戦略研究の解説論文:その3 |
<平和と安全保障>
実際のところ、「戦略研究」は、ある種の「価値観」の前提に満ちている。戦略アナリストたちが、意識的にせよ無意識的にせよ、ある種の世界よりも別の世界の方が望ましいと仮定していることを少し考えれば、彼らの推論の背後に「価値」の選好が横たわっていることがわかるだろう。例えば、戦略家はほとんど例外なく「平和」と「安全」が望ましい目標であるという見解を共有しており、それを推進する方向に考えを集中させている。かくいう私も別のところで、現代の戦略ドクトリンの多くは、事実上「平和で安全な世界をどのように追求するのが最善かについての異なる理論にすぎない」という議論を展開したことがある30。
「抑止論」とは「潜在的な敵を容認できない報復被害で脅すことによって平和と安全を促進できる」という理論である。「軍縮」とは、人間が戦うための武器を削減または廃止することによって、平和と安全を達成できるという理論である。「軍備管理」とは、兵器の巧みな管理によって平和と安全がもたらされるという理論である。「限定戦争」とは、あらゆる紛争で使用される軍事力を管理し、その量を制限することによって、平和と安全を実現できるという理論である。「危機管理」とは、国際的な危機に対処する技術を開発することによって、平和と安全を促進できるという理論である。
もちろんここでは「平和」と「安全保障」という用語が何を意味するか、またその互換性や相対的な重要性についての問題については、議論の余地があるだろう。だがこれらの価値観が欧米の戦略思想を支えていることについては、おそらく議論の余地はないはずだ。
戦争が強力な変革の手段である国際社会では、平和を維持し、安全を促進しようとすることの全体的な効果は「現状維持」(status quo)にある。そのため、西洋の戦略思想は非常に保守的な色彩を帯びている。もちろんアナン卿の言葉を借りれば「西側の太った金持ちたち」には現状に満足する十分な理由がある。しかし、アフリカやアジアの何百万という恵まれない人々にとって、現状維持を支持することは「不公正なシステムを支えること」なのだ。貧困にあえぐ人々は当然、欧米諸国が平和にばかり気を配り、正義には何の関心も示さないことを非難する。彼らにとって「平和」と「安全保障」は間違いなく重要だが、それ以上に重要なのは「社会正義」であろう。それ以外の理由がないのであれば、西洋の戦略思想は世界の広い地域であまり重みを持ったものとはならないのかもしれない。
しかし規範的な研究が悪いわけではないことは強調しておくべきであろう。ある政治学者に言わせれば、「社会哲学者が、自分が何をしているのかを明言しさえすれば、自分が選んだいかなる価値も仮定してはならない論理的理由はない」からだ31。特に「価値観」は、それを持つ人の個人的な偏見や嗜好以上のものを反映しているのか、また、ある価値観を他の価値観よりも「優れている」と表現することがどのような意味において可能なのかを自問すべきである。
<冷戦>
政治的リアリズムが現代の戦略的思考の哲学的背景を形成しているのと同じように、冷戦期の国際政治パターンも、多くの戦略的思索に不可欠なモデルを提供している。抑止、軍備管理、限定戦争、柔軟反応、危機管理といった考え方は、すべてが学者や実務家たちによって練り上げられたものであり、その考えや思想は当時の知的風土によって決定的に影響を受けて形成されたものであった。
戦略的な考え方や政策は、基本的には二つの超大国の敵対関係に支配された二極的な世界に対処するために考案されたものだ。アメリカはソ連という唯一の敵国を認識し、戦略政策はほぼ全面的にソ連の脅威を封じ込めることに向けられていた。抑止論は、米ソ間の戦略的バランスに集中していた。当時の中心的な問題は「効果的な報復能力の獲得と維持、そして兵器技術の劇的な革新に直面しながらも安定した均衡を永続させる」という問題に関連していた。軍備管理の交渉は、主に抑止力を不安定化させることなく軍拡競争をコントロールすることを目的とした米ソ間の交渉であった。どのような成功が記録されたにせよ、それはワシントンとモスクワの意思決定者が合意できたことが主な理由であった。失敗があったとしても、それは超大国が合意できなかったからである。「限定戦争」のドクトリンは、米ソ衝突の可能性と、双方が自制を実践しなければ核兵器による人類の滅亡がほぼ確実であることを両立させるという問題と格闘した。「危機管理」の手法は、主にキューバ・ミサイル危機をモデルとした米ソ危機への対処のために開発された。「大量報復」、「ポーズ」、「トリップワイヤー」、「柔軟反応」といった戦略も同様であり、東西対立の要件を満たすために考案された。このように、ほとんどすべての西側の軍事思想の背後には、冷戦の前提、すなわちソ連の横暴と、指導者が唯一の重要な意思決定者である超大国らが率いる2つの武装陣営に永久に分割された二極世界があった。
