今日のメリーランドはまた快晴の夏日です。
さて、昨日に引き続いてルトワックのインタビューのこぼれ話を。
今回インタビューしてよくわかったのだが、彼の生い立ちにおける多言語的な環境でした。
まずご承知のように、彼は第二次世界大戦中の1942年にルーマニアのアラド地方に生まれているわけですが、ここは当時からかなり先進的な国際的な地域。
彼は当然ユダヤ人居住区の生まれなのですが、周りには様々な宗教ごとに居住区が別れていて、しかもそれらの人々が共存していたとのこと。
そのような中で、地区では公用語としてのルーマニア語の他、以前はハンガリーの領土で、父親がハンガリー軍に従軍していたこともあり、家庭ではハンガリー語でも会話。教科書などはドイツ語で書かれた本が主流だったので、すでに家庭内で三言語が話されていたことになります。
ところが戦後すぐにルーマニアが共産化するという噂が出たためにすぐにイタリアのパレルモに移住すると、学校ではシチリア語をしゃべらなくてはならなくなります。
その後、家族がミラノに移住すると、今度は周りがイタリア語の環境になります。これでルトワックは5カ国語を使う環境に。
イタリア語に関しては、ワーテルローの戦いについての詳細なデータを記した本がイタリア語の本にあったので、それを参考にしたといって現物を見せてくれました。
イギリスのユダヤ人寄宿舎学校に入ると、今度は授業で使う英語のほか、ヘブライ語だけでなく、ラテン語とギリシャ語の読み書きを練習させられるようになります。これで8カ国語です。
イタリア語とラテン語ができたので、80年代初期に南米でオペレーションをやっていた時にスペイン語はマスターし、自分の叔父がフランスにいたので、フランス語をしゃべれるようになったと言います。バルザックの『ゴリオ爺さん』は原著で読んだとも。
ちなみにフランス語は、67年の中東戦争の時に従軍した際に、モロッコのユダヤ系移民たちの部隊のリーダーたちと話をする時に役にたったとか。
ラテン語に関しては、ローマ軍に関する文献を読むときに使っており、たとえばヴェゲティウスの本の中にあるローマ軍の部隊の詳細な構成などを調らべる時に役にたったと言っておりました。
この時点で10カ国なわけですが、日本語と英語しかできない自分にとっては、なんともスケールが違いすぎる話でした。
私も「少なくとももう一カ国語くらいはできるようになりたい」と思いました。
(うらやましい書斎)