヘビーな問題を含んできます。なぜなら、これには

われわれは“文化”のような現象を客観的に分析できるのか

という、社会学や文化人類学にとっての永遠の哲学的テーマがからんでくるからです。

これをまたまた言い換えれば、

第三世代:われわれはある現象を、文化の影響を受けずに「客観的」に観察できる。

第一世代:われわれはある現象を、文化の影響を受けて「主観的」にしか観察できない

私はどちらかというと「第一世代」に影響を受けてしまったわけですから(苦笑)、第一世代の考え方、つまり「行為者」と「行為」は切り離せないという考え方に同意しがちになってしまったわけですが、これをまたまた単純に考えると、どうやら以下のような前提が成り立つような気がするのです。つまり、

第三世代:「分析」と「分析する人」は別個の存在である

第一世代」「分析」と「分析する人」は切り離せない

これが私にとっては、「分析」と「分析する人の性格」の関係についての関心につながってきたわけです。

長くなりましたので、続きはまた明日。

今度はある有名評論家やその周辺の人々の「日本人は土人だ」発言について少し考えてみます。
by masa_the_man | 2011-02-22 00:35 | 日記 | Comments(19)

イランとホルムズ海峡

数日前のニュースで出てきた地図です。日本のニュースでもこういう地図をもっと出していただきたいところ。
b0015356_16495110.jpg
(cnbc.comより)
by masa_the_man | 2011-02-21 16:50 | 日記 | Comments(9)
今日の東京は朝から曇りがちだったのですが、昼過ぎから気温が上がって完全に早春のような勢いでした。夜の風の冷たさにはビックリしましたが。

さて、昨日のエントリーについて、補足のような形で一言だけ。

昨日のエントリーで私が言いたかったことを私なり(?)に要約してみると、どうやらそれは「日本の国家戦略などを論じている識者たちは、日本も実は大きなパワーを持つプレイヤーである事実を忘れがちだ」ということになりそうです。

また、それと同時に感じていたのは、「分析をする人は、その分析結果によってその人の考え方をさらけ出してしまっている」ということです。この点についてはおわかりいただけるでしょうか?

これは私がアメリカの政治雑誌やメディアで行われていた識者たちの言論を必死で追いかけていた時から常日頃感じていたことなんですが、たとえばアメリカ大統領などが一つの政策をメディアで発表しても、それについての解釈については、保守派とリベラルでは天と地ほどの差が出てくることを何度も目の当たりにしてきたわけです。

しかも同じ保守派同士の中でも、細かいイシューなどについてはかなり意見が入り乱れ、彼らの行う論争がかなり激しくなることもしばしば。

私はこの「立場の違い」を、学問をやるにつれて「(セオリーの)前提の違いにある」ということに気づいたわけですが、それと同時に、

ある人の分析は、その人の性格そのものと切り離せない

と気づいてしまったわけです。

つまり特定の感情、たとえば「恨み妬み」の激しい人は、まさしくそういった感情を顕にした現象・事象の分析を行うパターンが非常に多いわけです。

もちろん学問上では、「ある分析と、その分析を行った人物は切り離して考えるべきである」という不文律がありますが、とくに政治や戦略のように判断に主観が入りやすい分野だと、(私も含めて)「完全に客観的な分析」というのがほぼ不可能になってきてしまうわけです。

しかも問題なのは、この分析を行っている人物は往々にして「自分は客観的な存在である」という誤った前提からものごとを分析してしまう傾向がかなり強い、ということでしょうか。

これについて、ソクラテスは「無知の知」という形で人間の無意識な「客観性」や全知全能的な妄想を批判していたわけですが、聖書の中にも似たような言葉があることを思い出しました。

最後のまとめとして、この言葉を引用しておきます。

あなたがたは自分の量る秤で量り返されるのである(新約聖書:ルカ福音書 六章三八節)

b0015356_23503257.jpg

by masa_the_man | 2011-02-18 23:46 | 日記 | Comments(42)
今日の甲州は、昼間はけっこう温かい感じでよかったのですが、夜に入ってから小雨になってます。

さて、裏のほうではすでに触れておりますが、久々に私が最近の中東民主化危機について感じたことを一つ。今さらながら、今回のエジプト危機と、ウォルト本を訳した時に実感していたことが多少つながったと感じました。

すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、まず私が数年前に翻訳したウォルト本の内容をここで。
b0015356_0331916.jpg


ここで原著者のウォルトが論じていたテーマはズバリ「アメリカという国家のパワーをめぐる状況」なわけですが、特に後半の章で、彼は「他国はアメリカのパワーを制限&利用するために、こんな戦略を使ってますよ!」という説明をしているのです。

その中の一つが「イスラエルはアメリカに対してどのような浸透工作を行っているか」ということでありまして、それが後にミアシャイマーとの共著である「イスラエルロビー」につながっていった経緯があります。

さて、私はこのような「他国がアメリカに仕掛けている戦略」を訳している時にわかったのが、「ああ、あの超大国のアメリカでさえ、“他国にコントロールされている”と感じているんだなぁ」ということでした。

そして今回のエジプト政変、ムバラク大統領退陣に至るまでの経緯での報道で出てきたエジプト側の民衆の声にも、

「エジプトは長年にわたって、様々な国からコントロールされてきた」

というものでした。

そしてさらにこれを敷衍してわかったのが、世界中のどの国の人々も例外なく、「我々の政府は外国勢力にコントロールされている」と感じている、ということです。これには全く例外がありません。

