2013年 08月 20日
本と電子書籍の違い |
今日の横浜北部はまたしてもよく晴れました。暑さは続いております。
さて、久しぶりに軽い読み物を。
といっても、相変わらず「テクノロジー」に関するものなんですが。
===
本は読んでとっておくもの
Byヴァーリン・クリンケンボーグ
●私は一冊の本(エド・マクベインのもの)を自分のiPadで読み終え、これををクラウドに預けたところだ。
●これによって、この本は私の「デバイス」から消え去ったわけであり、同時に私の意識からも消え去ってしまったわけだ。これは非常に奇妙な感覚だ。
●現物の「本」を読むときには、私はその本の文章や本そのもの――その形やジャケット、その重さと印刷の体裁など――を覚えている。
●ところが電子書籍を読んでしまうと、覚えているのは文章だけだ。
●本の「本らしさ」というのは消滅してしまうし、むしろそれはそもそもはじめから存在しないものと言えるだろう。
●アマゾンが私に教えてくれるのは、私が注文しようとしているその本をすでに読んだことがあるということである。ところが実際の本屋では、私はすでに私のiPadで読んだことのある本を「発見」することが多い。
●このようなことから、私は自分の本棚にある本についていままでとは違った見方をするようになった。本棚の本というのはただそこに存在するだけであり、単に「私が読みおわったもの」の集合にしかすぎなかったのだ。
●ところが私の電子書籍から目を移してみると、物理的に存在する本というのは別の目的を持っていることに気づいた。それは、「常に私にたいして読んだものを教えてくれるもの」となったのだ。
●彼らが私に訴えかけているのは、「俺たちはまだここにいるぞ!」ということであり、「俺たちのこと覚えてる??」ということなのだ。
●電子書籍はこのようなことは全く訴えかけてこないし、ソフト上の、クラウドにしまいこまれており、私のiPadの電源を切ると、文字通り「消滅」してしまうのだ。
●これはほんの微妙な違いなのかもしれないが、それでも私にとっては大きな違いだ。読むという行為は実質的にはかないものなのだが、実際の本を読むとそのようには感じない。なぜなら読んだ後も「読んだ行為の証」として物理的にその名残を残してくれるからだ。
●つまりこの想像的な行為が物理的に残ることによって、完全に実在的なものとなるのだ。ところが電子書籍を読む行為というのは、それ自体を目立たないものにしてしまうのだ。
●ここ数年で、私は自分のiPadでおよそ800冊を読んできた。それらは私自身を変えてくれたし、世界についての私の理解を変えて、注意を奪ったと同時に楽しませてもくれた。
●ところが私自身はまだ電子書籍を読むという行為そのものについて悩んでおり、それに完全に慣れようとしていない自分がいるのだ。
●ところが読者というのは読むという行為について考えてきたし、それこそそれはグーテンベルグが印刷機を開発した時から長いこと続いているのだ。
●白い紙の黒い文字、もしくはスクリーン上のドットというのは、われわれの意識を突き動かす何かを大きなものを持っている。しかしそれでもわれわれはそれを「読んだ」という証拠を必要としている。
●そしてこの証拠は、本棚にある本が相変わらず提供しつづけているものなのだ。
===
ちょっと違うかもしれませんが、積読(つんどく)にも効果あり、ということですな。
それにしてもテクノロジーの進化というのは人間のものごとの「体験」まで変えてしまう部分があるわけで。
さて、久しぶりに軽い読み物を。
といっても、相変わらず「テクノロジー」に関するものなんですが。
===
本は読んでとっておくもの
Byヴァーリン・クリンケンボーグ
●私は一冊の本(エド・マクベインのもの)を自分のiPadで読み終え、これををクラウドに預けたところだ。
●これによって、この本は私の「デバイス」から消え去ったわけであり、同時に私の意識からも消え去ってしまったわけだ。これは非常に奇妙な感覚だ。
●現物の「本」を読むときには、私はその本の文章や本そのもの――その形やジャケット、その重さと印刷の体裁など――を覚えている。
●ところが電子書籍を読んでしまうと、覚えているのは文章だけだ。
●本の「本らしさ」というのは消滅してしまうし、むしろそれはそもそもはじめから存在しないものと言えるだろう。
●アマゾンが私に教えてくれるのは、私が注文しようとしているその本をすでに読んだことがあるということである。ところが実際の本屋では、私はすでに私のiPadで読んだことのある本を「発見」することが多い。
●このようなことから、私は自分の本棚にある本についていままでとは違った見方をするようになった。本棚の本というのはただそこに存在するだけであり、単に「私が読みおわったもの」の集合にしかすぎなかったのだ。
●ところが私の電子書籍から目を移してみると、物理的に存在する本というのは別の目的を持っていることに気づいた。それは、「常に私にたいして読んだものを教えてくれるもの」となったのだ。
●彼らが私に訴えかけているのは、「俺たちはまだここにいるぞ!」ということであり、「俺たちのこと覚えてる??」ということなのだ。
●電子書籍はこのようなことは全く訴えかけてこないし、ソフト上の、クラウドにしまいこまれており、私のiPadの電源を切ると、文字通り「消滅」してしまうのだ。
●これはほんの微妙な違いなのかもしれないが、それでも私にとっては大きな違いだ。読むという行為は実質的にはかないものなのだが、実際の本を読むとそのようには感じない。なぜなら読んだ後も「読んだ行為の証」として物理的にその名残を残してくれるからだ。
●つまりこの想像的な行為が物理的に残ることによって、完全に実在的なものとなるのだ。ところが電子書籍を読む行為というのは、それ自体を目立たないものにしてしまうのだ。
●ここ数年で、私は自分のiPadでおよそ800冊を読んできた。それらは私自身を変えてくれたし、世界についての私の理解を変えて、注意を奪ったと同時に楽しませてもくれた。
●ところが私自身はまだ電子書籍を読むという行為そのものについて悩んでおり、それに完全に慣れようとしていない自分がいるのだ。
●ところが読者というのは読むという行為について考えてきたし、それこそそれはグーテンベルグが印刷機を開発した時から長いこと続いているのだ。
●白い紙の黒い文字、もしくはスクリーン上のドットというのは、われわれの意識を突き動かす何かを大きなものを持っている。しかしそれでもわれわれはそれを「読んだ」という証拠を必要としている。
●そしてこの証拠は、本棚にある本が相変わらず提供しつづけているものなのだ。
===
ちょっと違うかもしれませんが、積読(つんどく)にも効果あり、ということですな。
それにしてもテクノロジーの進化というのは人間のものごとの「体験」まで変えてしまう部分があるわけで。

by masa_the_man
| 2013-08-20 19:35
| 日記