戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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軍事における革命(RMA)とテクノロジーの話

今日の横浜北部はよく晴れましたが、午後から風が吹いて寒くなりました。

さて、私の長年の研究テーマ(?)の一つであるテクノロジーについて、最近ある文献を読みかえして感じたことがありましたので、それを少し。

RMAといえば、アメリカの戦略関連の文書を読んだことがある人でしたら、割合と馴染みのある言葉かもしれません。

これはRevolution in Military Affairsという言葉というか、コンセプトの頭文字をまとめた略称でありまして、日本語では「軍事における革命」という訳語が当てられております。

元々はソ連の軍人たちが1970年代後半あたりにアメリカで進化する軍事技術の質的な面での革命的な向上に注目して、これを論じ始めたのがきっかけだとされております。

80年代半ばにソ連のオガルコフ将軍が「もっとコンピュターなの情報通信関連への分野への投資をしろ!」と何度も進言していたことでピークを迎えたわけですが、ソ連側の研究はソ連の崩壊であっけなく終了。

ところが当のアメリカ側は湾岸戦争(1991年)の圧倒的な勝利を受けて、とくに国防省周辺の人間たちが「なぜアメリカは戦争に勝てたのか」を研究するうちに、「技術面で革命が起こっている!」と結論づけたわけです。

その成果の一つが、1992年にペンタゴンの相対評価局(ONA)で内部文書として発表された、アンドリュー・クレピネヴィッチ(Andrew F. Krepinevich)の画期的な論文でありまして、その2年後にはナショナル・インタレスト誌で公開されております。

ちなみにクレピネヴィッチは、あの「エアシー・バトル」というコンセプトを提案した、ペンタゴンに近いシンクタンクである米戦略・予算評価センター(CSBA)の代表なんですが、これは関係ないので置いておきます

そのクレピネヴィッチの有名論文の題名は

●「騎兵隊からコンピュターへ:軍事革命のパターン」
Cavalry to Computer: The Pattern of Military Revolutions”(PDF)

というものでして、RMA関連の研究をする人で読んだことのない人は「モグリ」と言われるほど有名な論文。

ところネットで検索した限り、日本ではあまりこの論文の中身について言及している人はいないようなので、簡単にここでクレピネヴィッチが説明している「軍事技術革命」(Military Technological Revolution: MTR)というものを説明しておきます。

クレピネヴィッチは、この「軍事技術革命」というものが、14世紀から数えると、少なくとも10回起こったと分析しております。

以下はその10回の「革命」のポイントをその論文から抜き出したもの。

1,歩兵革命(the Infantry Revolution):長弓の技術が戦術面での革新と相まって、戦場における支配的な存在が騎兵から歩兵に移り変わることが可能になった。

2,砲術革命(the Artillery Revolution): 砲身の長大化、冶金技術の革新、そして火薬の性能の向上などによって砲兵が強力かつ安価になり、それにともなう攻城戦における組織変化のおかげで、城を守る側が不利になった。

3,航海術と射撃の革命(the Revolution of Sail and Shot):船の動力がオールから帆に変わり、これによって船に重量のある大砲を載せることが可能になって、戦艦が「浮上している兵士の要塞」から「砲台」に変わった。

4,要塞革命(the Fortress Revolution): 低く厚い壁の登場によって大砲の効果が薄れ、優位が攻撃側から防禦側に移った。

5,火薬革命(the Gunpowder Revolution):マスケット銃という技術革命が、横隊的(の次に方陣的)な戦術へのドクトリン面での変化とともにもたらされたもの。

6,ナポレオン革命(the Napoleonic Revolution):産業革命と兵器の大量生産 によって大陸軍の登場を可能にしており、これによって野戦軍の規模が桁違いの大きさになった。

7,陸上戦革命(the Land Warfare Revolution):鉄道や電信のような新しい民生技術が戦略的な機動性を向上させ、指揮官が戦場で大規模な部隊を維持しながら広範囲に分散した作戦を協調させることができるようになった。

8,海軍革命(the Naval Revolution):帆船が蒸気船に、そして木造船が鉄造船に変わったことによって、より重く大規模な戦艦や大砲が実現し、いままでの舷側に大砲を積むような戦術から新しい戦術の採用につながった。

