2015年 08月 27日
無知の知:知らないから学問は進化する |
今日の横浜北部は朝から曇りがちですが、気温は昨日よりはるかに上がってます。JRが止まってて大変なことになってますが。
さて、今週の放送(http://www.nicovideo.jp/watch/1440579914)でも触れた、アメリカで細々ながらも教えられている「無知の知」という分野の学問の重要性について、ニューヨーク・タイムズ紙に興味深い記事がありましたので、その要訳を。
著者はアメリカのシンクタンクの研究員ですが、これはわれわれの知的作業そのものや、教育について考える際にも参考になる記事です。
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無知を教えることの大切さ
by ジェイミー・ホームズ
The Case for Teaching Ignorance
By Jamie Holmes
15-8/24 NY Times
http://www.nytimes.com/2015/08/24/opinion/the-case-for-teaching-ignorance.html?_r=0
●1980年半ばに、アリゾナ大学の外科の教授であるマーリス・ウィッテ女史は、「医療やその他の分野での無知についての基礎講座」というコースを設立することを学校側に提案した。
●ところが彼女の提案の受けはよくなかった。そんな授業をそもそも賛成するくらいなら大学を辞めたほうがマシだという職員もいたほどだ。ウィッテ博士はそのコースの名前を変更するように求められたが従わなかった。彼女の考えでは、自分の教える学問の分野の中に「知らないこと」が溢れていることを教えない教員が多すぎたからだ。
●その数年後だが、彼女は「医学の教科書ではすい臓がんについて8頁から10頁ほど書かれておりますが、それについてわれわれがどれほど知らないのか一言も書かれていないのです」と述べている。
●彼女は自分の学生たちに、知識には限界があることや、質問のほうが答えよりもはるかに注目されるべきものであることを理解してもらいたいと考えたのだ。その後、アメリカ医学協会はこの授業に資金を出すことに同意し、学生たちはこの授業を「無知入門」(Ignorance 101)と親しみを込めて呼ぶようになった。
●もちろん彼女が教えるようなコースはまだ珍しい存在だが、近年になってから何人もの学者たちは、学問における「不確実性」に焦点を当てると、学生たちは興味を持つようになり、逆にわかっていることを強調しすぎると、知識の理解をねじ曲げることにもなりかねないことを論証している。
●たとえば2006年にコロンビア大学の神経科学者であるスチュワート・ファイアーステインは、彼の教えた学生たちが脳についてすべてわかっているかのように考えていることを実感してから、科学の無知についてのコースを教え始めた(彼自身は1400頁もある教科書にその原因があると睨んでいる)。
●彼は2012年に「イグノランス:無知こそ科学の原動力」という本を出版したのだが、その中で、多くの「科学的事実」というものが実は全く不変で強固な土台の上に立ったものではなく、なんども検証されてその後の世代に書き換えられるものであることを論じている。
●そもそも科学的発見というのは、一般的な学生たちが考えているほど綺麗で直線的なものではなく、むしろファイアーステイン教授の言葉を借りれば「暗い部屋の中で手探り状態でものにぶつかったりしながら、なんとか見える幻を探るような」作業が伴うものなのだ。
●それぞれの専門分野をもった科学者たちに、研究分野における事実ではなく、魅力的で不確実な領域における新しい発見についての興奮を語らせることにより、ファイアーステイン教授は、無知への興味を引き立てようとしている。
●「無知は限定的なものであり、人間のもっている知識は強固かつ安定的なものであり、科学的事実の新発見も優雅なものである」と教えてしまうと、学生たちは問いと答えの相互作用について勘違いしてしまうことになる。
●一般的には何かを「知らない」状態というのは解消されるべき、もしくは克服されるべきだと考えられがちだが、それに対する「答え」というのは、単に「問い」を解決するのではなく、むしろ新たな問いを生じさせることになるのだ。
