RMAと戦略の次元 |
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2022年 01月 20日
今日の渋谷駅周辺は快晴で実に寒いです。 かなり遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。去年はこちらをさぼっていたので、今年はなるべく多めに更新するつもりです。 さて、いきなりですが一昨年亡くなった先生の有名な論文の試訳です。講義で使うことの多い資料なので、あえて自分で訳してあらためて内容を確認してみたいと思った次第です。 ==== By コリン・グレイ 戦略や戦争はホリスティック(全体論的)な事業である。アメリカの戦略文化は、一度に一つのことだけに集中してそれが利点だと捉えることを好む。単色的な防衛パフォーマンスは、ほとんどの場合、より複雑な課題のうちの一つか二つの次元にのみ焦点を当てることになってしまう。戦略にはさまざまな次元があり、その一つひとつが歴史的な事例によってそれぞれ異なった重要性を持つ。そしてそれぞれが、戦略の遂行を台無しにする可能性を持っている。戦略の一般的な次元は偏在的で固定されているが、その詳細はしばしば変化する。戦略の「文法」は劇的に変化することもあり、「軍事における革命」(RMA)が起きたと主張できるほどにまでなることもある。 現在私は、戦略には一七の次元があると考えている。倫理、社会、地理、政治、人々、文化、理論、指揮(政治と軍事)、経済と兵站、組織(防衛政策と戦力計画を含む)、軍の準備(管理、研究開発、調達、採用、訓練、数と質量)、作戦、テクノロジー、情報とインテリジェンス、敵、摩擦、チャンスと不確実性、そして時間だ。 ある次元(技術や指揮など)は他のものよりも顕著に現れるが、どれも不可欠なものだ。戦略にこれほど多くの相互依存的な次元が存在するということは、一つの次元を改善することで得られる利点が極めて限定的であることを意味している。 ▼二つの学派 文化人類学者は、アメリカは圧倒的に単色的な文化、つまり課題を一度に一つずつ切り離して、実用的に検討する文化を持っていると指摘している[1]。その結果、アメリカの国家戦略はこの一事一価のアプローチを反映している。国防系の知識人は、ウォーターゲート事件の調査戦術である「カネの流れを追え」(follow the money)を検証する方法を使っている。すると研究費の痕跡は、ある「ビッグ・アイデア」から別の「ビッグ・アイデア」へと単色的に続いていくのだ。戦略的経験には実際的に「ポリクロニシティ」と呼べる本質的な統一性があるが、国防問題には急速な流行り廃りがある。たとえばデタント、核戦略、ICBM基地、SDIとさらなるSDI、そして競争戦略など、さまざまな論争があった。問題の潮流は、新しいアイデアや新しく聞こえるアイデアとして定期的にやってきてから無常にも去っていく。今日ではそれが「RMA」と「情報戦」である。このような問題の変動性を指摘することは、それを否定することではなく、歴史的な観点からしかその有用性を明らかにすることができないということを認めることなのだ[2]。 ハーマン・カーンは国防系の知識人であり、その最大の特徴は、モノクロの断片的な分析のために物事を分解するのではなく、物事をまとめあげることにあった[3]。もちろん彼の天才的な才能を見習うことはできないが、彼の方法論に従うことはできる。本稿は、それがいかに手ごわいものに見えようともその全体性に重点を置いて、戦略と戦争を全体論的に提示しようとするものだ。実際のところ、戦略的な現象というのは、調べれば調べるほど複雑に見えるものである。読者は、プロの歴史家たちが軍事的な経験を精査すればするほど多くのRMAが発見されることにお気づきであろう。それは、より強力な望遠鏡で宇宙を探査するのと同じだ。そこにさらに歴史家が議論に加わると、彼らの専門がどの時代であろうと、その世紀に一つ以上の RMA が存在したことは確かであると証言する傾向がある[4]。相互に関連するアイデアの中核には、以下のような議論の流れが形成されている。具体的に見てみると、 ■戦略や戦争には、多くの次元がある(一七が私の好みだが、もちろんそのリストに議論の余地はある)。 ■どの次元も重要であるが、それらの間の相互作用はケースバイケースである。 ■戦略のすべての次元は非常に重要だが、そのどれかで国家や同盟が著しく不利になると、全体として致命的な戦略的影響を与える可能性がある。 ■戦略や戦争の次元は、その詳細と同様に一般的に永遠かつ偏在的であり、その相互関係の詳細と同様に、ある文脈から別の文脈へと変化していく。戦略の性質と構造は実質的に不滅である[5]。 ■しかし戦争の性格と遂行(あるいはその「文法」について書いたクラウゼヴィッツの言葉を借りれば)、戦略の文法、すなわち戦略が戦術によっていかに達成されるかは[6]、政治、社会、経済、そしてテクノロジーの条件とともに(場合によっては根本的に)変化するものだ。 ■戦略と戦争の性質と構造は不変であるが、戦争の性格と遂行における変化は、間違いなく「軍事における革命」と言うことができる。しかし「革命」という言葉は、よりゆっくりと変化する変数を軽んじる危険性がある。 ■その結果、我々は戦略と戦争について非常に多くのことを知っており、また事実上、我々が理解していないこと、理解できないことについても非常に多くのことを知っていることになる。 この議論は極めて保守的であるが、変化の確実性を認めるものである。二〇世紀初頭、イギリスにおける技術面、ひいては戦術面での発展の急速なペースは、イギリス海軍において「唯物学派」と「歴史学派」の間で激しい論争を引き起こした[7]。前者の支持者は、大きな(それほど大きくなくても)技術的変化は、あらゆるレベルとあらゆる次元で、戦争というテーマ全体を実質的な変化、または「革命化」することを意味すると主張した。 それに対して「歴史学派」は、戦略と戦争は、技術と戦術が永久に流動的であるのと同様に、その本質においては不変であると論じたのだ。一九〇〇年代、ジャッキー・フィッシャー提督のような唯物論派とレジナルド・クスタンス提督のような歴史学派の間で交わされたこの議論は、細かさの度合いを進化させながら今日も続けられている。唯物論者にとって、世界は新しい技術が登場するたびに作り直されるのだ。 ▼すべてが重要 マイケル・ハワードは戦略の次元に関する考えに対して、兵站、作戦、社会的、テクノロジーの次元を明らかにすることによって、最も直接的な刺激を与えている[8]。SALT II や核戦略に関する活発な議論を背景に執筆したハワードは、アメリカが技術の次元だけに注力しすぎており、社会や作戦の次元を犠牲にしているように見えることを懸念していた。RMAと情報戦に関する戦略論を考える場合に、私は上述した一七個以上の次元を使いたいと考えている。これらの次元は、同時に相互に影響し合いながら作用するものだ。戦略には一つか二つの次元しかないと本気で主張する人々は、このようなアプローチに反対するだろう。 戦略の次元をあえて序列化するようなことは控えるべきであろう。よって上記で引用した順番はランダムなものである。たとえを使って論じてみると、自動車メーカーの車種は、エンジンの種類とサイズの大きさが各モデルの差別化を測る要素として強調されるのが一般的である。しかし自動車は、駆動系や(バッテリーを含む)電装システム、そしてタイヤがなければ動かない。さらに自動車の「次元」を向上させる上では、他の部分とのバランスを考えて改良しなければならないという制約がある。「ツイン・ターボ」はたしかにオプションとしては素晴らしい装置だが、ブレーキやタイヤ、そして(戦略の問題にも言えるが)優れた運転手がなくては意味がない。優れた軍隊は、たとえ政治的な指導に誤りがあったとしても、間違った戦争において勇敢に戦うことができるだろう。その逆に、悲惨な軍隊は、正しい戦争でろくな戦果を出せないかもしれない。ここで最も重要なのは「すべてが重要である」というばかばかしいほど明白なことである。その次に重要なのは、いわゆる「システム・オブ・システムズ」[9]によって増強されたアメリカ軍によってもたらされるかもしれない軍事効果の素晴らしい改善でさえ、政治面での指導力が低ければ失望する可能性が高いということだ。結局のところ、ドイツは二度の世界大戦において戦闘力では無敵だったが、戦争遂行能力では驚くほど無能だったのだ。 ▼地理を越えて この問いに正解はない。戦略にはいくつの次元があるのだろうか?次元の正確な数やラベルは問題ではなく、むしろ戦略で重要なものは、そのすべて次元のどこかに含まれているという点だ。ある国や同盟国たちが、戦略のすべての次元で傑出している必要はないし、優れている必要さえない。不健全な計画、覇気のない政治指導者、平凡な将軍、不運、不便な地理的条件にもかかわらず、戦争に勝つこと(十分な戦略的効果を生むこと)は可能なのだ。 