国境を廃止してはならない |
さて、先週の放送(https://youtu.be/cF5g8VLIjDQ)でも触れた「国境」の話題について、保守派のビクター・デイビス=ハンソンの意見記事を要約したものを。
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なぜ国境は重要で「ボーダレスワールド」は幻想なのか
by ビクター・デイビス=ハンソン
「国境」がここまでニュースの話題として取り上げられるのは史上初めてではないか。
中東から欧州に殺到するイスラム系難民やテロリズムの台頭のおかげで、欧州内の移動自由の権利を認める、いわゆる「シェンゲン協定体制」に対して反発が巻き起こっている。
欧州の人々は人種差別主義者ではないが、中東からの移民の受け入れについては、それが合法的に入国して、しかも欧州の価値観や態度を共有を約束することができる人々(この点については不寛容であるとして何十年も前に破棄しているが)については受け入れる、という方向に行き着いているように見える。
欧州の人々は自分たちの国境が、北アフリカや中東での文化や社会を断絶している役割を果たしていたことをいまさらながら再確認しているのだ。
アメリカでもこれと同じような危機が発生している。オバマ大統領が反対にもかかわらず不法移民に対して大統領権限で恩赦を与えているからだ。メキシコや中南米からの不法移民に対する米国民の反発は、トランプ候補の台頭(これは国境に壁をつくると公約したことでも予測できた)を許すことになったのだが、これはドイツに難民が流入したことによってメルケル首相に対する反発が発生したのと同じことだ。
欧州と北米で人々の怒りを盛り上げているのは、エリートたちが推し進めている「ボーダレス・ワールド」である。エリート内では「ボーダーレス」が現代のポリティカリー・コレクトネス的な立場を占めるようになっており、その他の似たようなアイディアと共に、われわれの使う言葉を規定しつつある。
最近よく使われる言葉に「不法異邦人」(illegal alien)というものがあるが、これは「非合法移民」(unlawful immigrant)という曖昧な言葉から「証明書を持たない移民」(undocumented immigrant)という名前から、単なる「移民」(immigrant)や、完全に中立な「移住者」(migrant)というものに移り変わってきている。こうなると、この人物が入国してきているのか出国しつつあるのかわからなくなるのだ。
今日の国境開放への動きというのは経済・政治的な要因(米本土や欧州の人間が避けるような低賃金の仕事を請け負う労働者の必要性や、破綻国家を逃れようとするもの)だけによるものではなく、西側の学界が数十年間にわたって「国境言説」(borders discourse)というトレンディーな分野の知的扇動によってつくりあげたものでもある。
この「ポスト国境主義」とでも呼べる分野では、国境は単なる人工的な構成物となり、それは権力にある者によって外の世界、つまり貧乏で非西洋的で「排除すべき存在」を意図的に切り離すための手法でしかないということになるのだ。
あるヨーロッパの学者によれば、「国境が引かれるところで権力が行使される」というのだが、この観点からいえば、国境が引かれていないところには権力が行使されないということになる。これはまるで、ドイツになだれ込む中東移民たちには、その数の多くても西側の不満を抱えた政治による巧妙なごまかしによって権力を持てないといわんばかりだ。
ところが「ボーダレスワールド」の夢は、それほど新しいものではない。プルタルコスは自身の随筆集の中で、ソクラテスがアテナイの人間ではなく「世界市民である」と考えていたと主張している。欧州では共産主義の普遍的な「労働者の団結」という考え方は「国境のない世界」というアイディアを土台にしたものであったし、「万国の労働者よ、団結せよ」とマルクスとエンゲルスは強く勧めている。この考えに従うと、戦争が発生するのは国家が持つ国境という時代遅れのものをめぐっての不要な争いのためだということになる。
何人かによれば、この終わりなき戦争を防止する方法は、国際的な統治のために国境を廃止することとなる。HGウェルズの『来るべき世界の物語』(The Shape of Things to Come)は国際的な識者たちが世界政府をつくることによって国境が最終的に消滅する世界を描き出している。
このようなフィクションは現実世界でも一時的な流行をつくりだしているのだが、国境という存在をなくそうとする動きは(ウェルズが生きていた当時の国際連盟がその一例だが)常に失敗している。
それでも左派は「ボーダレスワールド」の願いを持ち続けており、それは倫理的に優れたものであり、人工的に押し付けられた「違い」に対する勝利であると考え続けているのだ。
ところが真実は違う。なぜなら、国家の定めた国境というのは「違い」をつくるのではなく、そもそもあった「違い」が反映されたものだからだ。エリートたちの国境を消滅させようとする試みは、無駄であると同時に破壊的である。
国境――そしてその維持、もしくは変化させるための戦い――というのは、農耕文明の始まりと同じくらいの長い歴史を持っている。古代ギリシアの戦争は、雑草の茂った土地をめぐって争われた。係争地となる高台の農園は耕作にはあまり向かなかったが、都市国家にとって文化の発生と終わりを決定するという意味で極めて高い象徴的な価値をもっていた。
歴史の中で、戦争を引き起こしたきっかけというのは伝統的にそのような国境地帯であった。アルゴスとスパルタの境や、ローマ帝国の国境としてのライン河とドナウ河、もしくはドイツとフランスの権力争いの象徴となったアルザス・ロレーヌ地方である。