少なくとも振り返ってみれば、冷戦は国際政治において極めて安定した時代であり、冷戦を国際情勢の恒久的な特徴と考えるようになった人々に同情するのは簡単である。しかし、国際政治において永遠に続くものなど何もなく、1960年代を通じて対立は「デタント」(緊張緩和)へと移行し、東西関係はよりソフトな風潮へと変化していった。冷戦の言葉や用語が歴史に残るにつれ、「平和共存」、「戦力削減」、「安全保障会議」が話題に上るようになった。シュルマン元帥の言葉を借りれば、米ソは今や「限定的な敵対関係」にある。両者は「不利なパートナーシップ」を享受し、もはや鉄のカーテンを隔てて対峙しているわけではない。さらに「ポリセントリズム」の力がNATOとワルシャワ条約機構の結束を弱め、他の新たな国家が大国、さらには超大国の地位にまで上り詰めるにつれて、戦略的意思決定の新しい強力な中心地が出現し、多くの伝統的な戦略文献が自信をもって想定してきた旧来の二極世界を破壊するかもしれない。
1950年代と1960年代の戦略思想が、1970年代後半から1980年代にかけてのまったく異なる世界情勢にどの程度通用するかは、まだ未知数である。だが基本的な知的装置は、時の試練に耐えている兆候がある。私たちはヘドリー・ブルの「民間戦略家たちが時に誤りを犯したとしても、彼らは私たちによく尽くしてくれたという結論から逃れることは難しい」という意見に同意するかもしれない32。しかし、根本的に異なる国際情勢や技術的状況の中で生まれたアイデアに修正が必要でなかったとしたら、それはむしろ驚くべきことであると言えよう。例えば、核保有国が多数存在する世界で抑止という考え方がどの程度通用するのか、また、相互の戦力削減や欧州の未解決の安全保障問題の解決に伴う新たな国際情勢に対応するためにNATOの戦略をどの程度修正しなければならないのか、などの問題は興味深いところだ。
だがここで考えられるのは、旧世代の戦略家たちが理論を修正したり書き換えたりすることはないだろうということだ。彼らは伝統的な思考パターンにとらわれすぎている。冷戦時代の思考に慣れきっているために、状況の変化に対応した新しい前提を身につけることができない者もいるかもしれない。彼らはかつてチャールズ・マニング教授が「動脈硬化」の代わりに「カテゴリーの硬化」と表現した、それよりもさらに深刻で蔓延している病気に悩まされているのだ。
<合理性>
その一方で戦略研究は「人間本性を悲観的にとらえており、人類の問題における理性の役割を減じている」と攻撃する人々がいる。後者のグループの批判は、戦略研究の文献を何気なく眺めただけで、多くの戦略に関する議論が「合理性」の前提に支えられていることを示唆しているように見えるという事実によってもなされる。ハーマン・カーン、トーマス・シェリング、グレン・スナイダー、アルバート・ウォールステッターなどの著作は、いずれも科学的で合理的な香りを漂わせており、「合理的な選択」、「合理的な相手」、「合理的な意思決定」、「合理的な行動」など、合理性の概念に絶えず明確に言及している。ヘドリー・ブルの言葉を借りれば、「軍事戦略に関する多くの議論は、一種の戦略家、つまり、よく知れば並外れた知的繊細さを持つ大学教授であることがわかる男が行う合理的な行動を仮定している」のである33。
