戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


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カテゴリ:日記( 1100 )

今日の横浜北部は朝から曇っておりましたが、雨はなんとか降りませんでした。

さて、久々のブログ更新ですが、すでにご存知の通りの新刊のご紹介です。

戦争にチャンスを与えよ
エドワード ルトワック著
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すでに予約の段階でどこかのカテゴリーで一位でしたが、発売日から好調でして、この手の本としては珍しく100位以内にランクインされております。

まずは目次ですが、以下のようになっております。

日本の読者へ――日本の新たな独立状態と平和

1 自己解題「戦争にチャンスを与えよ」
2 論文「戦争にチャンスを与えよ」
3 尖閣に武装人員を常駐させろ――中国論
4 対中包囲網のつくり方――東アジア論
5 平和が戦争につながる――北朝鮮論
6 パラドキシカル・ロジックとは何か――戦略論
7 「同盟」がすべてを制す――戦国武将論
8 戦争から見たヨーロッパ――「戦士の文化」の喪失と人口減少
9 もしも私が米国大統領顧問だったら――ビザンティン帝国の戦略論
10 日本が国連常任理事国になる方法

訳者解説(←私が書いてます)

タイトルですが、これはもともと1999年にルトワック自身がフォーリン・アフェアーズ誌に発表した論文のタイトルから元になっておりまして、決して「戦争をしろ」というものではありません。

すでに簡単な書評をお書きになっていらっしゃる方も気づいておりますが、この真意は「介入すると戦争が長引く」という、いわば「戦争不介入論」でありまして、その矛先はNGOや国連などの戦争の当事者ではない「第三者」に向けられております。

ところがあまりにも日本語版のタイトルが刺激的なせいか、すでに出版社の方には発売前から「お前らはなんつータイトルの本出すつもりだ!けしからん!」とのお怒りの電話があったとか(苦笑

朝鮮半島情勢がきな臭くなっている点で、本書の第5章の「北朝鮮論」は結果的に実にタイムリーなものとなっておりますが、あとがきにも書きましたとおり、すでにインタビューは昨年10月半ばに行われておりまして、その時に語っていた内容を編集したものです。

全体的にはすでに発表した論文(2章)のほか、インタビューを中心に構成しておりますが、講演録なども参考にしておりまして、ルトワックの戦略家としての「世界観」(worldview)をじっくり披露してもらうことを念頭において構成してもらいました。

インタビューの文字起こし自体は昨年の12月の時点で終えておりましたので、私はその内容をすでに忘れている部分もあったのですが、編集段階であらためて読み直して気づいたことがあります。

それはルトワックが深刻なトピックを語っている最中に、ちょくちょく「ネタ」を投入してくる、ということです。

すでにお読みになられた方はお気づきでしょうが、金正恩のヘアスタイルに言及している箇所や、ホルブルックに対する肘鉄の話、それにCNNのアンカーに対する意見など、本気なのか冗談なのかもわからないようなコメントを定期的に使ってくるのです。

個人的に最も気に入っている章は、なんといってもルトワックの戦略論の神髄を説明した第6章から第7章にかけてでして、この戦略のメカニズムの説明が最もしっくりきたと思っております。

もちろん生々しい戦略論の議論であるために、かなりの議論を巻き起こしそうな内容ですが、あとがきにも書いたとおり、この本の主眼は、読者に知的挑戦を突きつけて考えさせるという点にあると思います。

第2章をのぞけば、全般的には語り言葉でできているので読みやすいはずです。ぜひ戦略家の世界観を味わっていただければと思います。

紙面の都合で、残念ながら省略したエピソードがいくつかあるのですが、それについては後ほど別の場所で披露していけたらと考えております。

ということで、知的興奮を受けること間違いなしです。ぜひ書店でお見かけしましたらお手にとってみてください。




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奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-04-21 22:38 | 日記 | Comments(1)
今日の横浜北部は昼過ぎから小雨が降っております。春だというのにまだ寒いですね。

さて、少し前に紹介した記事の要約がやっと完成しましたのでアップします。もちろん筆者たちの狙いはトランプ政権についてなのですが、大きくは「人間の知識とはどういうものか」を論じた壮大なテーマにつながっております。

====

なぜわれわれわは明らかなウソを信じてしまうのか
By フィリップ・ファーンバック&スティーヴン・スロマン

あまりにも多くの人々が明らかなウソを信じているようだが、これは一体なぜだろうか?この疑問は、トランプ政権が票の改ざんや気候変動、そして犯罪率のデータについてウソの情報を広めている現在、きわめて緊急を要する問題となってきている。

ところが「集団的な幻想」というのはいまに始まったことではないし、政治思想的にも右派に限った話ではない。たとえば多くのリベラルたちも、科学的な総意とは反対に、遺伝子組み換え作物が人体に有害であると述べているし、ワクチンが自閉症を引き起こすと信じている。

このような状況は、それが簡単に解決できるように見えるからこそ、悩ましい。もちろん真実は少し調べればわかるはずなのかもしれないが、このような想定だと、「騙される大衆」は「アホで愚かな人々だ」というレッテル貼りくらいしかできないことになる

もちろんこのような説明は、これを聞いている自分たちの気休めにはなるかもしれないが、実際は間違っており、あまりにも単純だ。なぜならそれらは、「知識」というものが「われわれの頭の中だけにある」という狭い了見が反映されたものだからだ。

真実はこのようなものだ。個人レベルで見ると、われわれは事実をフィクションと区別できないし、今後もそれは無理であろう。われわれは無知から離れられないのであり、無知こそが人間の自然な思考回路による産物なのである。

ところが人間と他の動物の差が出てくるのは、個人の脳の持つ力ではない。人間が成功できた秘密は、複雑な目標を追求するにあたって、知的な任務を分担・分業できたところにあったからである。

狩り、貿易、農業、製造など、世界を変えてきた数々のイノベーションは、われわれの知的作業の分業という能力のおかげで可能となったのだ。

たとえばチンパンジーは数字や空間認識を必要とする作業などにおいて人間の子供の能力を超えることがあるが、ひとつの目標を達成するために他の個人と共同作業で何かを行うようなことは、ほとんどできない。

つまりわれわれ個人が独自にもっている知識の量は少ないのだが、一緒に協力することによって驚くべき成果を挙げることができるのである。

知識というのは、われわれの頭の中だけにあるものではなく、共有されたものなのだ。

単純な例から考えてみていただきたい。われわれは地球が太陽の周りを回っていることを知っているが、自分で天文学的にそれをすべて観察して確かめて、同じような結論に至る過程を再確認することができるだろうか?

喫煙がガンになることを知っていたとしても、その煙が細胞にどのような影響を与え、ガンがどのように形成されて、どの種類の煙がほかのものよりも危険であるということを再確認できるだろうか?

おそらくこれらを個人で行うことは無理であろう。われわれがあらゆる分野において「知っている」と思っているほとんどのことは、すでに忘れ去られた教科書や専門家の頭の中のように、すでにどこか別の場所で蓄積されたものだからだ。

知識がこのように広まっている、という事実から生じる結果が、「人はある知識のコミュニティーに参加することによって知らないことを知ったような気になれる」ということだ。

われわれは最近ある実験を行った。それはグループを二つわけて、それぞれに「岩が光る」のような完全にウソの「画期的な科学の発見」を教えて、その後にいくつか質問するというものだ。

最初のグループには、「岩が光る」という新発見について、科学者たちもその理由をうまく説明できていない」と告げてから、その「光りかた」についてどこまで理解しているかを尋ねたのだが、彼らの答えは「まったくわからない」というものであった。これは岩について知らないことだらけの彼らにとってはごく当然の回答である。

ところがもう一方の集団には同じ新発見の事実を伝えてから「科学者が岩の光りかたを説明できた」と伝えると、その回答は「理解できた」というものになり、これはまるで科学者の知識(といってもわれわれはまったく説明していないのだが)が彼らに直接伝わったような状態になったのである。

「わかった」という感覚は伝染しやすい。他の人が理解した、もしくは「理解した」という主張は、われわれ自身を気持ちよくさせてくれるものだ。そしてこのような「気持ちよさ」は、人々が「適切な情報にアクセスできた」と信じているときに発生する。

われわれの実験の話から暗示されているのは、科学者たちが秘密の研究を行い、その説明を秘密のままにしておくと、人々はなぜ岩が光るのか理解できないと感じるということだ。

ここで重要なのは、人々が非合理的であるということではなく、この非合理性がきわめて合理的なところから来たという点だ。

人間は「自分が知っていること」と「他人が知っていること」の区別がつかないのだが、この理由はその「知識」というものが、自分の頭の中にあるのか、それとも他の場所にあるのかの明確な線引きをすることが不可能であることが多いからだ。

このような傾向は、とりわけ意見の対立するような政治問題の場合には顕著になる。われわれの頭脳は、その知識の多くについてかなり詳細にわたって「知っている」わけではないからだ。

つまりわれわれは知的な面において、どこかの「コミュニティー」に依存しなければならないのだが、このような共有状態にあることがわかっていないと、それが人々のおごりにつながってしまうおそれが出てくる

たとえば最近の例として、トランプ大統領と連邦議会が、鉱山の採掘で出てきた廃棄物を河川で処分することについての規制を緩和すると発表したときに、声高な反対意見が上がってきた。

もちろんこれは改悪的な法案なのかもしれないが、この政策の評価は非常に複雑なため、一般的な国民のほとんどはその結論に対して意見できるような詳細な知識を持ち合わせていない

環境政策というのは損益のバランスに関するものである。このケースの場合は、河川に対して鉱山の産業廃棄物がどのような影響を与えるのか、どれだけの量になると悪影響が出るのか、どれくらいの経済活動の規模だったら自由に廃棄できるのか、採掘活動の減少は他のエネルギー源でどこまで埋め合わせることができるのか、そして実際の環境へのダメージはどれくらいなのかということについて、かなり詳細な知識が必要になってくる

おそらくこの法案に対して声高な怒りを表明しているほとんどの人々は、その法案を評価するのに必要な詳細な知識をもっていないだろうし、その法案に投票するはずの議員のほとんどもその詳細は知らないはずだ。それでも自信を持って発言している人は多い。

このような「集団的な幻想」というのは、人間の思考の強みでもあり、大きな弱みでもある。

人間が一つの共通の信念を信じて、大規模な集団の中の個々人がそれぞれの知識を貢献しながら共同作業を行えるのは、実に驚くべきことだ。これが可能であったからこそ、われわれはヒッグス粒子を発見できたし、20世紀には人間の平均寿命を30年も伸ばすことができたのである。

ところが同じような能力によって、われわれはでたらめなことも信じることになっており、それが驚くべきほどひどい結果につながることもある。

「個別の人間の無知は普通のことだ」という事実を、われわれは苦い教訓として受け止めなければならない。そしてこれが理解できれば、われわれの能力を高めることにもつながる。

また、これが理解できれば、本物の検証に役立つ問いかけと、受身的で表層的な分析しかもたらさない問いかけを区別することもできるようになる可能性がある。そして、われわれのリーダーたちに専門的で詳細な分析(これは効果的な政策をつくるための経験から得た、唯一本物のやり方だ)を要求することもできるようになるのだ。

「われわれの頭の中には知識がそれほど詰まっているわけではない」という事実をより自覚できるようになることこそが、われわれに本当に役立つことなのである。

===

いい記事ですね。ただし最後はちょっと楽観的な気がしないでもないですが。

人間が集合的に「真実」を決めていることは、国際関係論の世界ではコンストラクティビズムの議論によってすでに論じられているところでもあり、戦略学の世界では最近は意思決定者の心理学という観点からも議論されている通りです。

これはトランプ政権の問題を念頭に書かれたものでもありますが、日本にいるとやはり豊洲問題や原発関連の話として重ねて考えると感慨深いものがあります。
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(ちよだ)







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by masa_the_man | 2017-03-31 14:20 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は久々にすっきり晴れましたが午後は少し曇りました。これで冬が終わったと考えていいのでしょうか?

