相手を殺す覚悟はあるのか? |
さて、最近考えていることをひとつ。
マイケル・ハワード(Michael E. Howard)という学者がおります。そういえばイギリスの保守党の党首に同じ名前の人がおりますが、こっちは歴史家で戦略・安全保障研究の世界的な権威のこと。
ロンドン大学のキングス・カレッジやIISSというシンクタンク(ミリバラを出しているところ)、それにオックスフォード大学に戦史研究の講座をつくったりと、20世紀後半に大活躍した人ですが、最近でも短い文書を時々書いたり、たまに講演に顔を出したりしておりまして、私もイギリスの留学時代に何度か彼の話を出版記念講演会などで聞いたことがあります。
そういえばうちの学校にも講演に来たことがありますし、本ブログでもその様子の写真がどこかに掲載されているはずです。
戦略研究の分野では、ハワードはなんと言っても『戦争論』の英訳決定版を76年に出したことで有名かと。
この人物が1970年に出した本の中で、以下のようなことを書いております。
ーー国家の独立に対する究極の覚悟というのは…「自分たちの命の安全を確保・維持するためには、自らの命を本気で危険にさらすことができるのか」という問いかけによって試されるのだ。
これはつまり「安全を守るためには命を賭ける覚悟があるのか?」ということなんですが、これは言い換えれば「安全のためには脅威を及ぼしてくる相手を殺す覚悟があるのか?」ということです。
極端にいいかえれば、「あんた、安全のために殺人を犯す覚悟あんの?」ということです。
日本では安全保障研究(security studies)という講座や、なんと戦略研究という講座まで一部では開講されているという噂を聞きますが、私がいわゆる安全保障関係の学問で最近とくに「偽善だよなぁー」と感じるのが、このような
「自分たちの安全を確保するために相手を殺せますか?」
という究極の問題を、学問の場では極力避けている、という点です。ま、当然といえば当然なのですが。
ただし戦略研究のほうは広範囲な安全保障学などとは違って、少なくとも敵の「殺傷」と「破壊」ということについては正面から扱っているところがあり、上品な学者先生たちが最も直視したくない事実である「相手を殺すという倫理問題」については多少考えているところがあるように思えます。
そういう意味では、安全保障研究などよりは、より「偽善」の度合いは少ないと言えるでしょう。
私がなぜこんなことを考えるのかというと、今年のはじめに参加したあるカンファレンスで、イスラエルの学者であるマーチン・ファン・クレフェルトが、並み居るリベラル派の安全保障関連の研究者の前で、
「君たちは気軽に"安全保障”(security)という言葉を使うが、この安全は何よって確保されるんだい?それは敵を殺すという、命の代償をかけるかどうかという覚悟によって決定されるんだよ?」
と何度も強調していたことを思い出したからです。
これと似たようなことは私も自分の先生やその周辺から何度も聞いていたので別に珍しいものではなかったわけですが、日本に帰ってきてだいぶたってからこのようなコメントを聞くと極めて新鮮に聞こえるから不思議なわけです。
まあ日本の学問ではそういうことをそこまで真剣に考えなくてもいい状況にあり、ある意味では「偽善」を続けられているという意味では幸せなのかもしれませんが・・・・
ということでまとまりのない話なんですが、とにかく「安全保障」とか「戦略」というものは、つきつめれば相当な覚悟が必要なものである、ということだけは本ブログを読んでいる方々には理解しておいていただきたいと思って、こんなことを書きました。