軍事力の代替性:その5 |
しかしこの例から導き出される、第二の、そしてそれと同じくらい重要なポイントがある。アメリカの軍事力が乗組員の解放を確保できなかったのは事実だが、それにもかかわらず、その後アメリカが行った軍備増強には別の理由があったことだ。
事件が発生した当時のアメリカも韓国も、北がプエブロ号を拿捕した理由を知らなかった。そしてジョンソン大統領とその顧問たちは、プエブロ号事件は拿捕された八日後に始まったベトナムの「テト攻勢」に関連していると推測していた。彼らは、プエブロの拿捕は米国の注意をそらし、韓国を恐れさせるために意図的に行われたのだと考えたのである。
この推論に重みを加えているのは、プエブロ号事件が孤立した事件ではなかったという事実だ。その二日前、北朝鮮の特殊工作員三一人がソウルに潜入し、戦闘で敗北するまでに大統領官邸の一・五マイル以内まで近づいた。彼らの任務は朴大統領を殺害することだった。米国は、この二つの事件、そしておそらく今後起こるであろう別の事件を通じて「北朝鮮が米国の軍事アセットをベトナムから韓国に転換させ、韓国を十分に緊張させ、ベトナムで戦っていた二個師団を本国に帰還させようとしているのではないか?」と懸念したのだ。
プエブロ号の拿捕は、アメリカにとって三つの問題を提起した。①乗組員と船をいかに取り戻すか、②北のさらなる挑発行為をいかに抑止するか、そして③韓国を十分に安心させ、彼らの軍隊をいかに南ベトナムに駐留させるか、である。つまり最初の問題ではなく、次の二つの問題の方がその後の東アジアにおけるアメリカの軍備増強の主な目的であったという強い言い分が成り立つのだ。
結局のところアメリカは、北に軍事的圧力をかけて乗組員を解放させるためにわざわざ東アジアで軍備を増強する必要はなかった。東アジアにはすでに約一〇万のアメリカ軍がいた。しかし軍備増強はさらなる挑発を抑止し、同盟国を安心させるための有効なシグナルとなると思われたのだ。
もちろん北朝鮮の公文書館が公開されるまでは(あるいは公開されたとしても)、北がどのような追加計画を持っていたのかがわからないため、さらなる挑発の抑止が機能したかどうかは知る由もない。分かっているのは「軍備増強による安心供与が効いた」ということだけだ。韓国は数個師団を南ベトナムに駐留させ続けることができたからだ。このように、アメリカの軍備増強には三つの目的があった。そのうち一つは達成され、もう一つは達成されなかったのだ。
まとめると、プエブロ号事件のケースでは、たしかに軍事面でのポーズが乗組員の解放を得られなかったように見える。それでも「軍事力にはほとんど流動性がない」という結論を導き出すのは間違っているのだ。
ボールドウィンの最後の例も「軍事力にはほとんど代替性がない」と主張したいのであれば問題がある。たしかに、自国への攻撃を防ぐことは、遠い国での人心掌握とは異なる課題である。しかし、おそらくこの例で主張したいと思われるのは、後者の任務は前者とは異なるだけでなく、より困難であることだろう。他国の政府に行動を改めさせることは、自国を攻撃しようとしてくる政府を抑止することよりも本質的に困難だからだ。
国家間での強制は国家間の抑止力よりも難しいだけでなく、国内での強制は国家間の抑止よりも難しい。一九四〇年代の中国の内戦、一九六〇年代のベトナム内戦、一九九〇年代のボスニア内戦があまりにも悲惨な形で示しているように、内戦の敵対当事者に武器を捨てさせ、紛争終結のための交渉を行わせることは、外部の当事者にとっては非常に困難な任務となる。特にベトナムのような状況においては、外部勢力の内部の同盟者が、ナショナリズムの力を味方につけた敵対者と対峙することになるのだ(ホー・チ・ミンは二〇世紀最大のナショナリストであり、ベトナム国内でもそのように広く認識されていた)。
敵がナショナリズムの魅力を独占している場合、内戦で勝利するのは難しい。だがそれと同じくらい重要なのは、武力に頼らずに内戦に勝つことは難しいという点だ。アメリカは武力だけでもベトナムに勝てなかったわけだが、武力なしでは勝てるチャンスはそもそも全くなかったはずだ。