さて、ルトワックの最終原稿の追い込みで忙しくしておりましたが、来週発売の『フォースターニング』に関連して、原著者の一人であるニール・ハウが、最近ワシントン・ポスト紙に意見記事を投稿しておりましたので、その要約です。

====

バノンの世界観は私の本が元ネタだ
By ニール・ハウ

今月のメディアの見出しには以下のような警戒心を呼び起こすものが並んだ。

スティーヴ・バノンの暗い歴史観への傾倒は警戒すべきものだ(ビジネス・インサイダー)
バノンは最後の審判の到来や戦争の勃発が不可避だと信じている(ハフィントンポスト)
●バノンは第三次世界大戦の勃発を願っている(ネイション誌)

このようなメディアの報道に共通するのは、トランプ大統領の首席戦略アドバイザーが、彼自身の世界観に最も影響を与えた本(フォース・ターニング)の熱心な読者である、というものだ。

私はこの本を、ウィリアム・ストラウス氏と共に1997年に出版した。この本がバノン氏の心を奪ったという話は事実である

彼は2010年に「ジェネレーション・ゼロ」というドキュメンタリー映画を発表したのだが、この映画はわれわれが描いたアメリカ史(そしてほとんどの近代社会の歴史)についての、4世代にわたる循環理論を土台にして構成されたものであった。

このサイクルには、社会政治面での「危機」(これをわれわれは「フォース・ターニング」と名付けたが)を含むものだが、この本について解説していた記事では、あまりにもその恐ろしさが誇張されすぎていた

私はバノンのことをよく知るわけではない。ただし「ジェネレーション・ゼロ」を含むいくつかの映画制作で、彼と関わったことは事実である。

彼の文化面での知識は豊富で関心したし、彼の政治観もそれほど攻撃的なものには感じられなかった。私が驚かされたのは、彼がブライトバートというサイトの代表になり、しかもそのサイトの主張を拡散しはじめてからだ。

私がオルト・ライト(ブライトバート周辺の極右・白人至上主義を目指しているとされる動き)を知ったのは、多くの人々と同じように、主要メディアの報道によってだ。

2007年に亡くなったストラウス氏と私は、バノンに対してどのように考えて何を主張すべきかをアドバイスしたことはない

ただし、われわれが彼に一つの示唆を与えた可能性はある。それは、ポピュリズム、ナショナリズム、国家独裁主義が台頭するというイメージなのだが、それはアメリカだけでなく世界中で起こるというものだ。

われわれは政治的なマニフェストを書いたつもりはなかったため、「フォース・ターニング」の内容が左派と右派の中の一部の熱心な運動家たちの間で非常な人気を博したのには驚かされた。

「フォース・ターニング」が出版された当時に最も受けたのは民主党の人々の間であったが、その理由は「ミレニアル世代」(これはわれわれの造語だ)がアメリカを進歩的な理想に向かわせるコミュニティー志向の楽観主義者たちとして記述したからだ。

しかし保守派にもファンがいて、彼らは別の教訓をその本から見つけている。それは、新たな時代になれば左派経済と右派の社会的価値観がうまく融合させることができるというものだ。

イデオロギー以外にも、われわれの本が注目を再び集めている理由がある。それはわれわれが近代の西洋の歴史家たちが大前提としている「線的な時間」(一方向への進歩や衰退)や「カオス的な時間」(複雑すぎで方向性を見いだせない)というものを拒否しているからだ。

その代わりにわれわれは、伝統的な社会のほとんどで受け入れられている「循環する時間」を採用しており、ある出来事が意味を持つのは、哲学者のエリアデが「再演」と呼ぶものが見られた時であるとしている。

循環論的な世界では、偶発的な事件やテクノロジーを除けば、その社会的な雰囲気は似通ったものとなり、その再演の順番も決まっている。

このサイクルの中には四つの節目(ターニング)があり、この一つの節目はおよそ20年ほどつづくことになる。ちなみにこの20年とは、一つの「世代」の長さに対応するのだ。

これを循環する「季節」として考えてみていただきたい。それは春からはじまって冬に終わるのであり、一つの「節目」で新しい世代が生まれ、年上の世代は人生の新たなステージを迎えることになる。

このサイクルは「第一の節目」(the First Turning)の「高揚」(High)の時代から始まる。これはその前の危機の時代が過ぎ去った後に始まるのだ。

この「高揚」という春の時代では、公的な制度機関の力が強まり、個人主義は弱まる。社会において、個人たちは同調圧力に不満を感じながらも、集団としては向かう方向に自信を持っている。

現在を生きている多くのアメリカ人の中には、第二次世界大戦後の「アメリカの高揚」(これは歴史家のウィリアム・オニールが名付けた)の時代の雰囲気を覚えている人もいるかもしれない。トルーマン、アイゼンハワー、そしてケネディ大統領の政権時代がこれに当たる。

それ以前のものとしては、「南北戦争後のビクトリア時代の高揚」(the post-Civil War Victorian High )というものがあり、この時代には工業の発展と安定的な家族が見られた。民主共和派が主導した「憲法制定後の高揚」(the post-Constitution High )や「好感情の時代」(Era of Good Feelings)もこれに当てはまる。

「第二の節目」(the Second Turning)は「覚醒」(Awakening)であり、この時代には高尚な原則や深い価値観の名の元に公的な制度や機関が攻撃される。

社会の公共面での進歩が最高潮を迎える時に、人々は突然にあらゆる社会的な規律に疲れを感じ、個人の権威という感覚を再び獲得したいと考えるようになる。仕事ではなく宗教による救済が若者の主張として叫ばれるようになる。

この時代の典型的な例が、1960年代後半から70年代にかけての「意識革命」(the Consciousness Revolution)である。歴史家の中にはこの時代を「アメリカの第四の覚醒」もしくは「第五の覚醒」と呼ぶ人もあるのだが、これは17世紀のジョン・ウィンスロップの時代か、18世紀のジョナサン・エドワーズの時代を最初とするのかでわかれる。

「第三の節目」(the Third Turning)は「分解」(Unraveling)であり、これは多くの面で「高揚」の正反対であると言える。公的な制度は弱体化して信頼を失い、個人主義が強まって賞賛されるのだ。

「第三の節目」の時代としては、1990年代以外にも、1920年代や1850年代があるのだが、これらの時代はその懐疑的な態度やマナーの悪さ、そして公的機関の力の弱まりによって知られている。政府の力は縮小され、投機的な狂信が頂点に達する。

最後の「第四の節目」(the Fourth Turning)は「危機」(Crisis)である。この時代に入ると公的な制度機関は根本的に再編されるのだが、その原因は国家の存続の危機が感じられるからだ。もし歴史でそのような緊迫した脅威が生み出されなければ、この時代のリーダーたちは国民的な行動を動員を行う目的で、そのような危機を発見したり、さらにはでっち上げたりすることになる。

公的な制度機関の権威は復活し、市民や集団は、より大きなコミュニティーに参加者として協力を始める。このような集団的な努力が実って解決法を生み出すと、第四の節目はわれわれの国家としてのアイデンティティを活発化させたり再定義したりすることになる。

1945年、1865年、そして1794年は、アメリカ史においてそれぞれが新たな「創建的な瞬間」を決定づけたのだ。

「第二の節目」がわれわれの内的な世界(価値観、文化、そして宗教)を再構築したように、「第四の節目」はわれわれの外的な世界(政治、経済、帝国)を再構築するだろう。

われわれの理論によれば、これからやってくる時代(たとえば10年間など)は、その本質的な人間の働きによって過去のある時期と同じようなものになるはずだ。

われわれは『フォース・ターニング』の中で、アメリカは2005年頃に金融市場において「偉大な低下」を経験し、これが契機となって1930年代のような時代に突入すると予測した

たしかにわれわれがこれまで経験した時間を考えれば、1930年代と同じような道筋を辿っているという考えはかなり当てはまると言えるだろう。

たとえば経済では、1930年代も2000年代も世界的な金融危機によって始まり、経済成長率の鈍化や慢性的な雇用や資本の低下が見られる。投資は低下し、デフレの恐怖や格差の拡大、そして中央銀行による消費増大への刺激策も不調に終わっているのだ。

地政学的な観点からいえば、現在では孤立主義、ナショナリズム、そして右派のポピュリズムの台頭を世界中に見たのだ。地政戦略家のイアン・ブレマーはわれわれが「Gゼロ」の時代にいると述べており、これはすべての国家が利己的になる時代という意味だ。

これは1930年代にも当てはまる。大国による同盟の権威は失墜し、新たな独裁的な政権がなりふりかまわず行動するような状態を見ることになったからだ。

社会的なトレンドにおいても、この二つの時代は似た部分を示している。たとえば出生率や持ち家率の低下、数世代同居の世帯の台頭、そして地元主義の拡大やコミュニティーのアイデンティティ、そして若者による暴力事件の数の劇的な減少(トランプ大統領はこの事実に気づいていないようだが)、そしてポップな若者文化の定着などである。

結局のところ、われわれは世界中の有権者の間に生まれつつある「リーダーたちにより大きな権限を与え、プロセスよりも実行、そして抽象よりも具体的な結果を出してもらいたい」という欲求を感じているのだ。

われわれは歴史がそのスピードを上げ、リベラルな民主制度は弱体化しつつある、極めて不安定で最も重要な時代に生きている。レーニンは「10年間何もなかったとしても、その10年を決定づけるような出来事は数週間のうちに起こる」と記している。

われわれは公的な制度の創造的な破壊に準備すべきだ。これはあらゆる社会が時代遅れになったり硬直化したり機能しなくなったものを破棄するために、定期的に必要とするものだ。そしてこれは、老人から若者に富を移行させる点でも必要になる。

森は定期的な山火事を必要としているし、川にも洪水が必要だ。社会も同じであり、新たな黄金時代を迎えるためにわれわれには支払わなければならない代償があるのだ。もしわれわれが歴史の大きなリズムを見ることができれば、このようなトレンドに落胆すべきではなく、むしろ励ましとすべきである。

過去数百年間にわたる英米史では社会的な危機がかなり定期的なサイクル、つまり80年から90年ほど、もしくは人間の一生分の長さで巡ってきている。

このパターンを見ると、植民地における名誉革命の時代、アメリカ革命、南北戦争、そして世界恐慌から第二次世界大戦という時代が繰り返されている。そして1930年代からのサイクルを一回し進めると、われわれが生きているまさに現代がその時代に当てはまる。

アメリカは2008年に新たな「第四の節目」に入った。これは2030年前後まで続く可能性が高い。われわれの理論では、現在の流れはその時代の半分に近づくにつれてさらに明確になってくるということが示されている。

新たな金融危機や、大規模な軍事紛争など、今よりもさらに不都合な出来事が発生すると、国民の議論を活発化させ、リーダーたちにさらに断固とした行動をとるよう求めることになる。

世界中で台頭する地域主義やナショナリズムは大きな政治主体(おそらくEU)の分裂や、紛争の勃発(おそらく南シナ海、朝鮮半島、バルカン半島、もしくはペルシャ湾)につながる可能性がある。

新たな孤立主義の台頭にもかかわらず、アメリカは戦争に巻き込まれるかもしれない。私は戦争を望んでいるわけではないし、単に冷静に観察をしているだけだ。

それによると、米国史上におけるすべての総力戦は「第四の節目」の時代に発生しているのであり、この時代が総力戦で終わらなかった事例はないのだ。もちろんそのような戦争におけるアメリカの目標は、非常に広範囲な分野から決定されるものであろう。

