通信手段と社会の変化:サイボーグ化する人間 |
さて、最近なぜか執筆などの間に昔のテレグラム(電信)の発展についての本や論文を読んでおりまして、いくつか興味深いことに気づいたので、メモ代わりにここへ。
インターネットを中心としたITテクノロジーがわれわれの生活を変えつつあるということは、このブログをお読みの皆さんにとってはすでに常識すぎて、もう当然の事実なのかもしれませんが、私が最近気になっているのが、
「新しいコミュニケーション手段の発展が、人間の言葉の使い方に大きな変化を起こした」
という事実。
たとえば最近よく言われているのが、「ネット用語」のような言葉が、とくに若い世代の間で、普段の会話で使われる、いわゆる「口語」の中にかなり浸透してきている、という事実。
このような現象というのは全く新しいものではなく、ラジオやテレビが出てきたときに「大衆化」という形で「流行言葉」のような形で人間の使う言葉に影響を与えてきたということが感覚的にも理解できるかと。
しかし私がテレグラムの歴史に関する本を読んでいて面白いと思ったのは、現在よく言われている「ジャーナリズムの客観性」というものが、19世紀のアメリカにおけるテレグラムの発展によって実現された、という分析。
それによると、テレグラムが発展したことによって、あの広大なアメリカ大陸におけるニュースの地域性というものが失われ、代わりに情報が「物品」(コモディティ)化して、そこで使われる言葉が「科学的なもの」になったというのです。
考えてみれば、司馬遼太郎も明治維新の志士たちは「標準語」というものをもっておらず、互いのヒドい地方なまりを克服するために使っていたのが狂言の言葉だった、みたいなことを書いておりますね。
そしてアメリカの場合は、テレグラムの発展のおかげで「メディアで使われる中立的な言葉」の必要性が高まり、これが現在の「客観的な報道」というジャーナリズムの基礎につながったと。
このように、新しいテクノロジーの登場は人間の社会的な行為を劇的に変化させるのであり、その一つの例が、われわれが使う言葉の変化なのでしょう。
私がお世話になっていたイギリスのある先生は「電話が出てきた時点で人間はサイボーグになった」という主旨のことを言ってました。
ところがもしかすると、人間というのはテレグラムが出てきた時点で、人間の脳と脳の間には電線が介入したという意味で、すでにサイボーグ化が始まっていたと言えるのかも。
そしてインターネットのおかげでわれわれの脳みその間にはコンピューターの介入が当たり前になった今、人間の「サイボーグ化」はますます進んでいると言えますな。