2013年 02月 22日
イギリス人とアメリカ人、「幸せ」なのはどちら? |
今日の横浜北部はスッキリ晴れました。気温もやや上がって日差しは春です。
さて、これもまた古い記事ですが、アメリカとイギリスの違いについて戦略文化論的な面白い記事の要約を。
===
心配なアメリカ人
Byルース・ホイップマン
●アメリカでは赤ん坊が生まれると、親たちが子供将来の希望について聞かれた後に、すぐに不文律の契約や義務的な答えとして、「この子が幸せであれば何になろうとかまいませんよ」という答えを用意する。
●ところがこの言葉には「ハーバード大学に言ってくれれば」という隠れた形容詞がつくのだが。
●「幸せ」というのはアメリカの成功の最高の勲章である。しかもこれはトランプの「ジョーカー」と同じように、いかなる職業面・社会面での成功や、家族、友情、そして愛などを越えて大きな影響を与えるのだ。
●「幸せ」というのは他人の達成を驚くほど矮小化してしまうもの(例:彼女は理想的な職についているし、旦那もすてきだけど、本当に幸せなのかしら?)であるし、同時に自分たちの外面的な輝きも失わせてしまうものだ。
●このような強迫観念的で追い込まれたような「幸せ」の追求はアメリカ人特有の闘いであり、独立宣言の日常生活への適用であと同時に、アメリカ人の神経を参らせてしまうものである。
●私はアメリカに住んでいるイギリス人であるため、自分の祖国とアメリカにおける「幸福」の追求における文化的な違いについてはかなり詳しいつもりだ。
●アメリカの建国の父の一人であるトマス・ジェファーソンは、独立宣言の「幸福の追求」の一文を書いた時には、大西洋の向こう側の楽しみを避けるような圧政者側(イギリス)にたいして、完璧な反抗をしていたのだ。
●イギリス人というのは「幸せ」というテーマについてはあまり語ることは少ないし、基本的に「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という夢物語はまったく支持しない国民だ。
●もちろんこれはイギリス人たちが幸せになりたくないという意味ではなく、ただ単に彼らはこのようなテーマについてわざわざ語ったり追い求めたりするのを恥ずかしいと感じているというほうが正しいのだ。これはまるで最初のデートが終わった後で「楽しかった?」と相手に聞くのと同じような感覚だ。
●冷笑的で皮肉的な態度というのはイギリス人の得意技だ。イギリス人にとって「幸せ」というのは努力して獲得するようなものではなく、むしろ受け継いだ貴族の称号のように知らない間に与えられているものという感覚だ。
●ところがアメリカでは「幸せ」というのは努力して獲得するものである。
●彼らは激しい努力を注ぎこんだモチベーショナル・セミナーや、セラピーセッション、それに黙想会や空港の本屋などに殺到するのだ。左派にはヨガ、そして右派にはジーザス(宗教)が用意されており、誰もが努力を惜しまないのだ。
●私自身はカリフォルニア州に住んでいるのだが、ここはアメリカの中でも最も幸せが追求されている場所だ。私が原稿を執筆しているこの喫茶店ではさまざまなタイプの「幸せ追求セミナー」の告知が貼ってあり、マウム瞑想法からトランス・ダンス、チベットそれに最も奇妙なものとしては、オオカミの初乳を飲むセッション(?)もあるほどだ。
●統計的には共和党に入党するほうが幸せを感じるという統計があるにもかかわらず、この喫茶店の客たちはこのような告知にある電話番号を熱心に書き写したりしている。
●「幸福の追求」に参加している人々というのは、基本的にとても幸せには見えない。たとえば私がアメリカに来てからすぐの時期に参加した唯一のヨガのクラスでは、その場に溢れている緊張感と悲惨さは明白だった。
●当たり前かもしれないが、すでに幸せを感じている人というのは、YMCAの汗臭い部屋の中に自発的にわざわざ自分をねじ込もうとするわけがないのだ。
●私はほんの一年ほど前にアメリカに移ってきたのだが、いままでイギリスで生きてきた時よりも多くの時間を、自分の幸せについて語ることに費やしている。
●この話題はこれを書いているちょっと前に通り過ぎた公園で、ブランコを押していたある母親が触れていたし、スーパーの魚売り場のカウンターにいた店の人、スポーツジムのインストラクター、それに私たちが雇っているベビーシッターも触れていたことだ。