ここで三つの点を確認しておく必要がある。第一に、各次元がプレイヤーである。それぞれの次元は、いかなる紛争でもどの時代においても国家戦略の一部であったのだ。第二に、戦略の諸次元間や諸次元内において、何らかの代替が可能であるという点だ[10]。たとえば国家同士が陸、海、空、宇宙(もしくはサイバー空間)で同等の能力を持つことは極めて稀である。またドイツ東方軍の場合、戦争中に一方の技術の質と量が低下しても、モチベーション(闘志、士気、イデオロギー)の分野で有用な補償が得られる可能性がある。あるいは敵の情報が不足していても、運、優れた兵站、優れた組織、高い士気などが組み合わされば、不測の事態を乗り切ることができるかもしれない。しかしそれぞれが直面する状況というのは同じものが一つとしてない。たとえば英仏軍は両大戦のいずれにおいても作戦情報が不十分であったために奇襲を受けており、一九一四年にはその無知から回復したが、一九四〇年には回復できなかった。 第三に、各次元において一定のレベルの競争力が存在する、もしくはそれを存在させるべきであるという点だ。もしそのレベルを下回ると、敵が主導権を握るという取り返しのつかない結果が待っている。そして敗北は必至だ。ここで主張されている議論は、戦略の次元の全範囲が(好みや狙いに関係なく)紛争に影響を与えるということである。その中で、重要でないものはあるのだろうか?たとえば「サイバー空間の時代には、地理があまり重要でない」という議論がある。だがサイバー空間が支配的となり、サイバーパワーが偏在すると同時にどこにもない(場所的に「地理を超えた」)ものであるとすれば、われわれはおそらくこれまでの戦略的経験からの根本的な決別を目撃しているのかもしれない[11]。しかしこれには疑うべきだけの根拠がいくつか存在する。 「戦略と戦争の全体的な性質を無視することは危険でしかない」という主張は、あるアナリストによっても考慮されている。彼は「人間の限界、情報の不確実性、そして非線型性は、優れたテクノロジーと工学が排除できる厄介な困難ではなく、我々が戦争と呼ぶ対立集団間の激しい相互関係に内在している、または構造的な特徴である」と助言している[12]。たとえばこれらの特徴のうちの一つが戦略の人間的側面(およびコマンド)の限界であるが、これは技術的な優位から得られるものを簡単に制限したり、相殺することができる(そして人間という次元は、戦術から国家運営に至るまで、紛争のあらゆるレベルで作用している)。 もし、テクノロジーに恵まれた情報主導の戦士による完璧なパフォーマンスが約束されているとすれば、戦略の他の次元におけるアメリカの競争力について何を想定できるだろうか? 政治的リーダーシップの卓越性、国民の熱意、そして戦略的パフォーマンスの手段の策定、実行、監視における優位性を期待するのは妥当であろうか[13]? ▼料理本戦略 RMAにどれほど適切に考えるか、もしくは必要なすべての次元(技術、武装化、ドクトリン、訓練、組織、一定数の獲得)をうまく実行できるかどうかは、将来のアメリカの実際の戦略的パフォーマンスとはほとんど関係がない可能性がある。なぜなら国家パフォーマンスを最も激しく低下させる「摩擦」は、政府と軍隊の間、あるいは政府と社会の間にある可能性が高いからだ。これは軍の近代化を非難するものでも、RMAの概念を敵視するものでもなく、またいくつかの面から情報戦を批判しようとするものでもない。むしろこれは、国家が総体として紛争に対処し、戦争を遂行し、戦略を立てて実行するものであるということだ。クラウゼヴィッツはこの点について、情熱(国民)、不確実性(軍隊とその指揮官)、そして理性(政府)で構成される「三位一体」に言及しつつ明確にしている[14]。残念ながら『戦争論』には、政策と軍事手段がともに優れておらず調和していない場合に生じる「困難」という重要な課題についての分析はほとんどない。 戦略の諸次元が相互に依存し合っていることは明白であり、それをくどくどと説明する必要はないだろう。しかし堅牢に見えるあらゆる理論には奇妙な例外が存在しがちであることも忘れてはならない。クラウゼヴィッツがジョミニと異なり、戦略に関するルールを記した料理本を提供するのを拒否したことは覚えておくべきだ[15]。したがって本稿の議論は、ジョミニ的というよりむしろクラウゼヴィッツ的なメッセージに沿ったものだ。