これらをめぐる紛争は、少なくともその当初は隣国を侵略して占領するための目標であったわけではない。国境とは、明確な区分けを尊重する異なる社会同士の「相互表現」だったのであり、経済面での必要性や軍事安全保障といった面だけでなく、隣国の干渉や脅しに屈することなく独自の活動が行えるよう確保するための手段でもあったのだ。
ボーダーレスを崇める普遍的な教義を主張する人々の多くは、卑しい偽善から逃れることはできない。2011年にオープンボーダーの提唱者であるアントニオ・ヴィラライゴサは、市長公邸の周囲に壁をつくった最初のロス市長となった。
公邸周辺に住む人々はこの案に反対したが、その理由として、そのようなバリケードの必要性がないことや、1.2メートル以上の壁を宅地に造ってはならないとする市の条例に違反すること、逆に安全に疑問を投げかけることや、新しい壁は公邸の権力の象徴となったことなどを挙げている。
エリートたちは壁を造ることによって外界を切り離すことができるかもしれないが、その政策はその外で活動する資金や影響力をもたない非エリートたちに大きな影響を与えることになる。
壁によって生まれるこの二つの集団――ペギー・ヌーナンはこれを「守られた人々」と「守られていない人々」と呼んだが――は、ジェブ・ブッシュの選挙戦で誇張されることになった。フロリダ州知事を務めたブッシュ候補がメキシコからの不法移住を「(アメリカに対する)愛から出た行動」と呼んだが、この発言によって彼は自ら選挙戦にトドメを刺すことになった。
どうやらブッシュは、彼のアイディアが自分自身と家族に対してどのような影響が出るのかを選べるだけの富を持っていたということらしいのだが、アメリカの南西部に住んでいる人々にとって、このようなことはほぼ不可能だ。
より大きな視点からいえば、国境を軽視する人々というのは、なぜ数百万人もの人々がそもそも国境を越えて、非常に大きなリスクを背負いながら、使いやすい言葉や祖国を捨てようとするのかという問題を見ようとしていない。その答えは明白だ。1960年代の中国・香港間、現在の北朝鮮と韓国の間のように、移住というのは大抵は一方通行であり、非西洋から西洋、もしくは西側への支持という形で現れるのだ。
彼らは国境を越えるために歩き、登り、泳ぎ、そして飛ぶのである。そしてこれは、国境が人間の経験に対して異なるアプローチをとる社会をそれぞれ区別するものであり、一方がもう一方よりも成功していると見られていることの証拠となっている。西洋の社会というのは、国民の総意や宗教への寛容性、司法の独立、自由市場資本主義、そして私有財産の保護などを最も推進しやすい統治体制をもっており、これによって彼らの祖国にはほとんど存在しない経済的繁栄や身の安全を個人に提供しているのだ。
結果として、移民たちは西側諸国に向かうのであり、とりわけその理由は西洋文明が人種ではなく文化で定義されるものであり、その作法を共有したいと考える異人種は受け入れる唯一の存在なのだ。
西洋社会に生きる同化していない多くのイスラム系の人々は、西洋の法体系を無視して過激主義に生きることができると考えている。今日、パキスタンからロンドンに降り立った人は、祖国で実践していたイスラム教の戒律にしたがおうとするはずだ。
ところがこれには二つの暗黙の前提がある。一つは彼がパキスタンのイスラム教の戒律の元に帰りたいとは思わないことであり、もう一つはもし同じような文化を新しい土地に持ち込んだとしても、最終的には最初に祖国を逃れたのと同じ理由でその土地から逃れることになる可能性が高いということだ。
同様に、「証明書を持たないラテン系」の若者がドナルド・トランプの演説会を邪魔しようとする際も、彼らはよくメキシコの旗を振ったり、「アメリカを再びメキシコにしよう」(Make America Mexico Again)というスローガンを書いたプラカードを見せたりしている。
ところがこの感情的なパラドックスについては注意すべきだ。国外追放される可能性に怒りを感じている市民権をもたない彼らは、自分たちが最も生きたくない国の旗を何の考えもなく振っているのであり、同時に自分たちが断固として居残りたい国の旗を無視しているのだ。
国境というのは、隣家との間にあるフェンスと同じように、それぞれの国を分けるものであり、一方にあるものと、もう一方にあるものを「境界化」するための手段なのである。
国境は生得的な人間の欲望としてある獲得欲や所有欲、それに物理空間への欲求を強めるものであり、これは国境が明確に確定して分離されているものとして見なされ、そのように理解されないと不可能なのだ。
壁やフェンス、もしくは警備パトロールなどによって明確に引かれた国境線や、その管理というのは、人間の本性の中心に響いてくるのであるため、それをすぐに取り去ることはできない。それはローマやスコットランドの啓蒙主義に至るまでの裁判官たちが「モエム・エト・トゥーム」、つまり「私のものとあなたのもの」と呼んだものなのだ。
たしかに友人の間ではフェンスのない国境は友好関係を強化するものだ。ところが友好的ではない人間たちの間では、国境が強化されれば平和を維持することにつながるのだ。
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デイビス=ハンソンといえば、「西洋式の戦争方法」を提唱したことで戦略研究では「戦略文化」の議論でだいぶ引用された古典学者ですが、この意見記事は米国の古い保守派の意見を代弁しているといえるでしょう。
議論としては「西洋バンザイ」という側面があるためにけっこう雑なところがありますが、フクヤマは「住みたいと思う国に移住することで移民たちは優れた国に足で投票している」と言ったことと通じるところがあります。
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