戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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カテゴリ:おススメの本( 84 )

地政学の「ガイド本」

今日の横浜北部は朝からよく晴れております。それにしても朝晩は部屋の中でも凍えるほどですね。

さて、またまた本の紹介を。

Geopolitics: A Guide to the Issues
by Albert T. Chapman
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久々に地政学そのものについての本です。

が、私がいつもここで紹介するような、一つのテーマを掘り下げた本というよりも、なんというか、ガイド本という形のもの。

著者は米国はインディアナ州のパデュー大学(Purdue University)の教授で、以前にもこれと似たような体裁の「軍事ドクトリン」についてのガイド本を書いております。

この本の良い点は、かなり端的ながらも地政学的な問題点や有名論文、それにそれらを研究しているシンクタンクや学者(うちの先生も含む)などを、一気にまとめてズバッと紹介している点でしょうか。

とくにイントロダクションで「地政学はダイナミックなものである」ということをしっかりと認識している点や、第一章において著名な地政学の学者を簡単に紹介している点はおススメかと。

ただし問題は、とくに後半のシンクタンクの紹介や世界各国の地理的な紛争などについて、かなり偏った、しかも浅い分析しかできていないことでしょうか。

たとえばイギリスから地政学的な研究をしているシンクタンクとしてIISSの名前が外れていたりしている点など、かなり疑問の残る箇所が多々あるところ。

基本的に「読み物」としてではなく、むしろ「資料集」として持っておくほうがよいかなぁというのが個人的な意見です。

そういう意味であまり「おススメ」というわけにはいきませんが(苦笑)、とりあえずこの分野に興味のある方にはひとつのガイド本にはなるのかも、と思っております。
by masa_the_man | 2012-12-25 16:20 | おススメの本 | Comments(1)

孫子vsクラウゼヴィッツ

今日の横浜北部は午前中「氷雨」が降っておりましたが、午後はなんとか晴れ間も見えて、気温もゆるみました。

さて、久々に日本語の本の紹介を。

米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ
Byマイケル・I・ハンデル 、訳:杉之尾 宜生、西田 陽一
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原著者の故マイケル・ハンデル(2001年没)といえば、なんといっても世界の士官学校で戦略学のテキスト並みの扱いを受けた『戦争の達人たち―孫子・クラウゼヴィッツ・ジョミニ』(Masters of War: Sun Tzu, Clausewitz, and Jomini)の著者としても有名な、アメリカの陸軍戦争大学と海軍戦争大学の両方で古典戦略理論を教えてきた名教授。
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(92年の初版)
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(これがその邦訳版)

ちなみに『戦争の達人たち』の原著は、第三版で大幅改定されて、以下の本になっております。実際はこちらのほうが新しく、しかもかなり分厚くなっている(170→512ページ!)ので、現在教科書として使用されております。

Masters of War: Classical Strategic Thought
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(2001年の第三版/増補改定版:未訳)

この『戦争の達人たち』の初版が出る直前に、アメリカ陸軍戦争大学(カーライル)が無料で発行している小論文(モノグラフ)として出されたものの翻訳版が、今回紹介している『孫子とクラウゼヴィッツ』です。

この本は、孫子とクラウゼヴィッツという洋の東西を代表するそれぞれの戦略思想家の理論を、それぞれの言葉を同じテーマにそって並べて比較・検討するというところにそのキモがあるわけですが、この比較から浮かび上がってくるのは、

「孫子とクラウゼヴィッツは、けっこう同じこと言ってたんだ」

という意外な結論。

たしかに時代も背景も文化も違うため、この両人はかなり違う意見を述べているように一般的には思われておりますし、実際にそういう部分もあります。

その典型が、「情報」(インテリジェンス)についての扱い。

たとえばクラウゼヴィッツのほうは、『戦争論』の第一篇の第六章において、戦争における情報というものを「信頼ならないもの」として論じているわけですが、孫子のほうは一貫して情報を決定的な要素であるとして重要視。

他にもクラウゼヴィッツは「勝利のためには流血が必要」という正面突破的な立場をとるのにたいして、孫子は「なるべく効率よく(できれば実際に武力を行使せずに)勝つべし」という意見を強調していて、アプローチの違いは明白。

ところがこのような違いも、ハンデルに言わせると「同じ問題にたいして異なるアプローチを使っているだけ」であり、実際は二人とも意見がかなり近いと。

たとえば「情報」の意見について、ハンデルはこの二人の違いは、注目している「戦略の階層」の違いにあることを指摘しております。

具体的にいえば、クラウゼヴィッツのほうは「作戦」レベル以下における情報のあやふやさを強調していて、その反対に孫子のほうは軍事戦略以上のレベルにおける情報の重要性に注目しているわけで、これが両者の意見の違いに直結しているというハンデルの指摘はかなり貴重かと。

しかし私がこの本で一番重要だと思うのは、ハンデルがこの両者の理論を比較することによって、間接的に「戦略は普遍的なものである」ということを主張している点でしょうか。