一般的な戦略理論や、理解のためのアーキテクチャは、英雄的規模の愚行や不運などを実際に防いでくれるわけではない。戦略の各次元が重要であり、そのどこかの次元でまずいパフォーマンスをすれば紛争の最終的な結果を決定しかねないこと、また一つか二つの次元においていくら優れていても勝利をもたらすことはできないのは事実である。それでも実際には常に例外が起こりうる。軍事的天才(または愚か者)は、英雄的な規模で戦略の原則を書き換えるのだ。 繰り返しになるが、戦略の本質、目的、構造は永遠であり、普遍的なものである。あらゆる戦争、あらゆる時代、そしてあらゆる敵対者(同種または異種)同士の間でも、これらの特定の次元を参照して理解することができるのだ。しかしこれらの次元の間の、あるいはその内部での、複雑な相互作用の詳細は、時には極めて根本的に異なるものだ。だが歴史学派の提唱者が、時代、場所、敵対者、そして技術という要素に関係なく「戦略は戦略」であり「戦争は戦争」であると主張するのは、まさにこのような理由からだ。クラウゼヴィッツ、ジョミニ、マハン、リデルハートは、戦略と戦争の本質が変わることはなく、むしろ変わることができないと述べたのは正しかった。戦略の構成要素と構造は不変であり、細部が変化するだけである。上に述べた戦略の各次元は、ペロポネソス戦争、ポエニ戦争、そして十字軍においてもそれぞれの役割を果たしていたのである。 戦争の複雑さと、それを遂行するための戦略的なツールの多様性は、これまでの百年間にわたって増大してきた。技術、戦術、ドクトリン、そして組織は、経験に応じて、また得られる利点や回避すべき欠点を見越して調整されてきた。しかし陸上や海上だけでなく、新たな領域、つまり空中戦、宇宙やサイバー空間などでの戦いを考慮すると、どこでも同じ法則が戦略的パフォーマンスを支配していることに気づく。さまざまな地理(あるいはサイバー空間における反地理)での戦闘に特化した軍種が単独で戦争に勝てるかどうかは別として、それらが古典的戦略の指導的なルールに従わなければならないことには変わりがない。このルールは、戦略的活用の前提条件として、各地域における軍事的支配力の確保を義務付けている。陸、海、空、宇宙、そしてサイバース空間でも、それと同じ論理が当てはまる。海軍、空軍、そしてサイバー軍がチームプレーヤーとしての役割を発揮するためには、まずはそれぞれの特殊な環境の中で成功しなければならない。海上での戦闘に備えなければならない理由は、空や宇宙、そしてサイバー空間での戦いに備えなければならないかを考えればわかる。戦略と戦争の論理は同じである[16]。ある環境が軍事的に重要であれば、それを使用する権利のために戦う用意がなければならない。 全体的に言えば、われわれは戦略と戦争の未来について知るべきことをほとんどすべて知っており、これから知ることができることもおそらくすべて知っていると言える。実際のところ還元主義を厭わなければ、トゥキディデスは戦争の原因と戦略の政治的必要性について、恐怖、名誉、利害というたった三つの人間の動機を強調することによって考慮すべきほとんどすべてを記録したと主張もできる[17]。帝国の動機、または戦争の原因に関する現代の研究が、この三位一体の仮説よりも優れた結論を生み出せているかどうかは怪しい[18]。 戦略と戦争の将来について知られていないことは、重要なものも重要でないものも含めて、実に詳細な部分にある。多くの識者は「予見可能な未来」というフレーズを口にするという欠点を抱えている。なぜなら未来はまだ起きておらず、詳細に予見することはできないからだ。不満足であることは確実であり、しかも矛盾を含んでいる可能性が高く、さらにはほぼ不完全な思い込みのある政治指導のもとで、防衛計画者は戦争がどのように行われ、しかもいつどこで何のために行われるか正確に分からない状況の下で「十分な防衛体制」を決定せざるを得ないのである。しかしいくらか慰めになるとすれば、少なくとも彼らは戦略と戦争が何からできているのか(一七の次元)を知っており、経験による教訓を含めた「教育」によって、「戦略上の病に対する奇跡の治療法」という不健全な理論による説得などから免れることができるはずだ。 注 1.Edward T. Hall, Beyond Culture (Garden City, N.Y.: Doubleday, 1976). 2.以下の中の議論を参照のこと。