9,戦間期の革命(he Interwar Revolutions in Mechanization, Aviation and Information,):これは機械化、航空機、そして情報面で起こったもの。機械・通信面での技術革新は、最終的に航空機と機械化された部隊を使用したドイツの電撃戦における統合作戦につながった。

10、核革命(the Nuclear Revolution ):核兵器の登場によって起こったものであり、ドクトリンの理論化や弾道ミサイルの登場とも相まって、超大国の軍の中に新しい組織の創設を促すことになった。

ということです。

軍事に興味のない人にとっては「だから何よ?」ということになるかもしれませんが、私が今回ここで言いたいことは、このような軍事における「技術」の変化の部分。

というのは、これを読み返して私が非常に気になったのは、クレピネヴィッチたちが、後にこれを「軍事技術革命」(MTR)という言葉から、「軍事における革命」(Revolution in Military Affairs)という言葉に言い改めたからです。

なぜ改めたのかというと、「軍事技術革命」という言葉だと、日本語でいうところの「技術」、つまりハードウェア面での革新や革命という意味が強調されしまうという点を心配したからなのです。

実際の上記のような革命というのは、たしかに技術面でのイノベーション、いわゆる「ものづくり」的なところが重要のように見えますが、クレピネヴィッチをはじめとする人々が後に説明したのは、

本物のRMAが起こるためには、技術面、ドクトリン・作戦面、そして組織面の、3つの分野でのイノベーションが必要だ

ということなのです。

これをいいかえれば、テクノロジーによって本物の革命的な変化が社会(や戦争)に起こるためには、技術の「ものづくり」的なハードウェアの部分だけではなくて、それを運用するためのソフトウェア(戦略やドクトリン)、そしてそれを使用できるようにする人間の集団の「組織の構造」までも変わらないとダメ、ということです。

つまり大きな変化に必要なのは、「技術」と「ソフト」と「組織」である、ということなのですが、われわれ日本人はどちらかといえば「技術」の部分だけに意識を向けすぎであり、それ以外の2つを軽視しがちな傾向があるのかと。

結局私が何を言いたいのかというと、日本が社会全体(というか経産省が主体?)で推進している日本の「ものづくり」を中心としたテクノロジーの考え方というのは、それ以外の要素を無視しているためにバランスを決定的に欠いていることを、実は上の論文の示唆するところから学べるのではないか、ということです。

そしてさらに気になったことがもう一つあるのですが、このつづきはまた明日のブログで。


Commented by 無花果 at 2014-03-22 03:58 x
いいアプローチだと思います。
従来の「ものづくり重視への疑問」という形だと、残念ながらただ、「だからものづくりは無駄なんだ」と言いたいだけの、右から左に重心を変えるだけでバランスの悪さはまるで改善されていないのを気にしない人に持て囃され気味でしたから。より望ましいのは「折角の技術のアドバンテージを無駄にしないために、足りない部分を技術面に比肩するところまで延ばしましょう」という+方向へ日本人の意識を向けさせる事だと思います。
なんといっても地震国家の日本では、安保の面だけでなく、技術レベルの維持も死活問題に直結しますので。
Commented by at 2014-03-22 09:35 x
日本の空母機動部隊は革命的とは思われていないんですかね。
Commented by 台湾が心配 at 2014-03-22 13:53 x
南雲機動部隊、小沢艦隊共に、9番目の半分しかできていないですよね。
バトル・オブ・ブリテンや、電撃戦、後期アメリカ機動部隊における、情報収集、分析、統制、がごっそり抜けています。
新しい道具を作ることは出来たし、使うことも出来たが、従来の組織、戦術の延長としてしか使えていない=相手がおなじ道具をもっと有効に使えると想像していない、と思います。
日露戦争においては、教えられなくてもできていたと思うので、極論すれば、トップ人事が駄目だった、つまるところ、社会体制の弱さであった、という事になろうかと思うのですが。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-22 14:16 x
「ものづくり」が、迷走しているのは、「技術」だけを分離しているところに無自覚であると考えています。

現在の経済活動では発送電分離や鉄道の上下分離、インターネットのレイヤーのように階層で分離しているという例が多々あります。

「ものづくり」という技術のレイヤーだけで成立するのか否かというのは挑戦に値すると思います。この挑戦に成功すれば、文化文明を問わず、導入可能な技術という画期的なものとなります。但し、問題は

