今日のメリーランドは雲が多くて湿っております。時々小雨がぱらつきます。
さて、引き続きイギリスのディシプリンについて。
「ドイツを倒す」
という目標を共有していたイギリスのエリートたちは、アメリカと「特別な関係」を築き、植民地争いをしていたフランスとは妥協して英仏協商を結成し、最後の一手をうちます。
それは、おなじく植民地争いをしていた、ロシアと手を組むことでした。
ここで詳しい方はご存知のことだと思いますが、1900年当時は、イギリスはユーラシア大陸において、帝政ロシアと主に中央アジアをめぐって
「グレート・ゲーム」(The Great Game)
と呼ばれる影響力争いを展開しておりました。
それがよくわかるのが、以下に示した、1900年当時の世界の状況を説明していたシーパワーの祖、アルフレッド・セイヤー・マハンの議論を元にしてつくられた地図です。
白黒でわかりづらいかもしれませんが、このユーラシアの中央あたりに黒い帯が見えますよね。
マハンはここが、上、つまり北から南下してくるロシアの力と、下、つまり南から北上しているイギリスの力がぶつかっている地域であると指摘し、これを
「係争中の真ん中の帯地帯」(Debated and Debatable Middle Strip)
というややこしい名前をつけたのです。
この「ゲーム」が展開されたのは、上の地図でもわかるようにアフガニスタンその中心なのですが、それが最も激しく争われたのは極東でありまして、その一部として、わが日本が関係する日露戦争(1904-05年)が発生したわけです。
もちろんイギリスの後押し、アメリカの介入もあって、日本は帝政ロシアに勝利できたわけですが、これを基にロシアとイギリスは急激に関係を回復させ、ついに1907年には
「英露協商」(アングロ・ロシアン・アンタント)
を結びます。
これによって、欧州のパワーバランスに大きな変化が起こりました。といいますのも、イギリスは大戦略レベルにおいて動き回ることによって
大英帝国、フランス帝国、ロシア帝国、アメリカ
という3つの帝国(三国協商:トリプル・アンタント)プラス一つの強力な共和国によって構成される陣営が、
ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国
という二つの帝国と対峙することになり、これによって単純にいえば、勢力が4対2となったわけです。
しかもオーストリアの方は自国内に民族問題をかかえており、ルトワックの言葉を借りれば「マス」、つまり国としてのまとまりはなかったわけです。
ようするにドイツは第一次世界大戦までにはほぼ孤立する状態に追い込まれたわけですが、ここまでの事態に持ち込んだのは、なんといってもイギリスのエリートたちの執念にも近い「ディシプリン」だったわけですね。
こうなると、大戦略レベルではとっくに決着がついていることになります。
それは、イギリスの勝利であり、ドイツの敗北です。
このつづきはまた明日。
(フレンドシップ・ハイツ)