アメリカを発信源とする軍事/ビジネス戦略では、どちらかというとテクノロジーの劇的な変化・発展によって戦略が根本的に変わるという意見が多いのですが、その逆にハンデルは古典の二大巨人の比較検討を行うわけです。

これは時代に逆行しているアナクロニズムなのでは?という疑問を引き起こすわけですが、ハンデルのこの研究の前提にあるのは、

戦略というものは、時代と場所を越えても変わらない

という保守的な考え方。

そしてこの考えはどこから来ているかというと、それは、

人間の本質は不変である

という確信から来ているわけです。そうなると、2000年前に書かれた本と、200年前に書かれた本も、どちらも「人間」の行為である「戦争」という現象を対象としている点では同じなわけですから、現代にもヒントになることがあるという前提があり、ここにわれわれが今でもこれらの古典を研究する価値があることになります。

ハッキリいえば両者(とくにクラウゼヴィッツ)の難解な言葉を読むのは多少抵抗のある人もいるかもしれませんが、比較することで浮かび上がってくる両者の違いと共通項、そしてその限界というのは、軍事・戦略・安全保障以外の分野にも応用できるきわめてすぐれたものばかり。

ビジネス戦略に興味のある方も一読する価値はあるかと。
by masa_the_man | 2012-12-22 18:14 | おススメの本 | Comments(2)

戦略の実践

今日の横浜北部は朝からよく晴れましたが、気温が低かった!本格的な冬のような。

さて、久々に本の紹介を。

The Practice of Strategy:From Alexander the Great to the Present
Edited by John Andreas Olsen and Colin S. Gray

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編著者は私の先生と、ノルウェーの軍人の方です。

これはグレイの主著であるModern Strategyのテーマである「戦略は永遠なり」という主張を元にして、過去の戦史を12例も集めて検証する、というもの。

この構成は邦訳された『戦略の形成』などにも近く、基本的に各章をそれぞれの戦史の専門家が担当するというものなのですが、いままでと違うのは「戦略の共通性」というものを統一して探っているところでしょうか。

しかしこの本の売りは内容もさることながら、その執筆陣の豪華さ。

エドワード・ルトワック、アン・カリー、ジェレミー・ブラック、ウィリアムソン・マーレー、マーチン・ファン・クレフェルト、それにコリン・グレイという、戦略研究をかじったことのある人間だったら誰でも知っているという泣く子も黙る超豪華メンバー。

扱われている戦争もアレクサンダーのものからローマやビザンツ、オスマン帝国、百年戦争に三十年戦争、それに南北戦争や両大戦から、冷戦を経て現在のイラク・アフガン戦争までと、とにかく幅広く網羅されております。

もちろん批判としてはアジアのケースが全く扱われていないという点が挙げられるでしょうが、そのような欠点をもっても余りある内容。構成的にもよくまとまっていて(各章の著者にもよりますが)読みやすいです。

ハードカバーしかなく、しかも高いわけですが、戦略研究をする人間にとっては必読文献のクォリティー。

「戦略は不変なのか?」・・・この答えにYes!と言いたい人は、ぜひこの本を手に取って下さい。

ちなみに今月25日(日)に私が行うビジネスマン向けの講演会にも、この本のエッセンスが。
by masa_the_man | 2012-11-16 23:30 | おススメの本 | Comments(1)
今日の横浜北部は暑さがまた復活してきました。しかし夜になるとだいぶ涼しくなりますね。

さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十二章と最終章となる第十三章。これでようやく終わりです。

===

―12:戦略史における核兵器

本章のテーマは「核兵器が戦略の理論と実践にどのような意味を与えてきたのか」というものであり、それを理解するために実際の戦略が形成されてきたコンテクストを提供。そしてそのためにはクラウゼヴィッツ的なアプローチを使うことを改めて強調。

まずクラウゼヴィッツの理論と核兵器には親和性があるのかどうかを論じる。ないとするローレンス・フリードマンの言葉を引用して批判しつつ、それでも核兵器は単なる「武器」の一つであり、戦略的な効果を発揮するものであると解釈する。核兵器も「兵器」なのであり、そのようにあアプローチしないとダメであると断言。

次に二つの「核時代」について説明。核兵器の観点から考えれば、二〇世紀は主に二つの時代に区別できると著者は主張。一つ目が「第一核時代」で、一九四五年から一九九一年のソ連の崩壊まで。「第二核時代」は、冷戦後以降から現在まで。この区分はテクノロジーによってなされるというよりも、むしろ世界政治の状況によってなされると分析。

現在は「第二核時代」だが、「第三核時代」もありえると主張。その「敵」となりうるのはロシアよりも中国であろうと分析。「第二核時代」は二〇年間続いてからその後に中国と対立することになるのではと予測

その次に、世界政治における核兵器の役割について論じるのだが、基本的に核兵器は「最後の手段」であることを認めつつも、それでも政治によって動かされるものであることを再び強調。

次に「核兵力と核戦略」という本章のメインの部分に移る。核戦略とその歴史の問題点を論じるのだが、そもそも「核戦争」は起こらなかったのであり、この事実が重大であると主張。元軍人のブルース・ブレアの言葉を引用しつつ、彼のような現場で働いていた専門家の分析でも実は怪しいと説く。それらはすべて「仮の歴史」だから。