軍事力について思慮深い分析者であれば、この四つの例から導き出される次の命題に異論を唱える者はいないだろう。
(1)軍事力は征服よりも防衛に有効である。
(2) 軍事力だけでは、征服が行われた後の平定を保証することはできない。
(3) 民衆に政府の正統性を認めさせるには、軍事力だけでは不十分である。
(4) 強制(compellance)は抑止力(deterrence)よりも難しい。
これらは妥当な意見である。しかしこの例から導き出されるべき第五のものもある。それは、
(5)外部の勢力がナショナリズムの間違った側に立って内戦に参戦する場合、武力だけでは勝利に不十分であるばかりでなく、金、政治的手腕、プロパガンダなど、国政術のほぼすべての手段も不十分なものとなる。
このような場合、軍事力も他の手段と同じ不十分さに苦しむ。そのため、軍事力は代替性の度合いにおいては他の手段とそれほど変わらない。
ボールドウィンの四つの例はすべて、軍事力に関する重要な事実を示している。つまり「単独では多くのことを達成することはできない」ということだ。確かにこれは覚えておくべき重要な点ではあるが、それは軍事力だけに特有のものなのか、あるいは軍事力にはほとんど代替性がないことを証明するものなのだろうか?そうではないだろう。実際、外交政策上の重要な目的を達成するためには、単一の手段で事足りることはない。この事実を私は「タスク不足」と呼んでいる。その理由は二つある。
第一に、政治家は自分が影響を与えようとしている相手国家が行うであろう反作用を予測しなければならないからだ。国家は、彼の策略に対抗するため、自国の策略で対抗しようとするだろうし、彼が使っている策略を相殺するため、異なる種類の手段を使おうとする。そしてある分野の弱点を、別の分野の強さで補おうとするものだ。したがって、十分に準備された影響力の試みには、それに対する予想される対抗勢力に対処するための多方面からのアプローチが必要となる。
第二に、どのような重要な政策であっても、それ自体が多くの側面をもっているからだ。多面的な政策は、必然的にそれを実行するための多くの手段を必要とするものだ。
この二つの理由から、真に重要な事柄はすべて、すべてとは言わないまでも、政治家が自由に使えるいくつかの手段を駆使する必要がある。要するに国政術では、いかなる手段も単独では成り立たないのである。
軍事力についても、他の国政術の道具と同様に「代替しやすいこと」と「十分である」ことは同一視されるべきではなく、「不十分であること」と「代替しやすいこと」も同一視されるべきではない。ある手段は、国家をあるゴールまで運ぶことはできても、そのゴールまでの道のりの一部を運ぶことはできない。同時に、国政術のツールは多くの目標達成のために有益に貢献することができるが、それ一つだけではどの目標を達成するにも不十分である。
したがって、ボールドウィンの例を注意深く考察すれば、次のことがわかる。
(1) 定義された任務を達成するためには軍事力だけでは不十分であったこと、
(2) 他の伝統的な政策手段のいずれもが不十分であったこと
(3) 定義された任務またはそれと密接に関連する他の任務のいずれかに軍事力が一定の価値を有していたこと。
これらの例が示していないのは、国家が軍事力をある政策課題から別の政策課題に移すことができないということである。実際はそれとは逆に、軍事力はそれ自体ではどの任務を達成するにも十分ではないにせよ、さまざまな任務のために用いることが可能であることを示している。
「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
▼〜あなたは本物の「戦略思考」を持っているか〜
「奧山真司『一発逆転の非常識な成功法則〜クーデター入門に学ぶCD』」
▼〜あなたは本当の「国際政治の姿」を知らなかった〜
「奧山真司『THE REALISTS リアリスト入門』CD」
▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略がここにある〜