2013年 06月 25日
テクノロジーの誘惑と教育の崩壊?その2 |
さて、昨日のつづきです。
僕の子供はテクノロジーに没頭している。そしてその間違いは僕のせい。
by スティーブ・アーモンド
===
●我が家で「リープスター・インブログリオ」事件として知られることになったエピソードをご紹介しよう。
●リープスターをご存知ない方に念のために解説するが、これは「学習ゲームシステム」のことであり、4歳から9歳までを対象としたものだ。娘のジョシーはこれを一年前から欲しいとせがんでおり「友達二人は持っているのにあたしは持っていないの!」と最近になって母に向かって涙ながらに訴えている。
●妻はこの話を僕に教える時に実際に涙を流しながら語ってくれたのだが、僕自身もこれを聞いてひどく不憫な気持ちになった。なぜなら僕の娘の心の中で、ひとつの電子機器がそれほどまでにパワフルな存在になったからだ。ところがさらに悲しかったのは、僕が彼女が感じていた気持ちがよくわかったからだ。
●彼女が生きているこの時代は、僕らが子供時代にすでに予知されていたことだ。
●彼女がおばあちゃんのキンドルを借りてゲームを十回連続でやったり、息子がアニメに没頭しているのを見ると、僕が子供の頃を思い出すのだ。愛に飢えていながらその焦った気持ちや退屈を紛らわせるために電子機器に頼っている状態だ。
●この昔の体験が気にならなかったとしても、僕は親として失敗しているという事実には向き合わなければならない。結局のところ、子供たちの前にスポンジボブ(アメリカのキャラクター)の前におくのは、それが彼らのために良いからではなく、われわれにとって便利だからだ(われわれはこれを「静かな時間」と呼ぶ。もちろんその呼び名は単なるまやかしにしかすぎないのだが)。
●もちろんわれわれの子供たちは、このような後に落ち着きがなかったかっり短気になったりするのかもしれないが、実際にわれわれはこのような「取引」を毎日行っているのだ。
●僕らが子供の頃の時代には、僕らの友人たちもテレビを消して本を読んだり外に出て遊ぶのは正しいことであるという文化的な背景があった。スクリーンの前で座っているだけでは「本当の世界」が体験できないことはみんな知っていたのだ。つまりスクリーンの前に座るのは単なる気休めだったのだ。
●ところが今日はスクリーンこそが現実の世界であったり、もしくはそこが世界の一部であることが少なくとも認められている。そしてそれは単なるおとぎ話ではすまされない話なのだ。
●先月僕がアップルが小学生以下の子供たちに売り込もうとしていることに不満を述べると、ジョシーは僕に向かって「iPadは教育用のツールなのよ、パパ!」と宣言している。
●彼女自身の読解力の向上はたしかにその言葉の正しさを支持している。われわれ夫婦は彼女に一年ほどなんとかして入門レベルの本を読ませようと思ったが、それでもかなり難しかった。
●すると彼女の先生はわれわれに本を読み聞かせするサイトのアドレスを記したノートを送ってきたのだ。このサイトでは、本を読む前にアニメがあったり、クイズが出て点数をかせぐことできるというようなものだった。それ以来、彼女は50冊ほど読んでいるのだ。
●ジョシーはもちろん「読書」が彼女の最も嫌いなことであることを繰り返し証明してくれているのだが、彼女のこのような姿を見ていると、また自分の子供時代を思い出してしまう。それは読むことを楽しむのではなく、点数を稼ぐことのほうに興味がある状態だ。
●さらに僕が嘆いているのは、彼女がスクリーンを通して読書するのが好きだということではなく、スクリーンが想像的な体験を変化させて薄めたりしてしまうからだ。
●もちろん6歳の彼女が将来25歳になったら当時の僕のように「解放」されるようなことを期待するのは愚かなことかもしれない。彼女は僕が子供の頃(そして十代や大人になっても)と同じようにほぼ衝動的な決断をするのが仕事であり、僕の仕事は、僕の決断を押し付けるのではなく、彼女自身が決断できるようにすることなのだ。
●それでもテクノロジーの急激な発展に衝撃を受けている親は僕だけではないはずだ。しかもそれはあらゆる分野に及んでおり、そのすべてが小さな携帯機器の中に集約されてきているのだ。
●ではこれらの魔法のようなデバイスを、僕たちはスクリーンの外にある世界の不思議の感覚を損なわずに子供たちに渡すことができるのだろうか?