日本人は何でも「道」にしたがる

ということです。それを我慢できるか、それができれば、文化文明の壁によって導入が困難になっている技術を全世界に売り込めるという商売機会をつかむことが可能となります
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-22 14:28 x
逆の発想で言えば、

日本の技術を「◯◯道」

のつもりで世界に売り込むということです。これなら、従来の日本的な世界観を変更することなく対応が可能だと思われます
Commented by 田中 at 2014-03-22 16:36 x
台湾が心配さん
>>日露戦争においては、教えられなくてもできていたと思うので、極論すれば、トップ人事が駄目だった、つまるところ、社会体制の弱さであった、という事になろうかと思うのですが。

日露戦争までよかったがその後だめなのは、トップだけの責任ではなく組織の経験を継承しなかったからだと思います。第一次世界大戦の時の日本の動きは明治と同じ国とは思えない失態ばかり、つまり国全体で経験の継承をしてこなかったのでしょう。それは現代も同じ。

経験継承の難しさについては「失敗学」に載っていますのでそちらに譲ります。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-22 20:47 x
「経験継承」とどこまで関係あるかどうか不明ですが、参考まで

第一次世界大戦の時の日本の動きが、時の外相である加藤高明を指すのであれば、有る意味仕方のないことです。

加藤は当時の政治勢力の二大潮流である山縣閥及び政友会とは一線を画した政治家であり、和戦の決には元老の同意がいるという慣行を打破しようとした政治家であることから、経験継承とは遠いところにいた政治家です。

さらに言えば、西暦1900年頃に維新政府から曲がりなりにも国家機構が完成の域に達し、以後、1900年体制と言われる時代となり、西暦1924年に護憲三派連立内閣が成立して「憲政の常道」と言われる時代となります。

しかし、1900年体制の経験を引き継ぐべき政治家(桂太郎、原敬、加藤友三郎、加藤高明)は軒並み早世してしまい、憲政の常道時代で当時の経験を伝承出来る者は「最後の元老」西園寺公望しかいませんでした。

当時の軍人政治家で一番最後まで政治生命を保ったのが、憲政の常道時代に一番適合できない山縣だったというのも不幸です。

これ以上は、また別の機会に。
Commented by 台湾が心配 at 2014-03-23 20:59 x
技術、組織、これらについて広大な範囲で情報を集めて分析し、それを元に研究開発から組織までを再編するとなると、これはトップがよく考えよく人を使いよく働く組織じゃないと出来ないでしょう。
権限の関係で、中途半端にしか出来ない、情報が無い(与えられた視野が狭い)から中途半端なものしか出来ない、組織内で白眼視される、旧日本軍の有能な人の立ち位置と業績はこんなものばかりのような気がします。
よく言われる戦争経験の必要性、10年に一度、実戦が必要だと言うのは、その中で役に立てた人間がその後のキーパーソンになるという意味で、有用だという点もあるかと思います。
ただ、やればいいかというと、日本の場合どうでしょうか。
明治維新のような全員体当たりの戦いでもない限り、押し付けられた人が消耗しきって消えて行く図が思い浮かびます。
偉くなってはいけない人が偉くなるのが、人間組織が生まれ変われない要因だというのは極めて単純で理にかなっている考え方だと思います。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:20 x
>>日本の場合どうでしょうか

戦前日本についての「経験の継承」について、とりあえずの私見を物語風にまとめたので、ご参考まで。

>>10年に一度、実戦が必要
これは、伊勢神宮の遷宮(20年に一度ですが)にもいえるかと思います

明治維新後、国家機構が整備され、政治の世界では大きく
・官僚(陸軍、海軍、文官)、
・衆議院(自由党(板垣系)、改進党(大隈系))
に整理されていきます。

このような国家機構の整備とセクショナリズム(組織縦割り)は表裏一体です。

例えば、最初の内閣である第一次伊藤内閣は首相を含めた10人の大臣中、6名が中将以上の階級を有する「軍人」でした。事情を知らない人が見れば「軍事政権」と判断しても仕方がないような内閣構成でした。ある意味、維新政府が戊辰戦争という「内戦」を経て成立したという「軍事政権」という側面を色濃く残していたともいえるでしょう。そして、そのような人物で、内閣制度発足前から閣僚(参議)の地位に達した人物で内閣制度発足後も政治生命を維持できた面々は、「明治維新の正統継承者」として確固たる地位を確立し、彼らは後に「元老」といわれる存在となります。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:24 x
つまり、明治政府の国家機構が確立するまでは、明治維新を戦った軍人が政府高官の主要人材供給源であり、彼らのような軍人は軍部大臣以外のヒラ大臣に就任するというのが通例でした。

