オサマ殺害をなぜ祝っていいのか:その1 |
●一人の男が頭を撃ちぬかれ、一万キロの彼方ではお祝い騒ぎが始まった。
●ほとんどの人はオサマ・ビン・ラディンの死亡は良いことであると賛成するだろうが、それでもアメリカ人の中にはそのようなお祭り騒ぎを快く思わなかった人々も多数いた。
●彼らに言わせると、「われわれは復讐でなく、正義を求めなければならない」ということだ。
●しかしオサマ・ビン・ラディンの死亡を祝うことは本当に「悪い」ことなのだろうか?
●私は社会心理学者であるが、アメリカ人がこのようなお祝い騒ぎに不快感を示していることについてその理由を説明してみたい。
●この不快感の一つの理由は、彼らがこの道徳的判断を普通の犯罪のケースと同じような感覚でとらえていることにある。
●これはたとえば、娘を殺された両親が、犯人の処刑が決まった時にお祝い騒ぎをしてもよいのか、というジレンマに近い感覚なのだ。
●もし刑務所の外で彼らがシャンペンを開けて大騒ぎしたら、これは復讐と死を祝うことであり、正義の執行ではないことになる。
●ところがオサマ・ビン・ラディンが死んだことが知らされた後に起こったホワイトハウスやタイムズ・スクウェアでの大騒ぎは、これと同じことなのだろうか?
●答えは「NO」である。
●その理由は、個人レベルの道徳・倫理観を、集団や国家レベルにまで上げて適用することはできないからだ。
●ところが無理やり適用して考えてしまえば、このお祝い騒ぎの善い面や愛他的な面を見逃してしまうことになる。
●学問的な理由だが、まずここ半世紀の進化論的な生物学者たちの多くは、われわれ人間は他の生物とほとんど変わらない自己中心的な存在であり、自分の子孫や近親にとって利益となる場合にかぎって自己犠牲的に動くことができると論じてきた。
●ところがここ数年間の研究で言われ始めたのは、人間は二つのレベルで同時に自然淘汰されている、ということだ。
●まず「低いレベル」だが、これは同じグループの中で個人同士が激しく争っているホッブスの想定しているような世界。
●ところが「高いレベル」ではグループ同士が争っており、ここで優秀なグループは団結力がある。このレベル優秀なのは、ハチ、アリ、シロアリなど少数の種。
●このような種の生物は、その脳の構造が集団で働くように特化されており、巣を作ったり集団で敵の侵入を守ったりする点でものすごい能力を発揮する。
●初期の人類も共同作業を行う方法を見つけたのだが、その団結は一時的で脆いものだ。
●どうやらわれわれには他の霊長類と同じように脳の古い部分で自己中心的なプログラムを持っているのだが、新しい部分では(一時的ながらも)ハチのように団結する力を持っているようなのだ。
●この「二重構造の心理学」に、宗教や戦争、チームスポーツ、そしてオサマ・ビン・ラディン殺害の時のアメリカ人の行動を説明するカギがある。