2020年代の後半になると「第四の節目」は頂点を迎え、終わりに近づくことになる。講和条約が交渉され、協定が締結され、新たな国境線が確定し、おそらく(1940年代の後半のように)新たな強い世界秩序がつくりあげられるはずだ。

また、2030年代初期までにわれわれは新たな「第一の節目」を迎え、若い家族は歓喜し、出生率は上がり、経済格差は縮まり、新たな中間層が台頭し、公共投資は21世紀のインフラのために増大し、秩序ある反映が復活するだろう。

次の「第一の節目」、つまり新たな「アメリカの高揚」の時代には、今のミレニアル世代たちが社会のリーダーとなり、彼らの楽観主義や賢明さ、能力、そして自信を見せつけることであろう。そして2030年代後半のどこかの時点で、ミレニアル世代の初の大統領が誕生し、新たな伝説を創り出すことになるだろう。

それからさらに数年後には、集団的な考えを持つミレニアル世代は、新たな若い世代から思いがけない形で猛烈な批判を浴びることになる。それが次の「覚醒」だ。

このように、歴史のサイクルは容赦なく回り続けるのだ。

====

拒否するのかと思いきや、ここぞとばかりに本の内容を説明しまくってますね。

しかもその考えは、バノンと同じく(というかバノンが学んだのでしょうが)、「2008年のリーマンショックによって危機が始まった」という考え方ですね。

個人的には「2008年に1930年代が始まった」というのはちょっと大げさであり、もしかしたらテクノロジーの発展によって彼らのいう「危機」が回避されているのかと思いたいところですが、トランプ政権の誕生と、しかもこの理論を信じているバノンが政権の中枢にいるという事実は「危機」の到来を予感させるに十分なほど異常事態でありまして。

ということで、この理論が書かれている『フォースターニング』は来週後半に本屋に並びます。賛否両論ある「奇書」かもしれませんが、ぜひ書かれている内容をお楽しみいただければ幸いです。


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(本日到着)


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奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-03-16 23:17 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部はよく晴れまして、気温も心なしか真冬状態からは抜け出せておりました。

さて、連日にわたって孫子本の訳で忙しいので、だいぶ前に訳したルトワックの論文の「試訳版」をここにおいておきます。完成版ではないので誤字脱字がかなり含まれております。

お気づきになられた方はコメント欄でぜひお知らせください。修正します。

=====

ポスト・ヒロイック・ウォーに向かって
by エドワード・ルトワック
May/June 1995 Foreign Affairs

▼総力戦の衰退

元ユーゴスラビアで長期化する戦い、グロズニーの破壊、そして最近のエクアドルとペルーの国境地帯での戦闘をつなげる共通項が一つある。それは数世紀前と同じように、戦争が再び「容易に開始しやすく、明確な制約もなしに戦われるようになった」ということだ。参戦者同士が戦争開始や戦闘であらゆる手段を使うこと――空爆や砲撃などによって町全体を破壊することなど――に対する罰を与えられないと考えるようになると、軍事力の行使に対して自ら課した制限は下がるものだ。エクアドルとペルーの間の国境紛争は戦術爆撃が使用されてから始まったのであり、しかもそれは単なる歩兵同士の小競り合いくらいの結果しか生み出さないかのような形で実行されたのだ。

この新しい戦争の時代の到来は、冷戦の終焉によるもう一つの結果である。とりわけ冷戦では、紛争地域におけるいくつもの熱戦を誘発もしくは強化したのであり、米ソ両国はそれぞれの同盟国や保護国に対して、現地の能力を遥かに越える武器や専門技術を供給してきた。そのような代理戦争の場となることが多かったのが中東である。

ところが同時に、核戦争へとエスカレートする恐怖は、米ソ両国がヨーロッパやその他の地域で(それが最小規模のものであっても)直接対決するのを阻止したのである。結局のところ、冷戦は世界各地における多くの潜在的な戦争を抑えこんできたのであり、その理由は米ソ両国が自分の隷下の国々に勝手に戦争を起こすことを許さなかったからだ。さらにいえば、両国とも朝鮮半島やベトナム、それにアフガニスタンでの戦争のような形や地理的な範囲や、自分の同盟国や衛星国が戦った戦争をコントロールすることに関して非常に神経質になっており、ここでも直接対決や核戦争へとエスカレートすることの恐怖があったのだ。

このような戦いを条件づけている戦争の概念というのは、特定の状況によって生み出されるものと認識されているわけではなく、むしろ普遍的なものであると見られてきた。この概念では、戦争が国民の熱狂を引き起こす国家の偉大な目的のために戦われ、ビジネス的に戦う職業軍人の集団ではなく、国家を代表する軍隊によって戦われることが想定されているのだ。ところがこのような想定は戦争の概念のうちのたった一つであることは、軍事史に少しでも関心のある人々であればよく知っていることだ。この概念は「究極の真理」からはほど遠いものであり、むしろ近代によって発明された、どちらかといえばより最近の時代に関連したものなのだ。フランス革命以前のほとんどの戦争は、国民の熱狂を呼び起こすことはほとんどない、はるかに切迫性の少ない目的のために戦われたのであり、高価なプロの軍隊を温存するために慎重な戦略や戦術が使われていた。一八世紀の戦争では偉大な目標がなかったおかげで全国民を戦争に向かわせることはできなかったが、それでもそれを正当化するだけの控えめな目的があり、犠牲者が出るのを避けることがその標準的な規範となっていたのだ。
 
▼戦争の新しい文化

緊張の度合いは高いが統制された「冷戦文化」では、軍事力の使用に対する抑制的な制限が必要とされていたが、これはインドやパキスタンのような非同盟志向の国家にも影響を与えているように見える。軍事力の使用は、冷戦期には世界中で非常に恐ろしいことであると見られるようになり、最大限の熟慮の上でのみ決定され、普通は「最後の手段」として用いられるものとなったのである。関与を否定できるようなゲリラ作戦ではなく通常の歩兵戦をエスカレートさせたり、歩兵戦ではなく機甲戦や砲撃支援、そして地上戦よりも空爆を行うことは、過去の場合のような現場の部隊の指揮官の自由裁量ではなく、国のトップの政治的な判断が必要とされるとみなされるようになったのである。もちろん現場の指揮官たちは(時には大声で)不満を漏らしたが、それでもこの新しい抑制的な文化を受け入れて従ったのだ。

もちろんこの抑制は一九四五年から八九年までの間の(最も多く見積もった場合の)一三八回もの戦争と二三〇〇万人もの犠牲者を防ぐことはできなかったが、それ以前の二つの世界大戦を含む四四年間ではそれよりもはるかに多くの人々が犠牲になっているのだ。また、一九四五年から八九年までの国内の暴動鎮圧や内戦では、抑制的な考えから生じる戦略面での慎重さが欠如した状態であったために、一三八回の戦争の合計よりもさらに多い犠牲者が出ている。

冷戦が「熱い戦争」を抑圧できなくなった今、軍事力の使用に対する抑制的な制限を促す文化は全体的に消えつつある。イラク戦争を除けば、その結果は主にソ連やユーゴスラビアであった地域で出現しつつある。東部モルドバ、コーカサス地方の三つの共和国、中央アジアの一部、そして最近ではチェチェン、クロアチア、ボスニアなどで続いている長期戦や壊滅的な破壊、そしておびただしい数の残虐行為は、たしかに多くのアメリカ人を恐れさせその考えを変えさせた。ところがこれらの多岐にわたる暴力は、帝国が植民地へと権力を大々的なスケールで移譲した時とまったく同じ構造や、純粋に土着的な原因から発生していたのだ。それゆえに、われわれは新しい無制限戦争の始まりも、少なくとも地理的に限定されたもの(といってもその対象地域は広大だが)であると考えることもできる。

エクアドルとペルーの間の戦闘、ギリシャとトルコの間の増大する無謀さ、そしてカシミール地方における増長するパキスタンの大胆さなどから感じられるのは、新しい、そしてより制限の少ない戦争の文化が、はるかに広範囲で台頭しつつあるという不吉な予感である。今やこれら多くの事例に対抗できる手段は何もない。侵略行為や故意のエスカレーションなどは処罰されずに存在し、勝者はすでに獲得したものを保持したままであり、敗者は自らのものを奪われたままである。冷戦期はこのような状態ではなく、ほとんどの国は米ソどちらかの保護を受けることができたのであり、その両国自身もその国々をコントロールする理由を持っていたのだ。そして勝者たちは米ソ両国との協定によって獲得したものを徐々に減らされ、敗者は勝者側と同盟関係にない両国のどちらかに支援してもらえたのだ。

もちろんエクアドル・ペルー間の戦闘がどのような前例となるのかは謎のままだ。地図が変わるような結末がでなければ、ラテンアメリカ諸国間で凍結されていた国境紛争が復活するとは主張できないからだ。ただしこれらの紛争は、当然ながら極端に民族主義的な立場をとる政治家たちに再評価されているはずだ。軍事費が低下傾向にある多くのラテンアメリカ諸国においては、明確な反発は無理だとしても、軍事費削減の減速は確実に起こるだろう。政治・経済面で大きな利益をもたらした近年における最もポジティブな流れは、いまや危機的な状態にあるのだ。エクアドル・ペルー戦争はラテンアメリカ諸国全体に対してかなり大きな損害になるかもしれず、それは地理的な制限を越えてアメリカにも波及しかねない。
 
▼「戦争」の意味

ではアメリカは倒錯した事例や、容易かつ無制限な暴力の新しい文化に対処できるだろうか?外交の先には、多国間的な枠組みや他国の援助を必要とする、もしくはしない、「武力介入」という問題の多い対処法が存在する。ところが状況的には武力介入が有効な場合(もちろん想像不可能な状況もある)があるにもかかわらず、米軍は武力介入について、アメリカ国民からの全般的に繰り返し否定されることになる。

このような政治的な制約は当然のこととして受け入れるべきである。なぜならこれらは米軍の指導層が現在採用している、特定の戦争の概念や介入手法によって生じる不慮のコストだからだ。もしこれらが戦闘で米軍兵卒がさらされるリスクを最小化する目的で大きく変換されるものであれば、提案された軍事介入に対する国民側の反応も変わるはずだ。アメリカは侵略やエスカレーションを今よりも積極的に思いとどまらせることができるようになるだろう。

アメリカが当事者となって介入している場合は、たとえば米軍の公式マニュアルや一般的な「戦争」という言葉の理解において、これらのほとんどは政治議論でも暗黙のものとなっている。当然だが、ワインバーガー・ドクトリン、パウエル・ドクトリン、それにチェイニー・ドクトリンなどは、米軍を戦場に送り込む決定をする際のいくつかの条件を提示しており、それらは同じ戦争の概念に則っているにもかかわらず、それを議論せずに暗黙の状態でベースとしているのだ。これらの三つのドクトリンで触れられている条件の詳細は異なるものだが、そのすべてではアメリカの明白かつ致命的な国益が脅かされていることが条件となっており、アメリカは国民の熱狂が冷めるまでに決定的なだけでなく迅速に勝てるだけの十分な戦力を使用する必要があるとされている。

「大きな目標のために戦われる戦争」というのは、当然のようにフランス革命やアメリカ独立戦争から生み出されたものだ。ただし私は歴史的な正確性は無視して、ここではとりあえずこれを「ナポレオン戦争」と名づけておく。なぜならここで言う「大きな目標」は、まさにナポレオンがやったように、大規模な作戦において大兵力を決定的に使用することを意味することが多いからだ。この概念は、ナポレオンによってあざけられ、カール・フォン・クラウゼヴィッツによって体系的に批判された、一八世紀のヨーロッパにおける典型的な戦い方に対する反応として生まれたものだ。

