今日の横浜北部は曇っておりましたが、とうとう夜に入ってから雨になりました。
さて、連日「大戦略」について書いてきましたが、この辺で別の話題を少し。
実は明日の夜までに、地政学に関する本の中の二章分を書いて提出しなければならないのですが(汗)、そこで書くことについて調べていた時に思い出したことを書かせてください。
それは批判地政学(Critical Geopolitics)に関するものです。
いきなり「批判地政学」と言われてもわからない人がいると思うので少し説明しましょう。
実は日本を含む世界の学界において、ある学者が「地政学を専門に研究しています」と言ったとします。
するとおそらくその人は(私の個人的な感覚では)95%の確率で、この「批判地政学」のアプローチから研究している人となります。
「え、地政学にもいくつか種類があるの?」
と疑問にお感じになる方もいらっしゃるでしょうが、その疑問は正しいのです。
実は現代の「地政学」に関する研究には、大きくわけて、
①批判地政学(多数派)
②古典地政学(少数派)
という二つのアプローチをとる人々がおります。
では多数派の「批判地政学」の人たちは、具体的にどのように地政学を研究しているのかというと、われわれが一般的に「地政学」と言っているもの、つまり本ブログの著者である私が研究しているような国家戦略・大戦略・戦略系の地政学を、その前提から徹底的に批判するのです。
ちなみに私が専門としているのは少数派の「古典地政学」(Classical Geopolitics)ですが、日本ではこれを「伝統地政学」と呼ぶ人もおります。
こちらの地政学は、マハンやマッキンダー、そしてスパイクマンやブレジンスキー、そして私の指導教官であるグレイたちによって研究されてきたものですね。
ところが批判地政学のアプローチをとる人々は、このような従来のタイプの地政学から出てくる戦略的な処方箋や政策に疑問を感じ、1980年代からフランスの哲学者であるミシェル・フーコーらのアプローチを参考にしながら、
「これまでの地政学の考え方は本当に客観的で普遍的なものなのだろうか?」
という疑問から、それまでの政治地理学や地政学の前提などを「脱構築」したりしながら批判していく分野を確立しはじめたわけです。
何を隠そうこの私も、カナダの大学にいた時に、この批判地政学のアプローチをとる若い先生に政治地理学の授業で地政学を学んだという過去を持っておりまして、その影響を色濃く受けて書いたのが、2004年のデビュー作である『
地政学:アメリカの世界戦略地図』でありました。
この批判地政学のアプローチは、非常に哲学的な面もありまして、授業で学んでいた当時の若かった私の心にはかなり刺さるものがありました。
ところが卒業してから本をまとめる時に、なんというか虚しさを感じてしまうことになります。
いくつか理由があるのですが、その最も大きなものが、この批判地政学のアプローチをとる研究者たちは、実に鋭い批判をするわりには、具体的な問題解決になるような建設的な話をしてくれないことでした。
彼らはまず、地政学で使われる基本的な概念の「前提」を疑うことを徹底します。単純にいえば、
「すべてを額面通りに受け取らない」
ということですね。
もっと具体的にいえば、マッキンダーの「ハートランド」という概念において、
何が「ハート」であるのか
と突っ込んだり、
「そもそもマッキンダーはこのような理論を、どのような必要性があって提案したのか」
とか、
「彼の客観性は、欧州の50代の白人男性のものだ」
と指摘するように、その考えの背後のコンテクストや、とりわけ帝国主義的な見方というものに疑問を呈するわけです。
これを行うために、彼らはマッキンダーのような文献に見られる「地政学的言説」(geopolitical discourse)に注目し、そこに余計な政治的意図や利益、権力関係などが込められているのではないか、と分析するわけです。
つまり彼らは古典地政学で使われる言葉や用語に、政治的な意図や権力構造を見出し、それを批判していくわけです。
たしか
この本の中で、ロバート・コックスというカナダの学者が、あらゆる政治系の理論を大きくわけると
①問題解決理論(problem solving theory)
②批判理論(critical theory)
の二つのタイプにわかれると分析しております。
そしてこれに従うと、マッキンダーを始めとする古典地政学のものは①、そして批判地政学のものは、当然のように②に分類されます。
もちろんこのような「批判的」なアプローチを学んでいた当初の私は、この批判理論が教えてくれることは実に興味深いと感じていわけです。
ところが2003年に本を書いている途中で、彼らが古典地政学の「客観性」にツッコミを入れているのを見つつも、同時に自分たちの客観性に疑問を感じていないのか気になって仕方なくなってしまいました。
そして私にとっては、彼らのアプローチが具体的な政策(問題解決)につながるようなものではなく、実に虚しく感じられてしまったのです。
「いや、批判理論とは本来そのようなものだ」
というご指摘はごもっともです。
ただし私が問題だと思っているのは、彼らの批判がどのような立場からなされているのかという前提。
たとえばこれが顕著に見られるのが、彼らの中で実に多い、超反米的な分析。
たとえば批判地政学界をリードするクラウス・ドッズというイギリスの学者が、オックスフォード大学出版の入門書シリーズとして出した『
地政学』という本があります。その
日本語版の99ページで、
「先制攻撃と、高度に選り好みした仲間だけによる多国間主義というブッシュ・ドクトリンは、単独では、現在の地政学的構造に対する最も重大な脅威である」
と書いております。
単純にいえば「ブッシュ政権の政策が大嫌い」ということです。
このような批判地政学のアプローチをとる人たちの文章(といっても全ての批判系の人々がこういうわけではないですが)を読むたびにいつも私が感じてしまうのが、
「あれ、批判地政学は古典地政学よりも”客観的”なんじゃなかったっけ?」
ということ。
もちろんアメリカの政策を批判するのは全然かまいません。かまわないのですが、少なくともその代わりに自分の党派性や客観性の欠如については自覚的になっていて欲しい、というのが、その昔に批判地政学から地政学を学んだ人間として感じることなのです。
もちろん私は古典地政学に「客観性」の問題があることは認めます。
ただしそれを批判する側が、自らの「客観性」に無自覚なのは、やっぱりダブルスタンダードじゃないの?と言いたいのです。
長くなりましたが、明日もまた書きます。
(エニグマ)