それと似たような意味から、著者がならった六〇年代の戦略学も怪しいと説く。この分野の初期の学者たちはみんな軍事が専門ではなく、経済、数学、政治科学(合理選択理論)の人間たちばかり。著者は戦略学に文化人類学や歴史を専門とした人間が少ないことに疑問を呈している。

また、著者は戦略学の大きな三つの概念、つまり「抑止」「制限戦争」「軍備管理」の三つがいかにあやふやなものであったのかを、朝鮮戦争やベトナム戦争、それに実際のソ連との兵器削減交渉などの例を豊富に用いて分析。

また、核戦略の歴史の怪しさは、そもそも核兵器の影響がどのようなものか不明であることにもあると指摘。また、核兵器をもった米ソには意外と共通点が多くあったとして、

1、弾頭の数へのこだわり
2、残存性と効果を多様化しようとする動き
3、コントロールへの投資
4、ターゲティングを重要視
5、細部にこだわっていた

という五つの共通点を挙げている。また、核保有国は一様に核兵器を「最後の手段」であると認識していたことを指摘。

本章のまとめとして、「戦略はまだまだ続く」としながら、冷戦が冷戦のまま終わってよかったこと、しかし冷戦を初めから戦わなくてもよかったとする言説は間違っていること、核兵器の重要性を否定するのは間違っていること、そしてウェルトマンの本の意見を引用しつつ、現代の戦略はとりあえず成功してしてきたことなどを主張している。

また、核兵器以外の「非核大量破壊兵器」である生物・化学兵器などについては、①核を持った国というのはその動きがある程度予測できるが、非核兵器の場合は無理、②非核大量破壊兵器も核兵器と同じような倫理問題上の重みが出てきた、③非核大量破壊兵器も戦略的に使える、という三点を指摘して簡単にまとめている。

―13:戦略史における核兵器

本書の冒頭であるイントロで提出された「六つの質問」に答えるという形でまとめる。

①戦略の実践と理論はどのように交わるもの?

これについて著者は、「必要になるから理論が出てくる」という立場から「必要性」を強調。

②複雑化する現代の戦争準備は、戦略にとってどのような意味をもたらす?

これについては戦略の中の一つの要素(例:テクノロジー)だけを優れたものにしても意味がないと指摘。

③なぜ戦略はむずかしい?

上の質問と近いが、戦略には様々な面や要素があるから。戦略には「万能薬」が存在せず、一つの要因に優れていても他の要素との「摩擦」や弱点が浮かび上がってくるという難点があるから。

④戦略の位相の中でいくつかが優れていれば戦争に勝てる?

これについてはクラウゼヴィッツの議論を元にして「全体論的にアプローチすることの重要性」から否定的な見解を提示。戦略の要素は相互依存しており、統合的なアプローチが必要であることをあらためて強調。

⑤二〇世紀において、戦略の何が変わった/変わらなかった?

これについても「人間が変わらないから戦略の本質も変わっていない」という立場を誇示。ツールが変わっても人間のやることは同じなのだと強調。クラウゼヴィッツは「聖典」ではなっく、やはり時代のコンテクストに縛られていると認め、とくに戦闘の実態や政軍関係の難しさについてほとんど言っていないが、それでもかなり普遍的なことを言っているという意味で素晴らしいと断定。

⑥二〇世紀の戦略の経験は、二一世紀に何を教えている?

これについては基本的に「歴史は繰り返す」という立場をとっており、これからも「厳しい時代」は到来すると断言。また、現代でも「厳しい時代」というのは地球上のどこかに訪れれているものであるということを強調。テクノロジーが急速に発展しても戦争の形そのものは変わっていないとして、本書のまとめに、ソ連出身のノーベル賞作家、アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンの印象的な言葉である、

われわれはコンピューターの時代に生きているのに、いまだに石器時代の法の下に生きている。大きなこん棒をもった男のほうが強いのに、まるでそれがウソであるかのように振る舞っているのだ」

を引用しつつ、戦争はその形が変わっても本質は変わらないことや、戦略史に敬意を払うべき人間は将来についても楽観的になるべきではない、として締めくくっている。

===

長々と要約を書いてきましたが、これはある「宿題」のためです。この成果については来年の早春あたりにお見せできるかと思います。いましばらくお待ち下さい。
by masa_the_man | 2012-08-13 10:52 | おススメの本 | Comments(1)
今日の横浜北部は暑さがまた復活してきました。しかし夜になるとだいぶ涼しくなりますね。

さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十一章だけですが、いよいよ著者の得意とする核兵器についてのトピックです。

===

―11:核兵器ー再考

本章のテーマとなるのは、日本では論じられるのさえ憚れるような「核兵器」について。基本的に著者がここで論じるのは「戦略家たちが核の問題にどのように向き合ってきたか」ということ。もちろん他の章と同じように、本章での議論は「戦略は普遍的なもの」であり、その普遍性は核兵器にも適用できるとなる。