もちろんクラウゼヴィッツは、前世紀の注意深い戦い方がその時代と「内閣戦争」(cabinet wars)と呼ばれた戦争の狙いと一致していたことを十分認識していたにもかかわらず、それを極めて手厳しく批判している。その際に使われていた、相手に見せつけるための部隊の機動的な動きは、一度も銃を発射することなく敵を撤退させる目的で行われたのだが、一旦激烈な戦闘が始まってしまえば、すぐに中止されるようなものであった。優位な部隊でさえ、勝利において犠牲が多く出ることがわかれば戦闘を避けたほどなのだ。戦闘の勝利にあたっては、決戦よりも長期的な包囲戦、そして全面攻撃よりも慎重な追撃のほうが好まれたのである。戦略レベルにおいては、よく練られた攻勢でもその目標はかなり控えめなものであり、成功しそうな作戦でも単に犠牲者を避けたいがために冬期に備えて早めに手仕舞いされることが多く、攻撃による成果の発揮は、犠牲者の回避という遥かに優先順位の高いことによって常に避けられ、次回の戦闘のために部隊を温存し、線的な防御や要塞の構築や配備のためにはるかに多くの努力が傾けられたのだ。

ナポレオンはそのような慎重な戦い方に対して、大規模な兵力や急速に集中する部隊の勢いを使った大胆な戦略的攻勢を用いることによって勝利したのであり、クラウゼヴィッツが提唱したのはまさにこのような戦い方だったのである。偉大な国家目的のために戦われる戦争や、ドイツ統一を念頭におきつつ、クラウゼヴィッツは熱しきらずにリスクを避け、しかも長期的にはコストがかかるような戦い方が抱える論理面での誤りを明らかにした。もちろんクラウゼヴィッツは、政治的な考慮の優位を主張することによって、戦略における慎重さ推奨する最も強力な議論を展開している。ところがこれも、彼の戦術・作戦面における大胆さの効率性の良さを示す議論の前ではほとんど力を持つことはなかった。この効率性の議論というのは、その野心的な目標を正当化するような文脈から簡単に切り離されやすいものであったのだ。

戦争に内在する永続的な構造や心理学について深い洞察力を備えたクラウゼヴィッツの教えは、いまだにそれを凌ぐものがないほどだ。リスクをとって成功した歴史上の偉大な指揮官たち
(ブラッドレーやクィントゥス・ファビウス・マクシムスたちのような慎重な勝者を排除し、パットンやハンニバルのような人々を集めた極めて偏ったもの)のリストと同様に、これらの教えは米軍の教育機関は国防大学などでの議論で浸透しており、現在の野戦教則(フィールド・マニュアル)や公式のドクトリンなどでも容易に見つけることができる。このような文書の多くでは、冒頭で「戦争の原則」(戦力の集中、多勢、勢いなど)を言い直したものが掲載されるのだが、実際それらのほとんどが、ナポレオン戦争時代におけるクラウゼヴィッツ式の原則なのだ。

この「原則」は、核兵器を使わない軍事作戦の計画という意味においては、二つの世界大戦や冷戦の状況にとってたしかに当てはまるものであった。ところがそれは現在の国内外の状況には当てはまらないのだ。現在の国際政治において世界を脅かすような大国は存在せず、わずかな数の動きのない「ならず者国家」や、遥かに規模の小さな戦争や内乱が発生しているだけであり。そのどれもがアメリカを直接脅かすことはないし、その重大な国益を害するものでもない。したがって、ナポレオン戦争や、たとえばワインバーガー/パウエル/チェイニー・ドクトリンなどによって示されている軍事介入のための前提条件は、そもそも存在していないのである。

ところが最大規模の残虐行為にあふれた侵略行為を注目しながらもただ傍観していたという事態のおかげで、アメリカは倫理・道徳面で被害を受けることになった。さらにいえば、戦争における新たな文化の広まりが、アメリカの物理的な利益に対して容易かつ急激に被害を与えつつあることは明らかである。銃撃が発生する場所では商業のチャンス(しかもその多くはかなり大規模なものだ)が毎日に失われ、将来においてはさらにその数が増えるかもしれないのだ。

いくつかの現代兵器が発揮できる機能から考えれば、軍が本気でテクノロジーの潜在力を活用して一八世紀のような犠牲者を避ける方法を真似ることができるかもしれないし、実質的には血の流れない武力介入を実行可能となるかもしれないのだ。もちろんアメリカの狙いは、それと同時に控えめなものとしなければならず、「部分的かつ制限的な成果以上のものを達成したい」という誘惑に負けずに、一八世紀の将軍たちのように遅く出てくる結果を生むような状態を維持しなければならないのである。

それとは対照的に、現代の軍にはクラウゼヴィッツによって補強されたナポレオン戦争のタイプの考え方がいまだに浸透しているのだが、それが直近の軍事面での必要性と極めて大きな違いを見せている。たとえばアメリカのソマリア介入は、ハイリスク/ハイリターンの特殊作戦方式の大胆なヘリによる急襲が大失敗したことによって突然終わりを迎えた。ところがこれがアメリカの国益にとっては最も関係の薄い国における自由裁量度の高い介入であったという事情を考えると、リスクの高い手法は、それがどのようなものであれ原則として全く不適切なものであった。さらに結果がどのようなものであれ、この介入を行う判断そのものがひどいものであった。米軍のトップの計画担当者たちは、アメリカの特殊部隊司令部に対し、浸透しているメンタリティに沿う形で本質的に犠牲者を出すリスクの高いタイプのソマリア介入作戦の開始を許してしまったのである。

ナポレオン式の概念が応用できる限り、米軍にとって合理的な範囲で犠牲者を出すことは重大な決断要因とはならなかった。「偉大な目的のために戦われる戦争」が暗示しているのは、たとえその数が大規模なものになっても犠牲が出るのを積極的に受け入れるということだ。さらにいえば、犠牲に対する許容というのは、産業革命以前、もしくは初期の産業社会の人口動態、つまり家族には多くの子供がいて、そのうちの何人かを病気で失うのはまったく日常的であった状況と一致しているのだ。若者を戦闘において失うのはたしかに悲劇的ではあったが、それでも一人から多くても三人の子供しかいない現代の家族に比べれば、完全に許しがたいことではなかったのである。現代ではすべての子供が成人することを当然視されており、家族の感情的な絆を抱えていることが多い。アメリカでさえ、植民地拡大や目立たない動機を目的として戦われた、任意の大国間戦争の「燃料」となる「消耗品的な兵士」を過去に十分に供給できたことはない。しかも現代のような低出生率のポスト産業化社会では、回避可能な戦闘におけるそのような「消耗品的」な命の供給は許されないのである。

現代のように、プロとして給料や退職金も出る、出世を狙う兵卒によって占められ、犠牲者を出すことに不寛容な国家に属する軍隊が、民族主義や宗教過激主義によって感情を燃え上がらせた敵と対処できるかどうかはほぼ不可能なことのように見える。ところが戦闘を避けて何もしないと、セルビアのような攻撃的な小国だけでなく、ソマリアの軍閥のように、自由に暴れまわったり、自らの意志で勝利を獲得できるような事態が生まれるのだ。

このジレンマを、前代未聞であったり解決不能なものであるとみなす人々もいる。ところが実際はそのどちらでもない。もしわれわれがナポレオン式の概念から離れ、一八世紀型の歴史的に「普通」の状態を認めることができれば、同じジレンマが出現してそれをうまく克服できた、多くの歴史的な事例に気づくことができる。たとえば二千年ほどさかのぼってみると、まさに現代と同じようにプロとして給料が出て退職金ももらえ、出世を狙う人々によって構成されたローマ軍の兵士たちは、部族や宗教のために栄誉を持って死を恐れない戦士たちと、日常的に戦わなければならなかったのである。そしてその当時から、ローマ軍側の上官たちは戦闘での犠牲者には無関心でいられなかったのだ。その理由として、戦闘部隊を訓練するのにはコストがかかり、しかもローマ市民の人材が豊富というわけではなかったという点などが挙げられるだろう。アウグストゥスが数年前に行われた「トイトブルク森の戦い」で三個軍団を失った指揮官ウァルスの墓に行って哀悼の意を表した話は有名である。

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つづきはのちほど。

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奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-27 00:08 | 日記 | Comments(0)
つづきです。

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▼ローマの包囲戦

ローマは部隊の損失を最小限化しつつ、ブリテン島からメソポタミアまでの敵に打ち勝つために、いくつかの対処法を使っていた。まず最初は彼らの基本として、開けた場所での戦闘を避けるということであり、とりわけ自分たちがはるかに優位にあっても自発的に戦闘を始めることを最大限避けるというものであった。ローマは時と場の不確実性に直面して、同じく不確実な犠牲の損害を出すよりも、むしろ敵に好きなポジション(しかもそれが強固に要塞化されていたり地理的に優位なものであったとしても)まで撤退することを許しているのだ。流動的な状況をより自らが統制できる状況に変えることによって、ローマ人は体系的な包囲作戦を開始することを狙い、部隊を編成して武器を集積し、供給したのである。それでもまだ彼らの最優先事項は敵の防御を突破することではなく、包囲している部隊を守るために精緻な要塞をつくり、敵の反撃によって出る犠牲を最小化することであったのだ。全体的にいえば、包囲戦はローマにとって、包囲技術の優秀さと兵站面での優位という二つの面で得意とするものであった。これによって、彼らは包囲している敵の食糧の尽きるまで待つことが可能になったのである。故意の計算された忍耐は、軍事面での優位を示すものである。

ローマ軍の包囲戦の現代版ともいえる貿易禁止や武力封鎖というのは、戦術的なものではなくて戦略的なものである。あいにくだが、ナポレオン式の概念が普及している限り、戦争に似たような結果を戦死者を出すことなく達成するのは無理であろう。興奮した国家は結果をすぐ求めたがるものだが、貿易禁止や封鎖の効果というのはすぐに出るというよりもむしろ累積的なものであり、その結果は思ったよりも長くかかることが多い。さらにいえば、ナポレオン式の戦争の概念では決定的な結果しか認めないものであり、貿易禁止や封鎖の効果というのは完全というよりも部分的なものでしかない(それでも何もないよりははるかにマシだが)。たとえば一九九〇年以来、このような手段はサダム・フセイン率いるイラクの軍事的復活を抑えてきた。イラク軍は一九九一年の湾岸戦争で受けた兵器の損失から復活することを許されておらず、破壊された、もしくは老朽化した兵器の更新はままならずに弱体化が進んでいたのだ。もちろん禁止となっていたのはタンカーやパイプラインによる直接的な輸出だけであったが、陸上で運びだされるそれよりもはるかに少ない量の原油取引では再武装には十分ではなかったのだ。


また、国連がイラクの輸出禁止を解いたとしても、実質的な「封じ込め」状態は深刻な軍事力の脅しのない状態ですぐに解消されるわけではなかったのだ。ついでに言えば、大々的な戦争だけが達成できる決定的な結果は、この場合にはさらに一時的で不確定なものとなっていただろう。なぜならイラクの軍事力の完全な破壊は、即座にイランという脅威に対する封じ込めを遥かに難しくしたはずだからだ。