●オーストラリア国立大学の社会科学者であるマイケル・スミスソンは、この夏のオンラインコースで無知についての教えたのだが、彼は以下のようなアナロジーを使っている。それは、知識の「島」のサイズが大きくなるにつれて、海岸線――知識と無知の境界線――も伸びていく、というものだ。
●つまりわれわれの知識が増えれば増えるほど、「問い」は増えるのだ。「問い」はすぐに「答え」に直結しているわけではない。なぜならこの二つは共に増えていくものであるからだ。
●「答え」は「問い」を生じさせるものだ。好奇心というのは「不動の気質」のようなものではなく、むしろ絶え間なく獲得され助長される「思考」の情熱なのだ。
●上記のアナロジーを続けると、知識の「島」の「海岸線」の地図の作成のためには、不明確な状況に関する心理学の理解が必要になる。この「海岸線」が拡大する際に「問い」と「答え」が生じるのだが、この線には不明瞭かつ矛盾する情報がつきものなのだ。
●心理学でも実証されているように、この結果として出てくる不明瞭な状態というのは、われわれの興味を掻き立てるものであり、陽気な気分と驚きだけでなく、逆に混乱とフラストレーションをも生み出すのだ。
●「知っていること」と「知らないこと」の境目というのは、トマス・クーンが1962年に出版した『科学革命の構造』という古典的な本の中で記した、変則的なデータを認めてそれを検証していく際のわれわれの先入観に対峙していく際の苦悩にもあらわれている。
●その反対に、この島の中央部というのは安全かつ安心できる場所であり、われわれがビジネスがイノベーションを起こし続けるのに苦慮している理由はまさにここにある。ハーバード・ビジネススクールのゲイリー・ピサノ教授によれば、業績が良い時の企業は学びのスピードをゆるめてしまい、不確実から逃れようとして「島」の外側に向かうことを拒否してしまいがちだ。
●無知の研究、もしくはスタンフォード大学の科学史専門のロバート・プロクター教授が有名にした「無知論」(agnotology)というのは、まだはじまったばかりの分野だ。その理由は、その学際的な性質や、まだその歴史が浅いところにある(これについてはこの本が詳しい)。
●ところがまだ知識のない人間に対して「問い」と「答え」の豊かな相互作用を明らかにするような事例を提示したり、不明確な状態についての心理学を開拓することを強調することは、決定的に必要とされていることだ。
●また教育者というのは、無知と創造性の豊かな関係性を示したり、不確実性を戦略的につくりだすことに時間を割くべきである。
●社会学者のマティアス・グロスやリンゼー・マゴイは「無知を例外的なものではなく、通常の状態であると見なす時期にきた」と大胆に論じてるが、これは正しい。われわれの学生たちは、科学的な事実に加えて、「知識の理論」の他に「無知の理論」を身に付けることができれば、さらに知的な意味で好奇心をもつことになるはずだからだ。
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実はこのような「ある学問領域における無知」というのは、私が学位をとった戦略研究(strategic studies)の世界でも全く同じ状態です。
これについての詳細は私が書いた論文の中で読んでいただければ幸いなのですが、戦略研究でも無知論でも、その学問で確実になっていないものというのは本当にたくさんあります。さらにその学問が学際的になってくると、まさに学問的には知らないことだらけ。
戦略研究ではいまだに孫子とクラウゼヴィッツが圧倒的な存在なのも、むしろ戦略というものが非常に学際的な性格を帯びているところに関係がありそうです。
それにしても学問的に「知らないこと」を教えるというのは、逆説的ですが、たしかに学ぶ側にとっては興味を起こしてくれそうですね。
ちなみに上の記事では「パラダイム・シフト」という言葉を有名にしたトーマス・クーンの『科学革命の構造』に触れておりましたが、個人的には同著者の『コペルニクス革命』のほうがはるかにタメになった、実に興味深い本だと考えております。私がいままで読んだ本の中でベスト10に入る面白さでした。
▼奴隷の人生からの脱却のために
「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!
