2014年 03月 13日
クリミアのタタール人を救え! |
今日の京都北部は雨でした。気温が上がったせいか、あんまり寒くないですね。
さて、ウクライナのクリミア情勢に関して、以下のような体験記的な記事がありましたので、いつものように要約で紹介です。
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クリミアで助けなければならないのはタタール人だ
BY マーク・チャンピオン
●現在進行中のロシアのクリミア併合について、多くの識者は西側にとっての「ミュンヘン講和だ」とか「ズデーテン地方だ」という地政学的な分析をしている
●しかし人道的な面でわれわれが本気にならなければ問題は、クリミアのタタール人である。
●イスラム系のタタール人は、ロシア帝国がオスマン帝国が彼らの住む半島を割譲したときから何度も迫害にあっており、スターリンは民族浄化を試みているほどだ。
●1944年にはタタール人のほとんどが中央アジアやシベリアに強制移住させられており、その半分近くが殺されている。
●もちろんガス室や強制収容所があったわけではないが、タタール人の恐怖を理解するのに一番わかりやすいのが、ドイツに突然占領されてしまうことを恐れていた東欧のユダヤ人の例である。ちなみにドイツはこのホロコーストの責任に関してはまだ認めていない。
●たしかにこれが過大評価だと感じられても仕方ない部分はある。しかし、クリミアで暴徒がタタール人の家の扉に黒い塗料で☓印をつけて回っていると報じられており、これは1944年のユダヤ人の国外追放を思い起こさせるには十分なものだ。
●アーメット・ベルベル氏は、子供の時にウズベキスタンやシベリアに送られた人物である。現在は機械工を引退した79歳だが、頭脳は明晰なままだ。
●1941年にドイツがソ連に宣戦布告した時に彼はまだ幼稚園児であったが、シンフェロポリ郊外の自宅で家族とともに地下に隠れている時に、意味不明な言葉をしゃべっている人間たち(ドイツ語とルーマニア語)が家に近づきつつある場面をまだ鮮明に覚えているという。
●スターリンは、戦争が終わってすぐにタタール人のことを「ドイツ側の協力者だ」と宣言したが、ベルベル氏は「ここには老人と子供しか残っておりませんでした」という。彼はいまだにこの宣言を聞いたときの驚きを隠せない様子だ。
●たしかにタタール人の中にはドイツ側について戦った者もいた。ところがそのほとんどは、ソ連側について戦ったのだ。
●1944年5月18日に、当時まだ8歳だったベルベル氏は、夜明け前の時間に突然起こされて、ロシア語をしゃべる自動小銃で武装した2人の男たちにあと15分で外に出るように命令されたという。
●一台のトラックに5家族が積み込まれてシンフェロポリの駅に連れていかれ、貨車に自分の家族以外の50人ほどと一緒に載せられることになった。彼はこの時に始めて列車を見たという。
●ウズベキスタンへの旅は18日間続き、食べるものもほとんどなかったため、中には列車が停止した時に降りて火を起こしてパンを焼こうとした人もいたが、あまり成功はしなかったという。中には貨車の中で弱って死ぬ人も出てきた。
●列車は川の上の橋で止まるようになり、監視員はそこで死体を川に投げ込むようになったという。「まるで犬のようだった」とはベルベル氏のことば。
●最終的に彼らの貨車ともう2台の貨車がウズベキスタンの田舎に到着したのだが、彼らは粗末な小屋が集まったところに連れて行かた。そのうちの一つは、すでにポーランドのユダヤ人によって満室になっていたという。
●ベルベルの祖母と祖父はそこで数ヶ月して死に、姉もそれに続いたという。人々はあまりにも弱っていたために死者を土深く埋葬する体力もなく、野生の動物に死体を掘りかえされてしまうこともあったとか。
●最終的にユダヤ人収容所の所長は、ベルベル氏の家族が住むための家を、近くの村に1軒確保してくれた。1956年まで彼らはそこを離れることを許されなかったが、それでもなんとか生活をまかなえるようになってきた。
●そして1990年に、クリミアのタタール人たちは故郷に帰ることを許された。もちろんクリミアには彼らの家や土地がなかったため、自分たちで一からすべてやり直さなければならなかった。
●結局ウクライナ政府は彼らに土地の所有を認め、ベルベル氏とその家族は初めて自由を実感できたという。現在、彼は自分の息子の一人と、シンフェロポリ郊外のセメント製の家にくらしている。
●クリミアのタタール人ほど、この地域でウクライナのEUへの段階的な統合による保護と権利を必要としている集団はない。
●覆面のロシア兵が到着してからというもの、反対意見を唱えるテレビ局やメディアなどは閉鎖され、あらかじめ予定されていたロシア併合の是非を問う国民投票の開催が宣言された今、この望みは急速に失われつつある。
●ベルベル氏の年老いた妻は、国民投票が宣言されたとたんにショックで倒れてしまい、それ以来入院したままだ。若いタタール人の男たちは自警団を結成して活動を始めたが、彼らにできることにも限界がある。
●「ロシアには自由はないのです。われわれは身を持って体験してますからね」とベルベル氏が息子の家の台所で私に語ってくれた。「彼らはわれわれの希望を奪いさったのですよ」
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タタール人の歴史に関する貴重な証言ですね。それにしても壮絶な。
ただし私は、今になってこのような記事が出てきたという点に政治的な意図を感じざるをえないわけでして・・・