●ちなみにこのベビーシッターは、カリフォルニア北部にあるヌードになってすごすことによって幸せを追求する施設のパンフレットを持ってきていた。
●イギリス人は疲れるほどネガティブな人々であると言えるかもしれないが、アメリカ人の幸せへのアプローチは逆に彼ら自身に不安を発生させているとも言える。
●「約束」や「希望」というのはたしかに一見すると魅力的だが、これはすぐに不満やいらだちの気持ちにとって代わることになる。
●「私は幸せなのかしら?私の幸せは十分?みんなと同じくらい幸せ?もっと幸せになるために何かできるのでは?」このような問いかけは、むしろノイローゼへの近道だ。
●「幸せ」というのは偶然の発見のようなものであるべきで、よい生活の副産物のようなもので、それ自身を追求しても意味がないといえる。
●このような見解は、以下のようなやや憂鬱な統計結果から出てきたものだ。
●毎年のことだが、ある意識調査でがアメリカ人の33%は「とっても幸せだ」と答えており、この数は非常に安定している。
●この割合はかなりものだが、この割合は驚くほど一定していて、東洋の瞑想法や福音主義のキリスト教、アンソニー・ロビンスやグレッチェン・ルービンや愛情的な育児法の登場によっても変化していない。
●ようするにアメリカ人のこれほど努力にもかかわらず、彼らはまったく幸せになっていないのだ。そしてむしろ「幸せの追求」そのものが、逆に心配の原因の一つになっているのは不思議ではない。
●したがって、素晴らしい天候と風景にもかかわらず、カリフォルニア州の人々は、イギリスの北東部のグリムズビーの町の人々よりも幸せを感じておらず、不安である言えるのかもしれない。
●だから彼らはそれほど頑張って追求する必要はないのだ。
===
現在日本で大流行している「ソーシャル」ではなく、内向的な人間にとっての「引きこもりの幸せ」というパターンもあるということが社会的に認知されてくれば、日本も少しはまともになるということも言えそうな。
さて、これもまた古い記事ですが、アメリカとイギリスの違いについて戦略文化論的な面白い記事の要約を。
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心配なアメリカ人
Byルース・ホイップマン
●アメリカでは赤ん坊が生まれると、親たちが子供将来の希望について聞かれた後に、すぐに不文律の契約や義務的な答えとして、「この子が幸せであれば何になろうとかまいませんよ」という答えを用意する。
●ところがこの言葉には「ハーバード大学に言ってくれれば」という隠れた形容詞がつくのだが。
●「幸せ」というのはアメリカの成功の最高の勲章である。しかもこれはトランプの「ジョーカー」と同じように、いかなる職業面・社会面での成功や、家族、友情、そして愛などを越えて大きな影響を与えるのだ。
●「幸せ」というのは他人の達成を驚くほど矮小化してしまうもの(例:彼女は理想的な職についているし、旦那もすてきだけど、本当に幸せなのかしら?)であるし、同時に自分たちの外面的な輝きも失わせてしまうものだ。
●このような強迫観念的で追い込まれたような「幸せ」の追求はアメリカ人特有の闘いであり、独立宣言の日常生活への適用であと同時に、アメリカ人の神経を参らせてしまうものである。
●私はアメリカに住んでいるイギリス人であるため、自分の祖国とアメリカにおける「幸福」の追求における文化的な違いについてはかなり詳しいつもりだ。
●アメリカの建国の父の一人であるトマス・ジェファーソンは、独立宣言の「幸福の追求」の一文を書いた時には、大西洋の向こう側の楽しみを避けるような圧政者側(イギリス)にたいして、完璧な反抗をしていたのだ。
●イギリス人というのは「幸せ」というテーマについてはあまり語ることは少ないし、基本的に「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」という夢物語はまったく支持しない国民だ。
