戦略や地政学の視点から国際政治や社会の動きを分析中


by masa_the_man
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質問の質が人生を左右する?その3

今日の横浜北部は、雨が降りそうで降らない微妙な寒い一日でした。

さて、また昨日の話のつづきを。

「質問はレンズだ」ということを述べたわけですが、これは実は「戦略の階層」に関連づけて考えることができます。

すでに述べたように、「質問」というのは「問題解決」のためのものではなく、むしろそれ以前の「問題設定」を行うためのもの

そして「解決」と「設定」のどちらのほうが「抽象度」の高い思考が求められるかというと、それはもう断然「設定」を考える方なわけです。

これを応用して考えますと、問題解決に集中するというレベルは、いわば現場レベルの話に近く、より具体的であるために、「戦略の階層」から考えれば下のほうの「戦術」のレベルに当てはまります。

その反対に、問題設定のようなものごとの「前提」をとらえるレベルは、プランニングやゲームのルールづくりのほうを考えるものであるためにより抽象的で、「戦略の階層」から考えれば上のほうの「戦略」レベルに当てはまることになります。

これを別の言い方で言えば、

「戦術」にたけている人は「問題解決」の達人。
「戦略」にたけている人は「問題設定」の達人。

という議論もできるわけです。

ではどちらのほうが強いのか?という質問はややミスリーディングなのですが、一般的にいえば「問題を考えてつくる人」のほうが「問題を解決する人」よりも立場的に有利なのは明白です。

これはこれから大学受験をする受験生と、受験問題をつくる大学入試センターのような大学教官(?)の関係を考えてみれば一目瞭然かと。

問題をつくる側というのは、それを解決する側よりも常に有利に立っており、いわば解決する側を「コントロール」できる立場にあります。

したがって、そもそも「解決法」ばかり考えている人が、「問題そのものをどう設定するのか」を考えている人に勝てるわけがないのです。

日本とカナダ・イギリスの両方の教育を受けてきた立場から言わせていただけば、日本の教育で決定的にかけているなぁと思うのは、「問題を設定する」というか、「問題がどこにあるのか」を見極めるような訓練かと。

そしてこの訓練ができているかどうかが、戦略づくりの能力の高さに直結してきます。

もちろん日本の教育の得意技である、「一つの答え」を徹底的に探し求める戦術レベルの訓練は非常に大事だと思いますし、日本のこの面での優位を失ってはならないと私も思います。

ただしそれだけに偏りすぎてもダメなことは、現在の日本が直面している様々な問題の共通要因の中に見えてくるような気が。

戦略的に考えたかったら、「答え」ではなく、「問題そのもの」に視点を集中すべき時が来ているのかもしれません。
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(The Great Wall of Hakata Bay 2)
Commented by 待兼右大臣 at 2013-03-31 23:58 x
>>問題がどこにあるのか

「がっぷり四つ」なら
「日本人は、社会はすでに『ある』ものであり、
 西洋人は社会は自分で『作る』ものである」
というのが出発点になるでしょうし、

少し「ひねった」のであれば
「わが国では、なぜ宗教が『胡散臭いもの』と思われているのか」
と言うところが出発点になると思います。

で、仮説としては
わが国では

「世界観」を不問にする世界観

が一番社会全体の利得が高いという「所与の前提」がある
と言うことになります。
その傍証として、「神道」という「八百万の神」の世界や
「地震、雷、火山の噴火、台風、洪水」という「人知の外にある存在」
による「強制リセット」(「デウス・エクス。マキーナ」)という風土
とそれによって育まれた歴史というものをあげておきます。

そういうわが国独自の「世界観」というものを他の文明圏に対してどのように理解させていくかと言う「筋道」を描くのが、「戦略家」たる奥山さんが日本社会に求められていることだと思います。
Commented by 待兼右大臣 at 2013-04-01 00:04 x
補足です
>>「日本人は、社会はすでに『ある』ものであり、
>> 西洋人は社会は自分で『作る』ものである」
は小室直樹氏が「新戦争論」で述べていたことです。

補足の補足ですが
小室氏は「正義は空箱に過ぎない」と同書で述べています。
私流に解釈すれば、宗教と言う「公理」又は「正義」が異なれば、当然、世界観が異なるということを意味していると思います。

ある人が
「正義は論理の裏づけを必要としない。
 もし、正義が論理の裏づけを必要とするのであれば、
 それは正義の冒涜である」
と言う旨のことをツイッターでつぶやいていましたが、
それも、「正義が公理である(=それ自体正しいという証明が不要」
であることの別の側面だと思います。
Commented by mcm 通販 at 2013-09-24 01:15 x
クロエ
by masa_the_man | 2013-03-31 20:25 | 日記 | Comments(3)