今日の横浜北部は朝からスッキリ晴れております。こういうのは久しぶり。
さて、米中の対立状態の脇で豪中の政治的な対立が激化しているのはみなさんもご存知だとは思います。
ただしこのような対立というのも、日本にいるとニュースで「牛肉、大麦、ワインの輸入が制限された」という話を聞くだけで、どうも身近に感じにくいもの。
今回はそのような非現実的なわれわれの感覚を変えてしまうような、オーストラリアの「最後の中国特派員」の一人による生々しい実体験を綴った記事を試訳してみました。
彼の緊張感のある証言を、ぜひお楽しみください。
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「消されるのを恐れた」中国からの脱出の内幕
AFR シドニー発 2020-9/8
by マイケル・スミス
真夜中を過ぎた頃、中国の諜報機関、保安、秘密警察の職員が、私の家のドアをノックしてきた。 きついノックの音で深い眠りから覚めた私は、友人か近所の人に何かあって困っているに違いないと思い、急いで階下に降りた。
ところが玄関先にいたのは、国家安全部の制服を着た6人と、通訳1人であった。 先頭にいた男は、私にバッジを見せ、私の名前を尋ね、この7人を家の中に入れるように要求してきたた。 ラウンジルームに案内すると、私はボクサーパンツ姿でソファに座り、歓迎されない訪問者たちに囲まれることになった。
その中の一人の職員が、テレビのスタジオにありそうな大型カメラで私を撮影した。スポットライトが私の目を照らした。
私はこの時に、中国語で読み上げられ、通訳によってロボットのように英語に翻訳された3ページの声明文について、一字一句聞き取ることはできなかったが、その大まかな内容はわかった。
それは、私がある事件の関係者であり、捜査に関わる質問に答えるまでは中国からの出国を禁ずる、というものだった。
彼らの真夜中の訪問の後に、ジェットコースターのような4日間が続いた。オーストラリア国籍の中国系ジャーナリストのチェン・レイ(程磊)が北京で拘束されたことをきっかけに、豪外務省(外交通商)省からの助言を受けた私は、中国からの突然の出国を決意しなければならなくなった。私は荷物をまとめ、その翌日の夕方にはシドニー行きの飛行機に乗ることになった。
結果的に、オーストラリア政府の勧告は正しかったことが判明した。 職員が中国の国家安全法の概要を説明する文書を読み上げている最中に、私もチェン氏と同じように、中国の悪名高い暗黒の刑務所の一つに「失踪」させられるのではないかと思った。
この10分間のパフォーマンスが終わると、職員は私の電話番号を尋ねてきて、今読み上げた声明に署名するように言われた。私は親指の捺印で署名しなければならなかった。
すると彼らは突然、踵を返して部屋を出て行ってしまった。留置所に連れて行かれることはないだろうと安心した私は、彼らの後を追って外に出て、説明を求めた。一体何が起こっているのか?彼らは何を望んでいるのか?書類のコピーをもらえないか?
私の要求はあっさりと拒否され、彼らは夜の闇の中へと歩き去っていった。
年配の隣人が外に出て一部始終を見ていたが、彼らは怯えているように見えた。
▼まるでスパイ映画のワンシーンのように
習近平の中国へようこそ。この国では、当局は真夜中に人の家に入ってきて、犯罪の疑いもないのに脅迫や嫌がらせをできる。そしてテレビで強制的に自白させられ、弁護士を雇うまでに6ヶ月以上も留置場に拘束されてしまうのだ。
今回の事件には注目すべき特徴が2つあった。第一に、外国人ジャーナリストが中国から追放されることはよくあるが、出国禁止になったのは初めてであるという点だ。
第二は、これがABCの中国特派員であるビル・バートルズ氏の北京のアパートに対しても、同じようなことが行われたという点だ。彼の家の玄関にも7人の係官たちがやってきている。
この当時、中国でオーストラリアの報道機関で働いていたジャーナリストは私たち2人だけだった。この動きは明らかに政治的なものだった。
私たち二人は、さっそく今回の件について北京のオーストラリア大使館に連絡した。当然のことながら、その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝一番に、私は自宅から車で5分のところにある高層オフィスタワーの中の駐上海オーストラリア領事館のオフィスを訪ねた。ビル・バートルズの方は、北京のオーストラリア大使館に相談しに行った。
豪外交官たちと何度も打ち合わせを重ねた結果、我々には大使館からの保護が必要であるということが合意された。 私は黒いナンバープレートをつけた領事館のバンで帰宅させてもらった。黒いナンバープレートの車には、ある程度の外交特権があり、例えば警備当局者が私を車から拉致しようとするのを阻止できるかもしれなかったからだ。
バンは私の住居兼職場である家の狭い車道に突っ込んでいったが、これはまるでスパイ映画のワンシーンのようだった。外交官が車の中に駆け込んで荷物を取りに行く間、私は安全のために車内で待機するように言われた。幸運なことに、荷物は前日の夜にまとめておいた。
エンジンをかけたまま待っている間、私はマスクをした怪しげな男が、携帯電話でしゃべっているふりをして外の道をウロウロしていたのを見た。彼は明らかに私たちを監視していた。
私の職場で働いていたスタッフたちは、この事態をショックと戸惑いで見ていた。やがて車が出る時に、私は後ろの窓から手を振ったが、これが彼らと会う最後になるかもしれないと感じていた。なんという別れだろう。