そのことは、明治時代において軍人の大臣経験者で軍部大臣のみの閣僚経験を有する者は事実上「たった一人(仁礼景範)」だったという事実にも現れています。

このような内閣は第二次山縣内閣で事実上終わりを告げます。そして、この内閣で文官任用令などの官吏任用規則が一応の完成を見ます。これによって、官吏は陸軍武官、海軍武官、一般文官、外交官(と議会人)というような各々の専門領域の中で出世していくこととなり、この「領域をまたいだ」人事は事実上不可能となってしまいました。

日露戦争後、このような政府の構造は、「官」側は山縣閥が、「政(衆議院)」は伊藤博文が自身に連なる官僚と板垣系の議員を糾合する形で設立した政友会が代表する形で、両者の「相互補完と相互依存」という形で一応の安定を見ます。これが、いわゆる「1900年体制」といわれるものです。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:27 x
この1900年体制と陸士海兵卒業者が軍の最高幹部に手が届き始めた頃は概ね重なり合いますが、海兵卒の海軍大臣は1900年体制の成立期(山本権兵衛:第二次山縣内閣)であり、陸士卒の陸軍大臣は1900年体制の崩壊期(石本新六:第二次西園寺内閣)という差があります。

ただ、確実にいえるのは、1900年体制の成立で軍部大臣から非軍部ヒラ大臣という大臣歴任コースは消滅し、30年以上経った後(日華事変勃発後)の第一次近衛内閣まで、復活しませんでした。なお、日露戦争開戦前の「美談」とされる児玉源太郎の内務大臣からの参謀次長「降任」は、この大臣歴任コースの消滅を示すものでした。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:28 x
維新政府から「一皮剥けた」1900年体制において、政治と軍事を統合した「統治の知恵」というものがどのよう維新の元勲から継承されようとしたでしょうか。

「官」側は、圧倒的に武官それも陸軍が優勢でした。で、陸海軍の有望株が軍部大臣として「政治経験」を積み、その中で山縣、大山、西郷従道の査定に合格したものが、彼らの庇護の元で「次代の軍のリーダー」として軍を背負って立つというものでした。具体的には、桂太郎、山本権兵衛(と児玉源太郎)が該当し、寺内正毅と斎藤実が、桂と山本の後継者として育てられていました。

「政」側は、伊藤の後継者として西園寺公望がおり、原敬と松田正久が西園寺後の政友会を背負って立つ存在といわれていました。政権担当能力に乏しい第一次西園寺内閣では、政友会員の閣僚は西園寺の他には二人だけであり、残りの七名は山縣閥に配慮した閣僚構成でした。で、その二人の政友会員の閣僚は原と松田であり、特に原は内務大臣という事実上の副総理格での入閣でした。彼らは、第二次西園寺内閣でも再入閣します。この閣僚人事が原と松田の「特別な立場」というのを物語っています。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:31 x
この人材育成・継承方策が、変調をきたします。前に出てきた石本新六陸軍大臣が陸相在職中に死去し、その後を襲った上原勇作陸相による単独辞任をきっかけにして勃発した大正政変(第一次護憲運動)により、山縣閥と政友会との相互依存的安定構造が崩壊します。さらに、この「事件」を奇貨として、山縣により「政界半引退」に追い込まれていた桂が首相として復活します。

この政変劇の余波で、桂は、国家指導者としては、山県スタイルではなく、伊藤スタイルに鞍替えします。具体的には、政友会に対抗できる政党を結成し、その政党党首として政治家として「復活」すると言うものでした。当時「桂新党」といわれていたこの政党が、後に立憲同志会→憲政会→民政党と戦前の我が国に蹴る二大政党の一翼を担うようになります。

