戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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歴史学者たちの傲慢さに気をつけよう

今日の横浜北部は本当に真夏でした。ピークですね、これは。

さて、だいぶ以前からぼんやりと考えていたことを書いておきたいと思います。

すでに告知させていただいたように、私は現在、次に出る本の訳出作業の最終追い込み段階に入っているのですが、ここ数日間とりくんでいるテーマが、なんと核兵器に関するもの。

「なんか物騒なテーマですねぇ」とお感じになる方もいらっしゃると思いますが、原著者はなんといってもレーガン政権で核戦略をアドバイスしていた人物ですから、この分野が専門領域であり、色々と言いたいことがあったようで色々と書いており、こちらも勉強になってます。

ただしこれを訳していて私が個人的にあらためて感じたのは、やはり「戦略はフィクションである」ということです。

というのも、グレイ自身はソ連に対抗するためにアメリカの核戦略をアドバイスしていたわけですが、なにせ核兵器というのは、歴史上アメリカが日本に対して2度使っただけ。冷戦後期にソ連と対峙していたアメリカのような国が、大量に核武装している相手と撃ち合いになったという例は(幸運なことに)一度もありません。

ところがこのような「核戦争」(nuclear war)というのは、その発生の可能性としては「ゼロ」ではないので、アメリカもソ連も、互いに最悪の事態を想定して、政府の上層部はさておき、軍同士は手持ちの核兵器を使って戦う計画を立てておりました。

しかし繰り返しますが、誰も「核戦争」を戦った経験を持つ人物はいませんので、おのずとその計画や訓練、それに兵器の調達などは「核戦争になったらおそらくこうなるだろう」という推測を元にするしかなくなってしまいます。

もちろん当時の専門家たちは「推測を元にしたもの」というと聞こえが悪いため、とくにアメリカ側は、戦争経験のある軍人ではなく(そもそも彼らだって核「戦争」の経験はないので素人)、経済学者や数学者、それに社会科学系の学者たちに、いざ核戦争が起こった場合の戦略理論を色々と議論させて、精緻化させていきました。

ところが根本的に、それは「まだ起こっていないことを計画する」ということですから、相変わらず推測の域を出ません。そういう意味で、核戦略というのは、まだ起こっていない未来についての話、つまりフィクションと変わらないわけです。

ところが核戦略だけでなく、戦略というのは基本的にすべてフィクションじゃないか?、というのが私の長年の問題意識です。

たとばプロイセンの英雄、大モルトケは、

「敵の主力に最初に対峙した後まで確実に生き残るような作戦計画というものは存在しない」

という印象的な言葉を残しておりますが、これは戦略全般にも言えることです。戦争や戦闘というのは、その流れがどのようになるのかは、いざ起こってみないと誰にも全く予測がつかないものだからです。

ところがこれは戦争だけでなく、人間が未来に向かって新しいことをやっていこうとする場合、その活動全般にもあてはまることではないでしょうか?

たとえば前のエントリーで紹介した「ハードシングス」という本ですが、原著者はITベンチャーで全く新しいことをやっていく時に、戦略やビジョンのようなもの(つまりフィクション)を立てながらとりかかるわけですが、基本的に先はどうなるのかわからないので、すべて手探りでやっております

これは経営だけでなく、国家経営である政治、戦争、さらにはミクロのスケールでいえば、われわれ個人の人生でも全く一緒です。みんな先がどうなるのかわからないので、手探りでやっているわけですね。

ところがここで「歴史学者」のような人物が出てきます。彼らは過去の政治や戦争、それに核戦略のようなものに対して、ただ単に自分がその結果を知っているだけなのに、上から目線でガンガン批判をするわけです。

しかもその当事者たちが、完全な情報をもたない「戦場の霧」の中で必死にのたうち回っていたことなどは無視です。

さらにひどい人にいたっては、「過去を知っている」というだけで、まるで自分が「神の視点」を手に入れたかのように振る舞いつつ、そこから現在の状況や、さらにはこれからどうすべきかという未来的なことまで、さも聞いてきたかのように論じてしまうことがあります。

つまり歴史を知っている(と思う)ことは、知的に傲慢な態度につながりやすい、ということなのです。

ちなみにジャンル的に現在のことを最もよく語れるのは、現役のジャーナリストたちかもしれませんし、未来についてはシンクタンクの人間、さらには占い師やSFライターたちのほうが適役ということになるのかもしれませんが・・・