それから5日間、私は安全な場所で過ごし、上海領事館の職員たちは、私が快適に過ごせるように、あらゆることを手配してくれた。裏では明らかに交渉が行われていたようだが、何か進展があったのかどうかは不明だった。
私は弁護士にも相談した。この事態をいつ両親に伝えるべきかも悩んだ。ニュースが漏れて状況が複雑にならないよう絶対的な秘密が必要だったため、私は自分の状況を一握りの人々にしか話すことができなかった。
私は豪外務省の秘密主義に何年にもわたって文句を言ってきたが、いまや「自分たちの安全を守るためにはこのニュースを他のジャーナリストに内緒にしておく必要がある」という事実を受け入れざるを得なかった。
「ジュリアン・アサンジのジョークを言うのはまだ早いかな?」 ある友人は、ロンドンのエクアドル大使館で7年近く過ごしたウィキリークスの創始者に言及して、辛辣なことを言った。たしかにまだ早かった。
▼演劇の第二幕
数日後に転機はやってきた。豪外務省と北京の国家安全部が、ビル・バートルズと私が尋問を受けることを条件に出国してもいいという取り決めに合意したからだ。
ただしそこまで中国当局を信頼して良いのかわからなかったため、これはリスクの高い行動ではあったが、政府の高いレベルでのコミットメントがあったことには安心感があった。そして、他に選択肢はなかった。
インタビューは月曜日の午後、上海の浦東地区にある、特徴のない高層ビルにあるケリーホテルの31階で行われた。私はオーストラリア領事館の職員と連れ立って行ったが、彼は尋問の場に参加することを許されなかった。
水曜日の夜に会った「友人」の二人がロビーで出迎えてくれた。そこから二人の別の職員がいる部屋に案内された。薄暗い廊下に入ると、「もう二度とここから出てこれないのではないか」という思いが一瞬頭の中をよぎった。
ところがそれから行われた1時間の面接は、何の変哲もないものだった。彼らは私が中国で過ごした時間、取材した記事の種類、誰と話したか、そして他のジャーナリストとの関係について、標準的な質問を丁寧にしてくれた。
チェン氏のことを知っているかどうかも聞かれたが、私たちは一度も彼女と話をしたことがなかったので、我々の情報には失望したに違いない。
この演劇の第二幕が終わり、私は自由の身となった。 自由を求めるラストスパートとして、私は領事館の職員に付き添ってもらって空港に向かい、そこでビルやオーストラリア外交官の一団に会うことになった。 私の尋問が終わるまでは出国禁止令が解除されず、解除されたのは、われわれのフライトの数時間前のことだった。
クライマックスは、税関を通過する時だった。入国審査官が私のパスポートにスタンプを押す音は、しばらく聞いたことのない、実に美しい音だった。豪領事館の職員は、飛行機のゲートまでずっとエスコートしてくれた。
飛行機が離陸した時の安堵感とは裏腹に、中国での約3年間の生活の終わりは、実に残念なものとなってしまった。 友人に別れを告げることもかなわず、書きかけの記事を完成させることもできず、増え続ける訪問したい場所にも行けなかったからだ。
▼これも脅しの実行か?
この先週の出来事は、答えよりも多くの疑問を生み出すものとなっている。 我々はまだ、なぜ中国当局がチェン氏を拘束したのか、なぜオーストラリアの記者2人に対して前例のない行動をとったのか、何もわからないからだ。
通常、中国に派遣された特派員は、共産党の気に食わない記事を書けば嫌がらせの標的になるが、今回はそのようなケースに当たらない。
一説には、オーストラリア政府が北京に抵抗したため、オーストラリアを威嚇しようとしただけだとも言われている。最終的には、北京の上の方の人物が、私たちの出国を禁止したところでそれほど外交的なインパクトはないと確信したのかもしれない。
また、オーストラリアが中国本土(現地にいないと理解しにくい国だと言われる)に特派員を置かない状態は、1970年代以来初めてのことだ。
中国はまた、多くのアメリカ人ジャーナリストたちを追放しているが、これは国外での報道が北京にとってかなりネガティブなものになっていることへの、一種の報復措置として行われている。
火曜日の朝、私の飛行機が晴れたシドニー空港に近づくと、私はこの街がこれほどまでに素晴らしく見えたことはなかったと思わずにはいられなかった。
皮肉なことに、現在の私は14日間のホテルでの検疫という別の形で拘留されているが、中国にとどまっていたら事態はこれよりもはるかに悪くなっていたはずだ。
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ところどころに皮肉を混ぜて書いておりますが、緊張感は伝わってきますね。
このスミス記者によれば、今回はとくに自分がまずい記事や報道をしたということではなく、むしろ政治的な動機によってターゲットにされたというのが真相ではないかという判断ですね。
日本の現地記者も多かれ少なかれこれと似たような体験をしているものと推測されますが、もしそのような体験をせず、非常に関係がスムーズということであれば、それはすなわち(理想とされる、政権が嫌がるような)「ジャーナリストとしての仕事をしていない」という意味にもなりますので、まあ複雑ですね。
ということで、緊張感の高まりを感じられるこの手の記事がありましたら、またここで紹介していきたいと思っております。ご参考まで。
(AFRより)
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