「人生の意味」って何だ!? |
By クレイ・ラウトリッジ
最近のことだが。政府機関である「アメリカ疾病管理予防センター」が、米国内の自殺数が台頭していることを示す、実にショッキングな統計結果を発表した。これによると、ほとんどの人種や年齢層で、1999年から現在まで自殺率が25%も上昇しているということだ。
この数字は、明らかに一つの「危機」であることを示しているのだが、では果たしてその「危機」の性質とはどのようなものなのだろうか?
多くの識者たちはこれが「メンタルヘルスケアの危機」であり、国民は必要なサービスを受けることができていないと論じている。よって彼らが提案する解決法は、より良いセラピーや、さらに効果的な抗うつ剤、そして治療へのアクセスの拡大となる。
もちろんこの分析は正しいのかもしれない。しかし自殺率は、鬱や不安感を解消するための治療を求める人が増え、しかもこれらの症状に対する治療法が増えているにもかかわらず上昇しているのだ。さらなる説明が必要であろう。
「意義の必要性」を含む、人間の基本的な心理学的欲求を研究している行動主義派の学者として、私はアメリカの自殺危機の原因の一つとして「意義喪失の危機」が挙げられると確信している。
まずこれを論じるにあたって、近年のアメリカ社会の変化――無関心への方向性と集団への従属感覚の低下――が「実在的な絶望のリスク」を増加させているのかを理解していただく必要があるだろう。
その他の生き物と同じように、人間は「生き残り」と「繁殖」というゲームの中にいる。われわれは生きることに対して強い欲望――つまり死を逃れようとする傾向――を持っている。
ところがこの「生き残り」を助けてくれる神経系統は、われわれを極めて黙想的な状態にもする。われわれが自らの可能性を考えたり、過去や未来について考えたり、抽象的な考えに取り組むための能力というのは、同時にある種の「不快な真実」へとわれわれを導くものだ。それはつまり、
「われわれは自分たち、そして大切に思っている人々がすべて年を重ね、衰えて、最後は死ぬことを知っている」
ということだ。われわれは人生が不確実なものであり、痛みや悲しみがわれわれの人生の一部であることを理解している。よって人生にそもそも意味はあるのか、ということだ。
このような実在的な不安感を払拭するために、われわれは「自分たちの人生には意味がある」という感覚を見つけて維持しなければならない。人類というのは、単に「生き残る」だけでなく「意義」を懸命に目指す種なのだ。
われわれは人生を意義あるものにしようと考えるのであり、人間は人生の意味を維持できないと感じた時に、心理的に最も追い込まれるのである。
これは実証的にも妥当であるとされている。「人生に意味を感じられない」という感覚は、アルコールや麻薬の中毒、鬱、不安感、そして自殺に関係しているとされている。そして喪失感やストレス、もしくはトラウマを感じたとき、この苦境に最もよく対処できて乗り越えられるのは「自分の人生には目的がある」と感じる人々なのだ。
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ではわれわれの人生の意味と目的を発見するにはどうすればいいのだろうか?多くのやり方があるが、心理学関連の文献が示唆しているのは「他の人々との親密な関係」がわれわれが持つ最大のリソースであるということだ。
社会階層、年齢、性別、宗教、国籍に関係なく、人々が「人生の経験の中で個人的に最も意味を持つもの」と実感する経験には、その典型として、愛する人間が関わってくるという。
さらに重要なのは、これらの研究から、人間は単に「他人と一緒にいること」や「他人に好かれること」だけでは十分ではない、ということが示唆されているという点だ。
われわれは「他人から存在価値を認められている」と感じる必要があり、「自分は世界に重要な貢献をしている」と感じる必要があるのだ。
ここからわかるのは、なぜ人々が常に良い扱いをしてくれる他人に囲まれているにもかかわらず、孤独や無益さを感じることがあるのか、という点だ。単に快適で楽しいだけの社会的な交わりでは、失望感の解消には不十分なのである。
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ここで問題となるのが、アメリカで変化しつつある国内社会の構造だ。
ご近所同士の付き合いの低下や、家族の縮小、そして宗教の役割の低下について嘆くのは、まるで気難しい老人の不満のように聞こえるかもしれない。ところが心理学の研究の観点から見ると、これらの変化は、それをあなたがどう捉えるかはさておき、人生の意味にとって深刻な脅威を及ぼしている。
