戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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ドイツ地政学者の証言:その3

今日の横浜北部は蒸し暑く、午後から晴れましたね。梅雨明けですか。

さて、昨日のつづきです。

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●私が推進していた「正しいドイツ地政学」の数々の証拠は、すでにアイゼンハワー司令官代理であったパットン将軍指揮下の第三軍総司令部やジャクソン判事のスタッフなどによって接収されている。

●私の理論というのは、そもそもがフリードリヒ・ラッツェルの本や、彼の弟子でアメリカにわたったセンプル、それにスウェーデンのルドフル・チェーレンなどからきたものだ。ところがこの大部分は、大陸の人々ではなく、英語を話す人々によって書かれたものである。

●彼らがドイツ人の学者たちに教えたのは、「われわれの主人を教育しよう」という原則である。

●私の教育の元になったのは、マハン、ブルックス・アダムス、ジョー・チャンバレン、トーマス・ホルドリッチ、ハルフォード・マッキンダー、キッチェナー卿、そしてイザヤ・ボウマンである。

●第三帝国に大きく勘違いされたのは、陸と海の戦いがシーソーゲームになっているという部分である。これはヴィルヘルム二世の大失敗となっていたからだ。

●さらに勘違いされていたのは、日独露のトロイカ体制とヨーロッパ、東アジア、ユーラシアの「文化的なつながりと間違われていた点だ。一方的なドイツの東方侵略はそれに対する罪をつくることになった。

●私は第三帝国の帝国主義的な拡大は決して支持しなかった。ズデーテンまではよい。でもその先はダメだ。その先にドイツ人は住んでいなかったからだ。これは息子とも話したことがあるのだが、われわれは併合主義による民族統一はいかなる形のものであっても否定していた。

●日本についての予測だが、これは地理と文化を元にしたものであった。日本には2年滞在したが、私が尊敬していたのは古い世代の日本の文化であり、新しい世代の文化には全く興味がなかった。

●1937年以降の日中戦争だが、私は息子と共に反対していた。その戦争が始まった頃、私の息子はアメリカから帰国したばかりだった。私はそれが大失敗につながると感じていたために、出来る限りそれを止めようとあらゆる方面に手をつくしたつもりだ。

●1909年の時点における朝鮮だが、この国はどこかの国(日中露、もしくは海外の他国)に保護国にしてもらうしかなかったのではないかという印象を持っていた。独立できるような国ではなかったからだ。この意味では満州も一緒だ。

●日本に懸命な文化政治を行なってもらいたかったために、私は二冊の本(インド太平洋地域、大日本)を書いたのだ。

●また昭和天皇の祖父である明治天皇とは私は個人的にも会ったことがあるが、彼がもし現在も生きていたら、互いに嫉妬したり妬んでいることの多い日本の官僚や閣僚たちに好き勝手なことをさせなかったはずだ。ところが孫のほうはそれを防ぐことができなかったためにあのような状態になってしまったと私は考えている。

●私は太平洋地域の政治の危険性を煽るようなことはしていない。むしろそこに危険性があることを忠告したまでだ。

●ヒトラーの『我が闘争』は、ひどい作品だ。書評を頼まれたが私は断っている。ヒトラーとは何度か会って地政学を教えたが、常に生徒であるヘスと一緒だった。最後にヒトラーに会ったのは1938年の11月8日だが、この時は彼と意見を鋭く対立させることになった。この後からナチスからの嫌がらせがひどくなった。

●私の息子がヒトラー暗殺事件に関与していたために私はゲシュタポに狙われた。息子が殺されてからようやく監視が解けたほど。

●私はヘスと1918年から知り合いだ。ナチスそのものよりもその関係は古い。ヒトラーにはじめて会ったのは1922年。

●ミュンヘン会議までは私はドイツが平和な問題解決をできるものと考えていた。まさにチェンバレンやヘンダーソンが考えていたようなパターンと同じ宥和主義だったのだ。

●1938年以降のドイツ地政学は負の歴史だ。ところが当初の目標はアメリカの地政学と同じことが狙われていたのだ。その狙いは「(第一次大戦のような)将来の混乱を排除するため」というものだった。

●そして文化的な「生存圏」を作ることができると信じていた。その成功例はエストニアとトランシルヴァニアであろう。

●ドイツ地政学は極めてリベラルなものだった。そうでなければ私はヨーロッパ各国の色々なところから呼ばれて講演することはできなかっただろう。イギリスにいたっては、私は英国の名誉連隊員であったほどだ。

