テクノロジー、地理観、そしてホームシック |
さて、地理、テクノロジー、地理観の三位一体については、私の著書でも何度も出てきている概念なので、本ブログをご覧の皆さんにはすでに馴染みのある概念だと思いますが、それを別の面からとらえた(ちょっと古いですが)面白い記事がありましたので、その要約を。
テーマは移民が感じる「郷愁」、つまり「ホームシック」なのですが、これがなんとも興味深いことに、非常に地政学的なのです。
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“世界市民”のホームシック
by スーザン・マット
●最近のある世論調査では、世界の大人の25%にあたる11億人が、より良い稼ぎができる場所を求めて、一時的に異国に移住しており、それに加えて6億3千万人が外国に永住したいと考えているという。
●世界におけるこのような「祖国を離れたい」という欲望は貧困のようなやむに止まれぬ事情もあるはずだが、同時にそれは「移住が可能である」という確信からも生まれてきたものだ。
●このような世界市民的な考えをもつ人々というのは、「人間は世界中どこにいっても安心して住むことができる。だからどこか特定の場所に縛られる必要はない」という想定を持っている。
●このような考え方というのはヨーロッパ近代の啓蒙主義から生まれてきた奇妙なアイディアなのだが、現在はグローバル化した経済の中心的な思想として広く受け入れられているものだ。
●たしかに外国に移住すれば、チャンスや利益につながるのかもしれないが、それは同時に人間にとっての心理学的なコストも高まるのだ。
●ここ十年近くで私が行ってきた移民や移住者たちへの感情や経験についての調査によって判明したのは、異国で一旗揚げようとしてした人々の中には、結局は孤独を感じたり鬱になっている人々が多いということだ。
●このような感情は移り住むことの多かった20世紀のアメリカ人に多く見られるものだったが、この時は過去との決別という意味合いが強かった。19世紀のあらゆる階層の人々は、移住することは感情面で過酷であることを認めていた。
●医療専門誌はこの状態を調べて、これを一つの症状として扱った。それが「郷愁」(ノスタルジア)である。
●ホームシックの破壊的な症状というのはとても頻繁に見られていた。1887年にサンフランシスコのある新聞の見出しには「ノスタルジアの犠牲者:牧師が祖国の風景に憧れて死ぬ」というものがあったくらいだ。
●この牧師はアイルランド出身で、ニューヨークのブルックリンに到着した後に「ノスタルジア」の病気にかかってしまったという。死ぬ直前には「私はホームシックにかかっている。親愛なる祖国よ、わたしはもう二度とその緑の岸辺に足をつけることはないのだ!」と嘆いたという。
●今日ではこのようなホームシックについての表立った話を聞くことはほとんどないが、これはこのような感情が、個人の成長と繁栄にとっては恥ずかしい障害であると社会的に認識されているからである。このような沈黙のおかげで、移住するということは非常に簡単なことのように思えてしまうほどだ。
●また、テクノロジーもわれわれに「移住は痛みのない簡単なものである」という考えを起させてしまうものだ。スカイプの広告には「無料ビデオ電話は、そこに一緒にいなくてもみんなで簡単に集まることができます」というものがある。
●テクノロジーのおかげでマウスのクリックや電話をかけることによって「絆」が簡単に得られるという幻想は、移住という選択肢をそれほど影響のないものであるかのように考えさせてしまうものだ。
●もしテクノロジーがホームシックを消滅させてわれわれを「世界市民」にしてしまうことができるとすれば、スカイプ、Facebook、携帯やEメールなどは、古代ギリシャの「オデュッセイア」以来のわれわれの痛みを解消してくれたはずだ。
●百年以上前にも、当時のテクノロジーはこの症状の解決法だと見られていたことがある。1898年にアメリカの評論家たちはホームシックが「最近の迅速なコミュニケーション、急速なニュース、それに地理の知識の広がりなどによって緩和されるはずだ」と論じていた。
●ところがそのような宣言はかなり楽観的なものだった。なぜならホームシックは、移住した人間の多くを悩ませ続けることになったからだ。
●今日のテクノロジーでも、ホームシックを解消するには至っていない。ニューヨークのある研究所の調査によると、移民たちは以前よりも頻繁に連絡を取り合っているということがわかっている。
