ウォルトの国際関係論入門論文:前半 |
さて、久々の更新はかなりマジメな学術論文を。
といってもこの論文は、私が訳本を出したことのあるウォルトというハーバード大学の先生が、いまから15年ほど前に書いた初学者向けの「国際関係論の入門の手引」みたいなものです。
私が現在教えている学生向けによい論文を探していたのですが、短くまとまったものでなかなか良いものがなかったので、思い切って私が自ら訳してしまいました。
明日の授業で配る予定だったんですが、
ということで、知る人ぞ知る超有名論文です。ちょっと長いので前半と後半にわけてみました。また後半の余分と思われる部分は一部カットしております(ヒマがあれば全訳版を載せますが・・)。
※誤字脱字、誤訳などの指摘は大歓迎です。以下のコメント欄のほうまでどしどしお気軽にお寄せください。訳者である私の名前を表示してくれさえすれば、転載大歓迎です。
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International Relations: One World, Many Theories
by Stephen M. Walt
Foreign Policy, No. 110, Special Edition: Frontiers of Knowledge. (Spring, 1998), pp.29-32+34-46.
国際関係論:一つの世界、多くの理論
by スティーブン・ウォルト
政策担当者たちは、なぜ国際政治についての学術研究を理解しておくべきなのだろうか?もちろん対外政策を実践する人々が、アカデミックな理論家たちの研究を理解しようとしないことが多いのはその通り(その理由も確かに納得できるものがある)なのだが、それでも理論の抽象的な世界と、政策が行なわれる現実の世界には、断ち切ることのできないつながりというものが存在するのだ。毎日浴びせかけられる洪水のような情報を整理するために、われわれは理論を必要とするからである。
「理論」に対して軽蔑的な態度をとる政策担当者たちでさえも、何かものごとを決断する際には、世界がどのように動いているのかを説明する彼ら自身の(暗黙の場合が多いが)アイディアに頼らざるを得ない。もしその基本的な原理・原則が間違っていれば、良い政策を作成することも難しいのであり、これは現実世界をよく知らないまま良い理論を構築するのは困難であることと全く同じだ。誰もが自覚する・しないにかかわらず、理論を使っているのであり、政策についての意見の相違は、大抵の場合は国際的な動きを決する基本的な動きについての相違という根本点な面にまで行き着くことになる。
たとえば、中国に対してどのように対処すればいいのかという現在行なわれている議論について考えてみよう。ある視点によれば、中国の上昇は台頭する国家が世界の勢力均衡を潜在的に危険な方向(とくにその影響力が上昇するおかげでますます野心的になる)へ変化させようとする最新例であることになる。ところが別の視点では、中国の将来の行動のカギは、世界のマーケットへの統合や(不可避な?)民主主義の原則によって柔和なものに変化するかどうかにかかってくることになる。さらに別の視点では、中国と中国以外の世界の国々との関係は文化やアイデンティティの問題に左右されることになる。つまり、中国は自分たちのことを(そして他国から)国際社会のノーマルな参加国として見るのか、それとも特別な扱いを受けるべき独特の国家であると捉えるのかが問題になるというのだ。
同じような意味で、北大西洋条約機構(NATO)の拡大についての議論も、どの理論を使うかで見方が変わってくる。リアリスト(現実主義)の視点では、NATOの拡大は、ロシアが弱っていた時期に行なわれた、西側諸国の影響圏――アメリカの重大な国益がかかる伝統的な範囲をはるかに越える――の拡大を目指した行動であり、モスクワから激しい反発を生むことになると予測される。ところがリベラル(自由主義)の視点では、中欧の生まれたばかりの民主制度を強化し、潜在的に不穏な地域にNATOの紛争管理の仕組みを拡大することになる。三つ目の視点では、おそらくチェコやハンガリー、そしてポーランドなどを、戦争を考えられないものとする共通のアイデンティティを持った西側の安全保障のコミュニティーに組み込みことの価値を強調することになる。
当然ながら、これらの理論のうちのたった一つを使うだけでは、現代の世界政治の複雑さのすべてを捉えきることはできない。したがって、われわれは単一の理論的な考え方を使うよりは、競合する様々なアイディアを採用するほうが良いといえる。理論間の競争によってそれらの強みと弱点が見えてくるし、それが後に各理論の精緻化を促し、同時に一般常識に潜む間違いも明らかにされる。もちろんわれわれは理論ごとの陣営に分かれて互いに悪態をつくのではなく、創意工夫を強調することを奨励し、現代の学問の異種混合状態を歓迎して、それを促進すべきなのだ。