●僕は人間の脳は柔軟な器官であると気付いている。僕の娘は僕がやったこともないやりかたでテクノロジーを使いこなすことができるようになるだろう。つまり集中力を切らさず、想像力を刺激し、彼女の可能性を拡大するために使いこなせるのだ。
●そして僕はほとんどの人々が自分たちのデバイスを、比較的害の少ない形で効率性とつながりを高めてくれるものであると見ていることも知っている。
●それでも僕は批判的だ。
●ジョシーが来年学校で手にするiPadは、莫大なアーカイブにアクセスができるものであり、たとえばショウジョウコウカンチョウ(カージナル)という鳥についてのビデオなんかすぐ見られるはずだ。
●でも本物の深紅の姿が5分間息を殺して待った後に枝に現れた時の感激は、タブレットをクリックしただけでは味わえないのだ。
●このような感覚を僕は彼女に大切に覚えておいてもらいたいと思う。そして僕と娘の両方がそう思ってくれていたら最高だ。
===
以上。
テクノロジーの変化というのは地政学的にも重要なんですが、それ以上に社会生活やわれわれの文化や生き方そのもののほうに直接的な影響を及ぼすことになりますね。
たとえばアメリカで通信ケーブルが発展したために新聞で使われる英語が標準化、統一化されたという話はその典型です。
しかし最近のデジタル化やスマホ化というのは、我々の生活に数十年後にどういう影響を与えていることになるんでしょうね・・・まったく想像がつきません。
僕の子供はテクノロジーに没頭している。そしてその間違いは僕のせい。
by スティーブ・アーモンド
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●我が家で「リープスター・インブログリオ」事件として知られることになったエピソードをご紹介しよう。
●リープスターをご存知ない方に念のために解説するが、これは「学習ゲームシステム」のことであり、4歳から9歳までを対象としたものだ。娘のジョシーはこれを一年前から欲しいとせがんでおり「友達二人は持っているのにあたしは持っていないの!」と最近になって母に向かって涙ながらに訴えている。
●妻はこの話を僕に教える時に実際に涙を流しながら語ってくれたのだが、僕自身もこれを聞いてひどく不憫な気持ちになった。なぜなら僕の娘の心の中で、ひとつの電子機器がそれほどまでにパワフルな存在になったからだ。ところがさらに悲しかったのは、僕が彼女が感じていた気持ちがよくわかったからだ。
●彼女が生きているこの時代は、僕らが子供時代にすでに予知されていたことだ。
●彼女がおばあちゃんのキンドルを借りてゲームを十回連続でやったり、息子がアニメに没頭しているのを見ると、僕が子供の頃を思い出すのだ。愛に飢えていながらその焦った気持ちや退屈を紛らわせるために電子機器に頼っている状態だ。
●この昔の体験が気にならなかったとしても、僕は親として失敗しているという事実には向き合わなければならない。結局のところ、子供たちの前にスポンジボブ(アメリカのキャラクター)の前におくのは、それが彼らのために良いからではなく、われわれにとって便利だからだ(われわれはこれを「静かな時間」と呼ぶ。もちろんその呼び名は単なるまやかしにしかすぎないのだが)。
●もちろんわれわれの子供たちは、このような後に落ち着きがなかったかっり短気になったりするのかもしれないが、実際にわれわれはこのような「取引」を毎日行っているのだ。
●僕らが子供の頃の時代には、僕らの友人たちもテレビを消して本を読んだり外に出て遊ぶのは正しいことであるという文化的な背景があった。スクリーンの前で座っているだけでは「本当の世界」が体験できないことはみんな知っていたのだ。つまりスクリーンの前に座るのは単なる気休めだったのだ。