●2002年には移民のうちで一週間に一回故郷の家に電話していたのはたった28%だけだったのだが、2009年にはその割合が66%に上がっている。
●ところがこのレベルの連絡頻度でも、移民たちの悲しい感情を満足させることができていない。2011年の専門誌の調査でわかったのは、アメリカに在住しているメキシコ移民たちは、移民していない親戚や家族たちにくらべて鬱や不安感に悩まされている率が40%も高いのだ。
●また、アメリカに新しく移民してきた人間たちも高い率で鬱や「文化変容ストレス」に悩まされるという。
●メキシコからの移民であるバレンシア氏は、このような統計を如実に表している典型的な例だ。彼は2005年に自宅のローンを払うためにアメリカのネバダ州に出稼ぎにきたのだが、着いたその翌日から「帰りたい!」と思ったという。
●彼は「私はつねに家族と一緒に暮らしていたもので・・・もちろん耐えなきゃいかんですよ、われわれ出稼ぎ労働者は耐えなきゃいかんです。でも常に帰りたいという考えは頭の中にありますね」と私に説明してくれた。彼はEメールや国際電話カードを使って妻と連絡をとっていて、週に数回はかけるという。
●ところがこのような定期的なコミュニケーションでも、彼の強烈なホームシックは和らぐことはなかった。彼は2009年に家族のもとへ戻っていった。
●ヴァレンシア氏のように、アメリカに来た移民のうちの20%から40%は最終的に祖国に帰ってしまうという。彼らはスカイプが実際にふるさとにいることの代わりにはならないことを知っているからだ。
●もしかすると、これらの新しいテクノロジーは、むしろホームシックの感覚を高める効果があるのかもしれない。メキシコのある心理学者は、テクノロジーがホームシックを強める可能性があると考えているほどだ。
●彼女の妹はサンディエゴに25年間住んでいるのだが、長距離電話が安くなったために、以前よりも何度も電話をかけられるようになったという。毎週日曜日には大家族が一緒に食事を囲んでいるときにメキシコに電話してくるようになった。彼女は家族に向かって、誰が来て何を食べているのかをいちいち聞くという。
●テクノロジーは彼女の家族とのコンタクトを増加させたのだが、同時に家族と離れて暮らしているという現実を定期的に思い起こさせるようになったのだ。
●電話やインターネットの即時性が意味しているのは、家から離れて暮らしている人々に、その離れて暮らしているという現実を知らせることができるということだ。このようなテクノロジーは人間に二つの場所に同時に存在できるような幻想をもたらしてくれるのだが、この幻想はまさにそれが幻想であるということを見せつけてしまうのだ。
●ホームシックの強さというのは、われわれのマーケットや社会を大きく補強する世界市民的な哲学の限界を示している。「われわれは世界のどこでも心地よく暮らしていけることができる/いくべきだ」というアイディアは、孤独かつ移動可能な個人を賞賛し、個人が家族や過去から簡単に離れられるという世界観にのっとったものだ。
●ところがこの世界観はわれわれの感情とは相容れないものである。なぜならわれわれの家との結びつきというのは、軽視されることが多いのだが、それでも強くて永続的なものだからだ。
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これはまさに地政学の三位一体の話ではないでしょうか?
物理的地理、テクノロジー、そして地理観の相互作用は、いくらテクノロジーが進化したとしても、それが人間の「距離感」までを縮めるまでには至っていない(むしろ遠ざけている?)、ということですね。
ちなみに私には故郷と呼べる場所が横須賀かカナダの町くらいしかないのですが、それでもそれほどホームシックにかかるということはありませんね。これは個人差があるのでしょうか?
そういえばカナダ留学中に強烈なホームシックにかかって、毎日日本に電話して、電話代が毎月十万円くらいになっていたという日本人の女の子の話を聞いたことがあります。
そんなに金かけるんだったら電話代を飛行機代にしても同じなのに、と思ったことが(苦笑)これは90年代後半の、まだEメールやスカイプなんかが使われていない時代でしたが。
ちなみにホームシックには「文学や芸術にとって有益なもの」とも言えるものでして、たとえば私が翻訳した「インド洋本」には、ポルトガルの船乗りたちが「サウダージ」と呼ばれる「郷愁」を遠洋航海の間に感じており、それがカモンイスの『ウズ・ルジアダス』という史上最高レベルの叙情詩に結実したことが書かれております。