歴史を後から振り返ってみれば、たしかに「核兵器の使用に関する戦略を考えるなんて集団的に狂っていたとしかいいようがない」という議論もわからないでもないが、(内部にいた当事者として言えるのは)彼らは必要に迫られていたからベストを尽くしたまで、ということ。これには「再考」が必要だ。

まず核戦略について真剣に考えた理論家として挙げられるのは、バーナード・ブロディ、アルバート・ウォルステッター、トマス・シェリング、ハーマン・カーン、そしてヘンリー・キッシンジャーだが、キッシンジャーは革新的な理論を提出したというよりもその理論を有名にするような役割を果たしただけ。

核戦略の問題は、広島・長崎以降に使われていないため、そこに必然的に「推測」が含まれてくること。実際に核ミサイルの撃ち合いをやっても、それがどうなるかは誰にも予測できない。つまり「起こらなかったこと」を論じるということになるのだが、これは人間にとって極めて難しい作業である。

また、核戦略については冷静に語れない雰囲気がある。たしかにその凄まじい破壊力があるために倫理的な問題があることは確実なのだが、それを冷静に分析しようとしても、学者の中に感情論で語りものが後を絶たない。彼らはバイアスを持っているからだ。

本章と次章では、主に四つの質問について答える形をとっている。

1、核兵器が現代の戦略においてどのような目的をもっていたのか。
2、戦略効果における核兵器の影響はどのようなもの?
3、米ソのエスタブリッシュメントはいかにして世界を破滅に追いやるような「死のマシーン」の一部を構成していたのか?
4、米ソ両国は実際に使えないにもかかわらず、なぜ何千発も核弾頭を蓄えたのか?

そして著者は、最後の質問については、とりあえず第一次大戦の時の参戦国の使っていた戦術についても同じことが言えるとして、各論に移る。

まず最初に論じるのは「必要性」という観点から。これもやはりクラウゼヴィッツの「戦争の文法」という概念を使いつつ、「核戦争だって戦争のもう一つの分野だ」と主張し、「核革命」は過大評価されていると断定。

つまりいつものように「戦略は戦略だ」ということなのだが、このような「新しい兵器が戦略を無意味にしてしまう!」という議論は歴史上に何度も起こってきたものだと指摘。

もちろん歴史を振り返って人々は核戦略を考えていた人々を断罪しようとするのだが、著者はそれを計画している「当事者」である戦略家たちには完全な情報がなかったという重要な事実を指摘する。ようするに歴史家たちは全員が「後付け」の分析になりやすいということ。

また、歴史家が陥りやすいのは、戦略家たちが「実践者」であるという点を見逃してしまうこと。その当時の状況(コンテクスト)に身を置くような体験をしていないからわからないのだと鋭く指摘。

次に「核革命」についてのポイントが五つあるとする。

①それほど「絶対的」な兵器ではない
②核が使われた後でも人間は生き残る
③軍事バランスは、その渦中にいる国家のリーダーや戦略家たちにもわからない
④問題なのは「真実」よりも「相手が何を信じているか」
⑤作戦レベルではとにかく戦う準備をするのが軍人である

この中でもとくに興味深いのは、④について著者が冷戦後に出てきたソ連軍側の元リーダーたちへの聞き取り調査(オーラル・ヒストリー)によって、彼らが「核兵器のバランス」を信じていなかったことが判明したという点。

そして⑤では、軍人が狂っていたから核戦争の準備をしたという一般的な見方は間違いで、ブライアン・ボンドの『勝利の追求』(邦訳あり)の中の言葉を引用しつつ、彼らは政治的な対立がまずその前提にあり、たとえ核戦争が合理的でなかったとしてもできる範囲でベストを尽くすのが軍人であり、彼らはそれを作戦レベルまで落とし込んだ結果として核戦争の準備をした、というのが実態であると分析している。

さらに、「あらゆる戦略は“戦争を戦うためのもの”でなければならないのであり、核戦略もその例外ではない」という自身の「核戦略家」としてのキャリアを彩った主張を展開し、最後の締めとして「それ以外の選択肢は果たして本当にあったのか」という根本的な議論を投げかけつつ、抑止をするかしないかという選択そのものは実践的ではないとして章をまとめている。

===

この辺の「レーガン政権の核戦略家」としての実体験を踏まえた議論は読んでて面白いですね。とくに後付けの理論に対する厳しい議論はまさに面目躍如の箇所かと。

今日はここまで。明日は次章の核戦略の話のつづきを。
by masa_the_man | 2012-08-10 20:32 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から曇りがちです。相変わらず暑いですが、なんか雨が降りそうな。

さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十章だけ。

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―10:小戦争とその他の野蛮な暴力

本章のテーマとなるのは、正規軍同士以外の軍事力の使用(とその使用の脅し)を含む暴力についてであり、しかもそれが「政治的な目的」を含むことが前提。ゲリラ的な戦術というのは戦争の歴史と同じくらい古いことが指摘され、チャールズ・コールウェル(Charles E. Callwell)を引用しつつ、「小戦争」(small wars)は必ずしも小規模なものではないという分析が示される。

