なぜ偽善者は嫌われるのか |
さて、昨晩触れて好評だった記事の要約です。ここでの知見はかなり応用の効くものですね。
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偽善の最大の問題点
By ジュリアン・ジョーダンほか
偽善の最大の問題点はどこにあるのか。
誰かが人の行動を咎めている時に、その人自身がそれと全く行動をとっていることがわかると、なぜわれわれは腹立たしく感じるのであろうか?
もちろんその答えは自明のことのように思える。自分の説くことを実践しなかったり、自分の理想とする行動を行うだけの意志の力が欠如すること、そして自らが悪いと明らかに知っている行動をあえて行うということは、明らかに道徳面での失敗だからだ。
ところがわれわれがある専門誌(Psychological Science)で発表した最新の研究によれば、それには別の理由があることがわかった。
われわれが主張したいのは、偽善が嫌われる理由は、歯に衣着せぬ形で道徳を説く人々が自らの善を不当に示していると見られるからだ。
これを言い換えれば、人間は意志の失敗や性格の弱さに反対するのではなく、誤った含意に対して反対するということだ。
たとえばあなたの会社の同僚に、環境保護活動家のような人物がいたとしよう。彼は誰かれ構わずに、オフィスを使っていない時には電気を消すように言って回ったり、リサイクルできるものは資源回収の箱に入れるように口うるさく言い回るような人物だ。文書を両面印刷ではなく、片面印刷にした場合にも抗議する。
もちろん彼の態度は高飛車ではあるが、それでもあなたは彼の提唱していることには同意せざるを得ないのだ。
ところがある日、あなたはこの人物が会社で言いまわっていることを自宅で何もできていなかったと知ってしまう。彼はまさに「偽善者」であろう。
そうなると、あなたの中で彼の尊敬すべき「活動」は、道徳的に無効なものとなる。実際のところ、彼の活動はその「偽善性」のおかげで、ポジティブなものというよりもネガティブなものとなってしまうのだ。
つまり「自分自身では何もやらないくせに、他人に向かってよく堂々と電気を消すように言えるな!」ということだ。
このような偽善に対する嫌悪感というのは、人間の感情的にきわめて自然に発生するものであるが、冷静に考えてみれば、そこには心理学的な謎があることに気づくだろう。
なぜなら、あなたが環境保護(この場合は省エネ)を重要であると考えているのであれば、同僚がその正しい価値観を推進しているのは(たとえ彼が省エネしていなくても)歓迎すべきはずだからだ。
論理的な面から言えば、ある行動を非難したり、それに取り組んだりすることは「不誠実」だとは言えない。ではなぜ自分が批判していることを自分がやってしまっている場合には、その受け取られるイメージが悪くなるのであろうか?
われわれの主張は、あなたの同僚に対する嫌悪感は完全に論理的なものであり、偽善者が行う最大の侮辱は、彼自身が自らの信条に反することを行っていること(例:ブーメラン)ではなく、むしろ彼の道徳的な宣言の使用が「私は道徳面での正しい行動をしている」という誤った信号を発している点にある。
これは道徳面からの非難というものを、他人を非難するためのツールではなく、「自らの評判を高めるためのもの」と捉えてみれば納得がいく。
ある一連の実験で、このような考え方を支持するような研究結果が出た。つまり人間は、誰かの規範的な宣言(たとえば「エネルギーの無駄遣いは道徳的に誤っている」など)を、それを発した人物も自ら行っているはずだと捉える傾向がある、ということだ。
その証拠に、われわれの研究結果によれば、ただ単に「私はエネルギーを無駄使いしていません」と発言する人よりも「エネルギーの無駄使いは道徳的に間違っている」と発言する人物のほうが、実際にエネルギーの無駄使いをしていないはずだ、と信じられる傾向があることがわかっている。
道徳的な非難というのは、とりわけ強力な「行動のシグナル」として働くのであり、その本人が直接的に述べた行動よりも強力なのだ。
このような道徳的批判の構造がわかると、人々がなぜ「偽善者に騙された」と感じるのかがわかる。われわれの今回の別の研究でも、人々は偽善者のことを不誠実であり、しかもこれは正面からウソを述べている人よりも不誠実であると感じることがわかっている。
とくに注目すべきなのは、偽善者というのは、オープンにウソをついている人物(たとえば「絶対にエネルギーを無駄使いしたことがない」と断言した人物など)よりも信頼性が低く、好感度が低く、道徳心のない人間であると評価されやすいという点だ。
われわれの理論をさらに検証すべく、われわれは被験者たちに「非発信偽善者」(non-signaling hypocrites)についてどのように感じるのかを聞いてみた。これは、外では道徳的な行為に取り組むよう提唱しながら、個人的な行為については道徳的な面を何も示唆しないというものだ。
たとえばこれは「私はエネルギーを無駄使いするのは道徳的に間違っていると考えますが、自分ではこれを守れないことがあるんですよね」と述べるようなものだ。
この実験の結果、われわれは人々がこのような「非発信偽善者」を、従来の偽善者よりもはるかにポジティブにとらえるということがわかった。
実際のところ、被験者たちはこの「非発信偽善者」を完全に大目に見ることにしており、同じ程度のエネルギーを浪費しつつも他人も責めない人、と同じくらいの評価をつけるのだ。
一見すると奇妙とも思えるこれらの実験結果、つまり「偽善者でありながら誤りを認めれば評判を上げる」というものであるが、これはわれわれの「偽善者が嫌われる最大の理由は、それが誤った信号を送っていることにもある」という理論を認証するものである。
これらを踏まえて、われわれの研究は、なぜその同僚の偽善が、たとえ人々にエネルギーの浪費を抑えるように進めるを抑えるものであり、環境的にはポジティブな影響を持つものであったとしてもイラつくものであるのかを明らかにしている。
これは単に、彼が自ら説くことを実践できていないということではないし、自分で間違ったことをしておきながら他人の同じ行動を批判するということでもない。
むしろこれは、彼の歯に衣着せぬ道徳論が、彼自身の「善行」をあやまって発信し、不適切な評判上の利益につながるからだ。そしてこれは、彼が公的な場で非難する個人たちの犠牲のもとに積み上げられるものだからだ。
結局のところ、われわれは単に「この理想を自分でも実現できいませんよ」と認めておけば、はるかにマシなのだ。
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このようなことはわれわれも感覚的にはわかっていたことですが、こうして実験で証明していくというのは学問の面白さでもあります。
ただしこの「偽善」に対する嫌悪感に関しては、普段の生活だけでなく、国内から国外まで、あらゆる「政治」には本当によく見られる現象ですよね。
この内容を一言でいえば、批判すると批判した人自身の行為がバレなければ評価は上がりますが、裏でやっていることがバレると「偽善者」としてダメージが大きくなる、ということです。
これは批判する人は相当の覚悟がなければ批判するのはリスクがある、ということになるわけですが、このようなメカニズムは、新約聖書のヨハネによる福音書にも出てくる「罪のないものだけ石を投げよ」というあのエピソードにもつながりますね。
逆にいえば、本当に批判されるべき部分がなければ堂々と批判し、批判する時は自分の非も認めながら批判すればいい、ということにもなりますな。
まあ墓穴を掘ることになるので、政治家はなかなかそう表明することができませんが。
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