さて、ウクライナのクリミア情勢に関して、以下のような体験記的な記事がありましたので、いつものように要約で紹介です。
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クリミアで助けなければならないのはタタール人だ
BY マーク・チャンピオン
●現在進行中のロシアのクリミア併合について、多くの識者は西側にとっての「ミュンヘン講和だ」とか「ズデーテン地方だ」という地政学的な分析をしている
●しかし人道的な面でわれわれが本気にならなければ問題は、クリミアのタタール人である。
●イスラム系のタタール人は、ロシア帝国がオスマン帝国が彼らの住む半島を割譲したときから何度も迫害にあっており、スターリンは民族浄化を試みているほどだ。
●1944年にはタタール人のほとんどが中央アジアやシベリアに強制移住させられており、その半分近くが殺されている。
●もちろんガス室や強制収容所があったわけではないが、タタール人の恐怖を理解するのに一番わかりやすいのが、ドイツに突然占領されてしまうことを恐れていた東欧のユダヤ人の例である。ちなみにドイツはこのホロコーストの責任に関してはまだ認めていない。
●たしかにこれが過大評価だと感じられても仕方ない部分はある。しかし、クリミアで暴徒がタタール人の家の扉に黒い塗料で☓印をつけて回っていると報じられており、これは1944年のユダヤ人の国外追放を思い起こさせるには十分なものだ。
●アーメット・ベルベル氏は、子供の時にウズベキスタンやシベリアに送られた人物である。現在は機械工を引退した79歳だが、頭脳は明晰なままだ。
●1941年にドイツがソ連に宣戦布告した時に彼はまだ幼稚園児であったが、シンフェロポリ郊外の自宅で家族とともに地下に隠れている時に、意味不明な言葉をしゃべっている人間たち(ドイツ語とルーマニア語)が家に近づきつつある場面をまだ鮮明に覚えているという。
●スターリンは、戦争が終わってすぐにタタール人のことを「ドイツ側の協力者だ」と宣言したが、ベルベル氏は「ここには老人と子供しか残っておりませんでした」という。彼はいまだにこの宣言を聞いたときの驚きを隠せない様子だ。
●たしかにタタール人の中にはドイツ側について戦った者もいた。ところがそのほとんどは、ソ連側について戦ったのだ。
●1944年5月18日に、当時まだ8歳だったベルベル氏は、夜明け前の時間に突然起こされて、ロシア語をしゃべる自動小銃で武装した2人の男たちにあと15分で外に出るように命令されたという。
●一台のトラックに5家族が積み込まれてシンフェロポリの駅に連れていかれ、貨車に自分の家族以外の50人ほどと一緒に載せられることになった。彼はこの時に始めて列車を見たという。
●ウズベキスタンへの旅は18日間続き、食べるものもほとんどなかったため、中には列車が停止した時に降りて火を起こしてパンを焼こうとした人もいたが、あまり成功はしなかったという。中には貨車の中で弱って死ぬ人も出てきた。
●列車は川の上の橋で止まるようになり、監視員はそこで死体を川に投げ込むようになったという。「まるで犬のようだった」とはベルベル氏のことば。
●最終的に彼らの貨車ともう2台の貨車がウズベキスタンの田舎に到着したのだが、彼らは粗末な小屋が集まったところに連れて行かた。そのうちの一つは、すでにポーランドのユダヤ人によって満室になっていたという。
●ベルベルの祖母と祖父はそこで数ヶ月して死に、姉もそれに続いたという。人々はあまりにも弱っていたために死者を土深く埋葬する体力もなく、野生の動物に死体を掘りかえされてしまうこともあったとか。
●最終的にユダヤ人収容所の所長は、ベルベル氏の家族が住むための家を、近くの村に1軒確保してくれた。1956年まで彼らはそこを離れることを許されなかったが、それでもなんとか生活をまかなえるようになってきた。
●そして1990年に、クリミアのタタール人たちは故郷に帰ることを許された。もちろんクリミアには彼らの家や土地がなかったため、自分たちで一からすべてやり直さなければならなかった。
●結局ウクライナ政府は彼らに土地の所有を認め、ベルベル氏とその家族は初めて自由を実感できたという。現在、彼は自分の息子の一人と、シンフェロポリ郊外のセメント製の家にくらしている。
●クリミアのタタール人ほど、この地域でウクライナのEUへの段階的な統合による保護と権利を必要としている集団はない。
●覆面のロシア兵が到着してからというもの、反対意見を唱えるテレビ局やメディアなどは閉鎖され、あらかじめ予定されていたロシア併合の是非を問う国民投票の開催が宣言された今、この望みは急速に失われつつある。
●ベルベル氏の年老いた妻は、国民投票が宣言されたとたんにショックで倒れてしまい、それ以来入院したままだ。若いタタール人の男たちは自警団を結成して活動を始めたが、彼らにできることにも限界がある。
●「ロシアには自由はないのです。われわれは身を持って体験してますからね」とベルベル氏が息子の家の台所で私に語ってくれた。「彼らはわれわれの希望を奪いさったのですよ」
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タタール人の歴史に関する貴重な証言ですね。それにしても壮絶な。
ただし私は、今になってこのような記事が出てきたという点に政治的な意図を感じざるをえないわけでして・・・
by masa_the_man
| 2014-03-13 19:34
| 日記