●ところが今日はスクリーンこそが現実の世界であったり、もしくはそこが世界の一部であることが少なくとも認められている。そしてそれは単なるおとぎ話ではすまされない話なのだ。
●先月僕がアップルが小学生以下の子供たちに売り込もうとしていることに不満を述べると、ジョシーは僕に向かって「iPadは教育用のツールなのよ、パパ!」と宣言している。
●彼女自身の読解力の向上はたしかにその言葉の正しさを支持している。われわれ夫婦は彼女に一年ほどなんとかして入門レベルの本を読ませようと思ったが、それでもかなり難しかった。
●すると彼女の先生はわれわれに本を読み聞かせするサイトのアドレスを記したノートを送ってきたのだ。このサイトでは、本を読む前にアニメがあったり、クイズが出て点数をかせぐことできるというようなものだった。それ以来、彼女は50冊ほど読んでいるのだ。
●ジョシーはもちろん「読書」が彼女の最も嫌いなことであることを繰り返し証明してくれているのだが、彼女のこのような姿を見ていると、また自分の子供時代を思い出してしまう。それは読むことを楽しむのではなく、点数を稼ぐことのほうに興味がある状態だ。
●さらに僕が嘆いているのは、彼女がスクリーンを通して読書するのが好きだということではなく、スクリーンが想像的な体験を変化させて薄めたりしてしまうからだ。
●もちろん6歳の彼女が将来25歳になったら当時の僕のように「解放」されるようなことを期待するのは愚かなことかもしれない。彼女は僕が子供の頃(そして十代や大人になっても)と同じようにほぼ衝動的な決断をするのが仕事であり、僕の仕事は、僕の決断を押し付けるのではなく、彼女自身が決断できるようにすることなのだ。
●それでもテクノロジーの急激な発展に衝撃を受けている親は僕だけではないはずだ。しかもそれはあらゆる分野に及んでおり、そのすべてが小さな携帯機器の中に集約されてきているのだ。
●ではこれらの魔法のようなデバイスを、僕たちはスクリーンの外にある世界の不思議の感覚を損なわずに子供たちに渡すことができるのだろうか?
●僕は人間の脳は柔軟な器官であると気付いている。僕の娘は僕がやったこともないやりかたでテクノロジーを使いこなすことができるようになるだろう。つまり集中力を切らさず、想像力を刺激し、彼女の可能性を拡大するために使いこなせるのだ。
●そして僕はほとんどの人々が自分たちのデバイスを、比較的害の少ない形で効率性とつながりを高めてくれるものであると見ていることも知っている。
●それでも僕は批判的だ。
●ジョシーが来年学校で手にするiPadは、莫大なアーカイブにアクセスができるものであり、たとえばショウジョウコウカンチョウ(カージナル)という鳥についてのビデオなんかすぐ見られるはずだ。
●でも本物の深紅の姿が5分間息を殺して待った後に枝に現れた時の感激は、タブレットをクリックしただけでは味わえないのだ。
●このような感覚を僕は彼女に大切に覚えておいてもらいたいと思う。そして僕と娘の両方がそう思ってくれていたら最高だ。
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以上。
テクノロジーの変化というのは地政学的にも重要なんですが、それ以上に社会生活やわれわれの文化や生き方そのもののほうに直接的な影響を及ぼすことになりますね。
たとえばアメリカで通信ケーブルが発展したために新聞で使われる英語が標準化、統一化されたという話はその典型です。
しかし最近のデジタル化やスマホ化というのは、我々の生活に数十年後にどういう影響を与えていることになるんでしょうね・・・まったく想像がつきません。

by masa_the_man
| 2013-06-25 22:40