今日のバージニア州は雲が多めですがなんとか晴れております。
さて、引き続きルトワックの必殺技である「ディシプリン」について。
もしアメリカが、ルトワックのいう「ディシプリン」というものを持っていたらどうしたでしょうか?
この「ディシプリン」の過去の実例として参考になるのが、19世紀末から20世紀にかけてのイギリスの行動です。
欧州の歴史に詳しい方はご存知かもしれませんが、1815年の6月18日に行われたワーテルローの戦いでナポレオンとの戦争にとうとう勝ったイギリスは、そこから19世紀全般にかけて欧州で「ウィーン体制」、もしくは「ヨーロッパ協調」といわれる体制を敷ながら、事実上の「オフショア・バランシング」戦略をとることになります。
もちろん途中でクリミア戦争などはありましたが、この時期の欧州はイギリスが仕掛けた様々な外交攻勢によって分断されつつも、一定の紛争防止メカニズムが働いて、大戦争が起こらずに平和な状態を保てたわけです。
この当時のイギリスは海外の植民地を中心とした平和を享受した貿易や商業面での取引により、1860年代をピークとして世界帝国を築きます。
実際のところ、そこで多極世界でありながら、一人勝ち状態が生まれたために、イギリスは慢心することになります。
つまりオフショア・バランシングをやりすぎて、外交的にも孤立する状態をつくってしまったわけです。
それがいわゆる「栄光ある孤立」であることは、すでに先日のエントリーでも説明しました。
ところが南北戦争を終えたアメリカと、眼の前で統一して帝国となったドイツに、イギリスは国力の面で負け始めることになります。
しかも南下政策をとっていたロシアはユーラシア大陸へと領土的な拡大を広げており、これもシーパワー大国であったイギリスに懸念を起こします。
するとイギリスのエリートたちに「このままじゃいけない」という危機感が生まれ、戦略的にものごとを考えようという機運が高まるわけです。
このような懸念の中で結ばれたのが日英同盟(1902年)であり、書かれたのがハルフォード・マッキンダーの主要論文である「歴史の地理的な回転軸」(1904年)であります。
このような例を見ると、戦略的になるためにはある程度の「危機感」が必要であることがわかります。
ところがなんといってもイギリスの戦略コミュニティーに最も強い懸念を起こさせたのは、ヴィルヘルム2世率いるドイツ帝国が1890年代にとりはじめた「世界政策」であり、眼の前のドイツが自分たちに対抗して積極的に軍艦を建造しはじめ、しかも海外の植民地を狙いはじめたわけです。
1900年代に入ると、社会のあらゆる面でドイツに遅れをとりはじめたことを自覚したイギリスのエリートたちは、王様同士が親戚、つまりヴィルヘルム2世がヴィクトリア女王の孫であり、当時の王様であったエドワード7世にとっての甥にあたることを知りながら、
「ドイツを絶対につぶす」
と決意したわけです。これがイギリスの「ディシプリン」ですね。
つづきはまた明日。

(キツラノ・ビーチ)
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