戦略にまつわるトラブル:その5 |
●そのような区分けは、一方を政策、そしてもう一方をドクトリンや作戦などと、ほとんど見分けがつかないようにしてしまうのだ。
●これは「政策目標」と「軍事計画」の間のギャップ――これは、軍隊をどのように使って(単なる軍事的な結果ではなく)政治的な結果を生むのかを正確に考える、戦略的な計算によって橋渡しをされるべきものだ――をさらに広げてしまう。
●このような混乱はきわめて一般的に見られるものだ。たとえばターゲットを効果的に破壊する軍事戦略というのは、たしかに作戦レベルでは「成功」となるが、それでも敵政府を屈服させることができなければ、政策レベルでは「失敗」となるのだ。
●もしくはプロの軍人たちが「戦略・軍事構造のミスマッチ」について語る時、大抵の場合は自分たちの能力と戦争の目的のギャップのことではなく、軍の構成と自分たち好みの作戦プランとの間のギャップのことを意味しているのだ。
●政策と作戦を「国家戦略」や「軍事戦略」と言いかえたり、それらの責任を分けたりするのは、そこに何かがあるように装いながらも、実は戦略的なギャップを埋めずに単に放っておくということにもつながりかねない。
●アメリカのような超大国にとって、このような戦略面でのギャップというのは、「戦闘に勝ったが、戦争に負けた」という嘆かわしい条件をつくり上げるものなのだ。
●政策と作戦のヒエラルキーは、「融合された戦略」が欠如していたり、計画者が予期していた通りの効果を得るためのプランを提供できなかった場合に、あまりにも簡単にひっくり返ってしまうものだ。
●こうなると、作戦は政策に貢献するのではなく、逆に政策を動かすようになってしまう。
●しかもこのような逆転現象は全く珍しいものというわけではない。歴史家のラッセル・ウェイグリーは重い調子で、戦争が政治の延長であることをやめ、「自発的な勢い」をつくりだし、そもそもそれが開始された本来の目的を忘れてしまったため、戦争は政治の「従」ではなく「主」になったと結論づけている。
●軍事行動を政治的な結果につなげる簡単な計算式などというものは、おそらくこの世に存在しないのだろう。
●戦争の目的は、自らの意志に敵を屈服せしめることである。そしてそれは、銃撃が止んだ時点で誰が支配しているのかを決定することに他ならないのだ。
●これは「軍事作戦での勝利」とかなり密接した関係を持つものだが、それでもそれと全く同じことではない。
●一方が敵の領土を完全に占領してその政府を消滅させ、占領軍として直接統治しない限り、「作戦レベルでの成功」というのは、そのまま戦後に敵を思い通りに行動させることにつながるような、単純なものではないのだ。