それと同様に、元ユーゴスラビアでは国連、ヨーロッパ共同体、もしくなNATOによるあらゆる外交や軍事介入の大失敗の中で、ポジティブな効果を唯一生み出したのが、セルビアとモンテネグロへの輸入の拒否(といってもそれは完全なものからはほど遠いものであったが)だったのだ。セルビアとモンテネグロの軍事力への確実な(といっても計測不能かもしれないが)インパクトに加えて、禁輸措置はセルビアの最も過激なリーダーシップを和らげる効果があった。禁輸措置は少なくともボスニア・ヘルツェゴビナ、スロバキア、そしてクラジナにいるセルビアの武装集団に対するより露骨な戦闘・兵站面での支援を思いとどまらせたのであり、交渉に向かう態度を(それが武器禁輸の解除を狙ったものであったとしても)引き出すことになったのである。禁輸措置が長引きそうになると感じられたおかげで、ギリシャの悪行を幇助するセルビアの拡大に、まだ脆弱を抱えたままのマケドニアに対する侵攻を防ぐ効果があったことは間違いない。

あいにくだが、最も楽観的な計算によってもその結果は不都合なものであった。それでもこの禁輸措置は人命や血税を失うことなく、国連の高価で効果のない武力介入や、それ以上に高くつくNATOによるボスニア上空での航空警戒活動(眼下では大虐殺が続いていたにもかかわらず戦闘も爆撃もほとんど行わなかった重武装の戦闘爆撃機によるもの)よりも、はるかに多くのことを達成したのである。

この二つの(少なくとも部分的な)成功例をのぞけば、これまでの封鎖や貿易禁止の歴史のほとんどは完全な失敗だとして引用されている。ところがほとんどがそのような扱いを受けているのは、「すぐに結果が出ないものであれば価値はない」という想定が土台となっているからだ。そしてこのような封鎖や貿易禁止、もしくは進行の遅い累積的な形の戦闘を最大限活用するためには、計算された意図的な忍耐を尊重する、新しい(というか復活した)戦争の概念が必要になるだろう。これからもわかるように、ナポレオンやクラウゼヴィッツのように無意識に「テンポ」や「勢い」などを強調する考え方は、たとえ迅速に動く理由がないような状況でも強迫的ともいえる緊迫的な感覚を生み出すことになる。英陸軍元帥であったバーナード・ロー・モンゴメリー(Bernard Law Montgomery)は、他の人々が拙速な即興をして失敗した中で、単に徹底した準備を行って成功した、最初の、もしくは最後の将軍というわけではなかったのだ。

「強迫的ともいえる緊迫的な感覚」は、一九九一年の湾岸戦争の最初の週でも多く見ることができる。この時にイラク内の戦略目標に対して組織的な空爆が行われたのだが、これについて現場の多くの部隊の指揮官たちは明らかに我慢のできない様子で見守っていたのである。ニュースで流れてくる報道は彼らの戦略爆撃や、それがイラク軍をはじめとする戦術目標への破壊につながって素早く地上戦への道が広がるはずだという見方に対する、懐疑的な気持ちをさらに強めるものであった。

米軍の最高幹部たちは下から上がってくる圧力に抵抗している。しかもこの圧力にはいかなる客観的な緊急性がなく、むしろ直感的な感情や、さらには官僚的な欲望が反映されたものでしかなかった。そしてこの圧力を完全に抑えこむことはできなかった。地上部隊に対して航空支援を行うために戦略爆撃を実質的に止めるはるか前の戦争開始から三九日目の時点で、イラクの核・非核兵器に関する研究・開発・生産・そして貯蔵施設の組織的破壊に最適な航空機の多くは、四〇〇〇台にもおよぶ装甲車両の破壊任務にとりかかったのである。

航空作戦を戦略目標から戦術目標へと移してしまったことは、不満足な結果しか生み出さなかった。作戦後にも、多くの重要な核・生物・化学兵器関連の施設が破壊されないまま残ってしまったからだ。アメリカには戦闘機が豊富にあるにもかかわらず、精密誘導兵器で戦略目標を攻撃する兵器を完備していたのはたった二〇〇機以下であった。しかも結局この数は、三九日以内に指揮・統制、送電網、通信網、防空施設、そして石油精製・貯蔵施設、さらには航空基地や海軍基地、鉄道と車の陸橋、兵站集積所などを含む膨大な数のすべての目標を破壊するには、あまりにも少なすぎたのだ。

同じ「強迫的ともいえる緊迫的な感覚」は、たとえば戦争開始から四九日目ではなく、前述の三九日目の地上での攻勢開始の決定について、ある程度の役割を果たしたのである。すでに三九日目になると、イラク側の兵力は空爆作戦のおかげでほぼ壊滅状態にあり、とりわけ前線の部隊へのほとんどの兵站線が寸断されていたのだ。したがって地上での攻勢開始の決断は早まったわけだが、それでもアメリカと同盟国側の犠牲者の数は(そもそも全体的にも少なかったために)変わらなかったのだ。ところが空爆が一〇日間でも伸ばされていれば、戦略目標に対する出撃数は二〇〇〇回ほど増えたはずだ。戦略レベルの規模での精密誘導爆撃という新しい手法は、その全体的に進むスピードがあまりにも遅いが、累積的な結果においては効果が高いため、たしかにコストはかかるがアメリカ側の兵士の命という観点から考えれば非常に経済的である。ところがその潜在力を存分に発揮するための十分な時間は与えられなかったのだ。

地上戦での迅速な勝利は戦争後半に最も重要な役割を果たしたのだが、ここから判明したのは、ナポレオン時代の国民の意見について考え方が支配的な影響力を持っていたということだ。もちろん最後の地上戦は「掃討作戦」以上の役割は果たさなかったのだが、それでも全体的な世論に対するインパクトは空爆作戦よりもはるかに大きかったのである。なぜならそれが素早く実行されたと同時に、目に見える形で決定的なものであったからだ。
 
▼忍耐強いエアパワー

ボスニアにおけるアメリカの空爆使用の主張に対する批判の土台にあったのが、「すぐに結果が出るような作戦だけが価値を持つ」という暗黙の前提である。司令官たちは「領域爆撃に似たものは、どのようなものであれ一般市民の犠牲を多く出してしまう」という最初の声明の後、すべての攻撃目標は精密攻撃を効果的にするにはあまりにも特定しずらいものであったり、ボスニアの起伏のある地形の中に容易に偽装して隠すことのできるものであると論じている。彼らはあらゆる航空作戦を「素早く終わらせるべきもの」であったり「たった一度だけ行われるもの」という前提で論じていた。もちろんたった一度だけの精密誘導爆撃は簡単に失敗する。その瞬間に悪天候であったり、最後にいた場所から目標が動かされていたり、うまく偽装して隠されていたりするからだ。そして当然ながら、セルビア人民兵がサラエボを砲撃する際に活用した一二〇ミリ迫撃砲などは、すぐに移動したり隠したりすることが可能なのだ。さらに言えば、それよりもはるかに精緻な榴弾砲や野戦砲なども見つけにくい目標となりえるのである。

ところがこの議論は、一度だけの攻撃、もしくはあらゆる短期的な作戦と、何日も何週間も続けられる空爆作戦との間の違いを、完全にぼやけさせてしまうものだ。もし最初の空爆が分厚い雲のおかげで失敗してしまっても、次の出撃、もしくはその次の出撃は晴天にめぐまれるかもしれない。もし最初の空爆作戦で隠された榴弾砲を見つけることができなくとも、次の出撃では砲撃しているところを発見できるかもしれない。そして攻撃目標が民間人に近すぎるために最初の空爆が中止されたとしても、次の出撃では空爆できるかもしれないのだ。空爆作戦を素早く終わらせようとする原因は何なのだろうか?ボスニアでの戦闘は数年を経た今日までも相変わらず続いているが、その理由は軍の指導者たちが「数日間で戦いを止めることができる」とは考えなかったからだ。

もちろんもう一つのナポレオン式の戦争の考え方(「決定的な結果のみに価値がある」というもの)は、それ以上に重要である。米軍のトップが正しく指摘したように、空爆だけでは元ユーゴスラビアの戦争を終わらせることはできなかったし、ボスニアを敵から守ることもできなかったし、一般市民を強姦や殺人、もしくは強制退去などからも守ることはできなかったのである。ところが実際は、もしセルビア人民兵が国連の部隊に報復して撤退させたり、アメリカ主導の地上部隊の派遣が行われていれば、状況はさらにひどくなっていたはずである。

「国連の部隊が弱い民間人をしっかりと守ることができる」という怪しい想定や、「空爆は無駄だ」という思い込みがあれば、そこから出てくる結論は当然の結果となる。もちろん空爆だけで戦争を終えることはできないし、ボスニアを救うことができないというのは正しい。しかし空爆を継続させることができれば、とりわけ破壊的な戦い方である、都市部に対する大砲の使用は確実に阻止できたはずなのだ。そうなれば悲劇的な状況を改善できたかもしれないし、アメリカが状況を深刻に考えていることを周知させることもできたはずだ。もちろんこれは完全な解決策にはならなかったかもしれないが、それでも何もないよりははるかにましである。

▼犠牲者の出ない戦い

現在の軍備調達や戦術ドクトリンに関して、われわれは古代ローマ軍の実践からさらに学ぶことがある。たとえば攻撃的な行動をどこまで犠牲を出さないものにできるかを見るためには、ローマ軍の部隊の姿を思い浮かべるだけで十分であろう。大きな長方形の盾や頑丈な金属製の兜、大きな胸当て、肩当て、そしてすね当てなどは、あまりにも重かったために部隊の敏捷性を奪っていた。つまりローマ兵の身につけていた武具の防御力は非常に高かったのだが、撤退する敵を追撃することはほとんどできず、一時的な撤退に対しても追いつくことはできなかったほどだ。さらにいえば武具の重さを相殺するために、刺突用のけだけが支給されたのである。ローマ人は、敵の損害を最大化するよりも、味方の犠牲者を最小化することに明らかに努力を傾けていたのである。

現代では当時使われていた鉄や革よりもはるかにすぐれた原材料が手に入るが、不思議なことに高性能の防弾服の研究・開発には、現在までほとんど予算が振り分けられていないような状況だ。実際のところ今日入手可能なものとしては、民間が開発した警察をはじめとする国内治安維持組織向けのものしか存在しない。

現代においてローマ人の要塞と同じことを行うとすれば、それは現代の技術によって壁や要塞を建造することではなく、むしろローマ人がその前提として優先していたことを真似ることにある。これは兵器だけでなく、戦術面にも当てはまる。最も目立つのは、現在のコストパフォーマンスによる判断基準は、犠牲者を忌み嫌う時代の流れをまだ反映していないという点だ。予算全体の方向性を決定する際に、軍種ごと(陸・海・空)の枠組みの中ではまだコストや戦闘力の考慮が土台となっており、犠牲者の防止についてはそれと同等の考慮をされていないのである。ところが実際の軍事活動においては犠牲者を出すリスクというものが行動における決定的な要因となっている。もちろん軍種ごとによってはそのリスクが大幅に違っており、たとえばエアパワーによる攻撃の場合はそれが最小となり、陸軍や海兵隊の歩兵にとっては最大となるのだ。また、レーダーや赤外線などの探知から逃れることを狙って設計されたステルス航空機についての議論も興味深い。ステルス機というのは非常に高価格であると見られがちだが、その場合は暗黙のうちに同じような行動半径と積載量を持つ非ステルス機と比較されているものであり、しかもその場合に必要となる護衛戦闘機のパイロットが直面する高いリスクについては考慮されないことが多い。このような計算から欠けているのは、使用機会は限定されているがグローバルな行動範囲を持つ兵器である護衛なしのステルス爆撃機のような、「犠牲者の出ない手段」の獲得を尊重する対外政策である。犠牲者の回避は、現在の軍事計画においてはまだ高い優先順位を与えられていないのだ。