結局、桂、山本からの世代交代はうまくいきませんでした。

Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:32 x
桂は、大正政変で第三次内閣を組織しますが、二ヶ月に満たない短命内閣であり、かつ、総理辞任直後に急死します。その後を襲った山本はジーメンス事件で後継者の斉藤とともに予備役に追われ、軍人政治家としては「終わった」存在となりました。山本の後を襲った大隈内閣では、外相の加藤高明が第一次世界大戦参戦をめぐる外交で、元老から「落第点」をつけられ、その汚名をそそぐには、10年もの時間を必要としました。その後を襲った寺内も米騒動で総理を辞任して程なく死去します。

大正政変から10年足らずで、次代の指導者、次々代の指導者と目された人物が次々と脱落し、ただ一人残ったのが原でした。しかし、その原も後継者を育てる前に暗殺されてしまいます。原の暗殺後、元老西園寺の希望も空しく、あっという間に政友会は政権担当能力を失ってしまいました。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:34 x
原の死後、10年の雌伏の時(「苦節十年」)を経て加藤高明が失地回復ししますが、加藤も総理就任後ほどなく、総理在任中に死去します。

さらに不幸なことに、立憲君主制国家において、そのような場合、最後の防波堤となるべき君主(大正天皇)も君主としての職務遂行が不可能となり、事実上の退位(博仁親王の摂政就任)に追い込まれます。

このように、原の暗殺後、1900年体制から「憲政の常道」への橋渡しをすべき指導者の継承が事実上断絶に追い込まれた中、「縦割り」という「蛸壺」に閉じこもった「官(武官、文官)」の世界、原、加藤の死後、弱体化し、「政治の側からの統合」のビジョンを持てなくなった政党。

そのような「内憂」と呼応するかのように、満州という「外患」への対応を迫られる政府及び軍。もはや、政界、官界には、国家権力の統合を担うべき存在は失われていました。その中で名実ともに「君主」となった昭和天皇を中心とする「宮中」が「最後の希望」として現れますが、君主側近が政治統合を果たすということは、天皇自身を政治の表舞台に出すという天皇制そのものを賭けた所業になるので、その「希望」に応えることは不可能です。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 01:43 x
このような状況の中、「縦割り」、「蛸壺」では対応不可能な「総力戦」に対応しようとした田中義一、宇垣一成は、結局陸軍を追われることとなります。
特に、田中は、原内閣の陸相として、原のパートナーとしての存在感もあったことから、原の暗殺は田中の軍における立場にも悪影響を及ぼしたでしょう。
陸軍を追われた田中は、政友会総裁として迎えられ、政友会総裁として首相に就任します。

「春秋の筆法」を以ってすれば、戦前の我が国の敗戦は、原敬の暗殺で運命付けられていたといえるのかもしれません。
Commented by 待兼右大臣 at 2014-03-25 02:21 x
最後に、山縣、原の死、裕仁親王の摂政就任という自称がほぼ同時に生じたことを「経験の継承」という視点でというヒントを与えてくれた田中さん

戦前日本の話題を振ったコメントを下さった皆様

待兼の考える「和」とは何かという質問を投げかけた枯山さん

その他、このブログの参加者の皆様

そして、なにより、この場を提供していただいたブログ主の奥山さん

の各氏に感謝して、この長文の〆とさせていただきたいと思います。
Commented by sdi at 2014-03-26 01:28 x
待兼右大臣殿、勉強になりました。
大正政変からシーメンス事件に至る期間で日本政府のトップの経験者が生物的もしくは政治的に軒並み退場という状況がいかに異常事態かを、そしてその異常事態ぶりを見過ごしていたか実感しました。てシーメンス事件の年の8月にWWI開戦。世界が変わってしまいます。
近代日本史のこの時期については「藩閥による人治的な政治体制の終焉と大正デモクラシーの幕開け」という評価が一般的な認識ですね。私もそう認識していました。しかし、その裏で人材育成と経験継承のシステムの断絶もしくは破綻が起きていた、という分析は正直ショックでした。
ただ、このシステムはキーマンとなる極少数の人材の識見と能力とその政治的及び生物的生命力に依存するすると言う点で組織というより徒弟制度のような印象を受けます。コントロールしなくてはならない組織の巨大さ比べて経験継承の範囲が小さすぎたのではないでしょうか。
by masa_the_man | 2014-03-21 22:07 | 日記 | Comments(18)