今日のメリーランドはまたしても雲が多めで晴れてます。
さて、昨日に引き続きイギリスのディシプリンについて。
ドイツを倒すと心に誓った20世紀初頭のイギリスのエリートたちですが、アメリカに抱きついて「特別な関係」をつくりあげた次に決めたのが、
「フランスとの植民地争いをすべて解決する」
というものでした。
歴史が好きな方はご存知かと思いますが、ナポレオン戦争終結後の19世紀全般にイギリスとフランスは、主にアフリカを巡って植民地の獲得争いを行っております。
イギリスの方は、後の南アフリカとなるケープ植民地の二回目の植民地化(1806年)や、スエズ運河の獲得(1875年)、そしてエジプトの保護国化(1882年)などを通じて、アフリカでの植民地獲得を南北に貫く形で進めました。
その一方で、フランスは1830年のアルジェリア進出を皮切りに、サハラ砂漠周辺のマリやニジェールなどを獲得しつつ、最近の地政学において極めて重要となっているフランス領ソマリランド、つまりジプチまで、いわば東西からアフリカを横断する動きを進めております。
ところがファショダ事件(1898年)でフランスとイギリスの植民地獲得経路であるスーダンのファショダ村で軍が衝突寸前になると、これを外交的に解決した両国は、ドイツやロシア、そしてアメリカなどの拡大の懸念から、「互いに争いをしている暇はない」と自覚して、次々と植民地争いを解決し、とうとう1904年に英仏協商(アンタント・コルディアール)を結ぶわけです。
このファショダ事件から英仏協商に至るまでの6年間に、イギリス外務省はフランスに対して妥協につぐ妥協を行っており、モロッコやエジプト、それにスエズ運河やマダガスカルなど、十数件における係争地において、次々とフランス側に有利な条件で妥結していきます。
当然ながらイギリス国民は外務省の対応に憤慨します。
「われわれの祖先が獲得してきた帝国の遺産を売り飛ばすのか!」
というのがその最大の批判点ですね。
ところがイギリスのエリートたちは、そのような国民からの突き上げに対して、耐えに耐えます。それは、
「ドイツを倒す」
という明確な目的意識を持っていて、そのためには外交(≒大戦略)では絶対に負けない、と堅く誓っていたからです。
続きはまた明日。