「コントロール」の問題と安全保障の「感覚」 |

さて、くどいようですが、今週末のオフ会のテーマにもからんでくる「コントロール」という概念について再び一言。
本ブログでは今年に入ってから「原発事故と自動車事故」、「民主制度とそれ以外の統治制度」、そして「陰謀論がなぜ受け入れられるのか」というテーマでコントロールの感覚の重要性というものを何度か書いてきました。
そこで何度か強調したテーゼみたいなものとして、私は、
●人間というのは「自分がある程度コントロールできる(と感じている)もの」であれば、いくら致死量/死亡率が高い「テクノロジー」や「制度」でも受け入れられる。
●その反対に、致死量/死亡率がそれほど高くなくても、「自分がコントロールできない(と感じている)もの」であれば高い不安や恐怖を感じる。
という原則があると主張し続けております。その簡単な例として、私は前者が車、後者に原発を挙げてみました。
この原則ですが、実はこれ以外の様々な分野にも適用できるのではないかと最近感じることばかり。
たとえば日本の安全保障問題ですが、ここまで周囲を核武装国家に囲まれているにもかかわらず、日本政府も国民も、この戦略的状況に安心しきっており、あまり不安を感じていないように見えます。
そしてこの「安心しきっている」一つの理由として挙げられるのが、日本政府・マスコミ・国民がこの状況を「コントロールできている」と感じている、という事実。
戦後のいわゆる左派・護憲派・リベラルと呼ばれる方々は、日本国憲法の第9条がこの「コントロールできている」という感覚の源泉である、と考えているのかもしれないが、リアリスト的な視点からみれば、実際のところはその源泉はどう考えても日本周辺のコモンズを担保する米(海)軍の存在。
もちろんこの見解にたいする反論として一つ挙げられるのは、すでに何度か述べたように「安全保障というのは感覚の問題では?」ということ。
しかもこの見解を極端まで推し進めていくと、究極的には、
「米軍がいなくなったあとでも、われわれが”安全だ”と感じることができれば、安全保障の問題は解決するんじゃないの?」
ということになります。
つまり、自分たちの(きわめて宗教的とも言える)強烈な平和への思い込みさえあれば日本は米軍を必要とせずに平和を守れる、ということにもなるわけですね。
このような極端な意見でも、「コントロール」の原則から言えば、安全保障というのはおしなべて感覚の問題であるから当然だ、ということに。
ところがここで問題なのは、いくら自国だけが「コントロールできている、安全だ!」と(ファーストイメージ的に)強く思い込んでみても、それより決定的に重要になってくるのが、「周辺に自分たちとは別の考えを持った国がいる」という冷酷な事実。問題は日本国内の総意だけじゃないんですな。
ようするに、あらゆる戦略論でいわれているような、「自分たちがコントロールできない(と感じる)相手」がいるというのが大問題。
この「相手」というのがやっかいで、いくらこっちが平和を願っていて、それを強烈にアピールしていたとしても、それを逆にチャンスだと考えたりしないし、われわれのコントロールの想定外のことを絶対に仕掛けてこない、という保証が全くないということ。
そこで「最低限の軍備増強」という話になるわけですが、これも結局は「感覚」の問題であるため、たとえばF-15を何機そろえれば相手をコントロールできるのかというのは、客観的かつ科学的には絶対に判断できないわけです。
よって、「コントロール」というのは感覚に関することであると同時に、これが「感覚」であるためにあやふやで、なおかつ自由意志を持った自分以外の「相手(この場合は自然現象や放射能のようなものも含む)」がいるというのが致命的。
そして国家(そして人間)には「コントロール」という感覚を確実に得られる手段がないために、国際(および国内)政治の「悲劇」は続いていくということになります。