現在の状況から求められているのは、単なる戦争の新しいコンセプトだけではない。それは軍事計画に非英雄的な現実主義を取り入れた、軍事行動における過剰な小心さを克服するための新しいメンタリティなのだ。ナポレオン&クラウゼヴィッツ式のものから離れた新たな戦争の考え方には、忍耐力だけでなく控えめな要素も必要になる。そうなると、さらなる成果を求めれば兵士を危険にさらすことになり、かといって手を抜けば自尊心を傷つけてしまうような状況になるのだが、この結果としてわれわれには未解決な結果に甘んじる必要が出てくるのである。
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奥山真司のアメリカ通信LIVE


奥山真司のアメリカ通信LIVE
by masa_the_man | 2017-02-26 23:19 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から微妙に曇っておりまして、気温も低めでした。

さて、トランプ政権の国家安全保障アドバイザーに新しく就任したマクマスター中将の過去の寄稿論文がNYタイムズ紙にありましたので、その記事の要約を。

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「簡単な戦争」というラリった幻想(The Pipe Dream)

By H. R. マクマスター
JULY 20, 2013

小説家のソール・ベローは、「幻想への欲求が深い場合、素晴らしい知性が無知のためにつぎ込まれることもある」と記したことがある。

われわれはイラクとアフガニスタンの戦争から得た教訓を考える際に、このベローの言葉を肝に銘じておくべきであろう。なぜならこの教訓は、将来の軍事計画の際に極めて重要となってくるからだ。

われわれの持つ、過去の経験からの学びの成績は、惨憺たるものだ。この理由の一つは、われわれが歴史からの学びを、将来の戦争を簡単なものとして考えたり、過去のものとは根本的に違うものだという希望的観測の思考の結果として、単純に応用したり、それらを全部無視したりするからだ。

われわれは2001年9月11日のテロ攻撃以前にそのような考えにふけっており、多くの人々は「離れて安全な距離から敵のターゲットに対して精密攻撃を行える能力を持ったテクノロジー面で優位にある小規模の米軍の部隊は、短期的に勝利を得ることができる」という単なる思いつきを受け入れていたのだ。

新しいテクノロジーが戦争の新時代の幕開けとなったという信念に基づいたこのような国防理論は、その後にアフガニスタンとイラクでの戦争に応用された。そしてこのような考えは、その両戦争についての理解を曇らせることになり、本当に効果的な戦略の形成を遅らせることになってしまったのだ。

今日では予算の制約や、新たな紛争を回避したいという欲によって、「台頭するテクノロジー(もしくは地政学的シフト)が戦いの新たな時代を導き出した」という議論が復活している。そのような理論家の中には、われわれがアフガニスタンやイラクで直面している困難というのはかなりの例外であると論じる人もいるほどだ。

ところがこれらは例外ではない。新たな希望的観測に対する最高の予防策は、戦争についての古くから認められる三つの真実や、アフガニスタンやイラクでのわれわれの経験がその重要性をいかにそれを立証したのかを理解することにある。

第一の真実は「戦争は政治的である」というものだ。19世紀のプロイセンの戦争哲学者であるカール・フォン・クラウゼヴィッツは「戦争を何か自律したようなものとしてとらえてはならないのであり、それは常に政策のツールなのだ」と述べている。

アフガニスタンやイラクに至るまでの期間にアメリカでの国防についての考えは、その他のパワーを連携させて政治的な目標を達成・維持するための権力のツールの中の一つでしかないにもかかわらず、軍事作戦の成功そのものを目的としてとらえるようなアイディアによって突き動かされてきたのだ。

「軍事における革命」(RMA)として知られる理論の信奉者たちは、1991年の湾岸戦争におけるアメリカ主導の多国籍軍による一方的な勝利をあやまって解釈し、「軍事技術のさらなる進歩はいかなる敵に対しても圧倒的な状態を維持できるだろう」と予測したのだ。

彼らによれば、これによって潜在的な敵もアメリカの権益に挑戦してこようとは思わなくなるはずであった。

この理論は傲慢であった。ところがそれは容認された考えとなり、未熟な戦争計画が予期しない政治問題に直面したアフガニスタンやイラクの紛争において、われわれを苦しめることになったのだ。

アフガニスタンでは代理的な戦力がタリバン政府の打倒を助けてくれたが、そのような民兵やリーダーたちの多くは個人的な権益や政治課題を追求したおかげで「アフガニスタン」という国家の再建の努力を台無しにしてしまった。

2003年から2007年までのイラクにおける同盟国の戦略では、スンニ派のアラブ系やトルクメンをはじめとする少数派の民族の抱える政治面での不満に応えられなかった。この両戦争では、暴徒やテロ集団がこのような不満につけ込んで、新たな参加者を募ったり、住民の一部から支持を獲得している。

時間の経過とともに民族・部族・宗派ごとの分裂が強まることによって新たな暴力がはじまり、イラクとアフガニスタンの国家がそれぞれ弱まり、反乱側を強化し、住民の苦悩は激増している。

ここでの教訓は、戦争をその政治的な性質から分離するような概念、とりわけテクノロジーを通じて迅速かつ安価な勝利を約束するような概念については疑ってかかれ、というものだ。

第二の真実は、「戦争が人間的なものである」ということだ。人間はギリシャの歴史家ツキュディデスがおよそ2,500年前に指摘した根本的な動機に突き動かされて戦っているのであり、これは今日でも変わらない。

その動機とは、恐怖、名誉、利益である。

ところがその二つの戦争に至るまでの期間に、われわれの国防について考えでは戦争における人間的な面や政治的な面を軽視してきたのだ。

たしかにタリバンやサダム・フセインの体制は戦闘作戦によって崩壊さることができたが、アフガニスタンやイラクの近代史についての知識の欠如のおかげで、アメリカは初期に獲得した戦場での優位を継続的な安全につなげることができなかった。

時間の経過とともに米軍は、アフガニスタンやイラクの市民の間にある恐怖や利益、そして名誉についての感覚を理解することが、暴力のサイクルを断ち切り、過激主義者を孤立化させるためにコミュニティーを政治的に協調するよう促すことにつながると学んだのである。

市民の安全の確保に向けた努力のおかげで、2007年以降のイラクや、2010年以降のアフガニスタンでは、少数派民族の恐怖を和らげ、各集団の名誉を尊重し、彼らに「暴力ではなく政治を通じてそれぞれの権益を守ったり強化したりすることができる」と確信させたのである。

ここで得た苦い教訓は、防衛概念には戦争の人間的な面を構成する、社会、経済、そして歴史的な要因を考慮に入れなければならない、ということだ。

第三の真実は「戦争は不確実なものであり、その理由はまさにそれが政治的で人間的なものである」ということだ。

RMAの理論における支配的な前提とは、「情報が勝利の最大のカギを握る」というところにある。また、「ネットワーク中心の戦い」(NCW)や「迅速で決定的な作戦」(RDO)、「衝撃と畏怖」、そして「フルスペクトラム・ドミナンス」などが暗示しているのは、ほぼ完璧なインテリジェンスによって精密軍事作戦が可能となり、それが成功への近道である、ということだ。

ところがアフガニスタンやイラクでは、敵の順応やイニシアチブには対応できなかった。作戦開始当初は紛争によって順応してきた敵と対処するだけの数をもたなかった米軍は、安全を維持するのにも苦労していた。

ここでの教訓は、イラクとアフガニスタンの戦争は他の戦争と同じように「意志のぶつかり合い」であり、このダイナミックな動きによって将来の出来事の予測が不可能となった、ということだ。

幸運なことに、米軍はアフガニスタンとイラクで順応することができた。たとえば2005年のニネヴェ州では敵側が現地の宗派同士を争わせて内戦状態にしていた。

タル・アファルという町では、米軍の機甲連隊が最初に複雑な環境を理解しようとしており、同時に地元のイラクの治安部隊や包囲された住民たちと信頼構築に向けての働きかけを行った。特殊部隊とイラク兵とともに、わが軍の部隊は、敵と戦うだけでなく、住民の安全な環境の構築や、集団間の紛争解決を推進していた。

タル・アファルの市長であるナジム・アジド・アルジボウリが後に述べたように、「われわれの町はアブ・ムサブ・ザルカウィ掃討のための基地となっていたのであり、住民は恐怖から自宅に引きこもり、町中ではいつ殺されてもおかしくなかった」のである。

ところが米軍が来てからというもの、「テロリストという町に潜むがん細胞に対して正確な外科手術を行ったおかげで、町には不必要な被害は生じなかった」というのだ。

ここでわれわれが学んだのは、米軍は複雑で不確実な環境の中で、戦争の政治・人間的な面に対処しなければならない、ということだ。アフガニスタンやイラクのような戦争は、遠隔操作で戦えるようなものではないのだ。

予算面での制約やテクノロジーへの相変わらずの幻想によって、何人かの人間は「これまでのような戦争が終わりを告げた」と宣言している。

もちろん新たなテクノロジーというのは、軍事的な効果という面では極めて重要であるが、そのようなテクノロジーだけに頼ろうとする概念(精密攻撃や急襲やその他の敵のターゲティングへの手段)は、「軍事活動」と「戦時に目指している目標への進展」を混同させてしまうのだ。

われわれは、戦略と軍事能力を同等視してはならないのである。

戦争においてわれわれが目指すべき狙いの達成のためには、軍には味方になってくれる人々を安心させ、住民を守り、見つけにくい敵を見つけて倒すことまでが要求される。

将来の戦争では、当然ながら、現在のものとは異なる問題を浮き上がらせるだろうし、異なる条件を課してくるだろう。ところが戦争そのものは、古代から変わらない重要な真実を示し続けるはずだ。

国防費は削減の圧力下にあるが、明快な思考にカネはかからない。将来の戦争の問題を自分たちの望むような形で定義したり、それによって自分たちの抱いた幻想を元にした国防面の脆弱性をさらしてしまうようなことは、われわれがもっともやってはいけないことである。

===

戦争の現実は変わらないからそれを直視せよ、新しいテクノロジーの登場に騙されるな、ということですね。

何度もいいますが、これは戦略論の「保守派」の議論としては極めてスタンダードな意見です。

もちろんこの議論のベースにあるのは、「テクノロジーの進歩はすごいが、それでも戦争の本質(the nature of war)は変わらない。なぜなら人間の本性(the human nature)は変わらない」という認識です。

これを論証するのにあたって、このような「保守派」たちはクラウゼヴィッツやツキュディデスの議論を使うわけですが、それによって戦争の「易不易」の、いわば「不易」の部分を強調するわけです。

このマクマスターやマティスのような人々の考えの究極のものが、おそらく拙訳の『現代の戦略』におけるコリン・グレイのものでしょう。

グレイの場合は戦争や戦略の「易不易」の部分を説明するのに、クラウゼヴィッツの『戦争論』の中から「文法」(易)と「論理」(不易)という概念を引っ張ってくるわけですが、このような概念の使い方は、残念ながら日本の戦略に関する議論ではまったく取り上げられておりません。

こういう議論をみると、あらためてクラウゼヴィッツの考えというのは日本では「過去のもの」であったとしても、現実に戦争を行っている国々にとっては「活きた学問」として活用されていることがよくわかります。



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by masa_the_man | 2017-02-24 14:25 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部は朝から小雨で風が強く吹き付けております。

さて、トランプ政権に対して民主党系の大御所であるブレジンスキーが、NYタイムズ紙に「ドクトリンを出せ」という内容の論評を共同で出しましたのでその要約を。

===

なぜ世界はトランプ・ドクトリンが必要なのか
By ズビニエフ・ブレジンスキー&ポール・ワッサーマン

世界の秩序は混乱状態にある。世界はこのような同時に頻発する可能性の高い問題に対処できる国際秩序をもたないままに、その混乱に突入しつつあるのだ。

この問題をさらに複雑にしているのは、主要国のカオスが、さらに破滅的な結果につながる可能性があるという点だ。

これまでトランプ大統領はこのような世界情勢に対して、アメリカがいかに対処していくのかについて重要な発言を何も計画していない。その代わりに、彼の政権からは無責任かつ調整されないまま無知な声明が発表され、世界はそれを解釈するだけのような状態になっている

