今日の横浜北部は朝からスッキリ晴れております。
さて、またまた昨日の続きを。
ルトワック自身は『
戦略論』の2001年の原著の改訂版が出てから『
ビザンツ帝国の大戦略』を出すまで、大戦略についてはほとんど何も語っておりませんでした。
ところが2009年に出したこの本では、再び大戦略について触れることになり、しかもそのアイディアにはかなりの修正が加えられたのです。
ビザンツ帝国とはもちろん「東ローマ帝国」として、コンスタンティノポリス(現在のトルコのイスタンブール)を首都とした、東西分割後のローマ帝国の東側の領地として始まったわけですが、この帝国は地理的にあまり恵まれなかったにもかかわらず、西のローマ帝国よりも800年以上も長続きしております。
ルトワックはこの長命な帝国に注目し、その長期的な戦略、つまり「大戦略」について、博士号論文の時と同じように分析しようと思ったようです。
ところが調査を始めてみると、この東の方のローマ帝国には、西のローマのようにまとまった資料がなく、文献探しで非常に困ったとか。
結果としてルトワックは、書き始めてから
20年もかかってようやく完成させることができたのですが、これは同年代のローレンス・フリードマンが、やはり『
戦略の世界史』を同じくらいかけて書いたのとまったく同じ状況です。
ルトワックのこの本の中で展開されている「大戦略」の概念ですが、相変わらず軍事力という要素が中心にありながらも、その重要性は以前のものと比較して下がっている点が注目でしょう。
すでに
過去のエントリーでも簡単に紹介しましたが、ルトワックはビザンツ帝国の大戦略から学んだ教訓として、以下の7つの原則を抽出しております。
1、戦争は可能な限り避けよ。
2、敵の情報を、心理面も含めて収集せよ。
3、攻撃・防衛両面で軍事活動を活発に行なえ。
4、機動戦を実施せよ。
5、戦争を成功裏に終結させることにつとめよ。
6、政権転覆は、勝利への最も安上がりな方法だ。
7、戦争が不可避となった場合には、敵の弱点を衝く手法と戦術を適用せよ。
そしてこれらは「普遍的な大戦略」と書かれているにもかかわらず、その想定される「使用者」がアメリカであることは間違いないわけです。
とりわけルトワックがアメリカが対テロ戦などで中東に突き進んでいき、その問題が深刻化した2000年代後半にこれを仕上げてきたというのは重要です。ここでもその本が出てきた「コンテクスト」が決定的な影響を与えているわけですね。
いずれにせよ、この上記の7つの原則からわかるのは、ルトワックが従来の「軍事的な国政術」というものを想定しつつも、大戦略のレベルにおいては非軍事的な要素をかなり格上げしたという点です。
それが一番よくわかるのが、この本の後半の部分(p.409)にある、
〜〜↓引用開始↓〜〜
大戦略とは、単純に言って、他の国々が存在する世界において、ある国家がその趨勢を決定するために必要とする「知識」と「説得力」(これは現代の言葉で「インテリジェンス」と「外交」のことだ)が軍事力と交わって作用する「レベル」のことだ。
〜〜↑引用終わり↑〜〜
というコメントです。
これをまとめると、このビザンツ帝国の本から推測されるルトワックの「大戦略」とは、
①軍事力
②インテリジェンス(知識)
③外交(説得)
の三位一体の状態にある、ということです。
もちろんそれ以前に書かれた『戦略論』では、この①〜③の三位一体は、理論的には同等の地位にあるものとして想定されていたわけですが、実践段階だとその重みがそれぞれ違って出るという想定で書かれておりました。
ところが今回はさらに長期的な大戦略にフォーカスしたせいか、ルトワックの中では②と③という非軍事的な要素への注目がますます上がってきたわけですね。
そしてさらに重要なのは、それらをサポートする役割を果たすビザンツ帝国の経済力と官僚制度なのですが、ここまで書いて時間がなくなってきてしまいましたので、続きはまた明日。
(大国政治の悲劇:旧版と最新版の比較)
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