今日の横浜北部は梅雨空でしたがなんとか傘はいりませんでした。
さて、帝国主義と秩序の関係について少し。
近年において議論されている「リベラル秩序」という概念ですが、私はいくつか読んだ中で、パトリック・ポーターというイギリスの学者の
言っていることが、かなり極端ながら参考になると思いました。
ちなみに一瞬ですが、彼は私の母校の教員もしていた人物です。
この彼の議論のエッセンスだけまとめると、
「リベラルな国際秩序という言葉はそもそも矛盾しており、危険だ」
ということです。
いやいや、どこが矛盾しているんだ、と普通だったら感じるところですが、彼の言いたいことは、
「アメリカがつくったとされる戦後のリベラルな国際秩序は、そもそもリベラルに形成・維持されたわけではない」
ということです。
つまり「秩序」(order)をつくって維持する行為というのは、そもそもリベラルな姿勢では絶対に無理、ということですね。
なぜなら秩序という言葉には、そもそもヒエラルキーの存在が示されておりまして、どこかのアクターがトップとなり、それ以外が周辺に属するということになります。
そしてこのようなヒエラルキーのトップはアメリカであり、そのアメリカが意識してこのような階層性のある秩序をつくってきた、というわけです。
つまりそこにはどうしても「帝国主義」の匂いが漂ってくるわけですね。
それを論証するためにポーターは歴史を振り返りつつ、まず戦後の「秩序」が生まれたのは、第二次世界大戦と冷戦の開始という非リベラル的なカオスの状況の中で大国同士が脅しや軍事力を行使したおかげであると分析します。
次にその維持の部分ですが、ポーターは冷戦期にアメリカが中南米で行っていた作戦などに触れつつ、
「一体どこがリベラルなんだ」
と問うわけです。
そういえばタリバン掃討とオサマ・ビン・ラディン捕獲を目指して開始された911事件後のアメリカの中東における大規模な民主化プロジェクトも、その手段は決してリベラルなものではなかった(軍事侵攻!)ことは周知の事実。
ここまで書いて時間切れです。つづきはまた明日。
(秩序の担い手)