●われわれはどこから来たのか
国際政治の学問は、リアリスト(現実主義)、リベラル(自由主義)、そしてラディカル(過激主義)という三つの学派の競争として見ることが最適である。リアリズムでは、国家間の紛争の永続的な傾向が強調される。リベラリズムでは、これらの紛争的な傾向を緩和するためのいくつかの方法が指摘される。そしてラディカルな学派では、国際関係の仕組み全体をどのように変えればよいのかが示されることになる。これらの学派の違いはそこまで明確なものではなく、重要な著作でも、この中のどれにも属さないものは多い。ところが学派の内部や学派の間での議論は、大まかに分類することができるのだ。
▼リアリズム
リアリズムは、冷戦期を通じて最も支配的な理論であった。この理論では利己的な国家の間でパワーを巡る争いが展開され、全般的に紛争と戦争を防ぐ見通しに関しては悲観的であることになる。リアリズムが冷戦期で圧倒的だったのは、戦争、同盟、帝国主義、国家間協力の難しさやその他の国際的な現象をシンプルかつ強力に説明したからであり、アメリカとソ連の争い中心にある国家間の競争関係の存在を強調したからだ。
当然ながら、リアリズムはたった一つの理論ではなく、冷戦期を通じてリアリストの理論は大きく進化している。ハンス・モーゲンソー(Hans Morgenthau)やラインホールド・ニーバー(Reinhold Niebuhr )のような「伝統的」リアリストたちは、国家を人間と同じような存在としてとらえ、そこには生まれつき備わった「他者を支配したい」という欲望が備わっており、これが戦争へと導くと考えた。また、モーゲンソーは伝統的な、多極的な勢力均衡システムの利点を強調しており、米ソ間の二極的な競争関係は、とりわけ危険なものと見ていた。
それに対してケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)によって進化させられた「ネオ・リアリスト」の理論では、人間の本性というものは無視され、国際システムの効果が中心になっている。ウォルツにとって、国際システムというのは一定数の大国によって構成されているもので、それぞれが「生き残り」(サヴァイヴァル)を目指している。このシステムはアナーキー(互いから守ってくれるような中央政府が存在しない状態)であるため、各国家は自ら生き残りを図らなければならない。ウォルツはこの状態のおかげで弱小国たちがより強力な国家にバンドワゴン(追従)するのではなく、バランス(直接対抗)することになるという。そしてモーゲンソーと対照的に、ウォルツは二極システムのほうが多極システムよりも安定的だと主張するのだ。
リアリズムにとっての理論の重要な進化は、ロバート・ジャーヴィス(Robert Jervis)、ジョージ・クェスター(Geroge Quester)、そしてスティーブン・ヴァン・エヴェラ(Steven van Evera)によって論じられた「攻撃・防御理論」である。彼らは国家が互いをより簡単に侵攻できるようになればなるほど戦争の発生する確率が高まると論じた。ところが防御が攻撃よりも簡単な場合、安全の度合いは高まることになり、国家の拡大へのインセンティブは減少し、国家間の協力関係は促進されるというのだ。そしてもし防御側が有利になり、国家が攻撃的な兵器と防御的な兵器を見分けることができれば、その国家は他国を脅かすことなくそれから身を守るための手段を獲得することができるし、それによってアナーキーの効果も薄めることができるのだ。
このような「ディフェンシヴ(防御的)・リアリスト」たちにとって、国家はただ単に「生き残り」を求めているだけであり、大国は自身の安全を、「バランシング同盟」(balancing alliances)を結成し、防御的な軍事態勢(報復的核兵力など)を選ぶことによって確保できることになる。そして当然のように、ウォルツや他のネオ・リアリストたちは、アメリカが冷戦期のほとんどの期間に極めて安全な状態にあったと考えているのだ。彼らの最大の心配は、アメリカがその有利なポジションを無駄に侵略的な対外政策を採用することによって浪費してしまうのではないかという点だ。したがって、冷戦の終わりにリアリズムはモーゲンソーの人間の本質に対する暗く重苦しい考え方から離れ、やや楽観的な雰囲気を採用することになった。
▼リベラリズム
リアリズムに対する主な挑戦は、リベラル系の理論の数々によって突きつけられてきた。たとえばリベラル派の一部は、経済相互依存によって国家が互いに軍事力を使おうとするのを抑えると論じている。その理由として、彼らは戦争が互いの経済的繁栄を脅かすことになるからだとしている。リベラル系の中でも、とくにウッドロウ・ウィルソン大統領の議論に代表される一派は、民主主義の拡大が世界平和の実現のための唯一のカギであり、この論拠を、民主制国家のほうが独裁的な国家よりも本質的に平和的であるという点に求めている。
