書評:ダンビサ・モヨの“Winner Take All” |
さて、あるところに頼まれた書評の草稿をここにアップしておきます。まだ書きかけなのでreviseするものと思われます。
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Winner Take All: China's Race For Resources and What It Means For Us
by Dambisa Moyo
タイトルを直訳すると、「勝者総取り」。もちろんこの「勝者」とは中国のこと。
著者のダンビサ・モヨは一九六九年にザンビアの首都ルクサ生まれた。一九九〇年のケネス・カウンダ大統領にたいするクーデター未遂事件で通っていた大学が閉鎖されてしまったためにしかたなくアメリカに渡り、奨学金を得てワシントンのアメリカン大学で化学専攻で学士をとり、同大学でMBAをとってからハーバード大学のケネディ行政学院で修士を獲得、そしてイギリスのオックスフォード大学で経済学の博士号を修めた秀才である。学生を続ける合間に世界銀行のアドバイザーを二年間つとめたり、オックスフォード在学中を含めてゴールドマン・サックスでも八年間働いており、さらには卒業後に金の採掘業社としては世界一の生産量を誇るバリック・ゴールド社で務めたり、SABミラーやバークレイ銀行の取締役につくなど、アフリカ出身の黒人女性というハンデを乗り越えて、経済学者として申し分のない輝かしいキャリアを重ねている。二〇〇九年にはタイム誌の「世界で最も影響力のある人物トップ一〇〇」にも選ばれた。
モヨは本書を含めてすでに三冊の本を書いており、そのいずれもがメディアにとりあげられて世界的に話題になった。彼女は自身のライフワークを「アフリカが直面している問題に持続可能な解決策を提供することだ」と述べているが、前の邦訳『援助じゃアフリカは救えない』で展開されたのは、まさにアフリカにたいして善意で行われている「援助」(aid)が、実際はアフリカの国々の本当の自立のためにはなっていない(汚職やインフラ投資不足のため)という議論であった。ではアフリカにたいして本当の自立のチャンスや救いの手を差し伸べてくれそうな国はどこなのかというと、彼女はそれが中国だというのだ。
中国の対アフリカ投資のポジティブな面については、すでにモヨは前邦訳書の第七章である程度論じているのだが、それにマルサス的な人口爆発論のエッセンスを加えつつ、彼女自身がゴールドマン・サックスの資源トレーダーをしている時に感じた世界の資源枯渇の危機感をベースにして、中国の今後の資源への需要の高まりから予測される世界像を描いたのが本書である。いいかれば、「これから資源が枯渇する中で、中国だけがその未来に備えているように見えるのだが、世界はこのインパクトにたいして準備ができているのか?」というのが本書の中心的なメッセージなのだ。
本書の特徴は三つある。一つ目は、資源の枯渇の可能性についての、厳しいまで現状認識だ。彼女があるインタビューの中で答えているように、新興国の都会化だけでなく、世界の人口の急激な増加が資源の枯渇への圧力になっているという。彼女のこの認識の原体験は、バリック・ゴールド社のディレクターに就任した時だという。彼女は現在のわれわれの生活が、なんと五〇年以上も前に開発された油田に依存しており、新しい大規模油田は開発されていないことにショックを受けたことが一つのきっかけになったと述べている。このような認識を元にして、彼女はやや大雑把ながらも、各種の統計の数値を駆使しながら議論を展開するのだ。人類はいままでのエネルギー危機もテクノロジーの発展によって乗り越えてきたという反論もあるのだが、彼女はそれについてもあまり楽観的ではない。たとえば昨今話題になっている「シェール革命」についても、モヨは環境面から問題があるとして評価を低く与えている。簡潔にいえば、彼女の未来像は驚くほど(しかし合理的に)悲観的なのだ。
二つ目は、彼女が単純な「中国脅威論」を展開しているわけではないということだ。実際のところ、彼女はむしろ自分のことを「中国びいき」であり、アメリカ式の中華料理が大好きだと答えているほどだ。それはなぜなのか。本書の中でも述べているように、中国がアフリカに「援助」ではなく、「直接投資」しているからだ。その結果として、アフリカ諸国の一般国民の間では近年の中国のイメージがアメリカのそれよりも格段に上がっており、また中国が自国の犯罪人を現地採用の作業員として使っているというような批判にたいする証拠は薄いとして、どちらかといえば中国の立場を擁護する議論を展開している。たしかに中国ほど大量の資金を使ってアフリカにたいして「ビジネス」としてインフラを大規模に整えるようなことを行ってきた西洋諸国はないため、そのポジティブなインパクトはアフリカでは無視できないことになるのだろう。
三つ目は、本書がかなり実現困難と思われるような解決法を示していることである。たとえば前著ではアフリカにたいして今までのような「援助」のアプローチに頼るべきではないことを主張したが、本書では世界の主要国が国家の枠組みを越えて資源の取引の枠組みを決定すべきだというのだ。たしかにこれは理想的にその通りなのかもしれないが、実際はかなり実現が難しいだろう。このような大胆な提言をするという意味で、イギリスの歴史家でスター学者のニーアル・ファーガソンは、前訳書の序文の中でモヨの本を、アフリカの発展にとっての「劇薬」だと書いているが、世界の資源の枯渇について書かれた本書で示されている解決法も、それと同じくらい困難にみえるものだ。
余談だが、この彼女以上にアフリカの発展にとっての「劇薬」なのは、エドワード・ルトワック氏の「戦争にチャンスを与えろ」という議論だろう。詳しくは解説するのは避けるが、簡潔にいえば、アメリカ政府のアドバイザーを務めるルトワックは、自著の『戦略論』(Strategy: the Logic of War and Peace)の第二版(2002年)の中で、アフリカのような国に紛争や虐殺が絶えないのは、NPOのような外部の組織が介入して、戦争そのものがもつ本来の目的、すなわち「人々が持つ戦争を行おうとする意欲を燃やし尽くす」という目的を妨げてしまうため、たとえばルワンダのフツ族が昼間は難民キャンプで食糧を恵んでもらいながら、夜にはツチ族を殺しに行くようなことが起こってしまうのだという。彼によれば、すべての元凶は外部からの無駄な介入(もちろん何を“無駄”と判断するのかは議論の余地がある)なのであり、これがなかったからこそ、ヨーロッパやアメリカは発展したという。
もちろんこのような議論はあまりにも奇抜すぎて受け入れられないと感じる人は多いかもしれないが、ルトワック、そしてある意味では本書の著者であるモヨが主張している「厳しい意見」の中に含まれているのは、もしかするとわれわれ人間に潜む、依存しきってしまうことの危険性や、自助努力することの大切さなのかもしれない。
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以上です。