次に紛争では兵士の命がかかることに変わりはないことから、西洋諸国で戦争が列度(低・中・高)によって区別されていることがおかしいと指摘しつつ、核戦争のような「仮想の戦争」と、小戦争のような「実際の戦争」の違いを分析。さらに深く分析するために、一九世紀末のコールウェルと二〇世紀後半のラルフ・ピーターズ(Ralph Peters)の二人の議論から、戦略理論と実践との微妙な関係性を探る。

ここで全般的に理論家たちが犯しやすい二つの間違いとして、①非正規戦を正規戦と同じように扱ってしまうこと、②非正規戦が未来の戦争であるとみなしてしまうことがあると指摘しつつ、毛沢東はゲリラ戦を自身の政治目的達成のための一つの手段としか考えていなかったことを強調。

つぎに小戦争などにも理論と実践の対話があるとして、二〇世紀の例にいくつか触れながら、ローレンス、毛沢東、シオニスト、チェ・ゲバラの例などに言及。非正規戦には様々な形があることを認識しつつも政治がその目的にあるという面から戦略としてとらえることができることを確認。

続いて特殊部隊についても分析し、そもそも特殊部隊というのは軍服を着たゲリラ部隊であると指摘。特殊部隊は一九三九年以降に重要性を増して活用されるようになったとして、その戦術やドクトリンは多様化してきたことを認めている。ただし歴史的にも戦略的にもまだまとまった理論というものが生み出されていないと主張。

その中でもとりあえずローレンスとコールウェル、そして毛沢東たちが、不完全ながらも理論らしきものを提唱しているとして紹介している。

まとめとして、まず二〇世紀には小戦争について五つの重なり合った時代にわけることができるとしている。

①古典的小戦争:一九〇〇〜三六年
②帝国の警備:一九一九〜六六年
③革命ゲリラ戦:一九一七〜九〇年
④テロリズム:一九四五年〜現在まで
⑤文明、文化、人種、それ以外の部族間の暴力:一九九一年〜現在まで

そしてテロの専門家としても名高いウォルター・ラカー(Walter Laqueur)の議論を引用しつつ、テロリストとゲリラは厳密には違うのに混同されやすいことを指摘して、最後に戦争のやり方には様々な形があれども、その本質は時代を越えて変わらないと強調して本章を締めくくっている。

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今日はここまで。明日はいよいよ核戦略についての二章です。
by masa_the_man | 2012-08-06 10:08 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝少し雲が出ていたのですが、いまはバッチリ快晴です。暑くなりそうです。

本日はオフ会開催日です。ニューヨークの某格付け会社で働いていた女性と、旅行会社でイスラエルに長期滞在していた人の興味深い話が聞けそうです。個人的にも非常に楽しみ。

さて、またまた数日前の続きを。グレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第八章と九章を。

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―8:戦略の「文法」その①:地球の表面での行動

戦争が展開される場としての地理から、それに合わせて作られた戦力の理論をそれぞれ紹介。本章は地球の平面上に展開される戦力である「ランドパワー」と「シーパワー」の二つについてそれぞれ論じる。

まず著者はこの二つの章が四つの質問に答える形で論じられていることを述べる。それらを列挙すると、

①そのパワーの特徴となる性質は?
②作戦面での強みと弱みは?
③作戦面での効果を増加させたり制限したりする条件は?
④近代の歴史でどのような発展の経緯をたどってきた?

となる。次に著者はこれらが戦略の「文法」に関するものであり、戦略は提案し、戦術が実行されるものであるという警句を紹介しながら、本章では結果的に六つの議論が展開されると紹介する。

まず第一に、陸上が最も重要だということ。第二がどの「パワー」の議論でも似たようなロジックが使われてきた経緯が認められるということ。第三が、各「パワー」は独特の地理に合わせて戦略的な効果を発揮するようにつくられたということ。

第四が、地理的な特徴にそって組織された「パワー」の戦略全般における分担が決まっているということ。第五が戦略の「文法」は常に(時として劇的に)変化するが、それが地理の領域を越えることはないということ。そして第六が、戦略の「文法」についての議論は、地理的に不特定となる核兵器と非正規戦の場合はうまくフィットしないということだ。

これらを踏まえて、著者は本章の後半である「ランドパワー論」を展開する。陸上戦はテクノロジー偏重というよりも人間偏重の戦いであることや、歴史を通じて陸上の敵には陸上の兵隊で決着がつけられてきたことを力説する。

次に「シーパワー論」に移るのだが、ここではマハンはほぼ正しかったという微妙な言い方でシーパワーの優位を論じており、リッチモンドやコーベットの理論を使いながら、たとえばベトナムでは米海軍が海を支配していたのに戦争には勝てなかった例などを挙げて、そこには限界もあるということを指摘している。

―9:戦略の「文法」その②:高度と電子

エアパワーをはじめとする二〇世紀に登場した新しいテクノロジーはたしかに革命的であったが、それでも戦略そのものに革命を起こしたわけではないことを再び強調して、そこから「エアパワー論」に移る。