合理性についての最も一般的な概念は、合理性とは「手段目標分析」のプロセスであるというものだ。つまり、人間は自分の行動が自分の望む目的をもたらすように計算されているときに合理的に行動していることになる。したがって、スナイダーによれば、「合理性とは、潜在的な利益と損失、敵の行動の確率を冷静に計算した上で、自分の価値位置を最大化することが最も期待できる行動を選択すること」と定義できる34。当然ながら、理論的に合理的な行動にはそれ以上のものが含まれてくる。それは代替可能な行動の中から、全知全能の客観的観察者の視点から見て追求すべき価値を促進する可能性が最も高い行動を選択することも含まれるからだ。厳密に言えば、合理性を主観的に評価することはできない。精神異常者であっても、自分の行動を「自分の利益を促進するために冷静に計算されている」という意味で「合理的だ」と思うかもしれない。だが彼は現実に対して歪んだイメージを持っており、控えめに言っても関連する事実をすべて把握できるわけがないため、彼のイメージに照らして考えられた行動は、現実世界とはほとんど関連性がなく、そのためにまったく予期せぬ結果を生むのである。
バランスの取れたまともな政治家が対処し、その行動が合理的に見える国際的な「危機」は、リアルな危機ではなく、単にその政治家の精神的な歪曲である可能性がある。そのため、客観的で全知全能の観察者から見れば、彼の行動はまったく不可解ではないにせよ、不適切で非合理的に見える可能性もある。しかし戦略分析の文脈で「合理的な行動」とは、行為者が自らの価値的立場を最大化しようとする行動と、自らの価値的立場を最大化する行動のことを指すのだ。
上記の定義から、合理的という用語は「目標」そのものというよりも、目標や価値を達成するプロセスに最も適切に応用されることがわかる。例えば人間の目標としての「自殺」や「生存」や「安全保障」には合理性がある、と論評することはできない。おそらく人間の特定の目標の合理性や非合理性について語ることができるのは、総合的な価値体系の文脈においてのみであろう。例えば、相容れない目標を同時に追求するという意味で内的に矛盾した価値観を持つことは決して珍しいことではないが、それでも「非合理的」なのだ。
第二次エチオピア戦争(1935-36年)の時に、チャーチルはイギリスの外交政策における以下のような矛盾を指摘している。当時のボールドウィン外相が「第一に、首相は制裁は戦争を意味すると宣言し、第二に戦争を起こさないよう決意したと語り、第三に制裁に踏み切った」とコメントしたのだ。チャーチルが指摘したのは、どんな代償を払っても平和を求める政策と集団安全保障政策は論理的にほぼ相容れないということであり、したがってこのような相容れない個人の価値観を取り入れた国家の価値観は、たとえそれが多くの人々に共有されるものであったとしても非合理的であるということであった。そして今日、国家安全保障の強化と減税を支持する有権者の中には、ケーキを食べながらケーキを食べようとすることに内在するジレンマに気づかない人も少なくないだろう。すべての人が、そしてすべての政治家がそうであるわけではないが、人間は自分の価値観の論理的な意味を考え抜き、矛盾をなくし、両立可能で階層的な順序で目標を並べることができるほど、明晰な頭脳の持ち主ではないのだ。
人間は優先順位をきちんと並べることができないだけでなく、スナイダーの定義に示唆されているような「合理的な選択」をすることもできない。結局のところ、人間は理性だけではなく情熱の生き物でもあるのだ。彼らは気まぐれであり、怒り、憤り、復讐、憐れみ、利他主義といった衝動を持っている。これらすべての感情は、実際は彼らの価値を最大化する政策を選択するための彼らの能力を損なう可能性もあるのだ。言い換えれば、戦略的意思決定者は誤りを犯しやすい人間であり、ストレスのある状況下や、もしくは平時であっても、合理的で価値を最大化するような行動をとれない可能性がある。ヘドリー・ブルのコメントによれば
平和と戦争に関する政府の決定には...必ずしも長期的な視野に立った慎重な検討や、事態の流れの把握が反映されているわけではない。政府は...手探りで、半盲で、つまずきながら、日々を生き抜くことに夢中で、その方向から舵を切ることはおろか、その方向を認識することさえできないようにも見える35。
