なぜ本物の戦略論では「勝ち方」を教えないのか:その3 |
さて、昨日のエントリーのつづきをもう一度。
では「本物の戦略の本」とはどのようなものかと言えば、これはとにかく「勝ち方」よりも「考え方」を書いているものが多い。
その典型が、何度も言うようにクラウゼヴィッツの『戦争論』なわけですが、この本はたしかに様々な欠点(不明瞭、矛盾、長すぎる等)がありながらも、戦略の「考え方」を教えてくれているという意味では群を抜けてすごい本なわけです。
しかしそのすごさというのは、なかなかわかってもらえません。その決定的な理由を理解するための一つのわかりやすい例は、私はライオン(というかあらゆる捕食動物の)の「狩りの教育」なのかなと思っております。
まずライオンというのは、子供ができると最初は自分たちがとってきたエサを与えるだけです。
ところが子供がある程度育ってくると、今度は子供を狩りに参加させたり、最後は自分たちだけで狩りをさせるようにします。ようするに段々と自分でエサをとれるようにさせるわけですね。
私はこのプロセスは、戦略本と戦術本の違い、そして最終的には「戦略の階層」にも当てはまってくるのではと考えております。
たとえば世に溢れるハウツー本、つまり「戦術本」ですが、これなどはライオンの狩りでいえば、読者にエサを持ってくるだけの段階です。
つまり「勝ちパターン」というエサをただ与えるだけで、学んだ方はたしかにある程度のパターンを身につけることはできるかもしれませんが、身につけたのは結局「パターン」だけ。
エサと同じで、食べたら終わりです。
しかし戦略の性質として常に問題になってくるのは、まさにルトワックが言っているように、「勝ちパターンをパターン化したら失敗する」というパラドックスの存在。そうなると、パターンを覚えるのはむしろ有害になるということも。
その反対に、パターンそのものの性質や考え方を教える「戦略本」というのは、ライオンの狩りで言うところの「狩りに参加させる」、もしくは「自分で狩りをする」という段階でして、ここでは「自分の頭で考える/実践」ということが目的になっていると考えていただければわかりやすいかと。
つまり戦術本のように「勝ち方」を教えるのではなく、むしろ「勝ち方をどう考えるのか」もしくは「戦いを行う環境そのものをどうとらえればいいのか」というところに焦点があるわけなんですね。
この辺のテーマはちょっと深いので、またチャンスがあったら何度か書いてみたいと考えております。