Colin S. Gray, The American Revolution in Military Affairs: An Interim Assessment, Occasional Paper 28 (Camberley: Strategic and Combat Studies Institute, Joint Services Command and Staff College, 1997). 3.カーンの統合への直感は以下に示されている。On Escalation: Metaphors and Scenarios (New York: Praeger, 1965). 4.たとえば以下を参照のこと。Clifford J. Rogers, ed., The Military Revolution Debate: Readings on the Military Transformation of Early Modern Europe (Boulder, Colo.: Westview, 1995). 5.この議論は以下の本の中心的なテーマである。Colin S. Gray, Modern Strategy (Oxford: Oxford University Press, 1999)[コリン・グレイ著『現代の戦略』中央公論新社、二〇一五年] 6.Carl von Clausewitz, On War, edited and translated by Michael Howard and Peter Paret (Princeton: Princeton University Press, 1976), p. 605. [カール・フォン・クラウゼヴィッツ著『縮尺版:戦争論』日本経済新聞社、二〇二〇年、三六六頁] 7.論点については以下が最も明晰に示されている。Reginald Custance, “Introduction” to “Barfleur,” Naval Policy: A Plea for the Study of War (Edinburgh: William Blackwood and Sons, 1907), pp. vii–ix. 8.Michael Howard, “The Forgotten Dimensions of Strategy,” Foreign Affairs, vol. 57, no. 5 (Summer 1979), pp. 975–86. 9.James R. Blaker, Understanding the Revolution in Military Affairs: A Guide to America’s 21st Century Defense, Defense Working Paper 3 (Washington: Progressive Policy Institute, January 1997). 10.以下を参照のこと。Andrew G.B. Vallance, The Air Weapon: Doctrines of Air Power Strategy and Operational Art (London: Macmillan, 1996), chapter 2. 11.以下の二つの文献を参照のこと。Colin S. Gray, “The Continued Primacy of Geography” (and “A Rejoinder”), and Martin Libicki, “The Emerging Primacy of Information,” Orbis, vol. 40, no. 2 (Spring 1996), pp. 247–59, 261–76. 12.Barry D. Watts, Clausewitzian Friction and Future War, McNair Paper 52 (Washington: National Defense University Press, October 1996), p. 122. 13.戦略を「プロセス」と見るものについては以下を参照のこと。