もちろんこれはすべての歴史家や歴史学者たちに当てはまることではないですが、人間にとっての最大の問題は、まだ起こっていない未来についてはフィクション的なツール(戦略論や、状況の違う時代の歴史の教訓など)を使って対処していくしか方法はない、ということであり、その反対にファクト(ノンフィクション)だけを求める歴史学者に未来を語らせるのは、実は本人が勘違いしている傾向があるために、われわれが思っているよりも危険である、ということです。

余談ですが、バーナード・ブロディは、

「人々がどのように戦争を遂行し、ストレスのかかった状態の中でどう行動するのかについての唯一の実証的なデータは、われわれがもつ“過去の経験”であるが、ここで忘れてはならないのは、これらの経験が現在とは条件の大きく異なる環境の中で起こったということだ」

と書いてます。至言ですね。
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未来はまだ来ていません。

過去のノンフィクションの知識はもちろん重要ですが、未来に向かっていく場合、われわれにはフィクションの力も重要なのではないでしょうか、という問題提起でした。




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Commented at 2015-07-28 10:59 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 名無し at 2015-07-28 14:00 x
初めまして、現状では安保法制に反対の者です。

多くの憲法学者達が反対の根拠として述べ、また私も同意するのは「集団的自衛権行使は現在の9条条文から読み取れず、解釈の範疇を越えているから」です。

メディアや一部の学者などは徴兵制だなんだと騒ぎますが、問題の本質はそこではなく、政府が憲法を越えて行政行為を行おうとしていること、だそうです。

国際政治や安全保障分野、特に戦争において正確な予見が困難なこと、そして本来畑違いの学者達が先頭に立って反対していることはまさに貴方が述べられている通りだと思いますが、法案が必要なら必要で、国民投票による改憲を経てからでないと近代国家の根幹である「法治主義」に反することになってしまいます。

机上の空論だと思われるかもしれませんし、国民に論点を説明し、国民投票で過半数を得るのは実際難しいことでしょう。しかしそれを踏まえてもなお必要なことだと思います。

長文失礼しました。
Commented by ow at 2015-07-28 17:36 x
加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」の問題意識と類似を感じます

〈人々は重要な決定をしなければならないとき、自らが知っている範囲の過去の出来事を、自らが解釈した範囲で「この事件、あの事件、その事件……」と参照し、関連づけ、頭のなかでものすごいスピードで、どれが参照するにあたいするのか、見つけだす作業をやっているものです。そのような作業が頭のなかで進行しているとき、いかに広い範囲から、いかに真実に近い解釈で、過去の教訓を持ってこられるかが、歴史を正しい教訓として使えるかどうかの分かれ道になるはずです。ですから、歴史を見る際に、右や左に偏った一方的な見方をしてはだめだというのは、そのような見方ばかりをしていますと、頭のなかに蓄積された「歴史」のインデックスが、教訓を引きだすものとして正常に働かなくなるからですね〉(p.72)
Commented by 待兼右大臣 at 2015-08-09 00:31 x
本業ではありませんが、憲法学者が「憲法史家」として行う大日本帝国憲法への批評はまさに「歴史家」としての傲慢さにあふれています。そのため、本業の日本近代史研究者も「第一次憲政擁護運動」(≒大正政変)に対して

天皇による「統治権の総攬」を規定していたことで否定的評価が一般的な明治憲法により行われる「憲政」の何を、どのように「擁護」せよと言っていたのかが具体的に理解できないでいた

とまで言わしめる状況となっていたのです。
Commented by 待兼右大臣 at 2015-08-09 00:46 x
続きです
名古屋大学の大屋教授のように

明治憲法の再評価自体は構わないんだけど要するに制定時の相場とか社会情勢とか権力構造に合わせて、作って伊藤博文も「そのうち改正しよう」とか言っていた(以下略)

という例もありますが、「立憲主義」といいながら、伊藤博文が大日本帝国憲法制定に費やした労力に全く敬意を払わないというのも「史家」としての傲慢さの現れでしょう。

その「憲法史家」としての憲法学者の傲慢さを批判して余りある「憲政史家」の倉山満氏も、当時の人物評価に対しては、その「歴史家としての傲慢さ」がにじみ出ています
(氏の場合それが「芸風」なのかもしれませんが)

私もネット上の議論に参戦して15年以上経ち、歴史を論ずる上での「後知恵に基づく『傲慢さ』」を局限するように努力していますが、どれほどのものかは・・・
by masa_the_man | 2015-07-27 23:34 | 日記 | Comments(5)