戦略的人間が虚構であるならば、あらゆる状況において合理的な行動をとることを前提とする分析は、よくても間違いであり、最悪の場合には危険極まりないことになる。しかし、この結論は、戦略的政策立案と戦略的分析との間の重要な区別をごまかすことでしか得られない。戦略的な政策の立案者たちは、意思決定者が常に完全に合理的であるとは想定しておらず、ただ単に「常に完全に非合理的であるわけではない」というだけだ。戦略プランナーたちは、政治家が100%合理的であるという前提の上に成り立つものではない。例えばアメリカの抑止力によって脅かされる「確実な破壊」は、意図的に大規模なものとなっている。その目的は、その対象が小さな報復的損害の脅しによって抑止される可能性のあるまともで合理的な人間だけではなく、「大規模な脅しでなければ聞き入れない可能性のある半狂乱で非合理的な人間」をも抑止することにあるからだ。ハーマン・カーンに言わせれば、「抑止システムには、非合理的で無責任な人間にさえその非合理性の程度や、そこから警戒の必要性に気付けるような、余裕のある安全係数を求めるべきだ」ということになる36。
要するに「合理性」とは、以下の2つの常識的な命題に集約できるかもしれない。第一に「紛争に巻き込まれた政治家が自国の損害を最小化できそうな戦略的姿勢を好む」と仮定するのは賢明であるということだ。第二に「この好みを相手国も共有するはずだと信じることは賢明である」という点だ。「限定戦争」と「抑止」の戦略は、「コントロールされたエスカレーション」と「対兵力ターゲティング」のドクトリンと同様に、確かにそのような前提の上に成り立っている。
それでも戦略アナリストーー戦略的意思決定者とはまったく異なる活動をしているーーは、合理性を前提とすることがある。それは彼らが「意思決定者は常に合理的に行動する」と信じているからではなく、分析の目的上、それ以外の仮定をすることが非常に難しいからだ。つまり合理性の仮定の価値は、その予測力よりもむしろ説明力にある。合理性の仮定は、戦略的姿勢の論理性を示すものではあるが、政治家がその論理性を遵守することを保証するものではない。戦略分析における合理性という完全に賢明な仮定と、戦略的政策立案における合理性という極めて愚かな仮定を区別できなかったために、戦略を学ぼうとする学生や研究者たちの間では極めて多くの混乱が生じている。このことが意味するのは、戦略は2つのレベルで追求されるということだ。第一に、利害の冷徹な計算によって動機づけられた合理的で意識的で芸術的な行動に注目する純粋に合理的なレベルでの追求だ。第二は、紛争の参加者をその複雑さのすべてにおいて、つまり意識的行動と無意識的行動に関して、また論理的計算だけでなく、心理的動機についても検討するレベルでの追求である。
最初の種類の分析では、考えうるあらゆる行動を損益分析の観点から評価する「戦略的人間」(stategic man)を想定するのが便利な場合がある。つまり「もし私がこうすれば、彼はああするだろうし、もし彼がああすれば、私はこうしなければならない」というものだ。これは一種の戦略的推論の典型であり、合理性と、紛争当事者全員の価値体系に関する完全な知識の、両方を前提としている。このような戦略的推論は有用な思考実験となる。なぜなら複雑な世界を知的に扱いやすい大きさに縮小し、状況や政策の論理を浮き彫りにするからだ。ところがいざ政策を決めるとなると「戦略的人間」という知的制約は、より人間的な個人に道を譲ることを余儀なくされ、政策は彼の理不尽さを考慮に入れて設計されなければならなくなる。
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戦略の土台にはこのような仮定があるにもかかわらず、それが重要なテーマであるのは、ひとえに軍事力をうまく管理することが核時代において生き残るための必須条件だからにほかならない。もちろん、軍事力の行使を規制することに懐疑的な人々や、軍事力の廃止を望む人々もいる。「運と的確な判断力さえあれば軍事力を効果的に管理できる」と信じる人々と「持続的な努力によって組織的暴力の能力を廃絶できる」と信じる人々の、どちらのグループが楽観的なのかについては議論の余地はあるだろう。だが本章以降のページを読めば、本書の著者たちが前者のグループに属していることは明らかだ。彼らは「軍事力は国際システムの本質的な一部である」と信じつつも「現代の戦略家たちが生き残るための確実な公式を生み出した」とまでは考えていない。それでも彼らは「自分たちの考えは危険で不確実な世界に対処するのに役立つはずである」と信じているのだ。(了)