▼奥山真司の地政学講座
※詳細はこちらから↓
http://www.realist.jp/geopolitics.html



http://ch.nicovideo.jp/strategy

https://www.youtube.com/user/TheStandardJournal
さて、今週の放送(http://www.nicovideo.jp/watch/1440579914)でも触れた、アメリカで細々ながらも教えられている「無知の知」という分野の学問の重要性について、ニューヨーク・タイムズ紙に興味深い記事がありましたので、その要訳を。
著者はアメリカのシンクタンクの研究員ですが、これはわれわれの知的作業そのものや、教育について考える際にも参考になる記事です。
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無知を教えることの大切さ
by ジェイミー・ホームズ
The Case for Teaching Ignorance
By Jamie Holmes
15-8/24 NY Times
http://www.nytimes.com/2015/08/24/opinion/the-case-for-teaching-ignorance.html?_r=0
●1980年半ばに、アリゾナ大学の外科の教授であるマーリス・ウィッテ女史は、「医療やその他の分野での無知についての基礎講座」というコースを設立することを学校側に提案した。
●ところが彼女の提案の受けはよくなかった。そんな授業をそもそも賛成するくらいなら大学を辞めたほうがマシだという職員もいたほどだ。ウィッテ博士はそのコースの名前を変更するように求められたが従わなかった。彼女の考えでは、自分の教える学問の分野の中に「知らないこと」が溢れていることを教えない教員が多すぎたからだ。
●その数年後だが、彼女は「医学の教科書ではすい臓がんについて8頁から10頁ほど書かれておりますが、それについてわれわれがどれほど知らないのか一言も書かれていないのです」と述べている。
●彼女は自分の学生たちに、知識には限界があることや、質問のほうが答えよりもはるかに注目されるべきものであることを理解してもらいたいと考えたのだ。その後、アメリカ医学協会はこの授業に資金を出すことに同意し、学生たちはこの授業を「無知入門」(Ignorance 101)と親しみを込めて呼ぶようになった。
●もちろん彼女が教えるようなコースはまだ珍しい存在だが、近年になってから何人もの学者たちは、学問における「不確実性」に焦点を当てると、学生たちは興味を持つようになり、逆にわかっていることを強調しすぎると、知識の理解をねじ曲げることにもなりかねないことを論証している。
●たとえば2006年にコロンビア大学の神経科学者であるスチュワート・ファイアーステインは、彼の教えた学生たちが脳についてすべてわかっているかのように考えていることを実感してから、科学の無知についてのコースを教え始めた(彼自身は1400頁もある教科書にその原因があると睨んでいる)。
●彼は2012年に「イグノランス:無知こそ科学の原動力」という本を出版したのだが、その中で、多くの「科学的事実」というものが実は全く不変で強固な土台の上に立ったものではなく、なんども検証されてその後の世代に書き換えられるものであることを論じている。
●そもそも科学的発見というのは、一般的な学生たちが考えているほど綺麗で直線的なものではなく、むしろファイアーステイン教授の言葉を借りれば「暗い部屋の中で手探り状態でものにぶつかったりしながら、なんとか見える幻を探るような」作業が伴うものなのだ。
●それぞれの専門分野をもった科学者たちに、研究分野における事実ではなく、魅力的で不確実な領域における新しい発見についての興奮を語らせることにより、ファイアーステイン教授は、無知への興味を引き立てようとしている。
●「無知は限定的なものであり、人間のもっている知識は強固かつ安定的なものであり、科学的事実の新発見も優雅なものである」と教えてしまうと、学生たちは問いと答えの相互作用について勘違いしてしまうことになる。
●一般的には何かを「知らない」状態というのは解消されるべき、もしくは克服されるべきだと考えられがちだが、それに対する「答え」というのは、単に「問い」を解決するのではなく、むしろ新たな問いを生じさせることになるのだ。
