今日の横浜北部も朝からスッキリ爽快な天気です。
さて、女性と軍隊に関するクレフェルトの分析について続けます。
すでに述べたように、クレフェルトは「女性がなぜ軍に入るのか」について興味深い分析を行っております。
その最大の理由は、核兵器の出現によって先進国で大規模な戦争が発生しなくなったからですが、その根本的なところにあるのは
「その社会が本物の戦争を行っていないからだ」
というのです。
その論拠として、クレフェルトは現在(つまり本が書かれていた2000年当時)の先進国以外で、本当に戦争が起こっていた国々における、本当に生きるか死ぬかの戦闘が行われている戦争では、女性は戦闘部隊にほとんど参加していないことを挙げております。
ではなぜそのような「本当に戦争が行われている社会」では女性が参加していないかというと、
「女性は男性が守るためのものであるのに、その守るものが同じ部隊にいたら、男性が戦えなくなる」
というロジックで説明するわけです。
ところが実際には、社会の「進歩」のおかげで、少なくとも先進国では軍隊への女性の参加は推奨されております。
その理由として挙げられるのは、そもそも男性が軍隊に魅力を感じることがなくなり、人材が不足したからという事情だとクレフェルトは説明します。
だからこそ女性を軍に必要とする社会は、そもそも戦っていない、という判断になるわけですね。
ここで興味深いのは、クレフェルトが民間の例を持ってくることです。
たとえばその当時からも話題になりはじめていた「民間軍事会社」(PMCs)でも、実際の「戦闘員」には女性がほとんどおらず、いたとしても事務員や後方要員、そして稀にいたとしても「男より安く雇えるから」という理由で採用されているにすぎないことを指摘しております。
この「民間では」という視点は重要であります。
といいますのも、私も以前ある海兵隊の方が、プライベートの場で、勝敗がチームのビジネスに直接影響を及ぼすプロスポーツの世界、たとえばアメリカのプロフットボールのリーグであるNFLには、女性プレイヤーが一人もいないと指摘して、女性の戦闘部隊への参加に反対していたのを聞いたことがあるからです。
ではなぜ「民間」になると、軍事組織は女性を戦闘員として使わなくなるのでしょうか。
考えられる理由は2つあります。
1つ目は、先進国の軍隊にとっては、「ポリティカル・コレクトネス」を守る政治的な要求のほうが、実は「効果的な戦力」よりも大切であるということ。
これはクラウゼヴィッツのいう「政治が上」という至上命題から考えれば、軍隊が戦力を捨ててもその指示に従うのは当然かと。
ただしクレフェルトに言わせれば、このような「遊びごと」ができるのも、その社会の生存が本当に脅かされていないから、ということになりそうです。
2つ目は、ビジネスを行う営利団体のほうが、国家が行う戦争よりもシビアに「戦力」を計算しているからです。
とくに民間の営利団体では、利益というものが「売り上げ」、もしくは「コスト」という形で、直接結果を出してしまいます。
そうなると、戦力を弱体化させる女性をあえて戦闘部隊に入れよう、というインセンティブは吹っ飛ぶわけですね。
こういうことを書くと、「人命と、組織or利益の、どちらが大事なんだ!」とお叱りを受けそうですが、現実的な面を見てみると、多くのケースでは人命よりも明らかに「組織」や「利益」のほうが優先されるという、人間社会の厳しい現実が見えてきてしまいます。
以上のようなクレフェルトの議論を見ていると、やはり軍隊のあり方というのは、それが属している社会の「
価値観」が如実に反映されるものであることがわかります。
日本の自衛隊の場合も、半ば政治的、半ば現場の要求という意味で、続々と戦闘部隊(例:潜水艦)に女性が配属されておりますが、これは戦時になったときにどのような影響を及ぼすのか、個人的には実に気がかりであります。
日本の「戦士の文化」は、いざという時に発揮できるのでしょうか?
来週の
クラウゼウィッツ学会の発表のために読んでいる本ではここで問われているような「戦士の文化」が強調されているのですが、この辺の問題については今後も引き続き論じていきたいと思っております。

(ウランバートル市内の銅像)