まずはエアパワーの創世記である一九世紀中頃の小説の話に触れつつ、トレンチャード、ミッチェル、ドゥーエなどの有名な理論家を紹介するが、最も影響力が大きいのはボーア戦争でも戦ったイギリスのジャン・クリスチャン・スマッツであることを指摘。彼が「戦略的エアパワー」のアイディアを最初に提唱したことを著者は重視しており、これが「呪い」になったとしている。

それからエアパワーが効果を発揮するのは空爆によることや、ターゲットの選定が一番難しいこと(つまりインテリジェンスが決定的に重要)、エアパワーとシーパワーは統合されたのではなく相互依存関係になったことなどを指摘しつつ、エアパワーは陸上・海上部隊を助けることができるが、国家や社会は破壊できないことを述べて、戦略に革命を起こしたわけではないことを再び強調。

次に著者はRMAとその他としてスペースパワーやサイバーパワーについて論じるのだが、それらには大きくわけて六つの学派があると指摘。以下を列挙するとこうなる。

①サイバー戦争で勝てると信じる「戦略情報戦」(SIW)学派
②通常戦を情報が主導するという「情報主導戦」学派
③上のマイルドなバージョンである「情報通常戦」学派
④エアパワーの成熟こそが革命を起こすと考える学派
⑤スペースパワーこそが本物の革命であるとする学派
⑥安全保障、政治、戦略に革命が起こったとする学派

続いて著者はスペースパワーをクラウゼヴィッツの視点に当てはめて分析する。宇宙は新しい「高台」であると同時に、それでも戦略のロジックから逸脱するものではないことを強調。エアパワーの発展の歴史とリンクさせつつ、結局は偵察が大きな役割を果たしていくことを述べている。

最後にサイバー戦について言及するが、これは爆弾や銃弾がサイバー空間を通じて敵に投げつけることができないということや、その形がまだ定まっていないことから理論化が進んでいないこと、そしてやはり単独では戦争に勝利できない「サポート的な役割」であることなどを強調して議論を締めている。

そして章のまとめとして、戦争の次元(陸、海、空、宇宙、サイバー)が時代を得ることにどんどん重なって複雑化してきていることを指摘しつつ、結局は変化の中に変わらないものがあることに注目することの重要性を説くかたちで戦略の恒常性を主張する。

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今日はここまで。
by masa_the_man | 2012-08-05 10:26 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横須賀は朝から寒くて小雨が。最近色々と忙しくて更新滞っておりました。

さて、またまた数日前の続きを。グレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第六章と七章を。

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―6:戦争の「窓」

戦争というカオス的な現象についての分析のアプローチを「窓」(window)というコンセプトに言い換えて切り込んでおり、そこから本書のテーマである「あらゆる戦略的経験は実質的に同質なものである」という主張を浮かび上がらせている。

まず「戦略史」は何であり、それがどれほど重要なのかということが述べられる。注意しなければならないのは、戦略史が歴史そのものとはちょっと違うものだという点。なぜなら戦略史には起こらなかったこと、つまりフィクションが含まれるから。核戦略などはその典型。

次に「窓」をそれぞれ紹介する。著者によれば「窓」は一三個あり、それらを順番に紹介すると以下のようになる。

1、コミットメント、範囲、狙い:戦争が「総力戦」かどうかによって区別。
2、規模:戦争が行われる範囲の広さが関係。内戦から世界大戦まで。
3、列度:政府がつぎ込む資源の大きさに関係してくる「列度」の高低の差を見る。
4、スタイル(正規/非正規)
5、スタイル(殲滅/機動/コントロール)
6、大戦略の手段:非軍事的手段に焦点を当てる。
7、環境:戦争が行われる場のこと。地理。
8、戦場空間、政治地理学、地政学:上をさらに地政学的に見るもの。
9、交戦者のアイデンティティー
10、交戦者のキャラクター
11、兵器:特定の戦争の文脈にあった武器にフォーカスするもの
12、時代区分:時代背景の重視のため。
13、タイミング:

このような多様なアプローチがあるということは、「戦争はカメレオンである」とするクラウゼヴィッツの分析と一致する。もちろんここではこれらの「窓」は、戦略のほんの一面を切り取っているだけにすぎないということは強調されるべきで、この多様さの存在も戦略に普遍的に存在するもの。


―7:戦略の歴史から見えてくるパターン

二〇世紀の戦争の歴史の流れの切り取り方にもさまざまなパターンがあることを解説する章。著者はそのパターンを見るやり方には全部で八つほどあるとしているが、最初の二つはあまり役に立たたず、それ以外の六つのほうが有用だとしている。

まず著者が行うのは、以下の解説において「戦術レベル」はあまり語っていないということ。それでも戦略には全体的な視点が必要なので、戦術レベルを軽視しているわけではないことを断ってから分析開始。

つぎに最初の「あまり役に立たないアプローチ」として「殲滅戦vs機動戦」、「攻勢vs防勢」という二つをそれぞれ紹介。いずれも二〇世紀の歴史から見るとその単純な分類そのものが怪しいことであることを解説。

