3Dプリンターの反政府運動と「オープン・ソース」 |
さて、久々に興味深いテクノロジー系の論説記事の要約を。著者はこの業界ではけっこう有名人らしいですね。
「オープン」という新しい宗教についての批判です。
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オープンとクローズ
By エフゲニー・モロゾフ
●あなたが今月見かける可能性の高い動画では、「3Dプリンティングは反体制になりうるでしょうか?」と気味悪い声で問いかけるものがある。これはデフキャド(Defcad.com)という検索エンジンのサイトに載っている動画のものだ。
●このサイトは、医療機器や医薬品、製品、そして銃など、政府機関や企業がわれわれ民間人の入手を嫌うようなものの中で、3Dプリントが可能なものを検索するサイトである。
●この声の主はテキサスの法科学生であるコーディー・ウィルソン氏によるものであり、昨年彼はデフェンス・ディストリビューテッド(Defense Distributed)を創設したのだが、このサイトは3D印刷が可能な「wiki兵器」を製作するという議論を呼びそうなものだ。
●このデフキャドでは、彼は銃だけでなく、無人機マニアたちに印刷可能なパーツを検索できるようにしている。
●ウィルソン氏は最近のiPad世代の大衆の「麻薬」ともいえる「オープンさ」(openness)を、デフキャドの使命であるとしている。デフキャドの検索エンジンは「オープンソース」を誉め称えるだけでなく(上記の3分ものの動画で二度触れられている)、これには「オープンデータ」も含まれるのだ。
●ここまで「オープン」であるデフキャドが悪い組織であるはずがない、ということになるが、これは本当にそうなのだろうか?
●この「オープンさ」というのは、デフキャドの例を見るまでもなく、かなり危険で不明瞭な概念になってきていることがわかる。つまり非常に魅力的ではあるが、そこには分析されるべき中身がともなっていないのだ。
●「オープン」という 言葉がつけば、最も危険で怪しいアイディアも突然受け入れられるものになるのだ。サイエントロジーという宗教団体も「オープンなコミュニケーションへの取り組み」を誇っているほどだ。
●「オープンさ」というのは今日において強力な信仰を集めており、これは独自のドグマを持った宗教である。
●ネット知識人であるジェフ・ジャービスは、「パイプライン、国民、製品、さらには知的財産を持っていても、もう成功を保証してくれない。成功を保証してくれるのはオープンさだ」と宣言している。
●このような「オープンさ」への魅力の増加は、誰でも修正改善できる公開されたコンピューターコードを使った、オープンソースのソフトウェアの成功が主な原因だ。
●ところが最近になってこの概念は政治から慈善事業まで応用されており、最近の本のタイトルには「すべてをオープンソース化するマニフェスト」や、「過激なオープンさ」というものがある。さらには本物の大衆向けのソーダ飲料となる「オープン・コーラ」というものまで出てきたほどだ。
●多くの組織にとって、「オープン」というのは「グリーン」という標語に取って代わりつつあり、会社の内部の後ろ暗いことを隠すのに「エコフレンドリー」な窓を使うのと似たような状況になっている。これはまさに「オープン」をつかった解決であるといえよう。
●ところがこの「オープンによる解決」の問題点は、この「オープン」がどのような種類のものか、という点だ。「オープン」はすべてが同じではないからだ。
●たとえばリベラルな政治的価値を理想化した「開かれた社会」を定義した、カール・ポッパーという哲学者が賞賛した「オープン」を考えてみよう。これは「オープンソース」が暗示している「オープン」とは違うのだ。
●ポッパーの言う「オープン」とは、主に政治や自由なアイディアの流れのことだが、「オープンソース」のほうは共同作業やイノベーション、それに効率のことであって、たしかにその成果は有益かもしれないが、すべての状況に使えるものではないのだ。
●イギリスの財務大臣であるジョージ・オズボーンが最近提唱した、「オープンソース政治」というアイディアを考えてみよう。彼は「政治家や知識を独占している役人たちに政治を頼るのではなく、われわれ国民が、国全体や多くの公共の利害の問題について、インターネットを通じて解決に取り組むのだ」と言っている。
●既存の政治への追加措置としては、このアイディアは素晴らしい。しかし既存の政治の代わりにするという考えであったら恐ろしいアイディアだ。
●もちろん問題の解決に国民を巻き込むのは重要である。しかし、国民が取り組むべき問題を、そもそも一体だれに最初に選ばせるのであろう?そしてこの「問題」をどのように描きだすのであろうか?
●オープンソースのソフトウェアの場合は、このような決定はマネージャーやクライアントたちによってなされることが多い。ところが民主政治では、国民が(代議士を使って)舵を操作しながら同時に漕ぐのだ。
●ところが「オープンソース政治」では、国民が行うのは「漕ぐこと」だけなのだ。
●同様に、「オープンな政府」(これは透明性という意味で議論に使われたが)というのも、政府が持つ大量の情報へのアクセスや操作、そして「編集」の容易さを示す言葉として使われている。
●ここでの「オープンさ」というのは、そのようなデータの透明性が増すことを意味しておらず、ただ単にどれだけの数のアプリがそのサイトで使えるのか(しかもそのアプリによって得られる情報は些細なものばかりだとしても)ということなのだ。
●このような曖昧な「オープンさ」というのは、デヴィッド・キャメロン英首相に「オープンな政府」を支持させていると同時に、情報の自由に関する法律によって「政府の動脈をつまらせる」ことになっているのだ。
●このような混乱は政府だけに限らない。たとえば最近続々と公開されている大学のネット講座についてのばか騒ぎについて考えてみてほしい。どのような意味で、これが「オープン」だというのだろうか?これはオンライン上で無料ということだ。
●ところがこれを「オープンさ」の勝利だとして祝福するのはまだ早い。これからさらにコースへのアクセスだけでなく、ユーザーが授業の内容を再利用したり、編集したり、別の目的で利用したりするという、野心的なことも実現しそうだからだ。
●たとえば私が誰かの講義のノートを使って、それに少し文章をつけくわえて、自分のコースとしてばらまくこともできるようになるかもしれないからだ。大規模オンラインコース(MOOCs)はこのようなことを禁止しており、視聴できてもそれを編集することはできないようになっていることが多い。
●ネットの楽観主義者たちが言うように、「オープンさ」は勝利するのだろうか?もしかすると勝利するのかもしれない。
●ところがこの勝利は、民主政治や野心的な政治改革などにとって「敗北」となるのかもしれないのだ。
●われわれはとりあえず「オープン」という言葉を使うのを当分止めるべきなのかもしれない。それがどのように「オープン」していくのかを少し想像してみればわかるからだ!
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著者はかなりテクノロジー、とくにネットについては悲観的な立場を表明しておりますね。まあ考えてみれば、テクノロジーの楽観主義と悲観主義の対立というのは昔からありますが。
しかしこれほどのスピードで発展しているのはおそらく人類史上でも前代未聞なので、これからこのように警戒を示す考え方というのは、形を変えて色々と出てくるかもしれません。