今日のバンクーバーは朝から曇っておりますがギリギリ雨は降っておりません。
さて、またしても昨日の続きを。
昨日のエントリーでは、ナポレオンの1812年における失敗を引き合いに出しつつ、ロシア帝国側のとった競争戦略的なアプローチをご紹介しました。
そしてロシア側は競争戦略が教えるように、自分たちの長所である地理や戦馬や時間を活用しつつ、決戦を徹底的に避けることにより、相手の弱点やクセを助長させて自滅させたということになります。
ここで重要になってくるのが、ナポレオン率いる大陸軍が、ポーランドに入ってから続々と勝利を重ねてしまったがゆえに、その兵站を伸び切らせてしまっていた、という点です。
これを実際にロシアの士官(!)として現場で見ていたクラウゼヴィッツは、『
戦争論』の中で
「勝利・攻撃の限界点」(culminating point of victory/attack)
があると指摘しており、ルトワックも同じ概念を自分の「パラドキシカル・ロジック」の議論で使っております。
これは部隊が勝利を重ねて進軍しても、兵站の物理的な条件のおかげで、どこかの時点(限界点)でその攻撃力が減衰を始める、という考え方です。
ようするに、過剰拡大すると部隊が弱くなり始めるポイントがある、ということです。
たとえば昨日の1812年の例に当てはめて考えてみますと、ナポレオンにはロシア軍を、モスクワに行くどこかの地点で殲滅しなければならなかったわけです。
もちろんそれは、まだ大陸軍に攻撃力の残っていた、なるべく早い時点でのほうがよかったわけです。
ところが問題は、その「どこかの地点」、つまり「限界点」の見極め方のむずかしさ。
果たしてそれは、スモレンスクの西側だったのか、それともドニエプル川の川岸だったのか、それともポーランドとの国境であるネマン川のそばだったのか・・・今となっては誰にもわかりません。
ナポレオンが勝利できるポイントがどこにあったのかは、彼自身は戦いが行われている最中ではわからず、おそらくどこかの時点で気づかずに過ぎてしまっていたはずです。
いや、気づいていたとしても、大陸軍という大規模な組織の官僚主義的なクセのおかげで、それを止めることができなかったのです。
ナポレオンがこの限界点を通過してしまったことに気づいたのはモスクワに入城してからだったのですが、これは完全に「後の祭り」でした。
すでに帝国的過剰拡大をしていたナポレオンは、あとは撤退によってその拡大を「自然」(タオ)の作用として、縮めるしかなくなってしまったのです。
つまり、彼は自滅したのです。
そしてロシア側はナポレオン側の自滅を、「決戦を避ける」という意識的な選択、つまり相手の弱点を助長することによって実現したと言えるでしょう。
この話のつづきはまた。
(カナダの豊かな邸宅の裏庭)