とくに「攻勢vs防勢」のほうは、国際関係論の学者ではOffense-Denfence Theoryという名で議論をされ、これが後にリアリストの間で「攻撃的リアリスト」と「防御的リアリスト」という理論の区分にまで発展したものであるが、当初からこの理論に批判的だった著者はここでも「兵器に攻撃的/防御的という区別をつけるのは政治レベルでは無意味だ」という鋭い指摘を行っている。

次に著者はそれ以外の六つ有用な戦略史の切り取り方をそれぞれ紹介。

一つ目が「大戦争発生の不整脈」というもので、これは二〇世紀の歴史を振り返ればつねにそこには大戦争が発生する危機が存在した、というもの。二つ目が「三つの産業革命」というもので、これはジョン・テレインの歴史の考え方を元にしている。この革命とはそれぞれが蒸気機関(第一次)、石油を使った内燃機関(第二次)、そして原子力(冷戦)というテクノロジーによって象徴されるというもの。

三つ目が「総力戦の興亡」であり、これは第二次大戦までの二〇世紀を「総力戦」の時代であり、その後の後半はその可能性が段々と少なくなってきた時代として区別するもの。四つ目が「有用性、レジティマシー、軍備管理」というもの。これはとくに西洋諸国が軍事力を国策の道具として大規模に使用するのが控えられるようになったとするもの。著者は昔から軍備管理を徹底批判していた関係から、戦争の原因と軍備には直接関係がないことを、菅波秀美氏の議論を批判する形で議論。

五つ目が「通常兵器による戦闘の効果」というもので、これも時代によってそれぞれの区別ができることを主張。たとえば冷戦時代には六つの時期にわけられ、それぞれの時代に戦略の考えが変化したことを示している。

六つ目が「軍事における革命」(RMA)であり、まずRMAという概念自体にコンセンサスがないことを指摘した上で、アンドリュー・クレピネヴィッチ(現CSBA代表)とウィリアム・コーエン(元米国防省長官)の定義を紹介。そして最も有用なものとしてジョナサン・ベイリーの六つの時代区分を紹介しつつ、兵器のテクノロジーやそれが使われる環境によって区分するのも新たな見方を与えてくれるものとして歓迎している。

最後に戦争で使われるテクノロジーは常に全面改訂されるわけではなく、たとえば核兵器が出てきているのに銃は相変わらず使われているように、新しいテクノロジーも古いものに加えられていくことになるという意味で、戦略そのものも複雑になるということを指摘して章を締めている。

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今日はここまで。
by masa_the_man | 2012-07-22 10:15 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝からスッキリ晴れて日が照っております。それにしても蒸しますね。

さて、またまた昨日の続きを。グレイの『現代の戦略』の要約です。今回はいよいよ第五章を。

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―5:コンテクストとしての戦略文化

本書の中でも一番特殊な章。「戦略文化」(strategic culture)という概念について、アラスター・イアン・ジョンストンという若いハーバード大学の教授との論戦をきっかけにして徹底的に論証している。

まずは著者は「戦略文化」の定義を述べた後に、英米圏の戦略学における「戦略文化」を論じた世代が三つあったことを示す。著者自身は「第一世代」にあたり、この世代は70年代末から80年代はじめまで「ソ連の行動様式はアメリカのそれとは違う」としたジャック・スナイダーの論文から始まったことが説明される。

次に戦略文化のアイディアと戦略的な行動についての関係性を説明。ここが著者の戦略文化の説明の核となる。著者は文化人類学や心理学などの文献から引用しつつ、文化とは人間の行為と切り離せないものであることを主張。これをわかりやすく説明するために、「第三世代」の論者であるジョンストンからのグレイらの第一世代の論者の批判に対して徹底抗戦する。

グレイによれば、第三世代のジョンストンたちは、文化と行為は別々のものであると見て間違いを犯していることになる。この例えとして、ジョンストンたは病気の症状と患者をわけているのがおかしいと指摘。これはあたかも「病気の症状」が「戦略文化」で、「患者」がその戦略的な行動をする「アクター」(国家や組織など)になるということ。

つまりジョンストンから見れば、症状と患者は切り離して考えられるはずだということになるのだが、グレイは両方とも症状にどっぷりつかっている存在だということになる。ようするに戦略的行動は常に戦略文化の影響を受けているのであって、行動まで文化的なのだということ。

その後には戦略が普遍的なものであると同時に文化的なものである、ということが説明され、第一章で説明されたように戦略にはいくつもの面があり、しかもその要素のうちの一つが「文化」であり、それが他のものと混じり合っているからこそ、アウトプットとして戦略的行動でさえも実は文化的な影響、というか文化そのものだということになる。

次に、文化には行動も含まれるという問題について、以下のような六つのポイントから説明。

①戦略的行為には文化も含まれる
②災難が起こっても文化を消滅させることはできない
③戦略文化は行動のためのガイドである
④戦略文化は相対的な優位を教えてくれる
⑤戦略文化は障害になることもある
⑥戦略文化は色々とカテゴリー化できる

