テクノロジーと人間の関係
2013年 07月 04日
さて、昨日の「ソーシャルメディアはコーヒーハウスだった」という議論の続きと言っては何ですが、このようなテクノロジー系の議論にとって重要なことについて少し。
それは、「人間はテクノロジーに振り回されてはいけない」ということ。
当然といえば当然なのですが、どうも最近はテクノロジーの進歩やその社会的なインパクトが強すぎて、人間が社会的にテクノロジーに使われてしまっている部分がチラホラ。
たとえば先日聞いたのですが、最近近所の小学生が携帯でLINEにハマっていて、勉強どころか寝不足状態になっているといるとか。
若い子ならしょうがないという気もしますが、この関係性を無理やりクラウゼヴィッツの「戦争論」にあてはめてたとえると、このようなアナロジーも成立可能のような気がします。それはすなわち、
政策>戦争
という公式が、
人間>テクノロジー
というパターンにも当てはまるということです。
そして近所の小学生の場合は、この公式が
人間<テクノロジー
になってしまっているから問題だということ。ようするテクノロジーによって生活や勉強が振り回されてしまっているわけですが、これは公式の逆転現象なわけです。
クラウゼヴィッツは、戦争はあくまでも政治の一つの手段だと言っております。つまりここでは「人間と政治が優位に立つべきである」ということが述べられているわけです。
ところが問題なのは、新しいテクノロジーが出てきた場合に、とくにその社会的にインパクトがすごい場合には、人間がそれに使われてしまう状態が出てくるという点です。
もちろん場合によっては、いつの時代もテクノロジーに使われてしまっている人間というのはいるわけですが・・・。
これは昨日のコーヒーハウスで入り浸って時間(パチンコの場合は金と時間)を浪費している若者や、その前のエントリーにおける教育でゲームにハマってしまう子供、そして戦争の場合は戦闘に政治が引きづられていったり、核兵器によって戦争の「政治の道具」としての意味がぶっとんでしまったような状態でしょうか。
おそらく世界で最もクラウゼヴィッツ的な映画のワンシーンといえば、本ブログでも何度も述べているように「クリムゾン・タイド」の前半部分にあるデンゼル・ワシントンとジーン・ハックマンのディナーの席における議論の部分ですが、ここでは核兵器によって戦争が政治に「ハイジャックされてしまう状態」の危惧のことを説明しております。

ここからわかるのは、われわれは「道具としてのテクノロジー」とのつき合い方というものをもう少しバランスよく考えていかなければいけないということ。
そして決して忘れてはならないのは、テクノロジーを使いこなすのはあくまでも人間である、ということです。
これはクラウゼヴィッツが「戦争は政治の道具である(べき)」と言ったことと同じ構造です。われわれはマスターであり、けっして道具の奴隷にはなってはいけない、ということですね。「戦略の階層」でもまったく同じ構造が見えます。
単純なんですが、どうもこの辺の話は忘れられがちなので、あえてここで書いてみました。
ちなみにこの「テクノロジー」の部分を「金銭」に変えてみても同じことが言えそうな・・・。