Williamson Murray and Mark Grimsley, “Introduction: On Strategy,” in Williamson Murray, Macgregor Knox, and Alvin Bernstein, eds., The Making of Strategy: Rulers, States, and War (Cambridge: Cambridge University Press, 1994), chapter 1. [ウィリアムソン・マーレー他編著『戦略の形成』上下巻、ちくま学芸文庫、二〇一九年、第一章] 14.Clausewitz, On War, p. 89. [クラウゼヴィッツ著『戦争論』六三頁] 15.Contrast Clausewitz, On War, p. 141[クラウゼヴィッツ著『戦争論』頁], with Antoine Henri de Jomini, The Art of War (Novato, Calif.: Presidio, 1992), pp. 16–17, 70, 114. 両者の比較は以下で見ることができる。Michael I. Handel, Masters of War: Classical Strategic Thought, 2d ed. (London: Frank Cass, 1996). 16.このような考え方は以下の本の全般に染み渡っている。Edward N. Luttwak, Strategy: The Logic of War and Peace (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1987). [エドワード・ルトワック著『エドワード・ルトワックの戦略論』毎日新聞出版、二〇一四年] 17.Robert B. Strassler, ed., The Landmark Thucydides: A Comprehensive Guide to the Peloponnesian War (New York: Free Press, 1996), p. 43. 18.以下を参照のこと。Donald Kagan, On the Origins of War and the Preservation of Peace (New York: Doubleday, 1995). これはツキュディデスに影響を受けたものだ。他にも以下を参照。 Hidemi Suganami, On the Causes of War (Oxford: Clarendon Press, 1996). === この論文の基本的な議論は、私が6年ほど前に訳出した『現代の戦略』でも展開されているものですが、先ほどアマゾンで見たら新品の値段が高騰しておりました。 いまから20年以上も前の議論なのですが、戦略の複雑性を理解した上でわれわれはなんとかやるしかない、という希望と絶望にあふれた実に現実的な戦略論を展開しているように思えます。クラウゼヴィッツとそれに影響を受けたマイケル・ハワードの議論を発展させた、実に「保守的」といえる新クラウゼヴィッツ主義者の典型的な議論だと思います。 「戦略は普遍的」という議論を軸にすることで、シーパワーやランドパワーだけでなく、スペースパワーや特殊部隊、さらには沿岸警備隊の理論まで戦略論を展開できますし、当時の最新の議論であった「軍事における革命」(Revolutions in Military Affairs)にもまどわされずに議論できる、というやりかたですね。 この論文の冒頭でもありますが、アメリカで大流行しては見向きもされなくなるという「戦略のアイディア」のサイクルの速さというものを外国(イギリス)出身の冷めた目で見ているような感覚が感じられて興味深いですね。 (現代の戦略) ==== ▼最新作 〜あなたは米中戦争の時代をどう生き残るのか?〜 ▼〜奴隷人生からの脱却のために〜 「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから! ▼〜あなたは本当の北京の工作の手口を知らなかった〜 ▼〜あなたは本当の「孫子」を知らなかった〜 ▼〜あなたは本物の「戦略思考」を持っているか〜 「奧山真司『一発逆転の非常識な成功法則〜クーデター入門に学ぶCD』」 ▼〜あなたは本当の「国際政治の姿」を知らなかった〜 「奧山真司『THE REALISTS リアリスト入門』CD」 ▼〜"危機の時代"を生き抜く戦略がここにある〜
by masa_the_man
| 2022-01-20 10:44
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