そしてこの⑥についてはさらに六つのカテゴリーがあるとして以下のような分類を行っている。

1、国民性(安全保障コミュニティー全体を一つにカウント)
2、地理
3、軍種、部隊、兵器、そして機能など
4、シンプル性と複雑性
5、世代
6、大戦略

そして最後にまとめとして、戦略のすべての位相は文化的なものであり、「われわれは文化そのものであり、われわれはコンテクストの一部である」と宣言して、戦略文化を論じるセオリー自体にも厳密にみれば不備があることを指摘して章を終えている。

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今日はここまで。





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by masa_the_man | 2012-07-16 08:07 | おススメの本 | Comments(0)
今日の横浜北部は朝から曇っております。梅雨の天候に戻ってきました。九州のほうでは大変なことになっているようですが・・・・

さて、一昨日の続きを。グレイの『現代の戦略』の要約です。今日は第三章と第四章を。

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―3:戦略家の道具:クラウゼヴィッツの遺産

クラウゼヴィッツの『戦争論』がいかに優れているのかを論じる章。本書の中でも著者の情熱を最も感じるところ。

まず20世紀は偉大な戦争についての理論が生み出されなかった事情を考察。たしかに20世紀には大規模な戦争が起こったが、フォッシュ、ヘイグ、ルーデンドルフ、ヒトラー、チャーチル、それに冷戦時代の将軍たちなど、いずれもがクラウゼヴィッツ時代のナポレオンのような「偉大な将軍」ではなく、インスピレーションを理論家たちに与えられなかったとしている。

次に20世紀は結局のところ影響力の大きさでいえば「クラウゼヴィッツの世紀」であったことが徹底的に論じられ、その後にクラウゼヴィッツの後継者となるような人物はいないのか、そのランキングを示したリストが提出される。

著者によれば、戦略についての包括的な(一般)理論(general theory)の後継者として挙げられるのは、

1、J.C.ワイリー
2、エドワード・ルトワック
3、バーナード・ブロディ
4、バジル・リデルハート
5、ラウル・カステックス
6、レジナルド・クスタンスジョン・ボイド毛沢東

となり、6の三名は他に比べてやや格下の存在になると主張。毛沢東の場合は「孫子の兵法」の影響と「ゲリラ戦」に特化しているという2点をその理由に挙げている。

ここからクラウゼヴィッツの利点を解説。三位一体、文法と論理、絶対戦争と制限戦争、摩擦、戦争の霧、重心、限界点などの概念を中心に、ハウツー本ではなく教育本としての『戦争論』のクオリティーの高さを徹底解説。

次にクラウゼヴィッツの弱点を指摘。これにはまたまた三位一体が触れられ、おなじみの文体の読みにくさや本そのものが未完成であるという事実、それに戦略が従わなければならないとされる肝心の「政策」についてや、海戦についてほとんど触れていないこと、ロジスティクスをほとんど論じていない、それにテクノロジーについて、国家中心の考え方であることなど、かなり網羅的に論じられている。

最後に近年のクラウゼヴィッツの批判を展開したことで有名なバジル・リデルハートジョン・キーガン、そしてマーティン・ファン・クレフェルトの三人がいかに間違っているのかを簡単に検証した後に、クラウゼヴィッツの批判者として有名なクレフェルトが、以前にクラウゼヴィッツを絶賛していた論文から引用して〆ている。

―4:現代の戦略思想の貧困さ

前章のつづき。今度はクラウゼヴィッツの後継者となる人物がなぜいないのかを、九つの理由から徹底検証。

一つ目がすでに述べたように、20世紀に理論家を刺激するような「偉大な将軍」が生まれなかったという事実。二つ目は20世紀の戦争がそもそもあまりにも複雑化してしまったこと。三つ目は戦争という現象を「既存の状態」として考えていたクラウゼヴィッツに対して、現在の学者たちが「問題そのもの」として考えてしまったために扱いづらくなってしまったということ。

四つ目は、単純に優れた才能の人物が20世紀に出てこなかったという点。五つ目は、古典として認められるまでに時間がかかること。20世紀にすごい本が書かれている可能性もあるが、クラウゼヴィッツが大モルトケを必要としたように、古典になるには大人物の評価を待つ必要があるのだ。

六つ目は、単純に「クラウゼヴィッツがすでにやってしまったから」。七つ目は、そもそも戦争の理論を研究するような人の数が限定されていること。兵士は学者にならないし、学者は戦略というテーマそのものにあまり興味をもたないから。

八つ目は、アメリカのような資金の豊富な国でも直近の軍事問題ばかりを研究させ、そこから理論を構築させるようなことはあまり行わないという点。そして最後が、学者たちが部分的な理論のことを「一般理論だ」と勘違いしているという事実。

そしてまとめとして、このような欠点を政治家と軍人たちは心に留めつつ『戦争論』から学ばなければならないとして本章を締めくくっている。


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今日はここまで。
by masa_the_man | 2012-07-12 11:16 | おススメの本 | Comments(0)