重要な位置を得ようとする人間であれば誰でも、自分がたまに発する単純かつ極端な言葉づかいを「国家政策にしようとしている」と思われるような事態はさけなければならないものだ。

ところが最近起こったアメリカの対モスクワ政策における失策は、政権発足からたった24日目のマイケル・フリン国家安全保障アドバイザーの辞職につながっていることからも明らかだ。

われわれは大統領選でトランプ氏を支持しなかったが、それでも彼はアメリカの大統領である。彼はわれわれの大統領なのであり、われわれは彼に成功してもらいたいのだ。

ところが現在の彼は世界にとって、そしてわれわれにとっても「成功してもらいたい人物」のようには見えない。脆弱な世界には、楽観主義や進歩を反映した明晰な考えやリーダーシップによって性格づけられた、「アメリカ」が必要なのだ

「アメリカを再び偉大に」や「アメリカ第一」というのは、車のバンパーに貼るステッカーの文言としては素晴らしいものだが、アメリカの対外政策はそのような選挙戦用のスローガンよりもはるかに重要なものであるべきだ。

したがって、われわれはトランプ大統領に対して、世界をより安定したものにする上でアメリカがリーダーシップをとるという決意を含む、自らのビジョンを、大胆に説明する声明を発表するようにアドバイスしたい

この声明は必ずしもアメリカの対外政策を詳細につめた青写真のようなものである必要はないのだが、それでも自分がアメリカが事態を注意深く見守っており、それに積極的に関与していると同時に歴史全体の流れを自覚していることを思い起こさせるようなものであることが求められる。

われわれが大統領から聞きたいのは、なぜアメリカが世界にとって重要であり、なぜ世界はアメリカを必要としているのか、ということだ。同時に大統領はこの機会に便乗して、アメリカ自身が世界からどのような貢献をしてもらいたいのかを表明することもできる。

われわれは大統領が毎日行っている細かい決定には賛成できなくとも、理想的な長期解決法としては、世界の三大軍事大国(米・中・露)が世界情勢の安定を保つために協力しあえるようなものしかないことを認めることが求められている

この問題の多くは、アメリカと中国がどこまで対話を成功させることができるかにかかっている。そうなると、米中間におけるより深刻な戦略面での理解への道が広がってくるのであり、これが実質的に三大軍事大国の間でのより長期的な相互理解につながる。

なぜならロシアは、自分たちが米中間の調整に入れてもらえなければ、自らの国益にとってリスクになることを気づくはずだからだ。

また、アメリカはロシアと中国が戦略的な同盟を結ぶ危険を常に自覚しておくべきだ。このような理由から、アメリカは中国を下位の立場にある者として扱って行動してはならない。中国とロシアを近づけてしまうだけだからだ。

より直近の懸念としては、北朝鮮が及ぼす問題があるのだが、これは北朝鮮の強力な隣国である中国や日本(そして潜在的にはロシア)との緊密な連携がさらに必要になるはずだ。よって、アメリカの単独の動きは、北朝鮮をポジティブな方向に動かす可能性が低いのである。

もしアメリカがロシアとの関係を改善するのであれば、互いに「法に規定されたコミットメント」が国際的な秩序にとって重要であることを再認識する必要がある。表面的に関係改善は、近隣の弱小国にたいする騙しや策略、もしくは暴力などを覆い隠すようなものであってはならないのだ。

ロシアとの関係改善を求めるトランプ大統領の方針は賢明であると言えるが、許容できる行動範囲を規定した枠組みが必要であり、残念ながら現時点でこのようなものは存在しない

ロシアは、ウクライナやウズベキスタンのような非ロシアの元ソ連邦諸国がその独立状態を確立しつつある状態に直面しており、同時に中国が経済的に中央アジアに浸透しつつあるために、その地域への影響力を落としている。

よって、この三大軍事大国にとっての利害関係というものは大きいのだが、同時にそこから受けられる潜在的な利益は大きく、この事実をこの三国は十分わかっている。

短期的にみれば、アメリカは日本や英国のような友好国たちと地域的な合意の形成を目指すべきであろう。このような国々との関係は、地域情勢を管理する点において必須のものだからだ。

ここから考えれば、トランプ政権が日本と韓国に対するアメリカの支持を再確認するような動きをしたことは期待のもてるものだ。ところがNATOの中心的存在であるアメリカは、西欧と中欧を守る備えもおこたってはいけない。

トランプ大統領は自らの経験を通して、ビジネスの力を知っている。アメリカはロシアに対して、紛争当初にウクライナ東部で見られたような「小規模な緑の制服の人々」を使った戦術を含む、欧州に対するいかなる軍事的急襲も、ロシアの西側に対する海洋のアクセス(ロシアの海上貿易の75%)への処罰的封鎖につながることを明確に伝えるべきだ。

戦略的な意思決定のためのリーダーシップの任命におけるトランプ政権のこれまでのハチャメチャな仕事ぶりを踏まえて考えると、大統領がリーダーシップのビジョンとコミットメントを表明することは、アメリカだけでなく世界にとっても決定的に重要となる。

つまり「トランプ・ドクトリン」とでも呼べるようなドクトリンが本当に必要なのだ。

===

これは共著なので、おそらく文そのものを書いたのはワッサーマンの方でしょう

それでもロシアに対する警戒感と、中国に対する融和的な態度、大国の戦略家にありがちな「上から目線」、そして大国による世界バランスの安定(この場合は米中露)を提唱しているところなどは、明らかにブレジンスキーの意見ですね。

たしかにドクトリンを表明することは重要でしょうが、報道で漏れてくるところを見ると、トランプ側としての正直な気持ちとしては「したくてもできない」ということでしょう。

これまでの前例を考えると、トランプ政権の混乱は少なくともあと一年以上は続くわけですから、このような提案もそれまでは虚しく響くだけ、ということになりそうです。


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(火口)


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by masa_the_man | 2017-02-23 11:33 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部は昨日に比べて随分と気温が下がりました。晴れておりましたが全体的にもやがかかっているような感じでした。

さて、連日お伝えしているバノンと拙訳「フォース・ターニング」についての話ですが、トランプ政権誕生の直後にバノンの映画の出演者であるカイザー教授による意見記事がタイム誌に掲載されておりましたので、あらためてその要約を。

===

トランプ、バノン、そして米国における危機の到来
by デイヴィッド・カイザー

1990年代にニール・ハウと故ウィリアム・ストラウスという2人の在野の歴史家が、米国史についての新しい理論を2冊の本の中で提唱した。

最初が1991年に出た『世代:米国の未来の歴史』(Generations: the History of America’s Future)であり、次が97年の『フォース・ターニング:米国の預言』(The Fourth Turning: An American Prophecy)である。

そして2人は米国史における80年のサイクルを指摘し、それが古い秩序を破壊して新しい秩序をつくる、大きな危機によって区切られていると主張したのだ。

彼らの理論は大学で広く教えられているわけではないし、メディアでも議論されているようなものではないのだが、それでもトランプ政権では大きな役割を果たす可能性が大きい

なぜならブレイトバートニュースというサイトの元代表でトランプ政権の首席戦略家に任命されたスティーブン・バノンは、ストラウスとハウの危機の理論について詳しく、しかもそれを使って特定の目標をどうやって達成しようかを長年に渡って考え続けてきた人物だからだ。

私がなぜこのようなことを知っているのかというと、バノンはドキュメンタリー映画を制作する際にニール・ハウとこの私に、当時進行していた金融危機に関して2009年にインタビューを行ったからだ。

この映画は「ジェネレーション・ゼロ」というタイトルで、その中でその「危機の理論」がかなり詳しく議論されている。

バノンはこの理論の最大のカギとなる、米国史は80年毎に「危機」、もしくは「第四の節目」(フォース・ターニング)を迎えており、これによって古い秩序が破壊されて新しい秩序が確立される、という考えに焦点を当てている。

ストラウスとハウによって指摘された大きな「危機」には、アメリカの独立戦争から憲法制定までの時代(1774-1794)、南北戦争とその後までの時代(1860-68)、そして世界恐慌から第二次世界大戦までの時代(1929-45)が含まれている。

このような経緯を踏まえて、彼らは21世紀の最初の15年に同じような大きな危機がくると予測している。

ストラウスとハウの主な予測はあきらかに実現している。たとえばアメリカが政治的な危機の状態を迎えてかなりの時が経過したことを否定する人はいないだろう。これは党派による分断状態や、深刻な不景気、海外での戦争、そしてとりわけ政治エスタブリッシュメントと国家との結びつきが崩壊していることなどだ。

私はプロの歴史家の中でも、ストラウスとハウの研究に興味を示した数少ない人間の一人であった。そして彼らの知見を、自分が書いたベトナム戦争の原因についての著作や、第2次世界大戦への参戦におけるフランクリン・ルーズベルトの役割についての本に応用している。

また、私は彼らの理論を自身のヨーロッパの歴史や現状についての分析にも応用している。

正直に言わなければならないが、私は市民連合という保守派団体のために働いていたバノンが私にインタビューを申し込んできた時に、それが何を意味しているのかはよくわからなかった。

それでもストラウスとハウのアイディアや、迫りつつあった「危機」について議論するチャンスはめったにないので、私はこのインタビューを歓迎したことを覚えている。

バノンは知的でカリスマ的な人物であり、私自身と同様に彼も明らかに私へのインタビューを楽しんでいたようだ。完成した映画を見たが、彼は私のインタビューを、自身の極右的な立場に有利になるようなバイアスがかった形ではなく、完全に公平な形で使ってくれた

ストラウスとハウの「危機の理論」の強みは、それが特定のイデオロギーに染まっていないという点にある。私の解釈によれば、それまでの政治・経済・社会の秩序の崩壊は、新たなビジョンを定着させるために、決定的なムーヴメントやリーダーを生み出すチャンスを創出する、ということになる。

最もわかりやすい極端な例を使えば、1933年当時のアメリカとドイツは、両国とも恐るべき経済・政治面での危機に直面していたが、アメリカはフランクリン・ルーズベルトとニューディール政策、ドイツはアドルフ・ヒトラーとナチスにそれぞれ活路を見出したということだ。

バノンと私が会った2009年の頃、私はオバマ大統領と民主党が多数派の連邦議会がリーマンショックによる経済危機を契機としてニューディール政策の価値を復活させるのではないかと期待していた。もちろんバノンは危機がどうなるのかについては私とは別の考え方をもっていたことは明らかだ。

結果的に、オバマ大統領は「新たなニューディール政策」を打ち出すことはできなかった。彼はわれわれのシステムが根本的に間違っているわけではなく、微調整によって修復できるものと考えていたようなのだ。

政権末期になってオバマ大統領はニューヨーカー誌のデイヴィッド・レムニックへのインタビューにおいて、大統領というものは米国社会を造る変えるようなことはできないし、わざわざ造り替える必要もなかったと述べている。

ここに、リンカーンやフランクリン・ルーズベルト、そして今日の共和党との決定的な違いがある。共和党は、私の意見では早ければ2000年の頃から、現在の危機において主導する立場を得て、それ維持している。その理由はまさに共和党こそが革命的な変化を起こすことを目指す党であり、民主党は実質的に「現状維持を目指す党」になっているからだ。

もちろん現在の共和党のスタンスというのは、ニュート・ギングリッジが政治活動を始めた1980年代に遡る(ちなみにギングリッジはジェネレーション・ゼロの中で長いインタビューを使われており、トランプ政権でも高い地位につくと見られている。国務省長官の候補者であったジョン・ボルトンも映画でインタビューされている)。