その他にも、より最近の考えでは、国際エネルギー機関(IEA)や国際通貨基金(IMF)のような国際制度機関が、直近の自国だけの得を諦めさせて、国際協力を通じたより多きな利益を得ることを奨励することによって、国家の利己的な行動を克服することができると主張している。リベラル派の中には、「多国籍企業のような新たな越境的なアクター(行為主体)が国家の力を侵食している」というアイディアをもてあそんでいる人々もいるが、一般的にリベラル派は「国家が国際政治における中心的なプレイヤーである」と見なしている。すべてのリベラル系の理論で示唆されているのは「国家間の協力はディフェンシブ・リアリズムよりもはるかに説得力を持つものである」ということだが、それをどのように促進していのかについては、それぞれ意見が異なる。
▼ラディカル派のアプローチ
マルクス主義は、一九八〇年代まで主流派のリアリスト系やリベラル系に対抗する主な学派であった。リアリスト・リベラルの両学派は国家システムを前提にものごとを見ていたのだが、マルクス主義は国際紛争について違った説明を行っており、既存の国際的な秩序を根本的に変える青写真を提供していた。
古典的なマルクス主義の理論では、資本主義が国際紛争の中心的な原因であると見られていた。資本主義国家は、互いの絶え間ない利益を巡る争いや、社会主義国家との戦いのために戦ってきたのだが、この理由は彼らがそれらの中に自らの破滅の原因があると感じたからだ。それとは対照的に、新マルクス主義の「従属論」では、先進国である資本主義国家と後進国の関係性に着目し、前者――先進国の邪悪な支配階級の助けによって――が後者を搾取することによってますます富を蓄積していると論じられる。その唯一の解決法は、この寄生虫的なエリートたちを打倒して、自律的な発展を誓う革命政府を打ち立てることだという。
この二つの理論は、冷戦が終わる前の時点でほぼ信用を失っており、先進工業国の間における経済・軍事面での密接な協力の歴史から判明したのは、資本主義が必ずしも紛争につながるわけではないということであった。また、共産主義世界が激しく分裂していたことからもわかるように、社会主義は常に調和を促したわけではない。 従属論も同じように次第に多くの反証を突きつけられることになり、第一に、世界経済への積極的な参加のほうが、自律的な社会主義的な発展よりも繁栄を得るにはより良いルートであることが判明したこと、そして第二に、多くの発展途上国が自ら証明したように、多国籍企業やその他の資本主義制度とうまく取り引きを行うことができたために、その説得力を失ってしまった。
この学派の思想がいくつもの面で欠点があからさまになってくると、その思想的な部分は、文芸評論や社会理論におけるポストモダンの著作などから多くのアイディアを借りた、ある理論家たちの集団に引き継がれることになった。この「脱構築的」(deconstructionist)なアプローチは、リアリズムやリベラリズムのような一般的・普遍的な理論を構築しようとする努力に対して明確に批判的であった。その証拠に、このアプローチの提唱者たちは、社会的な結果を形成する際に使用される言葉の「言説」の重要性を強調したのだ。ところがこの学派の人々は、当初は主流派のパラダイムを批判することを狙っていたにもかかわらず、それに代わる新たな代替案を提出しなかったために、一九八〇年代のほとんどの期間を通じて、あえて反体制の少数派のまま残ったのである。
▼国内政治
もちろん冷戦期のすべての国際政治の分野の専門家たちが、リアリスト、リベラル、もしくはマルクス主義という分類に入るわけではない。なぜなら多くの重要な著作が、国家や政府の組織、もしくはリーダー個人たちの特徴について注目しているからだ。リベラル派の理論の民主制を強調する学派はこの分類に当てはまるのであり、他にもグレアム・アリソン(Graham Allison)やジョン・ステインブルーナー(John Steinbruner)などは、組織理論や官僚政治を使って国家の対外政策の行動を説明しており、ジャーヴィスやアーヴィング・ジャニス(Irving Janis)などは社会・認知心理学を応用している。彼らの研究のほとんどは国際政治の全般的な行動を説明しようとするものではなく、むしろ国家がリアリストやリベラルなアプローチとは異なる行動をする別の要因を指摘するものであった。したがって、これらの文献のほとんどは、国際システム全体を分析するアプローチというよりも、これらの三つの主流派のパラダイムを補完するものであると見なされるべきである。
(↓後半につづく)