Notes
1. K. Booth, "Teaching Strategy: An Introductory Questionnaire', Survival, 1974, Mar/Apr., p. 79.
2. Von Clausewitz, On War I (trans. J.J. Graham, 1908), reprinted London: Routledge, 1966, p. 165.
3. Quoted in B.H. Liddel Hart, Strategy: The Indirect Approach, London: Faber, 1967, 6th Ed., p. 334.
4. Ibid., p. 335.
5. B.H. Liddel Hart, Deterrent or Defence, London: Stevens, 1960, p. 66.
6. R.E. Osgood, NATO: The Entangling Alliance, Chicago: University of Chicago Press, 1962, p. 5.
7. A. Beaufré, An Introduction to Strategy, London: Faber, 1965; Deterrence and Strategy, London: Faber, 1965; Strategy of Action, London: Faber, 1967.
8. M. Howard, 'The Classical Strategists', in Problems of Modern Strategy I, Adelphi Paper 54, 1969, Feb., pp. 31-32.
9. R. Aron, "The Evolution of Modern Strategic Thought', in Problems of Modern Strategy 1, Adelphi Paper 54, 1969, Feb., 1969, p. 7.
10. H.A. Kissinger, Nuclear Weapons and Foreign Policy, New York: Harper and Row, 1957, p. 422.
11. Ibid., p. 422.
12. H. Lasswell, 'The Garrison State Hypothesis Today', in S.P. Huntington, Ed., Changing Patterns of Military Politics, New York: Free Press, 1962, pp. 51-70.
13. A. Herzog, The War-Peace Establishment, New York and London: Harper and Row, 1963, p. 3.
14. M. Oakeshott, Rationalism in Politics, London: Methuen, 1962, p. 127.
15. 以下を参照のこと。R. Niebuhr, Moral Man and Immoral Society, New York and London: Charles Scribner's Sons, 1932.
16. Quoted in K.W. Thompson, Political Realism and the Crisis of World Politics, Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1960, p. 53.
17. G.F. Kennan, American Diplomacy: 1900-1950, Chicago: University of Chicago Press, 1951, p. 78.
18. T. Hobbes, Leviathan (Oakeshott Ed.), Oxford: Basil Blackwell, 1946, p. 64.
19. Gordon Harland, quoted in A, Herzog, op. cit., p. 88.
20. H.J. Morgenthau, Politics Among Nations, New York: Alfred A. Knopf, 1956, 2nd Ed., p. 4.
21. 例えば以下を参照のこと。P. Noel-Baker, The Arms Race, London: Stevens and Sons, 1958.
22. A. Herzog, op. cit., p. 94.
23. R. Strausz-Hupé, A Forward Strategy for America, New York: Harper and Low, 1961. R. Strausz-Hupé, W.R. Kinter, J.E. Dougherty and A.J. Cottrell, Protracted Conflict, New York: Harper & Row, 1959.
24. H. Bull, The Control of the Arms Race, London: Weidenfeld and Nicolson, 1961, p. 21.
25. P. Green, Deadly Logic, Ohio: Ohio State University Press, 1966, p. 250.
26. H. Bull, "Strategic Studies and Its Critics", World Politics XX(4), 1968, Jul, p. 597.
27. H. Kahn, On Thermonuclear War, Princeton, N.J.: Princeton University Press, 1960, p. v.
28. J.R. Newman, Review in Scientific American, CCIV, 3, 1961, Mar., p. 200.
29. P. Green, op. cit., ch. 6.
30. J.C. Garnett, Ed., "Introduction", Theories of Peace and Security, London: Macmillan, 1970.
31. G.H. Sabine, 'What is Political Theory?", Journal of Politics 1, 1939, p. 13.
32. H. Bull, op. cit., p. 605.
33. H. Bull, The Control of the Arms Race, London: Weidenfeld and Nicolson, 1961, p. 48.
34. G.H. Snyder, Deterrence and Defense, Princeton, N.J.; Princeton University Press, 1961, p. 25.
35. H. Bull, op. cit., p. 49.
36. H. Kahn, Thinking About the Unthinkable, New York: Horizon Press Inc,, 1962, pp. 111-112.「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
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