なぜ今「地政学」なのか:テクノロジーとの関係
2013年 08月 16日
さて、8月15日だからというわけではないのですが、再び地政学のことについて色々と考えを巡らせております。
もちろんこれは地政学の理論について解説した新書を現在執筆中だからというわけではないのですが、世界の事象がことあるごとに地政学的な観点でしか説明できないものばかりになってきたと感じるからです。
本日はメルマガのほうにも地政学の意義みたいなことを書いてみたのですが、個人的にとくに気になっているのは、ここ数日のエントリーでもおわかりのように、地政学と「テクノロジー」の関係です。
日本でいままで地政学について書かれた文献というのは、一般的に地理の重要性については当たり前のように言及されているのですが、なぜかテクノロジーの重要性については、不思議なくらいに触れたものがありません。
ところがマッキンダーは自分の三つの「地政学の時代区分」でも述べているように、
コロンブス前の時代:馬
コロンブス時代:船
コロンブス後の時代:鉄道、車
という風に、そこに社会における主役となる機動力、つまり「テクノロジー」の存在というものを、とりわけ強調しているのです。
さらにはニコラス・スパイクマンはテクノロジーに関連して、
ー物体を動かす能力である「機械のパワー」が無いところにはテクノロジーが存在しないことになる。そして人を動かす能力である「政治のパワー」がなければ、テクノロジーは社会目的のために貢献することはできない
―地理は国家政策を形成する上で最も基礎的な要素である、なぜならそれは最も永続的なものだからだ。大臣は次々と変わるし、独裁者でさえいつかは死ぬ。ところが山脈は揺るぎなく立ち尽くすのだ
ー(ところが)通信・交通のスピードや、産業界の技術の発展は、必然的に特定の国々のパワーポジションを変動させることになる。つまり地理的な事実は変化しないが、それらが対外政策に与える意味は変化するのだ。
という非常に印象的な言葉を残しております。これはテクノロジーへの注目という点で特筆すべきことかと。
日本では「テクノロジー」というものに「技術」という訳語を当てたために、どうしても「ものづくり」や「伝統のワザ」というニュアンスが醸し出されてしまいます。
しかし「テクノロジー」というのは現在、専門書などでは大きくわけて三つの定義があるとされており、
1,ハードウェアとしてのテクノロジー
2,ルールとしてのテクノロジー
3,システムとしてのテクノロジー
となっております。
一般的な日本の理解では、まだまだ1のハードウェア(=技術・ものづくり)やルール(テク)の面ばかりが強調されていて、どうもシステムというソフト的な要素を含んだ理解が少ないような気がしてなりません。
ようするに、日本のテクノロジーについての理解というのは「抽象度」が低いのではないか、ということです。もちろんそれには悪い面だけでなく、良い面もあるのですが・・・。
ということで、この辺の話題については次回のメルマガでも引き続き触れていこうかと考えております。