現在の下院議長であるポール・ライアンは、メディケアと米国年金制度を破棄しようと長年考えていた人物であり、それを実行するチャンスはいまや到来したと言える。

選挙戦を戦ったトランプやバノンたちは、すでに古い政治秩序を破壊することに成功している。

トランプはすでに伝統的な共和党候補者層を一掃し、得票数では負けたにもかかわらず大統領になっている。同時にあらゆる政治階層に対する共和党側からの絶え間ない政治攻勢は、トランプに共和党多数派の下院やわずかなリードにおける上院での多数派を与えている。

そして最高裁判事は、すぐに保守系によって多数派を占められるようになるはずだ。

彼らは何をしてくるのだろうか?彼らのレトリックや人格は、ストラウスとハウの危機の理論から見れば、共和党はそれまでの慣習というものにとらわれずに、現在の時代環境における彼らなりの英雄と悪者という見方を使って活動することが見込まれる。

ドキュメンタリー映画「ジェネレーション・ゼロ」は、リーマンショックによって起こった経済危機の話を巧妙に歪めて描いている。

たとえば映画の中でインタビューされた多くの識者が経済危機をもたらした原因として、人間の深い欲望や、あやしい金融取引などを挙げているが、最終的な非難の矛先はリベラル派や官僚、それにエスタブリッシュメントの政治家たちに向けられている

そして共和党の政治家やコメンテーターたちがまさに過去7年間にわたって行ってきたように、映画でインタビューされている識者たちの多くが(オバマ政権の初期に)オバマ大統領の暗い先行きを描き、経済破綻や社会主義の押し付けなどが起こるとしているのだ。

ところがこれは危機の時期に起こる恐ろしいことの一つにしかすぎないのであり、多くの人が実に様々なことを考えるものだ。

アメリカは8年前と比べて経済的にははるかに改善し、大規模な戦争にも巻き込まれていないにもかかわらず、現在でも恐ろしい危機に直面している。そして共和党とトランプ新大統領は、それらを自らの有利なものとして活用せんとするばかりの勢いだ。

私の個人的な意見では、トランプ、バノン、ギングリッジ、ライアンなどの人物は、これから2年ほどの間にこれまで民主党がつくりあげてきた遺産をすべて否定しようと動き出すだろう。しかもこの遺産には、オバマ政権のものだけでなく、フランクリン・ルーズベルトやリンドン・ジョンソンのものまでも含まれるのだ。

この映画の中には二つの危険な部分がある。第一は、私自身がバノンと最初に出会った時に鮮明になったものだ。

ストラウスとハウの著作をはじめて知った時、私は彼らの理論がアメリカ以外の国でも応用できるか考えはじめたのだが、映画のインタビューの時、私は1790年代のフランスや1917年以降のロシアが恐怖政治につながったことに触れ、バノンはこれを映画の中で採用している。

第二に、その理論は国際的な影響があるという点であり、これはかなり不吉な部分だ。ところが映画ではその部分がカットされていた。

バノンはストラウスとハウの理論が、国内の危機だけでなく国際的な危機の可能性を指摘していることについても長年考えてきたはずであり、これはむしろ明らかだ。当時のインタビューで、彼は以前の三回の危機において大規模な戦争が起こっており、しかもその規模が回を追うごとに規模を拡大させていることについて何度も指摘している。

彼は現在の「危機」において、新たな、しかもさらに大規模な戦争を予期しており、しかもそのような展望に怯えている様子はまったく見せていなかった

私はその点に関して彼と意見が違い、そのことを彼にも明言した。ところが国際紛争の歴史は私の専門であることを知っていたバノンは、何度も私に「短期から中期的には、少なくとも第二次世界大戦規模の紛争が起こると予見できる」と言わせようとしているが、私はそれを拒否した

終末的なレトリックや考えは危機の時期に拡大するものだが、トランプ政権における最大の危険はむしろここにあるのかもしれない。そして意識ある国民は、この部分を今後長い期間にわたって注視していく必要があるだろう。

===

ストラウスとハウの意見には同意するところが多いが、それよりもかなりダークなバノンの解釈には同意しない、ということですね。

私はこれに関してすでに日本の二つのメディアでインタビューを受けておりますが、たしかにバノンの独自解釈というのは後ろ暗い何かを感じますね。トランプ政権で力を持っているだけに不気味です。

余談なのですが、私はこのカイザー教授の書いた論文を翻訳して学会の専門誌に投稿したことがあります。視点がユニークで面白かった気が。



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(大島)



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by masa_the_man | 2017-02-18 23:28 | 日記 | Comments(2)
今日の横浜北部はまた快晴の真冬の寒さです。

さて、昨晩の放送でもとりあげた、トランプ政権の重鎮となりつつあるバノン氏が7年前につくったドキュメンタリー映画をとりあえずここでご紹介しておきます。

気になるその内容なのですが、すでに述べた通り、彼の世界観がいかんなく発揮されておりまして、その構成が拙訳の『4th ターニング』の概念に沿ったものです。

実際は映像と共和党系の識者たちのインタビューで構成された1時間半の映画なのですが、主に戦後のアメリカ史を振り返る内容でして、春である「覚醒」から夏である「高揚」を経て、秋である「分解」、そして2008年の金融危機から始まる冬の「危機」という流れを説明したものです。

本の内容と微妙に違うのは、バノン自身の「ウォール街敵視」の姿勢です。とりわけ中盤から後半にかけて、ウォール街が社会主義を採用しつつも、それ以外のアメリカ人を資本主義で切り捨ててきた、というメッセージが強烈に発せられております。

最後の締めはニュート・ギングリッジ元下院議長なのですが、彼も『4th ターニング』からそっくりそのまま出てきた「歴史は繰り返す」という印象的な言葉で終えております。

字幕はありませんが、英語がわかる方はぜひ。バノン自身の世界観を知る上で大変勉強になります。


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by masa_the_man | 2017-02-15 09:36 | 日記 | Comments(0)
今日の横浜北部はあいかわらず寒くてよく晴れております。

さて、以前ご紹介していただいた最近のドゥーギンの中国についての英文のコメントを要約しました。トランプ政権を受けての分析ですが、この独特の世界観が面白いですね

====

ドゥーギンの中国論
by アレクサンドル・ドゥーギン

トランプは「ランドパワーとシーパワーの対立」という古典地政学の基本から離れつつある

この基本は、19世紀に英露間で行われた「グレート・ゲーム」や、20世紀のほぼすべての地政学−−マッキンダーから冷戦、そして純粋た大西洋主義、そして最近までアメリカの政権が追究してきた一極によるグローバル化までの枠組みそのものであった。

これはつまり、中国が地政学的な現状を変えつつある、ということである。1980年代に始まった中国の「ペレストロイカ」は、ブレジンスキーやキッシンジャーを含む三極委員会の北京訪問がきっかけとなった。

彼らの狙いは中国をソ連から永遠に引き離し、グローバルな資本主義体制に引き込み、ユーラシアを包囲し、その沿岸部(リムランド)を閉じ込めてしまうことにあった。

外交評議会や世界政府のプロトタイプとなる三極委員会を形成したブレジンスキーやキッシンジャーのようなグローバリストたちの計画によれば、ソ連の崩壊は間もなく起こるはずであった。

実際のところ、三極委員会のロシア支部となるグビシアーニ教授の主導した「応用システム分析研究所」の狙いはソ連を内側から分裂させることであり、これは三極委員会の中国問題についての文書の中で指摘されている。

チュバイス、ガイダル、ベレゾフスキーなどはすべてこの研究所の出身であり、彼らはその目的の達成に貢献しているのだが、すべては中国から始まっているのだ。

なぜだろうか?その理由は、中国が世界政府の指導下にあるからだ。

天安門でデモ隊に発砲してからのアメリカの反応は厳しいものであったが、その後は何も実行されなかった。中国はグローバル化のシステムに組み込まれる予定だったのであり、これこそが最大の目標だったからだ。

これがキッシンジャーであれば、「個人的な話ではない、これは外交なのだ」と言うところであろう。このようなダブルスタンダードは長年続いており、むしろそれが強制的に従うべき規範になったとも言える。

したがって、中国の「奇跡」は二つのタイプの全体主義の組み合わせだ。政治におけるマルクス主義と、経済における自由主義である。民主化はゼロだが、資本主義は大歓迎ということだ。

中国はこのような有利な立場を活用して大発展した。ところがグローバリストたちは地政学の古典的な教科書に従って厳格に行動しているため、中国はいまだに沿岸部を占めている勢力にしかすぎない

彼らにとっての最大の敵、脅威、そして危険はロシアという「ユーラシアのハートランド」のままなのだ。このような流れがトランプ政権の誕生まで続いてきたのだ。

ところが選挙戦においてトランプは、地政学を実質的に放棄した。もしかすると彼はそもそも地政学を知らないのかもしれないし、知っていたとしてもそれを信じていないのかもしれない。ところが本当に重要なのは、彼がそれを拒否したという点だ。それに尽きる。率直にいえば、これが現在の状況なのだ。

グローバリストの世界政府によって人工的に支えられている中国を解体させるということは、トランプの反グローバリズムから見れば論理的な動きだ。

トランプは物事をシンプルに見ている。莫大な人口を抱える全体主義式の共産主義国が台湾の併合をちらつかせつつ太平洋において挑戦しつつあり、アメリカを安いガラクタにあふれさせ、目につけた高い技術はすぐに盗むのである。しかも彼らは、これを非常にうまく行っているのだ。

中国の挑戦というのは、アメリカにとっては莫大で圧倒的なものであり、その経済成長率はアメリカにつきつけられた大きな課題でもある。このような背景の中で、経済の弱いロシアはアメリカにとって二次的な問題に成り下がっている

もちろんこれは単純な「親ロシア政策」がトランプ政権に採用されるという意味ではない。トランプは愛国者でありリアリストであるため、ことは簡単に行かない。

それでもこれはトランプが中国に対してかなり真剣に対抗していくということを意味する。彼が大統領にある間は、中国問題だけで忙殺されることになるだろう。

われわれは明らかにこのような状況を有利に活用しなければならない。もちろんこれは中国との友好関係をあきらめるべきだということではないし、トランプに擦り寄るべきだという意味でもない。そもそもこのようなことは大国にふさわしい態度ではないからだ。

ところが米中間の紛争というのは、われわれの関するところではないのであり、もしワシントン政府が極東に集中するのであれば、われわれは中東において、そしてさらに重要なことに、ユーラシアの空間で、迅速に任務を終えるチャンスを得ることになるのだ。

もしトランプが地政学を無視するのであれば、このようなメカニズムにそれほど注意を払わないことになる。少なくとも私はこうなればいいと考えている。

何はともあれ、問題は中国だ。私は中国がイデオロギー面で万全だとは思えず、毛沢東がかなり昔に得た「天命」はあきらかに危機に直面していると考えている。見た目の「成功」の影で、中国社会は危機に向かっている

ただしこれも中国自身の問題であり、われわれの関知するところではないのだ。

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三極委員会をはじめとする世界政府が中国を指揮・指導しているという考え方は、日本でも陰謀論界隈ではかなり一般的な見方ですが、ドゥーギンがあらためてこういう風に見ていることを確認すると感慨深いものがあります。

トランプは反グローバリストなので中国を追い詰める、というのはかなり単純な分析ではありますが、それ以上にここでフォーカスされているのはロシア自身が感じている「恐怖」ですね。

「大国であるから・・・」と述べている箇所がありますが、大国であるがゆえに感じている恐怖というのは世界一位の広さの国土をもつロシアならでは悩みでしょう。
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by masa_the_man | 2017-02-12 12:20 | 日記 | Comments(0)