●私の息子の遺作となった「政治地理学と地政学マニュアル」という本は、私が共著したようなものだ。

●私は国際地政学が、今後の世界政治の破綻を防ぐ上で最高のものであると信じていた。それはアイゼンハワー将軍のスタッフの前でも証言済である。

1945年11月2日 カール・ハウスホーファー博士

===

以上です。

日本に関しては政府高官たちの内部分裂と、昭和天皇の統率不足という分析ですな。


Commented by 待兼右大臣 at 2013-07-07 22:43 x
>>日本に関しては政府高官たちの内部分裂
これは、いわゆる縦割行政(stove piped system)の問題ですな。

>>昭和天皇の統率不足という分析ですな。
この辺りが、「外国人」の限界で、当時の昭和天皇には憲法的慣習で
そのような権限が失われていたということが理解できないのでしょう。

「高官の内部分裂」にも関連しますが、非常に単純化して言えば
1 国家統治機構の整備
2 セクショナリズムの発生(高官の内部分裂)
3 天皇が大権行使する場面の消滅(昭和天皇の統率不足)
は、同じこと(明治国家の立憲体制化)を別の側面から言ったに
過ぎないということです。
Commented by 待兼右大臣 at 2013-07-08 01:20 x
補足です。勿論、そのような「縦割り」を打破するために「天皇の権威」に縋ろうとする勢力もありました(そのため、内大臣を中心とした「宮中」という政治勢力が注目されることもありました)。

しかし、明治体制が確立するにつれ、天皇は「権威」に特化し、統治の場面には出てこなくなるという「歴史的」に確立された天皇の地位という「収まるところに収まった」天皇という存在を変えるまでには至りませんでした。
Commented by 中山太郎 at 2013-07-08 09:58 x
奥山先生のいつもながらの興味深いご紹介有難うございます。ただ、長い人生を経ますと、カール・ホーファー博士のような真の正論を諮れる方は、いつの世でも敗者の可能性が大ですね。人の世の不思議さからでしょうか?
Commented by 待兼右大臣 at 2013-07-08 23:42 x
重箱の隅ですが、日本語訳から推測するに
「アイゼンハワー第三軍将軍の本部」の原文は
"Eisenhower's 3rd Army General Head Quarter"
といったところではないでしょうか。
とすれば、当時の時代背景から、この文の指す内容は

アイゼンハワー将軍指揮下にある第三軍「総司令部(GHQ)」

ではないかと思われます。

Wiki情報ですが、この時期(1945年11月上旬)、
1 アイゼンハワーは占領地司令官の権限をパットン将軍に委任
2 パットンは同年10月に第3軍司令官から第15軍司令官へ異動
3 第15軍は実体の無い「ペーパー部隊」(このため、パットン自身は、
 第3軍総司令部に所在していた可能性が高い)
ということから、ハウスホーファー博士は

アイゼンハワー司令官代理としてのパットン将軍(又はその幕僚)の
尋問を第三軍総司令部で受けた

といったところでしょうか。
Commented by masa_the_man at 2013-07-12 19:20
待兼さんへ

>縦割行政(stove piped system)の問題ですな。

turf warともいいます。これってどこでもあるわけで・・・

>当時の昭和天皇には憲法的慣習でそのような権限が失われていたということが理解できないのでしょう。

かもしれません。

>1 国家統治機構の整備、2 セクショナリズムの発生(高官の内部分裂)、3 天皇が大権行使する場面の消滅(昭和天皇の統率不足)

なるほど

>明治体制が確立するにつれ、天皇は「権威」に特化し、統治の場面には出てこなくなるという「歴史的」に確立された天皇の地位

確立化=硬直化。

>アイゼンハワー将軍指揮下にある第三軍「総司令部(GHQ)」

あ、その通りですね。これも修正しておきます。ありがとうございました!
Commented by masa_the_man at 2013-07-12 19:20
中山さんへ

>真の正論を諮れる方は、いつの世でも敗者の可能性が大ですね。人の世の不思議さからでしょうか?

うーん、正論だったかどうかは判断つきかねますが、たしかに負けた側の議論というのは悲惨ですよね。コメントありがとうございました
by masa_the_man | 2013-07-06 23:09 | 日記 | Comments(6)