●もちろんこれはイギリス人たちが幸せになりたくないという意味ではなく、ただ単に彼らはこのようなテーマについてわざわざ語ったり追い求めたりするのを恥ずかしいと感じているというほうが正しいのだ。これはまるで最初のデートが終わった後で「楽しかった?」と相手に聞くのと同じような感覚だ。
●冷笑的で皮肉的な態度というのはイギリス人の得意技だ。イギリス人にとって「幸せ」というのは努力して獲得するようなものではなく、むしろ受け継いだ貴族の称号のように知らない間に与えられているものという感覚だ。
●ところがアメリカでは「幸せ」というのは努力して獲得するものである。
●彼らは激しい努力を注ぎこんだモチベーショナル・セミナーや、セラピーセッション、それに黙想会や空港の本屋などに殺到するのだ。左派にはヨガ、そして右派にはジーザス(宗教)が用意されており、誰もが努力を惜しまないのだ。
●私自身はカリフォルニア州に住んでいるのだが、ここはアメリカの中でも最も幸せが追求されている場所だ。私が原稿を執筆しているこの喫茶店ではさまざまなタイプの「幸せ追求セミナー」の告知が貼ってあり、マウム瞑想法からトランス・ダンス、チベットそれに最も奇妙なものとしては、オオカミの初乳を飲むセッション(?)もあるほどだ。
●統計的には共和党に入党するほうが幸せを感じるという統計があるにもかかわらず、この喫茶店の客たちはこのような告知にある電話番号を熱心に書き写したりしている。
●「幸福の追求」に参加している人々というのは、基本的にとても幸せには見えない。たとえば私がアメリカに来てからすぐの時期に参加した唯一のヨガのクラスでは、その場に溢れている緊張感と悲惨さは明白だった。
●当たり前かもしれないが、すでに幸せを感じている人というのは、YMCAの汗臭い部屋の中に自発的にわざわざ自分をねじ込もうとするわけがないのだ。
●私はほんの一年ほど前にアメリカに移ってきたのだが、いままでイギリスで生きてきた時よりも多くの時間を、自分の幸せについて語ることに費やしている。
●この話題はこれを書いているちょっと前に通り過ぎた公園で、ブランコを押していたある母親が触れていたし、スーパーの魚売り場のカウンターにいた店の人、スポーツジムのインストラクター、それに私たちが雇っているベビーシッターも触れていたことだ。
●ちなみにこのベビーシッターは、カリフォルニア北部にあるヌードになってすごすことによって幸せを追求する施設のパンフレットを持ってきていた。
●イギリス人は疲れるほどネガティブな人々であると言えるかもしれないが、アメリカ人の幸せへのアプローチは逆に彼ら自身に不安を発生させているとも言える。
●「約束」や「希望」というのはたしかに一見すると魅力的だが、これはすぐに不満やいらだちの気持ちにとって代わることになる。
●「私は幸せなのかしら?私の幸せは十分?みんなと同じくらい幸せ?もっと幸せになるために何かできるのでは?」このような問いかけは、むしろノイローゼへの近道だ。
●「幸せ」というのは偶然の発見のようなものであるべきで、よい生活の副産物のようなもので、それ自身を追求しても意味がないといえる。
●このような見解は、以下のようなやや憂鬱な統計結果から出てきたものだ。
●毎年のことだが、ある意識調査でがアメリカ人の33%は「とっても幸せだ」と答えており、この数は非常に安定している。
●この割合はかなりものだが、この割合は驚くほど一定していて、東洋の瞑想法や福音主義のキリスト教、アンソニー・ロビンスやグレッチェン・ルービンや愛情的な育児法の登場によっても変化していない。
●ようするにアメリカ人のこれほど努力にもかかわらず、彼らはまったく幸せになっていないのだ。そしてむしろ「幸せの追求」そのものが、逆に心配の原因の一つになっているのは不思議ではない。
●したがって、素晴らしい天候と風景にもかかわらず、カリフォルニア州の人々は、イギリスの北東部のグリムズビーの町の人々よりも幸せを感じておらず、不安である言えるのかもしれない。
●だから彼らはそれほど頑張って追求する必要はないのだ。
===
現在日本で大流行している「ソーシャル」ではなく、内向的な人間にとっての「引きこもりの幸せ」というパターンもあるということが社会的に認知されてくれば、日本も少しはまともになるということも言えそうな。
by masa_the_man
| 2013-02-22 16:42
| 日記