過去の世代と比べるとわかるのが、現在のアメリカ人は、近所の人々との付き合いが少なく、他人は全般的に信頼できるものという考えが薄れ、個人レベルでも信頼していると感じる人が少なくなってきているという点だ。
このような傾向は、実在論的な観点からは懸念すべきものだ。研究で示されているのは、どこかの集団への帰属感覚が強ければ強いほど、人間は人生を意味あるものであると認識するということだ。別の研究でも、孤独を感じている人々は強い関係性を持っている人々よりも人生を意味ないものとして見ていることが示されている。
家族の規模が減少している点にも、これと似たような懸念がある。今日のアメリカ人は結婚して子供を持つまでにいままで以上に時間をかけており、子供の数も少ない。多くの人々にとって、このような状態は望ましいものかもしれない(といってもアメリカ人女性は出産数が自ら望んでいる数よりも少ないらしいが)。
それでも研究者たちがつきとめたのは、子供を持った大人のほうが、子供を持たない大人よりも人生の意味について関心が高く、子供を育てるような活動に従事している親は、人生の意味の充実感が高いという点だ。
また、長年にわたって制度的・社会的に人生の意味の土台となってきた宗教も、劇的にその影響力を落としてきている。今日のアメリカ人、とりわけ若い世代は、自分たちの宗教的な帰属を失いつつあり、教会に行く回数は減り、その他の宗教活動への関わりも薄れてきている。
ところが私の研究でもわかるように、これまで宗教が提供してきた人生の意味についての感覚は、非宗教的な環境では簡単に代替できないものだ。
アメリカ人はたしかに伝統的な信仰の場所を去ったのだが、逆に彼らはその代わりとなる「宗教的」とも呼べる体験(おばけや宇宙人のようなアイディアを含む)を探すようになっている。そしてこれによって、自分たちは「より大きな何か」の一部であり、短い人生よりも意味を持った存在であるかのように感じたいのだ。
アメリカの存在論的な危機が、われわれの政治面での分断状態に貢献している可能性もある。研究でわかっているのは、実在的に脅威を及ぼしてくるアイディア(たとえば命に限りがあることを思い起こさせることなど)にさらされた時、人間は自らの持つ世界観に対してより偏見を持つようになるということであり、これはとりわけその他の情報源を通じて自分たちの人生の中に何らかの意義を見つけられなかった場合には強まるという。
このために、われわれの怒りこもった政治文化というのは、単なるイデオロギー面での意見の不一致だけではなく、すべての迷える魂に対して何かしらの意味をもたらすものを発見するための、必死な探求によっても突き動かされていると言えよう。
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アメリカの保守派はこのような「危機」について、保守的な立場から以前から積極的に論じておりましたが、私はこれが戦略で重要な「世界観」におけるフィクションの重要性と近い、と解釈しました。
個人だけでなく、人間は集団としてどちらかの方向に何かを成し遂げようとする際に、重要になってくるのが(細かく検証すればかなり怪しい)フィクションの存在であり、社会学系ではこれを「ナラティブ」(物語)という言葉で表現したりしております。
ところがこのようなナラティブというものは、80年代から言説解析のような形で実証的な解明が進み、学問の世界ではその虚構性、つまりフィクション的な部分がクローズアップされ、いわば幻滅(disenchantment)させられた部分が出てきております。
私も最初の本で批判地政学を紹介する際に、このような言説の解説部分にかなり感銘を受けていたところがあったわけですが、書いていて気になったのが、その分析している彼ら自身が、古典地政学にありがちな「ナラティブ」や「虚構性」を暴きつつも、自分たちも分析するという「使命感」(これまた虚構性の一種)に突き動かされているという点でした。
このような点を踏まえて私が至った結論は、人間には、個人レベルでも集団レベルでも、その良し悪しは別として、人間が何か動きを起こすためには一定の「フィクション」が必要であるという点です。
上の記事では「人生の意味」という言葉で言い換えられていますが、その実態は「フィクション」とも言えます。これについては私もCDなどで解説しておりますので、よろしければぜひ。
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