もちろん私はこのような「外国が自分たちの国をコントロールしようとしている」というのは、ある程度までは事実だと考えておりますし、実際にそういう動きはあるとは思っております。

ウォルトがこの本の中で論証しようのも、まさにこのような「他国がアメリカをコントロールするための戦略を仕掛けている」ということであったという意味から考えれば、別にこれはまったく存在しない幻想(ファントム)のような現象ではないかと。

しかしそれよりも私が大きな問題だと思っているのが、この考えの中に「コントロールされている自分たちは完全に無力な存在である」という前提が散見できること。これはけっこう危険な間違いかと。

これを日本の例で考えてみると、たしかに日本に対して脅威を与える可能性のある国々、たとえばアメリカや中国の中に、「日本の政治をコントロールしたい」と考える勢力があり、なおかつそのように実際に働きかけている勢力があるのは事実でしょう。

ただし彼らがどれほど自分たちの「思い通り」に日本および日本の政治家たちをコントロールできているかどうかを冷静に考えてみると、実は「それほどできていない」というのが妥当なところなのではないかと思ってしまうわけです。

なんといっても、日本人というのは外から見ると、かなり不可思議な独自のロジックで動く、理解困難で意味不明な非西洋人であり、彼らが理解している「理性」とは別の「空気」のようなところがあります。

また、いざコントロールしようとしても、人間というのは「自分」というたった一人の人間や、ましてや家族をコントロールするのでさえこんなに苦労するのに、集団、しかも一億人以上の世界第十位くらいの規模の大きな国家となれば、その困難さは想像を絶するもの。

しかしあらためて言いますが、「日本をコントロールしたい」という勢力は確実に存在します。ただしその意思を実現させるためには、日本側にもそれに呼応する受け皿的な勢力がいなければならないし、さらには日本側からも逆にその勢力を「遵法戦略」などでコントロールできる可能性が出てくるということです。

つまり「タンゴは一人じゃ踊れない」わけですね。

ここで私自身も肝に銘じておかなければならないのは、「日本だってコントロールしている」、「日本だって相当パワフルなアクターである」という事実です。そもそも単に外国勢力からコントロールされているだけの無力な存在だったら、これだけ長年にわたって世界第二位の経済規模を維持できるはずはない(笑

そのような事情から、私を含む日本の論者や識者たちの最大の問題点として挙げられるのは、彼らが国家戦略などを論じる時に「日本は外国に完全にコントロールされている無力な存在である」という前提から無意識に分析したり、そのような視点から物事を語ることが多いという点です。ただしこれは一面では「真実」なのかも知れないが、それでも「事実」ではないんですよね。

さらに「日本は外国にコントロールされている無力な存在だ」と考える場合の最大の盲点は、なんといってもこれが「サード・イメージ的」な見方に依拠しているという点です。

ちなみに「サード・イメージ」とは国際関係論の巨人であるケネス・ウォルツが提唱した、「戦争の原因はどこにあるのか」という問から生まれた分析法の一つで、彼が戦争の原因についての哲学者たちの文献を見たときに、それらが主に三つの場所にその理由がある、と別々に論じていたことから発見しものです。その三つとは、

1、人間の本性や個人(ファースト・イメージ)
2,組織や国家機関(セカンド・イメージ)
3,国際社会の環境や枠組み(サード・イメージ)

ということになります。

で、この分析法から考えると、「日本は外国にコントロールされている無力な存在だ」という考えは、どうしても「世界は国際環境に動かされる」という「サード・イメージ」の分析法と親和性が高くなるパターンが多いのです。

なぜなら、この「サード・イメージ」の説明では、国家のリーダーや、党の組織などに関係なく、国際関係の枠組み(例:極の数)などが変化した時に戦争が起こりやすくなったり、もしくは減少したりするからだ、ということになるからです。

そしてこれは国際関係を客観的に分析する場合には有効なのかも知れませんし、ウォルツが創設したとされる「ネオリアリズム」という学派では、このような分析の仕方がもてはやされております。

しかし問題なのは、「日本の命運は国際環境に左右される」というこの考え方は「日本は他国にコントロールされている」という陰謀論的なロジックとかなり近くなってしまい、同時に「自分たちでは何もコントロールできない」という無力感を生むということです。そうなると最悪なのは、現在の悲惨な状況は「自分ではない誰かさんのせい」という考えにつながりやすいということ。

もちろん「誰かさんのせい」にするというのは精神的には楽なんですが、これが続けば、「自分たちが頑張れば状況を変化させることができる」「自分たちには選択肢がある」という思考を奪ってしまうことになりがちであり、事実として戦後の日本の政治の考え方の中には、少なからずそういった部分があるのは否定できません。

ところが現状を打破するときに最も好ましいのは、あくまでも「ファースト・イメージ」から考えることであり、これはつまり「自分の運命を変えることができるのは自分だけ」「自分にすべての責任がある」という自助の精神かと。

ということで、久々にダラダラと書いてしまいましたが、教訓として我々が覚えておいておかなければならないのは、

●「自分をコントロールできるのは自分だけ」と考えたほうがいい

●日本も相当パワフルなプレイヤーである

ということでしょうか。
by masa_the_man | 2011-02-18 01:37 | 日記 | Comments(46)