グレイ著『現代の戦略』を読み解く⑧ |
さて、つづきのグレイの『現代の戦略』の要約です。今回は第十一章だけですが、いよいよ著者の得意とする核兵器についてのトピックです。
===
―11:核兵器ー再考
本章のテーマとなるのは、日本では論じられるのさえ憚れるような「核兵器」について。基本的に著者がここで論じるのは「戦略家たちが核の問題にどのように向き合ってきたか」ということ。もちろん他の章と同じように、本章での議論は「戦略は普遍的なもの」であり、その普遍性は核兵器にも適用できるとなる。
歴史を後から振り返ってみれば、たしかに「核兵器の使用に関する戦略を考えるなんて集団的に狂っていたとしかいいようがない」という議論もわからないでもないが、(内部にいた当事者として言えるのは)彼らは必要に迫られていたからベストを尽くしたまで、ということ。これには「再考」が必要だ。
まず核戦略について真剣に考えた理論家として挙げられるのは、バーナード・ブロディ、アルバート・ウォルステッター、トマス・シェリング、ハーマン・カーン、そしてヘンリー・キッシンジャーだが、キッシンジャーは革新的な理論を提出したというよりもその理論を有名にするような役割を果たしただけ。
核戦略の問題は、広島・長崎以降に使われていないため、そこに必然的に「推測」が含まれてくること。実際に核ミサイルの撃ち合いをやっても、それがどうなるかは誰にも予測できない。つまり「起こらなかったこと」を論じるということになるのだが、これは人間にとって極めて難しい作業である。
また、核戦略については冷静に語れない雰囲気がある。たしかにその凄まじい破壊力があるために倫理的な問題があることは確実なのだが、それを冷静に分析しようとしても、学者の中に感情論で語りものが後を絶たない。彼らはバイアスを持っているからだ。
本章と次章では、主に四つの質問について答える形をとっている。
1、核兵器が現代の戦略においてどのような目的をもっていたのか。
2、戦略効果における核兵器の影響はどのようなもの?
3、米ソのエスタブリッシュメントはいかにして世界を破滅に追いやるような「死のマシーン」の一部を構成していたのか?
4、米ソ両国は実際に使えないにもかかわらず、なぜ何千発も核弾頭を蓄えたのか?
そして著者は、最後の質問については、とりあえず第一次大戦の時の参戦国の使っていた戦術についても同じことが言えるとして、各論に移る。
まず最初に論じるのは「必要性」という観点から。これもやはりクラウゼヴィッツの「戦争の文法」という概念を使いつつ、「核戦争だって戦争のもう一つの分野だ」と主張し、「核革命」は過大評価されていると断定。
つまりいつものように「戦略は戦略だ」ということなのだが、このような「新しい兵器が戦略を無意味にしてしまう!」という議論は歴史上に何度も起こってきたものだと指摘。
もちろん歴史を振り返って人々は核戦略を考えていた人々を断罪しようとするのだが、著者はそれを計画している「当事者」である戦略家たちには完全な情報がなかったという重要な事実を指摘する。ようするに歴史家たちは全員が「後付け」の分析になりやすいということ。
また、歴史家が陥りやすいのは、戦略家たちが「実践者」であるという点を見逃してしまうこと。その当時の状況(コンテクスト)に身を置くような体験をしていないからわからないのだと鋭く指摘。
次に「核革命」についてのポイントが五つあるとする。
①それほど「絶対的」な兵器ではない
②核が使われた後でも人間は生き残る
③軍事バランスは、その渦中にいる国家のリーダーや戦略家たちにもわからない
④問題なのは「真実」よりも「相手が何を信じているか」
⑤作戦レベルではとにかく戦う準備をするのが軍人である
この中でもとくに興味深いのは、④について著者が冷戦後に出てきたソ連軍側の元リーダーたちへの聞き取り調査(オーラル・ヒストリー)によって、彼らが「核兵器のバランス」を信じていなかったことが判明したという点。
そして⑤では、軍人が狂っていたから核戦争の準備をしたという一般的な見方は間違いで、ブライアン・ボンドの『勝利の追求』(邦訳あり)の中の言葉を引用しつつ、彼らは政治的な対立がまずその前提にあり、たとえ核戦争が合理的でなかったとしてもできる範囲でベストを尽くすのが軍人であり、彼らはそれを作戦レベルまで落とし込んだ結果として核戦争の準備をした、というのが実態であると分析している。
さらに、「あらゆる戦略は“戦争を戦うためのもの”でなければならないのであり、核戦略もその例外ではない」という自身の「核戦略家」としてのキャリアを彩った主張を展開し、最後の締めとして「それ以外の選択肢は果たして本当にあったのか」という根本的な議論を投げかけつつ、抑止をするかしないかという選択そのものは実践的ではないとして章をまとめている。
===
この辺の「レーガン政権の核戦略家」としての実体験を踏まえた議論は読んでて面白いですね。とくに後付けの理論に対する厳しい議論はまさに面目躍如の箇所かと。
今日はここまで。明日は次章の核戦略の話のつづきを。