●オーストラリア国立大学の社会科学者であるマイケル・スミスソンは、この夏のオンラインコースで無知についての教えたのだが、彼は以下のようなアナロジーを使っている。それは、知識の「島」のサイズが大きくなるにつれて、海岸線――知識と無知の境界線――も伸びていく、というものだ。
●つまりわれわれの知識が増えれば増えるほど、「問い」は増えるのだ。「問い」はすぐに「答え」に直結しているわけではない。なぜならこの二つは共に増えていくものであるからだ。
●「答え」は「問い」を生じさせるものだ。好奇心というのは「不動の気質」のようなものではなく、むしろ絶え間なく獲得され助長される「思考」の情熱なのだ。
●上記のアナロジーを続けると、知識の「島」の「海岸線」の地図の作成のためには、不明確な状況に関する心理学の理解が必要になる。この「海岸線」が拡大する際に「問い」と「答え」が生じるのだが、この線には不明瞭かつ矛盾する情報がつきものなのだ。
●心理学でも実証されているように、この結果として出てくる不明瞭な状態というのは、われわれの興味を掻き立てるものであり、陽気な気分と驚きだけでなく、逆に混乱とフラストレーションをも生み出すのだ。
●「知っていること」と「知らないこと」の境目というのは、トマス・クーンが1962年に出版した『科学革命の構造』という古典的な本の中で記した、変則的なデータを認めてそれを検証していく際のわれわれの先入観に対峙していく際の苦悩にもあらわれている。
●その反対に、この島の中央部というのは安全かつ安心できる場所であり、われわれがビジネスがイノベーションを起こし続けるのに苦慮している理由はまさにここにある。ハーバード・ビジネススクールのゲイリー・ピサノ教授によれば、業績が良い時の企業は学びのスピードをゆるめてしまい、不確実から逃れようとして「島」の外側に向かうことを拒否してしまいがちだ。
●無知の研究、もしくはスタンフォード大学の科学史専門のロバート・プロクター教授が有名にした「無知論」(agnotology)というのは、まだはじまったばかりの分野だ。その理由は、その学際的な性質や、まだその歴史が浅いところにある(これについてはこの本が詳しい)。
●ところがまだ知識のない人間に対して「問い」と「答え」の豊かな相互作用を明らかにするような事例を提示したり、不明確な状態についての心理学を開拓することを強調することは、決定的に必要とされていることだ。
●また教育者というのは、無知と創造性の豊かな関係性を示したり、不確実性を戦略的につくりだすことに時間を割くべきである。
●社会学者のマティアス・グロスやリンゼー・マゴイは「無知を例外的なものではなく、通常の状態であると見なす時期にきた」と大胆に論じてるが、これは正しい。われわれの学生たちは、科学的な事実に加えて、「知識の理論」の他に「無知の理論」を身に付けることができれば、さらに知的な意味で好奇心をもつことになるはずだからだ。

実はこのような「ある学問領域における無知」というのは、私が学位をとった戦略研究(strategic studies)の世界でも全く同じ状態です。
これについての詳細は私が書いた論文の中で読んでいただければ幸いなのですが、戦略研究でも無知論でも、その学問で確実になっていないものというのは本当にたくさんあります。さらにその学問が学際的になってくると、まさに学問的には知らないことだらけ。
戦略研究ではいまだに孫子とクラウゼヴィッツが圧倒的な存在なのも、むしろ戦略というものが非常に学際的な性格を帯びているところに関係がありそうです。
それにしても学問的に「知らないこと」を教えるというのは、逆説的ですが、たしかに学ぶ側にとっては興味を起こしてくれそうですね。
ちなみに上の記事では「パラダイム・シフト」という言葉を有名にしたトーマス・クーンの『科学革命の構造』に触れておりましたが、個人的には同著者の『コペルニクス革命』のほうがはるかにタメになった、実に興味深い本だと考えております。私がいままで読んだ本の中でベスト10に入る面白さでした。
▼奴隷の人生からの脱却のために
「戦略の階層」を解説するCD。戦略の「基本の“き”」はここから!

▼奥山真司の地政学講座
※詳細はこちらから↓
http://www.realist.jp/geopolitics.html



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by masa_the_man
| 2015-08-27 16:05
| 日記

